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大学(その12)(日本の大学教授の脳は「前頭葉が弱い」と言い切れる残念すぎる理由、池上彰氏「ウクライナ危機とソ連・冬戦争。なぜ教養を学ぶのか」、池上彰氏と考える教養 “奴隷的”な現代人が小説を読むべき理由、「大学院卒」でも企業では評価されない…世界中で進む高学歴化に日本だけが取り残されている理由 「高偏差値大学の卒業生は優秀」はもう古い) [社会]

大学については、昨年9月20日に取上げた。今日は、(その12)(日本の大学教授の脳は「前頭葉が弱い」と言い切れる残念すぎる理由、池上彰氏「ウクライナ危機とソ連・冬戦争。なぜ教養を学ぶのか」、池上彰氏と考える教養 “奴隷的”な現代人が小説を読むべき理由、「大学院卒」でも企業では評価されない…世界中で進む高学歴化に日本だけが取り残されている理由 「高偏差値大学の卒業生は優秀」はもう古い)である。

先ずは、昨年11月29日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した精神科医の和田秀樹氏による「日本の大学教授の脳は「前頭葉が弱い」と言い切れる残念すぎる理由」を紹介しよう。
・『大学教授がもっとも前頭葉が弱いなどと言うと、「いくら何でも言い過ぎでは」と言われそうですが、決して誇張ではありません。一般社会のビジネスパーソンと比べると、違いは明らかです。研究を沈滞化させる要因として挙げられるのが、給与のしくみです。 ※本稿は、和田秀樹『50歳からの「脳のトリセツ」』(PHPビジネス新書)の一部を抜粋・編集したものです』、興味深そうだ。
・『偉くなってしまえば論文を書かなくてよくなるという問題  大学教授がもっとも前頭葉が弱いなどと言うと、「いくら何でも言い過ぎでは」と言われそうですが、決して誇張ではありません。 一般社会のビジネスパーソンと比べると、違いは明らかです。どのような職種であれ、ビジネスパーソンは成果を求められます。しかし大学教授は、偉くなりさえすれば成果など必要なくなります。 論文の本数も、自分の研究室のメンバーが書いたものに名を連ねるだけでなんとかなります。まったく書かない教授も珍しくありません。論文の本数が少なかろうとクビの心配はないのですから、定年まで楽に過ごせます。 ちなみに、理化学研究所などの研究者は、発表した論文の本数が評価の対象になります。評価が低ければ、職を失うことにもなります。研究者にとってはハードですが、大学のようなぬるま湯とは大違いです。 なぜ大学では、こうした決まりが設けられていないのでしょうか。それは、ぬるま湯でいてほしい人たちがいるからです』、「ぬるま湯でいてほしい人たちがいる」、教授たち以外にもいるのだろうか。
・『ぬるま湯を望む人は、大学の外側にも  教授たちだけではありません。ぬるま湯を望む人は、大学の外側にも存在します。文科省や厚労省などの官僚たちです。 彼らは在任中や退官後に大学教授として再就職することをあてにしています。つまり、天下りです。官僚の天下りは国家公務員法で禁止されていますが、今も数々の抜け道があり、とりわけ大学は大きな受け皿となっています。「公募に応じて」という体裁をとりながら、実は前職の力にものを言わせて、論文を一本も書かずに教授に収まるわけです。 そんな彼らにとって、天下り先がハードな環境になるのはもっとも避けたいところ。将来の自分の首を絞めるような決まり事をつくるはずがないのです。 この思惑がある限り、大学のぬるま湯環境は変わらないでしょう。逆に言えば、大学への天下り規制が強化されれば、日本の研究環境も少しは向上するかもしれません』、「文科省や厚労省などの官僚たち」「は在任中や退官後に大学教授として再就職することをあてにしています。つまり、天下りです。官僚の天下りは国家公務員法で禁止されていますが、今も数々の抜け道があり、とりわけ大学は大きな受け皿となっています」、なるほど。
