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街並み・タウン情報(その1)(池袋 「たまたま開設」の駅が生んだ街の大発展 当初は貨物の拠点 にぎわいは大塚が上だった、さらば「ファッションの聖地」 渋谷の大異変 コロナだけでないセレクトショップ撤退の理由、だから外国人は「新宿のゴールデン街」が大好き…ごみごみした東京の街並みに外国人が注目するワケ 無秩序なのに合理的という不思議な日本の都市) [文化]

今日は、街並み・タウン情報(その1)(池袋 「たまたま開設」の駅が生んだ街の大発展 当初は貨物の拠点 にぎわいは大塚が上だった、さらば「ファッションの聖地」 渋谷の大異変 コロナだけでないセレクトショップ撤退の理由、だから外国人は「新宿のゴールデン街」が大好き…ごみごみした東京の街並みに外国人が注目するワケ 無秩序なのに合理的という不思議な日本の都市)を取上げよう。

先ずは、本年3月4日付け東洋経済オンラインが掲載したフリーランスライターの小川 裕夫氏による「池袋、「たまたま開設」の駅が生んだ街の大発展 当初は貨物の拠点、にぎわいは大塚が上だった」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/535493
・『今年2月、西武グループの持ち株会社である西武ホールディングスは、プリンスホテルなど国内31の保有施設を売却すると発表した。同時期、セブン&アイホールディングスは西武池袋本店などを含む傘下の百貨店「そごう・西武」の売却に向けて調整に入ったと報じられた。 昭和初期から平成にかけて、西武は池袋駅を牙城にして発展してきた。1964年に西武の総帥・堤康次郎が没した後、鉄道事業などは堤義明へ、百貨店事業などは堤清二が率いる西武流通(後のセゾン)グループへと引き継がれた。歳月とともに両者は独立性を強めていくが、池袋駅東口には旗艦店となる西武百貨店と西武鉄道の駅が並び、“西武”を冠する両者は端から見れば同じグループであるように映った。 池袋駅や街の発展は、西武鉄道と西武百貨店の存在を抜きに語ることはできないが、そもそも池袋は都心から外れた農村でしかなく、鉄道・行政当局から期待されていた駅・街ではなかった。たまたま駅が開設されたに過ぎなかったが、それが街を発展させてきた』、「そもそも池袋は都心から外れた農村でしかなく、鉄道・行政当局から期待されていた駅・街ではなかった。たまたま駅が開設されたに過ぎなかった」、「街」の発展は分からないものだ。
・『板橋や目白よりも遅かった開業  池袋駅を開設したのは、現在のJR東北本線や高崎線・常磐線などを建設した私鉄の日本鉄道だった。上野駅をターミナルに北関東や東北へと路線を広げる日本鉄道は、群馬県の富岡製糸場で生産される生糸を横浜港まで迅速に運搬することを主目的にしていた。 当時、上野駅と新橋(後の汐留)駅は一本の線路でつながっていない。そのため、上野駅で荷下ろしし、新橋駅で再び積み直すという手間が生じた。輸送効率を上げるべく、日本鉄道は赤羽駅から線路を分岐させて品川駅までを結ぶ短絡線を建設。これは品川線と呼ばれる路線だが、現在の埼京線に相当する。 品川線には、中間駅として板橋駅・新宿駅・渋谷駅が開設されたが、この時点で池袋駅は開設どころか計画すら浮上していない。品川線の開業と同年には目白駅や目黒駅が、1901年には大崎駅が開設されたが、この時点でも池袋駅は開設されなかった。) その後も日本鉄道は路線網を広げていき、現在の常磐線にあたる区間を1898年に開業。常磐地方の石炭を輸送するという貨物輸送の役割が強かった同線は、繁華街にある上野ではなく田端駅をターミナルにした。田端駅には、太平洋沿岸で採掘される石炭などが多く運び込まれるようになる。 当時の日本は、工業化の進展とともに東京湾臨海部に工場が続々と誕生。田端駅から東京の南部や神奈川方面へ直通する列車の需要が生まれた。こうして同駅と品川線の目白駅とを結ぶ豊島線の構想が本格的に検討される。 豊島線は、田端駅と目白駅の間に駒込・巣鴨・大塚などの駅を開設し、大塚駅からは南西へと線路を建設して一直線に目白駅を目指す構想だった。しかし、目白駅の拡張は地形的な理由から難しく、さらに一直線で線路を建設すると、巣鴨監獄に線路を通すことになる。 巣鴨監獄は戦後にGHQが接収し、A級戦犯が収監された「巣鴨プリズン」の名で知られる。明治新政府は国家の人権意識が高いことを諸外国に示すため、巣鴨監獄の前身である警視庁監獄巣鴨支署を1895年に開設した』、「巣鴨プリズン」は、「明治新政府」が「国家の人権意識が高いことを諸外国に示すため、巣鴨監獄の前身である警視庁監獄巣鴨支署を1895年に開設」、そんな経緯があったとは初めて知った。
