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随筆(その5)(養老孟司氏 人はなぜ「自分の命は自分のもの」と思い込むのか?、養老孟司が語る「じぶんの壁」…いまこそ、小田嶋さんへの手紙 追悼・小田嶋隆さん) [人生]

随筆については、6月28日に取上げた。今日は、(その5)(養老孟司氏 人はなぜ「自分の命は自分のもの」と思い込むのか?、小田嶋さんへの手紙 追悼・小田嶋隆さん)である。

先ずは、3月17日付け日経ビジネスオンラインが掲載した解剖学者の養老孟司氏による「養老孟司氏、人はなぜ「自分の命は自分のもの」と思い込むのか?」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00426/030100004/
・これは、有料記事だが、月3本までは無料なので、紹介する次第。 解剖学者の養老孟司先生の「子どもが自殺するような社会でいいのか」という問題提起からスタートした本連載。なぜ今、子どもたちは死にたくなってしまうのか。社会をどう変えていけばいいのか。課題を一つずつ、ひもといていきます。 前回(日本の子どもに「個性と自己実現」を求めるべきか?)は、「自己の問題」を取り上げました。 日本の伝統的な考え方には、自己という概念がない。そのことを反映するかのように、日本の子どもたちはアメリカの子どもたちと違って、自分の人生を自分で選択したり、自分で決定したりすることを好まない。しかし、西洋の考え方が導入された現代社会を生きる親たちは、子どもたちに「個性を伸ばせ」「自己実現せよ」と求める――。 このような自己の問題は、日本人が明治維新以来抱えているストレスであると先生はおっしゃいます。子どもの自殺が今、増えていることとも関係しているのかもしれません。 Q:前回のお話では、そもそも「生まれてから死ぬまで一貫して変わらない私がいる」という感覚が、日本人にはそぐわない、ということでした。今の日本の大人にとっては、当たり前の感覚だと思いますが、これは明治以降、西洋からきた考え方であり、日本の伝統的な考え方とは違う、と。 養老孟司氏(以下、養老):もともとヨーロッパでも、多神教の世界(*)ではこういう「私」はなかったと思うんです。 例えばデカルトの「我思う」ってありますね。あれはフランス語で「Je pense」でしょう。「donc je suis」は、「私は存在する」(*)。「Je」が、私ですね。 これをラテン語(*)で書くと、「我思う」はいきなり「Cogito(コギト)」となるんです。Cogitoは、一人称単数現在の動詞です。「私は考える」と言いたいときに、ラテン語では主語は要らないんです。 Q:英語でいえば「think」のみということですね。主語がない。 養老:「主語がない」というと、何か不足しているような気がしますが、日本語と同じで必要がなかったんですね。 確かに日本語も、主語をあまり使いませんね。普段の会話において、「私は……」と話すことはあまりありません。 * 多神教の世界:神道の日本、インド、古代オリエント、古代ギリシャ・ローマなど。 *「我思う、ゆえに我あり」:Je pense, donc je suis * ラテン語:古代ローマ帝国の公用語。現在のフランス、イタリア、スペイン語など、すべてのロマンス諸語の母体』、「「私は考える」と言いたいときに、ラテン語では主語は要らないんです。 Q:英語でいえば「think」のみということですね。主語がない。 養老:「主語がない」というと、何か不足しているような気がしますが、日本語と同じで必要がなかったんですね』、「ラテン語では主語は要らない」とは初めて知った。