・『研究者のやる気をなくす大学のシステム  もう一つ、研究を沈滞化させる要因として挙げられるのが、給与のしくみです。 日本の大学教授は、成果を出そうと出すまいと、大学から一定額の給与が支払われます。 他方、アメリカの大学教授の場合は、自力で稼いでくるシステムです。大学からもらう給与もありますが、日本に比べるときわめて低額です。ですから彼らは行政や企業に掛け合って、「グラント(研究費)」を集めます。 受け取ったグラントをどう使うかは教授の自由です。10のうち8を研究資金にして2割を報酬にしてもいいし、7:3でも6:4でも、好きに決められます。 グラントが集められるかどうかは、教授およびその研究室が結果を出しているか、もしくは有望であるかによって決まります。成果や実績、研究内容の持つ意義やポテンシャルなどを認めてもらえない限り資金は得られず、研究も続けられないし、生活も成り立ちません。研究者は自分の業績をもとに営業活動をし、研究室を運営していく「経営者」とも言えます。研究室にいい人材を集めるための努力も欠かせません。 対して、給与をもらっている日本の大学教授は「従業員」の立場ですが、業績にかかわらず給与が出るので、一般のビジネスパーソンよりも楽です。やる気のない人ほど嬉しい環境とも言えます。 逆に言えば、やる気のある人にとっては、恵まれた環境ではありません。と言うのも、研究の成果が報酬に直結しづらいシステムだからです。アメリカと違い、研究費は研究以外のことには使えません。研究の成果が出ても、それが商品化されてお金になるまで、報酬にはなりません。研究のほとんどは、お金を生み出すに至らなかったり、至ったとしても途方もない時間がかかりますから、やりがいにはいま一つ結びつきません。 もちろん、モチベーションの源はお金だけではありません。報酬など気にせず、意義ある研究や発見のために邁進(まいしん)するのも一つの姿勢です。ところが日本の学界は、研究の価値を正当に評価する意識も希薄なのです。iPS細胞のような「特大ホームラン」でもない限り、さほど注目されることもありません。そうしたなかで、もともとやる気のある研究者でも、徐々にやる気を失っていくのです』、やはり「日本」でも「研究の価値を正当に評価する」努力を重ねてゆくべきだろう。さもないと、日本は世界から取り残されてしまうだろう。

次に、12月2日付け日経ビジネスオンラインが掲載したジャーナリスト・東京工業大学リベラルアートセンター教授の池上 彰氏と、東京工業大学教授の 上田紀行氏による対談「池上彰氏「ウクライナ危機とソ連・冬戦争。なぜ教養を学ぶのか」」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00087/112200321/
・『(Qは聞き手の述懐、質問) Q:このたび、日経ビジネス人文庫から『池上彰の教養のススメ』が刊行になりました。もともとは今から8年前、2014年に単行本として刊行され、累計10万部を超えるベストセラーになった1冊です。 12年、教養を教える教授として東京工業大学に着任した池上彰先生(現在は、特命教授)。着任から間もない時期に、仲間の先生たちと「教養とは何か?」「教養の本質とは何か?」について考え、語り合ってつくったのが『池上彰の教養のススメ』です。文庫化にあたって仲間の1人、東京工業大学教授(副学長)で文化人類学が専門の上田紀行先生との対談をお届けします。 『池上彰の教養のススメ』が刊行されたのち、ビジネス書の世界では、教養の一大ブームが訪れました。なぜ今、教養なのでしょうか。そして教養を学ぶ本当の意義とは? 池上先生と上田先生と一緒に考えます。  このたび、『池上彰の教養のススメ』を文庫化するにあたって、じっくりと再読しました。文庫化する前の親本を編集したのは、現在は東工大でメディア論を研究する柳瀬博一教授です(当時は日経BPに所属)。驚かされたのは、14年当時、池上先生がこう書かれていたことです。 死に絶えたはずの「教養」に今、急速に注目が集まりつつあります。 ビジネス書の世界では、その後、教養の一大ブームが到来しました。今も書店にいけば「教養」をタイトルに冠した本が多く並び、ベストセラーも何冊も出ています。『教養としてのワイン』(18年刊行、*1)、『教養としての投資』(20年刊行、*2)、『教養としての茶道』(21年刊行、*3)など。かくいう私も教養にはコンプレックスがあり、これらの本をおおいに関心を持って興味深く読みました。 池上:ブームの火付け役の一端を担えたなら、光栄ですね。ただ、ちょっと気になるのは、このごろの教養本のニーズが、「すぐに役立つ教養本」に傾いていないか、ということです。 Q: 「すぐに役立つ教養本」ですか。 池上:それって、形容矛盾じゃないかと思うのです。 *1:『世界のビジネスエリートが身につける 教養としてのワイン』 *2:『ビジネスエリートになるための 教養としての投資』 *3:『世界のビジネスエリートが知っている 教養としての茶道』 (池上彰氏の略歴はリンク先参照)』、「『池上彰の教養のススメ』が刊行されたのち、ビジネス書の世界では、教養の一大ブームが訪れました」、現在のブームの基礎をつくったとはさすがだ。