・『「監獄」を避けた線路  なぜ、政府が諸外国に対して人権意識の高さを示さなければならなかったのか。それは、諸外国が不平等条約を改正する条件に「日本が一等国である」ことを盛り込んでいたからだ。当時、西洋諸国は一等国のバロメーターを「文化」と「人権意識」の2つで測っていた。政府はこれまでの囚人の扱いを改め、人権意識の高い国であることを示そうとした。 こうした取り組みや日清戦争の勝利により、西洋諸国は日本を一等国として遇するようになるが、巣鴨監獄を取り壊せば再び野蛮な国と見られてしまうかもしれない。そんな不安もあり、豊島線は巣鴨監獄を避けなければならなかった。 山手線の田端駅から大塚駅までは線路が南西へと向かっているのに、大塚駅付近では線路がいったん北へとカーブしているのは、これらの理由が重なったことによる。こうして豊島線と品川線の合流地点は変更され、1903年、新たな合流地点に池袋駅が開設された。 工業化が進展していた日本では、鉄道の貨物輸送量が年を経るごとに増加していた。日本鉄道は列車の運行本数を増やすべく、翌1904年に新宿駅―池袋駅間を複線化。日露戦争に勝利すると、政府はさらなる強国へと成長するべく軍事輸送の強化に乗り出す。1906年には「鉄道国有法」を施行し、品川線・豊島線などを含む多くの幹線を国有化。これにより、貨物輸送は政府の思惑が強く反映されることになる。 その後、現在の山手線にあたる区間の複線化が進められると同時に、1909年には電化にも着手。こうして現在の山手線の骨格が少しずつ組み上がっていく。) 池袋駅は貨物駅として存在感を強めていたものの、旅客駅としての利用者は決して多くなかった。むしろ1駅隣にある大塚駅のほうが乗降客数は多く、その数は1917年に年間100万人に達していた。それは池袋にターミナルを据える東武東上線、西武池袋線の前身が会社を立ち上げたときの計画からも読み取れる。 東武東上線の前身である東上鉄道は1911年に創立。当初は巣鴨駅付近にターミナルを開設する予定だったが、後に大塚辻町(現・東京メトロ丸ノ内線の新大塚駅付近)へと変更している。1912年に創立した西武の前身である武蔵野鉄道も、当初は巣鴨付近にターミナル駅を開設する予定にしていた。 だが、この2社が池袋駅へとターミナルを変更したことで、鉄道路線が集積。こうした影響もあり、同駅の年間乗降客数は1921年度に大塚駅を抜き、600万人を突破した。 しかし、それでも街のにぎわいは大塚駅のほうが一枚上だった。この時期、東京大宮電気鉄道や東京日光電気鉄道といった、東京進出を狙って計画された私鉄の多くは、大塚もしくは巣鴨をターミナルにすることを計画していた』、「豊島線は巣鴨監獄を避けなければならなかった。 山手線の田端駅から大塚駅までは線路が南西へと向かっているのに、大塚駅付近では線路がいったん北へとカーブしているのは、これらの理由が重なったことによる」、初めて知った。「諸外国が不平等条約を改正する条件に「日本が一等国である」ことを盛り込んでいたからだ。当時、西洋諸国は一等国のバロメーターを「文化」と「人権意識」の2つで測っていた」、当時、「「人権意識」がそんなに重視されたとは興味深い。「この時期、東京大宮電気鉄道や東京日光電気鉄道といった、東京進出を狙って計画された私鉄の多くは、大塚もしくは巣鴨をターミナルにすることを計画していた」、「池袋」の知名度はまだまだだったようだ。
・『豊島区発足、東口がにぎわいの中心に  時代が昭和に移ると、東京市は市域の拡張を検討。1932年、北豊島郡に属する巣鴨町・西巣鴨町・高田町・長崎町が合併して豊島区が発足する。新区名は古くから栄える目白を採用して目白区とする案が有力で、将来性を考慮して池袋区とする案も出されたが、折衷案として郡名から豊島区に決まった。 新たな区役所は交通の便が考慮され、池袋駅付近に開庁することが異論なく決まった。区名になることは逃したものの、区役所が設けられたことで池袋は豊島区の中心的な街へと姿を変えていく。 それまでの池袋は、武蔵野鉄道や東武東上線など郊外へと通じる鉄道路線は開設されていたものの、都心部へと直結する鉄道網がなかった。 しかし、都心へとつながる路線がまったく計画されていなかったわけではない。武蔵野鉄道は1925年に池袋―護国寺間の路線免許を取得。昭和初期に立て続けに恐慌が発生していたこともあり未着工のままになっていた。同免許は東京市へ譲渡され、それが転用される形で1939年に市電の池袋線が開通。市電が都心部と直結したことで、池袋駅は東口ににぎわいが生まれていった。 東口には、百貨店の老舗・白木屋と京浜電鉄(現・京浜急行電鉄)系列の京浜百貨店の合弁で1935年に菊屋デパートがオープン。同店は1940年に武蔵野鉄道が買収し、店名は武蔵野デパートとなる。 池袋駅東口は1944年の建物疎開により多くの家屋が移転・撤去させられたが、戦火が激しかったこともあり、戦後は焼け野原と化した。それは武蔵野デパートも例外ではなく、荒廃した池袋駅や百貨店の場所には闇市が立ち並んだ。) 武蔵野鉄道や東武東上線の沿線は農地が多く、終戦直後は多くの農家が池袋の闇市に食料を持ち込み、それを生活資金に換えていた。農家が持ち込む米や野菜を目当てに買い物へ来る客は多く、闇市が池袋に活況を与えた。 終戦直後の混乱期、闇市は黙認されていた。しかし、戦後のほとぼりが冷める頃から行政・警察当局による取り締まりが厳格化していく。とはいえ、やみくもに取り締まれば食料流通は停滞し、それは人々の日常生活に混乱を与える。 そこで、東京都は池袋駅東口から南東へと延びる大型道路(現・グリーン大通り)の南側一帯に着目。戦前期、同エリアは東武の総帥・根津嘉一郎の所有地で、根津山と呼ばれていた。根津山は戦後、百貨店の拡張を視野に入れていた西武の総帥・堤が買収。東京都は闇市の代替地として西武からこの一帯を買い取り、闇市の露店を移転させていった。こうして東口に商店が立ち並んでいく。 池袋駅東口が少しずつ復興を遂げていく中、東口のシンボルでもある武蔵野デパートは西武百貨店と改称し、店舗も増改築を繰り返しながら着々と存在感を大きくしていった』、「戦前期、同エリアは東武の総帥・根津嘉一郎の所有地で、根津山と呼ばれていた。根津山は戦後、百貨店の拡張を視野に入れていた西武の総帥・堤が買収。東京都は闇市の代替地として西武からこの一帯を買い取り、闇市の露店を移転させていった」、「根津山」が東口発展の基礎になったようだ。「池袋駅東口が少しずつ復興を遂げていく中、東口のシンボルでもある武蔵野デパートは西武百貨店と改称し、店舗も増改築を繰り返しながら着々と存在感を大きくしていった」、なるほど。