・『「I am a boy」に、「I」は不要である  養老:英語で「I am a boy」って言うときに「I」を必ず付けますけど、その「I」も本当は要らないですよね。「am」とくれば、主語は「I」に決まっているのですから。じゃあ、ラテン語で入っていなかった「私」が、いつから入ってきたかというと、多分中世、キリスト教からです。 Q:何か理由があったのですか? 養老:一神教の世界には、「最後の審判」があります。この世の終わりに、全員が神様の前に出て裁きを受ける。そうすると、そのときまで存在し、過去から一貫している自分がないといけない。 裁きを受けるまで、一貫した自己がないといけない……。以前(なぜ「本人」がいても「本人確認」するのか?)にうかがった、名前が必要な理由と似ていますね。「貸したお金を返してください」といったときに、「借りたのは私ではありません」と反論されると困るから、借りた私に「黒坂真由子」という名前が付けられている。 養老:最後の審判であれば、「審判を受ける自分は誰か」ということになる。生後50日の私と、84歳の今の私では、まったく違うとなれば、どっちが審判の場に出るのか、ということになります。 Q:仏教では、生後50日の養老先生と、84歳の養老先生はまったく違う存在だと考えるのでしたね(前回参照)。 養老:しかし、最後の審判がある人々にとっては、生まれてから死ぬまで一貫した私というものがないと困るんですよ。そういうものが要請されてしまったんですね。 Q:その「生まれてから死ぬまで一貫した私」という考えが、明治以降、日本に輸入されて、今「個性を伸ばせ」という教育になっているということですね。本来「自己」という土壌がないのに、急に「個性を伸ばしなさい」という教育になってしまった。 養老:そうです。だから先生も困っているのではないですか。 Q:前回ご紹介した研究の通り、日本の子どもは、パズルもペンの色も母親の好みで選びたい、人生の選択もなるべく多くを周りに委ねたい。そういった周囲の意向を受け入れて生きていくのが心地いい日本の子どもにとって、「個性を伸ばせ」「自己実現せよ」という親や社会の期待が、プレッシャーになっている可能性がある。 このような「自己の問題」は、自殺にも関係しているのでしょうか? 養老:自己の問題の裏にあるのが、「命は自分のもの」という考え方です。だから、若い人が勝手に死ぬ』、「一神教の世界には、「最後の審判」があります。この世の終わりに、全員が神様の前に出て裁きを受ける。そうすると、そのときまで存在し、過去から一貫している自分がないといけない」、「「生まれてから死ぬまで一貫した私」という考えが、明治以降、日本に輸入されて、今「個性を伸ばせ」という教育になっているということですね。本来「自己」という土壌がないのに、急に「個性を伸ばしなさい」という教育になってしまった」、確かに「自己」が未確立なのに、「個性」重視教育は馴染まない。「自己の問題の裏にあるのが、「命は自分のもの」という考え方です。だから、若い人が勝手に死ぬ」、困ったことだ。
・『自分の命は、自分のものではない  Q:「自己がある」という考えが「命は自分のもの」という考え方につながる。確かに「自己」がなければ「自分のもの」と思いようがないですね。 養老:みなさん、「命は自分のものだから、自分の好きなようにしていいんだ」と思っていますよね。自分の身体や命が「自分のもの」であるという暗黙の了解ができています。それが常識になってしまっている。でも、そんなことは、どこにも決められていないんです。 Q:では、もし子どもに、 「命は誰のものなのですか?」と聞かれたら、どう答えればいいのでしょうか? 養老:世の中には誰かのものであるものと、誰のものか分からないものがあるんです。例えば、月は誰のものですか? 命が誰のものであるかを問うのは、それと同じくらい、おかしな質問です。今の社会の常識を優先してしまうから、質問自体が変だということに気がつかない。 Q:中学生の娘に、子どもの自殺をテーマに養老先生に取材をすると話したら、「なんで自殺しちゃいけないのか、養老先生に聞いてみたい」と言われました。こういう質問自体が、おかしいということなんですか? 養老:おかしいでしょう。それは「なぜ人を殺してはいけないの?」というのと、同じくらいおかしな質問です。一時期、この問いが話題になりましたよね。 Q:じゃあ、命は誰のものでもないのですか? 養老:そうです。 Q:ええと、自分の命は自分のものではないんですか? 私の命は、私のものではない? 養老:はい。命はもらったものです。別に自分で稼いで、生まれてきたわけじゃないでしょう。 Q:なんというか、そういう答えを予想していなかったので……。