・『すぐに役に立つものは、すぐに役に立たなくなる  池上:慶応義塾大学の中興の祖といわれ、上皇陛下が皇太子時代にご進講した小泉信三は、かつて学問についてこんな言葉を残しています。 すぐに役に立つものは、すぐに役に立たなくなる(教養というのは本来、すぐに役に立つものじゃないんだよ。だけど、じりじりと自分の生き方に影響が出てくるものなんだよ。小泉信三はこの言葉で、こんなことをいいたかったんじゃないかと思うんです。 私は東京工業大のリベラルアーツ研究教育院で、特命教授として理系の大学生に現代史などの「教養」を教えています。リベラルアーツ研究教育院の前身となるリベラルアーツセンターに着任したのは12年のことでした。『池上彰の教養のススメ』は、東工大に着任して間もないころに、仲間の先生たちと「教養とは何か」「教養の本質とは何か」について、じっくりと語り合ってつくった本です。私が東工大で担当する講義は、日本や世界の現代史、現代社会の仕組みなどですが、歴史を学ぶ意義については、こんな言葉があります。 歴史は繰り返さないが、韻を踏む(米国の作家マーク・トウェインの言葉とされています。「されている」というのは、マーク・トウェインの言葉だといわれてきたものの、いくら調べても出典が見つからないんですね。 しかし、なるほど確かに、歴史上の出来事というのは、そのままその通りに繰り返さないけれど、今現在、起きている出来事が、「あ、あのときのあれにそっくりだな」ということはよくあって、まさに「韻を踏む」状況になっているじゃないか、と思うことは、よくあります。 かつてソ連がフィンランドに攻めこんだことがあって、国際世論の非難を浴びました。第2次世界大戦の勃発から間もないころのことで、ソ連・フィンランド戦争、ないしは冬戦争などと呼ばれます。このとき、ソ連は準備不足だったところに、フィンランド軍が粘り強く抵抗して、散々な目にあいました。すると、あれ? ロシアが今、ウクライナに攻めこんで、同じようなことを繰り返しているじゃないか、と思うわけです。 Q: そうでしたか。私は高校時代、世界史を選択していましたが、ソ連とフィンランドの戦争については、まったく記憶にありません。高校時代に教わっていたとしても、「こんなマニアックな知識が、何の役に立つのだろう? 入試でもあまり出なさそうだし」なんて考えたんじゃないかという気がします。 池上:歴史というのは、学んでもすぐには役に立ちません。けれど、「韻を踏む」さまを目の当たりにすることで、人間の愚かさというものが見えてきて、それによって現代の世界を分析することもできる。長い人間の歴史を見ることによって、今を深く見る視点が養われる。そういう役割が教養にはあるのではないかと思います。 Q: そんな教養が、一度は「死に絶えた」と、池上さんは14年に書かれています。教養が「死に絶えた」とは、どういうことでしょうか?』、「歴史は繰り返さないが、韻を踏む(米国の作家マーク・トウェインの言葉)、確かに思い当たる節がある。「歴史というのは、学んでもすぐには役に立ちません。けれど、「韻を踏む」さまを目の当たりにすることで、人間の愚かさというものが見えてきて、それによって現代の世界を分析することもできる。長い人間の歴史を見ることによって、今を深く見る視点が養われる。そういう役割が教養にはあるのではないかと思います」、その通りだ。
・『1990年代、大学で教養が「死に絶えた」?  池上:それについては、東工大教授で、ともにリベラルアーツを教えている上田紀行先生に解説していただきましょう。 上田:ありがとうございます。実は、池上先生を東工大に招いたのは、リベラルアーツセンターの初代センター長を務められた桑子敏雄先生(現在は退官し、名誉教授)と私なんです。 池上:最初は桑子先生と上田先生、それに私の3人だけという小さな所帯でした。 上田:それが今では、60人以上の教授を擁するリベラルアーツ研究教育院に発展しました。ほかの大学から、話を聞かせてほしいと声がかかることも多くて、「日本の大学におけるリベラルアーツ回帰の流れを、東工大がつくった」といわれることもあります。それについては、私には複雑な思いがあるのですが……。と、その話はのちほどするとして、今は、教養が一度は「死に絶えた」ことの解説でしたね。 1991年に「大学設置基準」が改訂されて、多くの国立大学で「教養学部」が解体されました。東工大でもこのころ、学部の教養教育を解体して、大学院を設置しました。「大学は専門教育に重点を置くべきであり、大学に教養教育は要らないのではないか」という文脈です。 90年代前半は、どこの大学でも、教養科目が軽んじられるようになりました。特に、文系の教養科目は軽んじられましたね。 Q: 桑子先生が研究していた哲学や、上田先生の専門である文化人類学といった科目ですね。 池上:その流れが変わったきっかけが、95年、オウム真理教による地下鉄サリン事件だったのですね。 