・『地下鉄開通でさらに発展  これらの動きと連動するように、1949年には池袋駅―神田駅間の地下鉄建設計画が決定。後に神田駅から御茶ノ水駅へとルート変更し、1954年に開業する。これが丸ノ内線の始まりだ。その後も同線は延伸された。 丸ノ内線の輸送能力が限界に達すると、それを補完する有楽町線の池袋駅―銀座一丁目駅間が1974年に開業。地下鉄も集積したことで、池袋は新宿・渋谷と比肩する繁華街へと変貌した。 実のところ、池袋駅の伸長は1960年代から兆しが現れていた。それを端的に表すのが、1964年に新宿・渋谷と池袋の商店街・行政・私鉄などによって結成された三副都心連絡協議会だ。同協議会は、明治通りの下に渋谷・新宿・池袋を結ぶ地下鉄を建設するように東京都へ働きかけている。 しかし、東京都は工費が莫大になることを理由に拒否。代替案として工費を10分の1に抑えられるモノレール構想が打診されたものの、こちらも実現することはなかった。東京都と帝都高速度交通営団(現・東京メトロ)という事業主体は異なるものの、1960年代から副都心線の萌芽ともいえる計画が持ち上がっていたことは注目に値する。 駅西口に目を移すと、運輸(現・国土交通)省が戦災復興で民衆駅を提案したことから戦後の駅前整備が始まっている。民衆駅とは民間資本によって駅舎を整備する資金調達スキームで、池袋駅西口はそのトップバッターに選ばれた。) 民衆駅計画は1947年に策定されたが、西口は権利関係が複雑で、なおかつ東口の根津山のような代替地がなかった。 国鉄や行政の意思だけでは整備ができず、西口に民衆駅を整備するには東武との調整が不可欠だった。闇市を移転する代替地もなかったことから民衆駅の計画は遅々として進まず、竣工に漕ぎ着けたのは1950年になってからだった。それらの影響もあり、民衆駅第1号の名誉はタッチの差で愛知県の豊橋駅となる。 ちなみに、ビックカメラのCMソングに歌われる、東口に西武、西口に東武の構図はこの時点で固まっていない。それどころか、1950年には東横百貨店(現・東急百貨店)が西口に出店。つまり、「東は西武で、西、東急」の時代があった。 東横が開店した同年、東武も西口に百貨店を計画。しかし、地元商店街の反対により、アミューズメントビルの東武会館として計画を縮小して進めざるを得なかった。こうした経緯もあり、東武百貨店は一時的に東武会館のテナントとして入居している。その後、東武は地元商店街からも理解を得て、百貨店事業を拡大。隣接する東横百貨店を買収して南館とした。 東武会館が着工された頃から、それまで停滞していた西口の戦災復興は進み始めた。そして、西口の開発は現在に至るまで繰り返し実施されて街の移り変わりは激しい』、「東武も西口に百貨店を計画。しかし、地元商店街の反対により、アミューズメントビルの東武会館として計画を縮小して進めざるを得なかった」、「東武百貨店」は「地元商店街の反対により、アミューズメントビルの東武会館として計画を縮小して進めざるを得なかった」、そんな事情があったとは初めて知った。
・『2023年に開業120周年  池袋駅は、その後も鉄道によって多くの人を引きつけていく。1985年には池袋駅―赤羽駅間を往復していた赤羽線が発展的に埼京線へと姿を変え、埼玉都民と呼ばれる通勤者の流入を促した。 東上線沿線ではニュータウン開発が盛んになり、沿線人口は増加。住民の多くが東京へと通勤するサラリーマンだったことから東上線の混雑は年を追うごとに激化した。 混雑緩和を目的に、1987年には東上線の和光市駅―志木駅間を複々線化。有楽町線にも乗り入れを開始し、有楽町線と東上線が直通運転することで混雑の分散を図った。それでも池袋駅から山手線へと乗り継ぐ利用者が多く、山手線の混雑率が高止まりしていることから、山手線のバイパス機能を担う副都心線が2008年に開業することになった。 来年2023年、池袋駅は開業120年を迎える。地元の豊島区は2014年から池袋駅周辺の整備に着手し、歩行者主体のまちづくりへと舵を切った。これは2032年の豊島区誕生100年を意識した長期的な取り組みだ。 コロナ禍で鉄道を取り巻く環境や存在意義も改めて問われている。飛躍の原点ともいえる西武が揺れる中、池袋駅と街はどのような変化を遂げるのか』、「飛躍の原点ともいえる西武が揺れる」、ファンドが経営権を取得しても、ファンドには新たな開発計画のようなリスクを負い難いため、開発計画は難航が予想される。