「誰のものでもない」という答えは、正直、まったく考えていませんでした。 養老:あなたが勝手にいじっていいものじゃないよ、ということでしょうね。 Q:自分が今生きているということ自体を、いじる権利が自分にはない……。 養老:そうですね。仕方がないから生きてるんですよ、僕なんか。 これも、お互いさま(「なぜコロナ禍で子どもたちは死にたがるのか?」参照)に近いですね。みなさん、自分一人の力で独立して生きているわけではないでしょう。何かそういう当たり前のことを議論しなくてはならなくなったのが、変なんですよ。本来、そういうふうに言葉で議論するものではないんですよ。 Q:でも、「命は誰のものか?」という問いには「誰かのもの」という答えがあるものだと、思い込んでいました』、「命は誰のものでもない」、「自分の命は自分のものではないんですか? 私の命は、私のものではない? 養老:はい。命はもらったものです。別に自分で稼いで、生まれてきたわけじゃないでしょう」、「自分一人の力で独立して生きているわけではないでしょう・・・本来、そういうふうに言葉で議論するものではないんですよ」、「私の命は、私のものではない」のは確かだ。
・『「なぜ人を殺してはいけないのか?」に、どう答えるか  養老:「なぜ人を殺してはいけないのか?」という質問に、藤原正彦さんは「『駄目だから駄目』ということに尽きます」と言っていました(*)。「ならぬことはならぬものです」という会津の教育ですね。今の人は、何でも理屈で解決できると思っている。すべてのことが言語的に解決できるかというとそうはいかないよ、ということです。 人生を一言で表現してみなさい、といわれたらどうですか。無理に決まっているでしょう。一言で言えるわけがないのですよ。生きるというのは、プロセスですから。 「自分の命は、自分のもの」という考え方には、根拠がないのです。特に日本においては、極めて根拠が薄い。 *『国家の品格』藤原正彦著(新潮新書/2005年) Q:前回、武士の話が出ましたが、確かに武士の社会では、「藩や家のために切腹」ということがありました。命はそれこそ藩や家に属していて、自分のものではなかった。 養老:そうです。本来、自分のためのものではないのです。人生とか生きがいというのは。 Q:そういう「命は自分のものではない」という価値観が綿々と続く社会の中で生きてきたのが、私たち日本人ということなんですね。でも、西洋では「命は自分のもの」であるわけですよね? それは自殺には結びつかないのですか?  養老:だからキリスト教では「自殺禁止」が明言されているんですよ。自殺は大罪にあたります。キリスト教社会では19世紀まで、自殺した人は、まともな墓場に入れてもらえなかったんです。戦後もありましたよ。自殺すると墓地に入れてもらえないことは。 でも日本では侍のハラキリから始まって、自殺を禁じる考えはありません。そういう社会に「自己」というものを持ち込み、その上「自分の命は自分のもの」という考え方まで持ち込んでくると、自殺者が増えるのは当たり前です。自殺を止める思想がそもそもないのですから。 Q:日本には「自殺禁止」につながる考え方は、何もなかったのですか?』、「キリスト教では「自殺禁止」が明言されているんですよ。自殺は大罪にあたります。キリスト教社会では19世紀まで、自殺した人は、まともな墓場に入れてもらえなかったんです」、「自殺禁止」を担保するため、「自殺した人は、まともな墓場に入れてもらえなかった」とは初めて知った。
・『「自殺を止める思想」を失った日本人  養老:戦前はまだ、命は自分のものではないというのが基本的な考え方でした。「身体髪膚之を父母に受く、敢えて毀傷せざるは孝の始めなり(しんたいはっぷこれをふぼにうく、あえてきしょうせざるはこうのはじめなり)」ということです。これは『孝経(*)』にある一節で、「人の身体はすべて父母からもらったものだから、傷つけないようにするのが孝行の始まり」という意味です。これが人間関係の起点でもありました。 * 孝経(こうきょう):孔子の弟子の曾子の作と伝えられる。『論語』とならぶ儒家の古典のひとつ。「孝」は儒教倫理の中心であり暗唱しやすかったため、家庭での教育に用いられた。 