上田:私に「東工大で教えないか」と声がかかったのは、地下鉄サリン事件の翌年、96年のことです。私が当時、研究していたのは「スリランカの悪魔祓い(あくまばらい)」と「癒やし」で、理系教育とはおよそ縁遠かったので、驚きました。東工大の学生は、そんなに「癒やし」を求めているのだろうか、とも。 池上:当時、オウム真理教の幹部に理系出身者が多かったことが問題視されていました。日本の大学の理系教育が、専門教育に偏ったツケが回ってきたのではないか。あまりに純粋培養で、世間知の乏しい若者に育てているんじゃないか、と。 Q: 揺り戻しは90年代後半から始まっていたのですね。 池上:大学の一般教養科目は昔、「パンキョー」と呼ばれていて、多くの学生にとって「つまらない科目」であり、「単位の取りやすい科目を選ぶ」のが普通でした。そこで一般教養を排除したら、大学から出てくる若者たちには、やっぱり教養がなくて、それではいけないということになった。そういう見直しの機運を、具体的な組織の形に落としこんだ先駆けが、東工大のリベラルアーツセンターだったと思います。 上田:教養の見直しという動きには、今、池上先生がおっしゃった「大学の側からの反省」という文脈もありますが、「社会の側からの需要」という文脈もあると思います。(上田紀行氏の略歴はリンク先参照)』、3人だけの世帯から、「60人以上の教授を擁するリベラルアーツ研究教育院に発展」とは大したものだ。「きっかけは、オウム真理教による地下鉄サリン事件」、「オウム」の数少ないプラスの効果だ。
・『教養とは漢方のようなもの  上田:2000年代以降の日本社会は、ショートタームの評価に駆り立てられる方向にどんどん進んでいきました。その結果、人間のブレス(呼吸)がすごく浅くなってしまったように感じるんです。例えば、この四半期でどれだけ利益を出せるか、損失をどれだけ埋められるかと、目標がどんどんと小刻みになっていった。そんななかで働いている人たちがふと「ああ、自分たちは何のために働いているんだろう」と思う。目先の目標に振り回されるままではいけないのではないか。何か人としての根っこのようなものが必要なんじゃないか。そんな思いが、多くの人たちのなかに、実感として湧き上がってきたのではないか、と。  Q:そんな切実な実感が、ビジネス書における教養ブームの素地になっている。 上田:2000年代には、日本のものづくりへの信頼を失墜させる事件も相次ぎました。大手自動車メーカーのリコール隠し、マンションの耐震偽装、大手電機メーカーの不正会計など。これはもう、企業倫理が崩壊してしまったとしか思えない、信じられないような事件の数々を次々に目の当たりにしたときに、「教養」や「リベラルアーツ」といった言葉にはどこか人々の心にヒットするものがあったんじゃないかと。 Q: 東工大の卒業生には、日本のものづくりを担う人たちが多くいます。上田先生にとって切実な課題ですね。 上田:教養教育の弱体化の裏側には、専門教育の強化があったわけです。専門教育を早くからやって「即戦力」を育てるということですね。即戦力を持つ人こそが「強靱(きょうじん)」であるという考え方です。 そのような「強靱化」というのは「ロボットの強靱化」みたいなものなんですね。教養というのは漢方のようなもので、学んですぐに効くわけじゃないけれど、時間をかけてじわじわと効いてくるわけです。それに対して、専門教育は、例えていえば、生薬のなかから特定の何かによく効く成分だけ取り出して凝縮して、注射で打つといったイメージでしょうか。そういうアプローチは、急性の病に対応するのにはいいかもしれませんが、人間としての生命力を支えるところにはつながらないのですね。なんというか、想定外のことが起きたときに、非常に弱い人間をつくってしまうんです。 Q: 大学の教育において、漢方のように時間をかけてじわじわ効くというアプローチが軽んじられた。そのことにはやっぱり問題があって、今の教養ブームにつながっている、と。 池上:今の話に付け加えれば、日本の大学の教養教育が弱くなった1990年代に学生時代を過ごした人たちが、40代、50代になってふと、自分の教養のなさに気づく。そんなこともあるのでしょう。例えば、管理職なり、リーダーの役割を担う立場に立ったとき、若者に語るべき言葉を自分が持っていないことに気づいて驚く。そこで教養を学び直そうと思い立つ。20代、30代というのは、無我夢中で働いていますから、そういうことにはあまり気づかないものです。 Q: ああ、私も90年代に大学時代を過ごしていて、思い当たることばかりです。 池上:上田先生のいう「社会の側」からの文脈では、イノベーションという側面も見逃せません。(次回に続く)』、「大学の教育において、漢方のように時間をかけてじわじわ効くというアプローチが軽んじられた。そのことにはやっぱり問題があって、今の教養ブームにつながっている、と」、その通りだ。