次に、昨年4月29日付け東洋経済オンライン「さらば「ファッションの聖地」、渋谷の大異変 コロナだけでないセレクトショップ撤退の理由」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/574108
・『「渋谷は本当につまらない街になってしまった。自然と”谷底”にいろんな人が集まってくることが、渋谷の魅力だった。それなのに、大資本の会社が谷の真ん中に”山”を作り始めた時点で、終わりだなと感じましたよ」――。 セレクトショップなどを展開するアパレル企業の首脳は、駅周辺で大規模な再開発が進む渋谷の現状に失望感をあらわにする。 「渋カジ」や「コギャル」を生み出し、若者の流行の発信地として知られてきた渋谷。そのファッションの聖地が今、大きな岐路に立たされている』、「大資本」による「大規模な再開発」の華々しいPRの裏で、こんな変化が進んでいたとは興味深い。
・『セレクトショップが続々撤退  「渋谷マルイ」から「渋谷PARCO(パルコ)」に続く公園通りの裏側に広がる神南エリア。さまざまなセレクトショップが集積する、ファッションの街・渋谷を象徴する場所だ。「同じブランドでも、神南店の販売員は他店とステータスが違う」(アパレル関連企業の幹部)と言われたほど、各ブランドにとって重要な拠点だった。 そんな神南に建つ「アーバンリサーチ 神南店」が2020年10月に閉店した。ガラス張りの外観が目を引く同店は2013年に開業、地上3フロアにまたがる大型店だった。アーバンリサーチによると、撤退は「新型コロナが起こる前より進めていた不採算店整理」の一環だという。閉店から半年が経った今も1階はがらんどうで、2~4階のフロアには「テナント募集中」の貼り紙が寂しい。 同店だけではない。隣のビルの2階にあった「ビームス ウィメン 渋谷」も今年3月、アーバンリサーチの後を追うように営業を終了した。目と鼻の先にある別の通りでは、1980~1990年代の渋カジブームを牽引した老舗のアメカジショップ「バックドロップ」が、2020年12月に40年余りの歴史に幕を閉じた。 バックドロップはホームページ上で、新型コロナに伴う景気後退などが閉店の理由だと説明。「直営店が渋谷の街からなくなることは大変しのびない」と苦渋の思いをつづっている』、「渋谷」の「セレクトショップ」にとって、状況は大幅に悪化したようだ。
・『ファッション店舗の割合は減少  こうした渋谷の”異変”はコロナ禍より前から起きていた。 不動産サービス大手・CBREが実施した渋谷エリアの路面店の調査によると、2016年に54%を占めていたファッション店舗の比率は年々減少。2020年は43%となっている。アウトドア・スポーツ系の店舗やドラッグストアが増えた一方、以前は街の「主役」だった、若者向けのセレクトショップなどの存在感は徐々に低下してきたことが伺える。 渋谷が若者ファッションの街として認識されるようになったのは1980年前後から。渋谷区の区政資料コーナーで働く山田剛氏は「渋谷が流行の発信地となった背景として、(1973年に開業した)パルコの影響は大きかった」と分析する。加えて、同時期に創刊された『anan(アンアン)』や『non-no(ノンノ)』、『POPEYE(ポパイ)』などの雑誌が都会の流行を全国に拡散した。 最先端の「DCブランド」を集めた渋谷パルコに感度の高い若者が訪れ、周辺にはバックドロップやシップスなど、欧米から輸入したこだわりのアイテムを揃えたファッション店舗が続々と開業。近隣の高校・大学に通う学生や、地方から上京する人まで、多種多様な若者たちが公園通りやセンター街に自然と集まるようになった。 彼らの着こなすアメカジスタイルが1980年代には渋カジとしてブームになり、1990年代後半からは「SHIBUYA109」に集まる女子高生からギャル系ファッションが大流行した』、「渋谷パルコ」閉鎖の影響力は想像以上に大きかったようだ。
・『再開発で人の流れが駅周辺に集中  しかし2000年代後半から、街の発信力に陰りが見え始める。 H&MやForever21、ユニクロと、全国的に勢いを増していた国内外のカジュアルチェーンが渋谷中心部にも上陸。ネット通販やインスタグラムなどのSNSが浸透し、わざわざ渋谷に行かなくても、スマホ1つで流行に付いていける傾向も強まった。街を彩ってきた中小規模のファッション店舗やSHIBUYA109にとって、打撃は大きかった。 さらに街の姿を大きく変えたのが、東急グループを中心とした渋谷駅前の再開発だ。2012年に渋谷ヒカリエ、2018年に渋谷ストリーム、2019年には渋谷スクランブルスクエア東棟などが開業。この10年間、駅直結の大型複合ビルが次から次へと出来上がった。 東急グループは再開発により、渋谷に不足していたオフィスを大量供給し、JR線や国道で分断されていた原宿や代官山方面などとの回遊性も高めることをうたう。が、複数の小売業界関係者は「開発の過程で街の”個性”がなくなり、渋谷の重心は利便性の高い駅間近の地域に移った」と話す。トレンドの発信地とされた神南や公園通り周辺では、人の流れがだんだんと減少した。 昨年渋谷の店舗を閉めたアパレル企業の幹部は、渋谷の変貌ぶりに落胆する。「昔は駅を降りて(パルコの西側にある)東急ハンズに向かう若者などがセンター街にあふれていた。それが駅中で用事を済ませる傾向が強まって、訪日観光客を除けば街を回遊する人は本当に少なくなった」』、「「昔は駅を降りて(パルコの西側にある)東急ハンズに向かう若者などがセンター街にあふれていた。それが駅中で用事を済ませる傾向が強まって、訪日観光客を除けば街を回遊する人は本当に少なくなった」、こうしたヒトの動線変化があるようだ。