Q:戦前は親孝行をしなくちゃいけなかった。ある意味、自分の命は親のもの。戦争中は……。 養老:お国のためですね。 Q:ああ、シベリアで捕虜生活を送った大正12年(1923年)生まれの祖父に「なんで戦争に行ったの?」と尋ねたとき、「日本民族のため」と言っていたのを思い出します。そう考えると、私の祖父の頃までは「自分の命は自分のものではない」ということが、まだ常識だったということですよね。「命は自分のもの」ということが常識となったのは、ここ数十年のこと。自分のものなら、自分の好きにしていいと、確かに考えてしまいそうです。 養老:親孝行という徳目を、かつて徹底的に教えたことには、自殺を防ぐ効果があった。親孝行の価値観がある間は、子どもは死ねません。子どもが親の先に死ぬのは「逆縁」といって最大の親不孝です。今の常識では、夢にも思わないのではないですかね。 「滅私奉公」「一億玉砕」の裏返しで「命が自分のもの」になった今の日本には、自殺を止める思想がない。だから「こんなにつらいのなら、自分の命は自分で潰していい」と考える。 Q:そもそも命が自分のものではない仏教には「自殺禁止」の教えが存在しない。それをかつては「親孝行」という思想で止めていた。しかし、親孝行という思想はほとんど消えかけている。だから現代の日本には、自殺を止める思想がないということですね。これだけ大きな問題となると、どこから手をつけていいのかわからなくなってきてしまいました。 養老:もちろん簡単にはいきません。でも、簡単にいかないからといって考えることをやめるわけにもいきません。 Q:そうですね。難しくても、考えていくしかない。次回も、よろしくお願いいたします』、「そもそも命が自分のものではない仏教には「自殺禁止」の教えが存在しない。それをかつては「親孝行」という思想で止めていた。しかし、親孝行という思想はほとんど消えかけている。だから現代の日本には、自殺を止める思想がない」、「親孝行という思想」が「自殺」を止めていた。「親孝行という思想」は古臭いと思っていたが、意外な効用があったようだ。

次に、7月1日付け日経ビジネスオンライン「小田嶋さんへの手紙 追悼・小田嶋隆さん」を紹介しよう。
・『2022年6月24日、日経ビジネスオンライン時代から長くご執筆をいただいてきたコラムニスト、小田嶋隆さんがお亡くなりになりました。 今回は、小田嶋さんに近しい方々にいただいた寄稿を掲載して、皆さんと一緒に偲びたいと思います。 最初は、日経ビジネスに小田嶋隆さんをご紹介くださったジャーナリスト、清野由美さんです。 追悼、小田嶋隆さんへ ついにこの時が来てしまった。 小田嶋さんが脳梗塞で入院された時から、ずっと、はらはらと過ごしてきた。編集Yこと、日経ビジネスの山中浩之さんから電話の着信があると、覚悟を決めて出るのが習いになっていた。小田嶋さん本人の美学から、逐一の病状はうかがっていなかったが、じわじわと砂の落ちる音は伝え聞いていた。 私にとっては、昨秋「中央公論」で小田嶋さんとオバタカズユキさんの対談の仕切り役をした時が、今生のお別れとなった。幾度かの入院治療のインターバルのタイミングで、身体の動きはゆっくりしていたが、アタマの切れは変わらず、口先もいたって達者で、さすがだった。 65という小田嶋さんの享年は、現在の日本の平均寿命から言えば早すぎるかもしれない。ただ、私はそう思わない。小田嶋さんは独自の美学を保ったまま、自身に与えられた唯一の時間をまっとうした。そう思えてならない。 ひとつに、老成というものが、彼の特質には無縁のものだったことがある。この場合、老成とは世間知と言い換えていい。 周囲の人間関係、状況を見ながら、そこにいる複数の人々の利害を察知し、場を丸く収めながら、自分のいちばん得になるように、筋書きを運んでいく。 そういうこざかしい大人の処世から無縁――というか、見放されているのが、小田嶋隆という人だった。 ある時、小田嶋さんから「お世話になったお礼に、食事をごちそうさせてもらいたい」というありがたい申し出があった。 「そんなあ、気を使わないでいいですよー」「いや、オレの気持ちだから」みたいなやり取りの後、「じゃあ、お言葉に甘えて」となった。