・『「実力以上」の賃料上昇も打撃に  再開発でオフィスが増えた影響で、店舗の賃料動向にも変化が起きている。 もともと若者をターゲットとした小売店や飲食店の多かった渋谷は、銀座や表参道と比べると路面店の平均賃料は低い。しかし、CBREの奥村眞史シニアディレクターは「ここ数年、渋谷ではIT系企業などで働く高所得のオフィスワーカーが増えた。彼らの需要を見込んで出店する店が増え、コロナ前まで渋谷駅周辺の中心部の募集賃料は上昇傾向が続いていた」と指摘する。 実際にCBREの調査を見ると、2015年末から2020年初めまでの間、渋谷エリアの路面店の平均募集賃料は右肩上がりだ。「渋谷では、ショールームの出店を検討しているIT系やeスポーツの企業、ラグジュアリーブランドの引き合いも強い」(奥村氏)という。 賃料上昇は、若者向けのファッション店舗の出店のハードルを引き上げた。あるセレクトショップの幹部は「最近は商業地としての実力以上に賃料が上がってしまった。昔のように簡単に店を出せる場所ではなくなった」と漏らす。「渋谷エリアの路面店の平均募集賃料は右肩上がりだ。「渋谷では、ショールームの出店を検討しているIT系やeスポーツの企業、ラグジュアリーブランドの引き合いも強い」(奥村氏)という。 賃料上昇は、若者向けのファッション店舗の出店のハードルを引き上げた。あるセレクトショップの幹部は「最近は商業地としての実力以上に賃料が上がってしまった。昔のように簡単に店を出せる場所ではなくなった」と漏らす』、「セレクトショップ」から「IT系やeスポーツの企業、ラグジュアリーブランド」へと、こうしたいわば産業構造の変化も影響しているようだ。
・『坂を上る「わくわく感」が消えた  神南エリアは駅から離れていることもあり、センター街などの中心部のような路面店の賃料の上昇傾向は見られない。ただし、渋谷全体でオフィスの需給が逼迫していることから、神南の小規模ビルのフロアをオフィスとして借りる動きも出ている。こうした借り手がいる以上、高感度な若者の往来が減ったところで賃料相場の下落が起きるわけでもない。 2017年に神南から移転した大手セレクトショップ・ベイクルーズの本社跡地には、野村不動産が昨年10月に10階建てのレンタルオフィスビルを開業。かつてのトレンド発信地の様相はじわりと変化しつつある。 一部のファッション業界関係者の間では、2019年11月にリニューアルオープンしたパルコが、神南や公園通り周辺の人通りを復活させる起爆剤になると期待する向きもあった。が、開業から間もなくしてコロナ禍が直撃。人の流れは今も戻らないままだ。 「昔の渋谷には、苦労して坂道を上った先で、あまたあるおしゃれな店や面白い店にたどり着く『わくわく感』があった」。デベロッパー関係者は渋谷の特徴をこう分析する。 坂を上って訪れるだけの魅力や個性がある店は、姿を消す一方だ。大手アパレルの幹部は「ブランド強化の一環として、カルチャーを発信するような場所に路面店の出店は続けていく。でもその候補地に今の渋谷は入らない」と断言する。ファッションの街が復活する兆しは見えてこない』、「昔の渋谷には、苦労して坂道を上った先で、あまたあるおしゃれな店や面白い店にたどり着く『わくわく感』があった」、「坂を上って訪れるだけの魅力や個性がある店は、姿を消す一方だ」、「ファッションの街」から「「IT系やeスポーツの企業、ラグジュアリーブランド」の街」へと変貌しつつあるのだろうか。

第三に、本年9月5日付けPRESIDENT Onlineが掲載したフリーライター・翻訳者の青葉 やまと氏による「だから外国人は「新宿のゴールデン街」が大好き…ごみごみした東京の街並みに外国人が注目するワケ 無秩序なのに合理的という不思議な日本の都市」を紹介しよう』、興味深そうだ。
・『外国人観光客が東京に惹かれるワケ  東京は不思議な街だ。清潔さと猥雑さが同居し、世界中のあらゆる旅行客を惹きつけている。その代表例が新宿だ。 高層ビルが並ぶ新宿副都心はモダンな街並みの最たる例だ。新宿駅の反対側、東口を出て歌舞伎町へと足を踏み入れれば、ネオンきらめく雑居ビルに囲まれた異空間が広がる。 表通りを抜けてさらに路地裏へと迷い込めば、瞬く間に碁盤の目は崩れ、縦横無尽に延びる路地に点在する小さなバーや商店との新たな出会いが待っている。 近年盛んな大規模再開発の事例を除き、東京の街並みの多くは自然発生的に発展してきた。新宿など大都市に限らず、比較的小さな東京の駅においても、ランダムに延びる入り組んだ道沿いに住宅と商店がないまぜになって存在している光景はおなじみだ。 これに外国人観光客は熱い視線を向けているようだ。 こうした東京の街並みは、都市計画に沿って整然と整備されたニューヨークやシカゴ、パリ、マドリードなどと比較すると、猥雑で暮らしにくいように見える。だが、無秩序に広がる都市の姿が実は非常に合理的に機能していると、海外で再評価されている』、「無秩序に広がる都市の姿が実は非常に合理的に機能していると、海外で再評価されている」、「東京」に似ているのがロンドンだ。