だとしたら、普通は日程とか、お店とか、奢る方がアレンジする流れになりますよね。 でも、小田嶋さんだとそうならない。 結局、言われた方の私が、日取りも、待ち合わせの場所も設定して、待ち合わせの場所では「えっと、お店、決まっています?」「ううん、決まってない」という予想通りの展開になった。 ただ、ここで怒っていては、小田嶋番は務まらないのである。こんなこともあろうかと、私は事前に近隣でよかろうと思える店の見当も付けており、そこに無事、小田嶋先生をご案内したのであった。って、どっちが接待主なのよ。 このようなエピソードからも、新卒の営業要員として小田嶋さんが就職した日本の食品企業が、いかにつらかったか、容易に想像できる。つらかったのは、もちろん、雇用する側です。 しかし、世間知から見放されていたからこそ、小田嶋さんの書く文章、とりわけコラムにおけるレトリックの切れ味は極上であった。中でもいくつか、私の中には永久保存版のレトリックがある。ここで書きたいと思ったが、一部分だけ抽出すると、過度に攻撃的になってしまうので、やめておく。ともかく、つまらない大人は「おうさまは、はだかだ」なんて言えないし、そもそも分からない。でも小田嶋さんは、言葉のナイフで敵をすっと切り裂いた後、その切っ先を爆笑に着地させるという、スゴイ技を持っていた。 レトリックの根底にあったのは、彼一流のセンスだ。小熊英二が著した『日本社会の仕組み』によると、戦後、地域間賃金格差や階級間年収格差が最小だったのが1975年(引用元は、橋本健二『「格差」の戦後史』)で、日本社会が「一種の安定状態」にあったのが70年代後半だったという。 これはまさに、小田嶋さんが生涯を貫くセンスを獲得した高校、浪人、大学時代と重なる。小田嶋さん世代は、一回り上の団塊世代が、田舎くささ丸出しで、元気に暴れた果てに、権力の側に吸い込まれていった経緯を、柱の陰から眺め続けた。アタマのいい高校生は、そこから、事象をことさらに深刻化せず、落語のようなおかしみを持って語る反作用的な態度を身に付けた。その要諦は、含羞と諧謔、かろみ、デフォルトとしての虚無である。 地域間賃金、階級間年収はさておき、70年代は都会と地方には、まだ情報のギャップがあった。東京都北区赤羽という、江戸の町人文化を引く土地に生まれ育った小田嶋さんは、まさしく都会の高校生で、野暮すなわち、拝金、権威主義、自己宣伝、人とつるむ態度、湿っぽさ、反知性などなどを、忌むべきものとした。この感性は、いろいろな人がワサワサと行きかう都会でないと、なかなか磨かれないものだろう。 小田嶋さんには、言いたいことを言ってきたから、その点で私に悔いはない。 ただひとつ、今年6月に刊行された小田嶋隆、初の小説『東京四次元紀行』の素晴らしい出来に感動したことは伝えられなかった。小田嶋さんのコラムは、痛快であると同時に、時に切り込み過ぎて、小田嶋さんの美質とは違うところで炎上を招いていた。その様子を傍から見ていると、「違うのに……」と、胸が痛むことがあった。だが、小説は洒脱でドライで、どこかあったかいという、彼がその経験から培ったすべてのセンスが結実していた。きっと小田嶋さんにとって、コラムよりも書いていて楽しい形式だったと思う。ありあまる才能の、その先の展開が見られないことは、残念の一言である。その悔しさは、この文章を書いている現在ではなく、この先、雑踏を歩いている時なんかに唐突に襲ってきて、私の足をすくませてしまうのだろう。 小田嶋さんはいま、彼の顔をしかめさせる現世の言説、ふるまいからきっぱりと離れ、病の苦痛からも解放され、無垢な表情でやすらかに過ごしている。そう信じている。(文:清野 由美)』、「小田嶋」氏の追悼記事はこのブログでは6月28日に紹介した。「老成というものが、彼の特質には無縁のものだったことがある。この場合、老成とは世間知と言い換えていい。 周囲の人間関係、状況を見ながら、そこにいる複数の人々の利害を察知し、場を丸く収めながら、自分のいちばん得になるように、筋書きを運んでいく。 そういうこざかしい大人の処世から無縁――というか、見放されているのが、小田嶋隆という人だった」、極めて的確な紹介だ。
・『兄の親友、小田嶋隆を弟はどんな目で見ていたのか  次は20年に亡くなられた小田嶋さんの親友、岡康道さんの弟、岡 敦(あつし)さんです・・・この部分は紹介を省略する。
・『友達はいつでもスタンド・バイ・ミー  今回のラストは、東京女子大学学長の森本あんり先生。国際基督教大学の名誉教授でもあり、神学者でもある先生は、小田嶋さんとずっと同級生であり、学生時代を通して親しい友達でした。2021年には先生の書かれた『不寛容論』(新潮選書)を題材に、寛容についてお二人で話し合っていただきました(『不寛容論』に学ぶ、「不愉快な隣人」への振る舞い方)。この続きを近いうちに、と念じていたのですが、ついにかないませんでした。 2022年5月28日、13:19着信、15分通話――小田嶋と最後に話したのはいつだろう、と思って携帯電話の履歴を確認したら、そう記録があった。最近は便利なものである。その10日前、これもメールの記録から辿ったのだが、彼の編集者から突然連絡があり、ともかく小田嶋が話したがっているから電話をしてやってくれ、ということだった。すぐに何度も電話をしたのだが、つながらない。あちらからも電話があったようだが、わたしは気づかなかった。結局わたしがかけ続けていたのは間違った番号だった、とわかったのがこの28日なのである。その後しばらくして、そろそろまた電話してみようかな、と思っていたら、出張中の新幹線で訃報のメールを受け取った。 小田嶋の追悼文なんて、わたしは書きたくない。彼のことなので、わたしより親しかった友人や仕事仲間はたくさんいるだろうし、「惜しい人をなくしました」的なアナウンスもあちこちで流されるのだろう。そんな言葉を読んだり聞いたりしたら、きっと小田嶋はそれをまたひとしきり自嘲ネタにして楽しむだろう。そういう役割は、他の方々にお任せしたい。それでもわたしがこれを書いているのは、半世紀以上前の旧友として、われわれが共有した何ごとかを書いて残し、彼の逝去に際して捧げておきたいと思ったからである。 すでに何度か書いたことだが、わたしと彼は小中高と同級生で、とても親しかった。小田嶋は、昔から勉強ができて成績はいつもトップレベル。手先も器用で、ピアノもギターも見よう見まねでささっとできてしまう。何でもできるけれど、特に何かを一心不乱に追求してその道の達人になる、などということはしない。みっともないからである。 ちなみに、古代ギリシアではこういう人を円環的な教養人と呼ぶ。たとえば、人は笛を吹く楽しみを知っていなければならないが、あまり上手すぎてはいけない。熟達しようとすると、人間性の他の部分を犠牲にして努力してしまうからである。「趣味といっても彼の腕前はプロ級で」などというのは、実のところ無教養の極みだろう。何にせよ適量を過ぎると、人は不幸になる。そのことを心底よく知っていた小田嶋は、結局のところまあまあ人生を楽しんだ幸せな人間だった。そう思うことにしたい。 彼が電話で話したかったのは、仕事のことではない。しばらく牧師職にあったわたしの宗教的な慰めが欲しかったわけでもない。ただ、たわいもない話ができることを喜んでいた。すでに鎮静剤もかなりの量になっているようで、メールを打つのもしんどいし、お見舞いなんてもっと疲れるから、電話で話すくらいがちょうどありがたい、ということだった。ツイッターなどとは縁のないわたしは、彼の病状が終末期まで進行していることも知らなかった。たぶんそうだろう、と思った彼は、「いきなり自分の訃報が届くのも何だから」ということで、わたしに心の準備をさせるために話したかったのだ。 電話の向こうで彼は、ゆっくりとした口調でこぼしていた。「あらいゆうこうも、ひろせだいぞうも死んじゃったし、もうオレとあんりが覚えている人って、このあたりに誰もいないのよ。」わたしは、その二人の名前は覚えているし、どのあたりに住んでいたかも覚えているが、いつどのように亡くなったかは知らない。 高校で同級生だった岡康道のことは、二人で一緒に高校の同窓会誌に書いた。当時からやたらに大人びていて、どこか陰のある魅力的な人物だった。メディア界の有名人になった彼を、わたしは小田嶋を通して間接的に知っていたくらいだが、「今度3人で何かやろう」と企画を話しているうちに、彼は亡くなってしまい、それを小田嶋はとても残念がっていた。