・『「東京は2つの顔をもつ都市である」  ブルームバーグは今年7月、東京のユニークな都市構造を分析する記事を掲載した。 東京は政府主導の計画によって鉄道網整備や安全な街づくりが進んだと同時に、入り組んだ薄暗い路地裏では自然発生的に店が発生し、都市を活気づけているとの分析だ。トップダウンの計画と無秩序な活気が同居することから、記事では「東京は2つの顔をもつ都市である」と指摘されている。 訪日外国人がこぞって足を運ぶ新宿・ゴールデン街は、後者の好例といえる。決して広くない敷地に個性豊かな店舗が200軒ほどひしめいており、日本酒をとことん楽しめる飲み屋やカレーに力を入れた店、そして猫と触れ合えるバーなどが所狭しと並ぶ。薄暗い路地を歩きながら興味津々に店を巡る観光客がいる一方、常連は慣れた足取りで2階のさらにディープな空間へと通う。) 東京の路地裏は、活気ある地元ビジネスの原点となっているようだ。慶應義塾大学のホルヘ・アルマザン准教授(空間・環境デザイン工学)らは、4月に刊行した新著『Emergent Tokyo(原題)』において、手狭なバーや商店がひしめく東京の路地裏を都市機能の観点から高く評価している』、具体的な説明は以下にあるようだ。
・『住宅地と近接する「裏路地」  書名にもある「エマージェント」は創発とも訳され、ボトムアップの形で自然発生的にものごとや機能が沸き起こり、トップの調整者がなくとも自然にうまく作用し合うことを意味している。まさに東京はこの形で成り立っているようだ。 アルマザン准教授はブルームバーグの取材に、東京には怪しくも魅力的な「横丁」と呼ばれる路地があり、バーやレストラン、ブティックや工房などが開かれていると説明している。2階に住む高齢のオーナーが1階を若者に貸してコーヒーショップとするなど、非常に柔軟な空間利用が可能だという。 新宿に限らず、住宅地にかなり近接した区域でもこの形態は都市計画上許可されている。「アメリカに住む人にとっては突飛にも感じられるかもしれない」ほどユニークな施策だとの評価だ。このような「マイクロスペース」にひしめく柔軟な店舗こそが、都市を活性化しているのだという』、「ボトムアップの形で自然発生的にものごとや機能が沸き起こり、トップの調整者がなくとも自然にうまく作用し合うことを意味している。まさに東京はこの形で成り立っているようだ」、「非常に柔軟な空間利用が可能だという。 新宿に限らず、住宅地にかなり近接した区域でもこの形態は都市計画上許可されている」、明確な「都市計画」がなく、「この形態は都市計画上許可されている」、要はなんでもありという無節操さだ。
・『飲食店が軒を連ねる雑然さと力強さ  ゴールデン街の極小スペースに詰め込まれた数々のバーも、雑然とした光景がただ海外客に衝撃を与えているだけではない。およそ大規模店を構えるには至らない地元のオーナーたちに、優れた商機を与えている。 厳密にはゴールデン街は、戦後の新宿に現れた無許可店舗を計画的に移設した経緯があり、完全な創発(自然発生)とは異なる。ただ、戦後当時の混乱のなかで立ちあがろうとした店舗が原点となっており、その雑然さと力強さの面影をいまも残す。 新宿の著名な路地としてはこのほか、西口の「思い出横丁」が挙げられる。こちらも戦後の闇市を出発点としており、現代でも細く入り組んだ路地裏に数十の飲食店が軒を連ねている。アンダーグラウンドながらどこか温かい空気が人々を惹き寄せるのだろう。パンデミックまでは新宿のオフィスワーカーに加え、多くの訪日客を集めていた。 こうした路地裏が日本独自の魅力を放っているほか、都市部ではよくみられる雑居ビルも、日本らしい空間利用だとして海外で注目されているようだ。カナダ・トロント在住の建築家で都市計画家のナーマ・ブロンダー氏は、カナダの不動産ニュースサイト「ストーリーズ」に寄稿し、トロントの都市設計は東京のアプローチに学ぶべきだと主張している。トロントでは小さな土地が余ると、ただ空き地となる傾向が強いのだという。) 氏は一方で、東京は「革新的な設計」により狭小地にもかなり高さのあるビルが建つとし、「このコンセプトは東京などの場所で大変な成功を収めている」と論じている。幅のない雑居ビルが並ぶ光景は決して美しいものではないようにも思えるが、都市空間を活用する「クリエイティブなアプローチ」だとブロンダー氏は捉えたようだ』、「雑居ビルも、日本らしい空間利用だとして海外で注目されているようだ」、ただ、使用条件を無視した結果、火災などで大量の死者を出す事故も珍しくない。 
・『自然発生した人間中心の街づくりへの評価  住宅のごく近隣にバーや商店が並ぶ光景は、海外客や商店主にのみ恩恵をもたらしているわけではないようだ。必ずしも碁盤の目に整備されておらず、地区利用も雑然としている日本の街並みは、時代と共に都市がボトムアップで発展してきたことの証左でもある。その街の住民がいきいきと暮らせる人間らしい街づくりを体現しているとして、オーストラリアの専門家の注目を集めている。 シドニー大学のレベッカ・クレメンツ研究助手(交通・インフラ運営学)は、豪ニュース・評論メディアの「カンバセーション」に寄稿し、オーストラリアの都市は日本の都市設計に学ぶべき点があるとの見解を発表している。 オーストラリアでは車通学が70%を占めるが、日本では徒歩と自転車通勤を合わせると全体の約98%に達するという大きな違いがあるという。このようなデータをもとに、日本では車が不要な範囲に、人間を中心とした街並みがまとまっていると論じている。 氏は、日本ではスーパーブロックが自然発生的に体現していると考えているようだ。スーパーブロックとは都市計画の概念のひとつであり、住宅、商店、公共サービス施設などを街区内に配置し、身近な範囲内で暮らしやすい都市を設計する手法だ。これは通学の利便性にもつながっている。子供がひとりで通学する姿は日本ではおなじみだが、オーストラリアでは徒歩通学は必ずしも多数派ではない。 今年は日本のテレビ番組「はじめてのおつかい」(日本テレビ)がNetflixで配信され、海外の視聴者の間で注目を集めた。保護者が車で送迎する通学スタイルが主流の現地では、子供がひとりで街を歩き登校する様子に目を疑ったようだ。 日本の治安のよさも徒歩通学の要因となっているが、根本的には住宅と学校が生活圏内に近接しており、車を必ずしも必要としない人間中心の街が自然と出来上がっている影響が大きいだろう』、英国や米国では、小学生以下の子供だけで外出したり、留守番をすえるのも禁止されている。「日本のテレビ番組「はじめてのおつかい」」は受け入れられない筈だ。
・『電車に乗ってどこでも行ける利便性  鉄道を中心とした公共交通の充実も、日本の都市の長所として認知されている。都市評論家のコリン・マーシャル氏はカルチャー情報サイトの「オープン・カルチャー」への寄稿を通じ、「しかし、日本の首都独特の際立った都市計画を地面の下から支えているのは、比喩的にも実際にも、その地下鉄網である」と解説している。 同氏は、アメリカでは自動車中心の街づくりが進み、都市の多くのスペースが駐車場に奪われたと述べ、公共交通の活用に成功した日本の事例と対比している。) 前掲のトロントの都市設計家であるブロンダー氏も、日本では発達した鉄道網に加え、鉄道駅が都市のハブとして機能していると評価している。東京など日本の都市は、駅を拠点としてオフィスやレストランなどを組み込んだ複合施設を開発する「Rail Integrated Communities(鉄道統合型コミュニティー)」の手法の成功例が豊富だと氏は述べる。 トロントの一部でも同様の開発手法が採用されはじめている模様だ。ブロンダー氏は、「トロントがこの分野をリードする東京に続き、正しい道を歩んでいるかもしれないという希望をもてる兆候だ」と前向きに評価している。 なお、トロントでは70%が車通勤だが、東京は30%に留まっていると氏は指摘する。高い公共交通の利用率が駅の利便性をさらに高める循環になっているようだ。 もっとも、駅ビルなど集積的な再開発は、『Emergent Tokyo』で主張されている創発的な都市像とは正反対の姿となる。しかし、公共交通を中核とした街づくりという意味においては、これもまたひとつの東京の良さだと受け止められているようだ』、「駅ビルなど集積的な再開発」は「公共交通を中核とした街づくりという意味においては、これもまたひとつの東京の良さ」、その通りだ。
・『雑然とした街にある合理性が魅力に  日本の都市は海外に比べてごみごみとした印象は拭えないが、日本を訪れる海外客にとっては、その雑然さこそが名だたる観光地・東京の魅力となっている。 ひしめくネオンが単に写真映えする光景を作り出しているだけではなく、新宿の路地裏などに代表される小さな店舗や住居一体型の商業スペースが都市にフレキシブルな空間を与え、スモールビジネスが活況を呈している。 雑然とした路地が続く住宅地においても魅力が海外で再評価されており、生活圏におよそすべてが揃う人間的な街として都市の専門家たちの関心を呼んでいるようだ。アメリカやオーストラリアではスーパーまで車を飛ばさなければならないような都市も多い。 一方、日本の都市部では駅を降りれば歩いて飲み屋街へ行くことができ、通勤も電車で済ませることが可能だ。このような生活スタイルは、どこか新鮮な感覚をもたらすようだ。 もちろん地下鉄はニューヨークなどにも走っており、電車通勤が日本だけの習慣ということではない。だが、政府や自治体が大掛かりな計画で鉄道網の整備を進めた一方、都市の細かいデザインは、戦後に自発的に延びていった路地や飲み屋街の跡を色濃く残している。 トップダウンの交通網と自発的に発展した街角の景色が絡み合い、結果として人々が生活しやすく時代の変化にも柔軟に対応できる都市が形成されている。雑然としてみえる東京の街角には、時を経て自発的に形成された、ある意味での合理性が秘められているようだ』、「トップダウンの交通網と自発的に発展した街角の景色が絡み合い、結果として人々が生活しやすく時代の変化にも柔軟に対応できる都市が形成されている。雑然としてみえる東京の街角には、時を経て自発的に形成された、ある意味での合理性が秘められているようだ」、同感である。ただ、場所や地名の表示については、英語が増えたとはいえ、もっと分かり易くする必要がある。