おそらく、そうやって先に逝った人たちのことを順に数えながら、おぼろげに自分の行く末を見つめていたのだろう。最後は、「あっちに行ったら、岡によろしく」「うんわかった」というお出かけの挨拶だった。 高校卒業後の小田嶋のことも、わたしはまったく知らない。これも何度か書いたことだが、わたしにとって小中高は暗黒時代だったので、その後の人生ではできるだけ近づかないようにしていた。小田嶋隆という名前も、パソコン誌にテクニカルライターとして書いた彼の記事で知っていただけである。ところが、卒業して30年ほど経ったある日、突然連絡をもらい、彼の担当するラジオ番組で対談することになった。わたしが『反知性主義』(2015年)を書くより数年ほど前のことである。 その時の対談の内容は忘れてしまった。だが、この再会はわたしの人生に大きな意味をもった。収録が終わり、近くの喫茶店でくつろいでいた時のことである。彼は、わたしが忘れていたこと、というより記憶の底に押し込めて忘れようとしていたこと、をぽつぽつと語ってくれたのである。 高校生のある日、例によって授業を抜け出したわれわれ2人は、学校の裏手に新しく地下鉄の駅が建設されつつあるのを見つけた。現在の三田線千石駅である。小田嶋の回想によると、その時わたしは、中へ入ってみようと言い出し、勝手にシャッターをがらがらと上げて、暗い駅の中へ降りていったという。そんなことをして大丈夫かな、と思っているうちにホームに着くと、今度はさらに線路へ降りて歩くという。それはさすがにまずいのではないか、と彼は思ったそうだが、わたしがずんずん先へ行ってしまうので、結局2人して巣鴨へ向かって歩き始めた。すると、案の定途中で向こうから試運転の電車が轟音と閃光とともに走ってくる。恐怖に駆られたわれわれは、ひたすら壁に張り付いてやり過ごそうと思ったが、急停止した電車の車掌にとっつかまり、2匹のねずみのように連れて行かれて、駅でこっぴどく叱られた、という話である。 今から思うと、叱られただけで済んだなんて、信じられないほどラッキーな話である。ことによったら生命すら危なかっただろう。そんな彼の問わず語りを聞いて、ようやくわたしも思い出した。だが、思い出したのはその出来事だけでなく、その時自分が何を考えてそんな愚かなことをしたのか、ということだった。わたしはその時、「悪いことをして冒険してみたい」というより、「これで死んでしまってもいい」と思っていたのである。それが当時のわたしの暗澹とした現実だった。小田嶋は、地下鉄の線路くらいに暗かったわたしの実存の闇を、命がけでいっしょに歩いてくれた友だったのである。 しかもわたしは、そのことを30年以上も忘れていた。小田嶋の話を聞いてはじめて、そんなにも長い間そのことを忘れて、自分の人生を生きてこられた、ということを発見したのである。自分は、忘れたい過去と縁を切って、30年も過ごすことができた。だから今では、それを思い出したり話したりしても平気である。気がついたら、そういう自分になっていた。そのことを、小田嶋との再会が悟らせてくれたのである。忘恩もはなはだしいし、ちょっと遅すぎるのだけど、小田嶋ありがとう。(文:森本 あんり)』、「三田線千石駅」のエピソードは、「「これで死んでしまってもいい」と思っていたのである。それが当時のわたしの暗澹とした現実だった。小田嶋は、地下鉄の線路くらいに暗かったわたしの実存の闇を、命がけでいっしょに歩いてくれた友だったのである」、「しかもわたしは、そのことを30年以上も忘れていた。小田嶋の話を聞いてはじめて、そんなにも長い間そのことを忘れて、自分の人生を生きてこられた、ということを発見したのである。自分は、忘れたい過去と縁を切って、30年も過ごすことができた。だから今では、それを思い出したり話したりしても平気である。気がついたら、そういう自分になっていた。そのことを、小田嶋との再会が悟らせてくれたのである。忘恩もはなはだしいし、ちょっと遅すぎるのだけど、小田嶋ありがとう」、「自分は、忘れたい過去と縁を切って、30年も過ごすことができた」、「忘恩もはなはだしいし、ちょっと遅すぎるのだけど、小田嶋ありがとう」、こんなドラマチックな話を「忘れたい過去と縁を切って」いたにせよ、「30年以上も忘れていた」とは驚かされた。「小田嶋」氏はやはり稀有の存在だったようだ。