タグ:「そもそも池袋は都心から外れた農村でしかなく、鉄道・行政当局から期待されていた駅・街ではなかった。たまたま駅が開設されたに過ぎなかった」、「街」の発展は分からないものだ。 「ボトムアップの形で自然発生的にものごとや機能が沸き起こり、トップの調整者がなくとも自然にうまく作用し合うことを意味している。まさに東京はこの形で成り立っているようだ」、「非常に柔軟な空間利用が可能だという。 新宿に限らず、住宅地にかなり近接した区域でもこの形態は都市計画上許可されている」、明確な「都市計画」がなく、「この形態は都市計画上許可されている」、要はなんでもありという無節操さだ。 小川 裕夫氏による「池袋、「たまたま開設」の駅が生んだ街の大発展 当初は貨物の拠点、にぎわいは大塚が上だった」 英国や米国では、小学生以下の子供だけで外出したり、留守番をすえるのも禁止されている。「日本のテレビ番組「はじめてのおつかい」」は受け入れられない筈だ。 「無秩序に広がる都市の姿が実は非常に合理的に機能していると、海外で再評価されている」、「東京」に似ているのがロンドンだ。 「「昔は駅を降りて(パルコの西側にある)東急ハンズに向かう若者などがセンター街にあふれていた。それが駅中で用事を済ませる傾向が強まって、訪日観光客を除けば街を回遊する人は本当に少なくなった」、こうしたヒトの動線変化があるようだ。 東洋経済オンライン「さらば「ファッションの聖地」、渋谷の大異変 コロナだけでないセレクトショップ撤退の理由」 (その1)(池袋 「たまたま開設」の駅が生んだ街の大発展 当初は貨物の拠点 にぎわいは大塚が上だった、さらば「ファッションの聖地」 渋谷の大異変 コロナだけでないセレクトショップ撤退の理由、だから外国人は「新宿のゴールデン街」が大好き…ごみごみした東京の街並みに外国人が注目するワケ 無秩序なのに合理的という不思議な日本の都市) 街並み・タウン情報 東洋経済オンライン 「昔の渋谷には、苦労して坂道を上った先で、あまたあるおしゃれな店や面白い店にたどり着く『わくわく感』があった」、「坂を上って訪れるだけの魅力や個性がある店は、姿を消す一方だ」、「ファッションの街」から「「IT系やeスポーツの企業、ラグジュアリーブランド」の街」へと変貌しつつあるのだろうか。 「トップダウンの交通網と自発的に発展した街角の景色が絡み合い、結果として人々が生活しやすく時代の変化にも柔軟に対応できる都市が形成されている。雑然としてみえる東京の街角には、時を経て自発的に形成された、ある意味での合理性が秘められているようだ」、同感である。ただ、場所や地名の表示については、英語が増えたとはいえ、もっと分かり易くする必要がある。 青葉 やまと氏による「だから外国人は「新宿のゴールデン街」が大好き…ごみごみした東京の街並みに外国人が注目するワケ 無秩序なのに合理的という不思議な日本の都市」を紹介しよう』 PRESIDENT ONLINE 「セレクトショップ」から「IT系やeスポーツの企業、ラグジュアリーブランド」へと、こうしたいわば産業構造の変化も影響しているようだ。 「駅ビルなど集積的な再開発」は「公共交通を中核とした街づくりという意味においては、これもまたひとつの東京の良さ」、その通りだ。 「豊島線は巣鴨監獄を避けなければならなかった。 山手線の田端駅から大塚駅までは線路が南西へと向かっているのに、大塚駅付近では線路がいったん北へとカーブしているのは、これらの理由が重なったことによる」、初めて知った。「諸外国が不平等条約を改正する条件に「日本が一等国である」ことを盛り込んでいたからだ。当時、西洋諸国は一等国のバロメーターを「文化」と「人権意識」の2つで測っていた」、当時、「「人権意識」がそんなに重視されたとは興味深い。「この時期、東京大宮電気鉄道や東京日光電気鉄道といった、東京進出を狙って計 「渋谷」の「セレクトショップ」にとって、状況は大幅に悪化したようだ。 「渋谷パルコ」閉鎖の影響力は想像以上に大きかったようだ。 「戦前期、同エリアは東武の総帥・根津嘉一郎の所有地で、根津山と呼ばれていた。根津山は戦後、百貨店の拡張を視野に入れていた西武の総帥・堤が買収。東京都は闇市の代替地として西武からこの一帯を買い取り、闇市の露店を移転させていった」、「根津山」が東口発展の基礎になったようだ。「池袋駅東口が少しずつ復興を遂げていく中、東口のシンボルでもある武蔵野デパートは西武百貨店と改称し、店舗も増改築を繰り返しながら着々と存在感を大きくしていった」、なるほど。 「東武も西口に百貨店を計画。しかし、地元商店街の反対により、アミューズメントビルの東武会館として計画を縮小して進めざるを得なかった」、「東武百貨店」は「地元商店街の反対により、アミューズメントビルの東武会館として計画を縮小して進めざるを得なかった」、そんな事情があったとは初めて知った。 「大資本」による「大規模な再開発」の華々しいPRの裏で、こんな変化が進んでいたとは興味深い。 「巣鴨プリズン」は、「明治新政府」が「国家の人権意識が高いことを諸外国に示すため、巣鴨監獄の前身である警視庁監獄巣鴨支署を1895年に開設」、そんな経緯があったとは初めて知った。 「雑居ビルも、日本らしい空間利用だとして海外で注目されているようだ」、ただ、使用条件を無視した結果、火災などで大量の死者を出す事故も珍しくない。 「飛躍の原点ともいえる西武が揺れる」、ファンドが経営権を取得しても、ファンドには新たな開発計画のようなリスクを負い難いため、開発計画は難航が予想される。
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