タグ:日経ビジネスオンライン (その5)(養老孟司氏 人はなぜ「自分の命は自分のもの」と思い込むのか?、養老孟司が語る「じぶんの壁」…いまこそ、小田嶋さんへの手紙 追悼・小田嶋隆さん) 随筆 「養老孟司氏、人はなぜ「自分の命は自分のもの」と思い込むのか?」 「ラテン語では主語は要らない」とは初めて知った。 「一神教の世界には、「最後の審判」があります。この世の終わりに、全員が神様の前に出て裁きを受ける。そうすると、そのときまで存在し、過去から一貫している自分がないといけない」、「「生まれてから死ぬまで一貫した私」という考えが、明治以降、日本に輸入されて、今「個性を伸ばせ」という教育になっているということですね 。本来「自己」という土壌がないのに、急に「個性を伸ばしなさい」という教育になってしまった」、確かに「自己」が未確立なのに、「個性」重視教育は馴染まない。「自己の問題の裏にあるのが、「命は自分のもの」という考え方です。だから、若い人が勝手に死ぬ」、困ったことだ。 「命は誰のものでもない」、「自分の命は自分のものではないんですか? 私の命は、私のものではない? 養老:はい。命はもらったものです。別に自分で稼いで、生まれてきたわけじゃないでしょう」、「自分一人の力で独立して生きているわけではないでしょう・・・本来、そういうふうに言葉で議論するものではないんですよ」、「私の命は、私のものではない」のは確かだ。 「キリスト教では「自殺禁止」が明言されているんですよ。自殺は大罪にあたります。キリスト教社会では19世紀まで、自殺した人は、まともな墓場に入れてもらえなかったんです」、「自殺禁止」を担保するため、「自殺した人は、まともな墓場に入れてもらえなかった」とは初めて知った。 「そもそも命が自分のものではない仏教には「自殺禁止」の教えが存在しない。それをかつては「親孝行」という思想で止めていた。しかし、親孝行という思想はほとんど消えかけている。だから現代の日本には、自殺を止める思想がない」、「親孝行という思想」が「自殺」を止めていた。「親孝行という思想」は古臭いと思っていたが、意外な効用があったようだ。 日経ビジネスオンライン「小田嶋さんへの手紙 追悼・小田嶋隆さん」 清野由美 「小田嶋」氏の追悼記事はこのブログでは6月28日に紹介した。「老成というものが、彼の特質には無縁のものだったことがある。この場合、老成とは世間知と言い換えていい。 周囲の人間関係、状況を見ながら、そこにいる複数の人々の利害を察知し、場を丸く収めながら、自分のいちばん得になるように、筋書きを運んでいく。 そういうこざかしい大人の処世から無縁――というか、見放されているのが、小田嶋隆という人だった」、極めて的確な紹介だ。 東京女子大学学長の森本あんり 「三田線千石駅」のエピソードは、「「これで死んでしまってもいい」と思っていたのである。それが当時のわたしの暗澹とした現実だった。小田嶋は、地下鉄の線路くらいに暗かったわたしの実存の闇を、命がけでいっしょに歩いてくれた友だったのである」、「しかもわたしは、そのことを30年以上も忘れていた。小田嶋の話を聞いてはじめて、そんなにも長い間そのことを忘れて、自分の人生を生きてこられた、ということを発見したのである。 自分は、忘れたい過去と縁を切って、30年も過ごすことができた。だから今では、それを思い出したり話したりしても平気である。気がついたら、そういう自分になっていた。そのことを、小田嶋との再会が悟らせてくれたのである。忘恩もはなはだしいし、ちょっと遅すぎるのだけど、小田嶋ありがとう」、「自分は、忘れたい過去と縁を切って、30年も過ごすことができた」、 「忘恩もはなはだしいし、ちょっと遅すぎるのだけど、小田嶋ありがとう」、こんなドラマチックな話を「忘れたい過去と縁を切って」いたにせよ、「30年以上も忘れていた」とは驚かされた。「小田嶋」氏はやはり稀有の存在だったようだ。
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