第三に、この続きを、12月21日付け日経ビジネスオンラインが掲載したジャーナリスト・東京工業大学リベラルアートセンター教授の池上 彰氏と、東京工業大学教授の 上田紀行氏による対談「池上彰氏と考える教養、“奴隷的”な現代人が小説を読むべき理由」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00087/120900327/
・『東京工業大学の池上彰特命教授と、上田紀行教授(副学長)が、教養について語り合う、シリーズ企画(*)。文庫版『池上彰の教養のススメ』の刊行を機に、あらためて教養の意義を考えました。 ギリシャ・ローマ時代の奴隷と、組織で働く現代人はどこか似ている。“奴隷”から抜け出し、自由市民になるために、私たちができることとは? (Qは聞き手の述懐、質問)* 前回は「池上彰氏『ウクライナ危機とソ連・冬戦争。なぜ教養を学ぶのか』」 Q: ビジネス書やビジネス誌の世界では、2010年代前半から「教養ブーム」といわれています。そのブームは沈静化するどころか昨今、教養へのニーズはさらに高まっている気がします。 池上彰氏(以下、池上):それには2つの文脈があると、前回、上田先生に整理していただきましたね。「大学側の反省」と「社会の側の需要」の2つです。大学側の反省については、すでにお話ししましたが、社会の側の需要として見逃せないのが、イノベーションです。 イノベーションと教養といえば、有名なところでは、スティーブ・ジョブズとカリグラフィーですね。(池上彰氏の略歴はリンク先参照)』、興味深そうだ。
・『教養とは「自分を自由にする技」  池上:ジョブズは、マウスを使ったパソコンからスマートフォンまで、私たちの生活を大きく変える革新的な製品を多く世に出しましたが、大学はドロップアウトしています。その彼が、唯一大学でちゃんと学んだのが、カリグラフィーでした。ペンを使った西洋書道ですね。カリグラフィーを学んだことが、アップル製品の妥協ないデザインにつながったと、ジョブズは語っています。 カリグラフィーは、いかにもビジネスには「役に立たなさそう」な教養学問ですが、未来を生む創造的な力をジョブズにもたらしました。 Q: 逆にいえば「すぐに役に立つものは、すぐに役に立たなくなる」。前回、教えていただいた小泉信三氏の言葉を思い出します。 池上:日本企業がアップルのような製品を出せないとしたら、教養が足りない、のかもしれません。 一方、経営学の世界では昨今、「両利きの経営」が大変な注目を集めていますよね。米国のスタンフォード大学とハーバード大学の先生たちが広めた考え方で、イノベーションを起こすには、既存事業の知見を深掘りする「知の深化」だけでは不足があるとします。知の深化と同時に、いろいろなことへ知見を広げていく「知の探索」が必要である。この2つを同時並行でできるのが両利きの経営で、これこそがイノベーションを生むというわけです。 私と上田先生は、東工大で教養を教える仲間であるわけですが、この論を大学教育に当てはめるなら、知の深化を促すのは専門教育であり、知の探索を担うのが教養教育、ということになります。 Q: 社会の側の教養に対する需要としてもう1つ、上田先生が前回、「人としての根っこのようなもの」が必要なのだと指摘されていました。 上田紀行氏(以下、上田):はい、ショートタームの評価に駆り立てられて働く、現代の日本人にとって切実な課題だと思います。 私は今、東工大の副学長ですが、やっぱり評価システムにさらされているわけです。だいたいのみなさんが、今は評価にさらされていますよね。しかも、四半期だとか、毎月だとか、評価のスパンが短い。それはなかなかしんどいことです。 そういう状況を生き抜くうえで、評価とか成果とかと関係なく、自分の魂が喜ぶところを知り、心に持っておくことは重要だと思います。音楽でも小説でも哲学でも短歌でもボランティア活動でも、自分の魂が深く喜ぶところを1つでも2つでも知っていれば、短期的な評価だとか、儲かるかどうかといった話で心がぐらつくことは減っていきます。それが教養であり、リベラルアーツであり、リベラルアーツというのは、その名の通り、「自分を自由にする技」なんですね。 Q: リベラルアーツは、自分を自由にする技、ですか。 上田:はい、話はギリシャ・ローマ時代まで遡ります。(上田紀行氏の略歴はリンク先参照)』、「リベラルアーツというのは、その名の通り、「自分を自由にする技」なんですね」、言い得て妙だ。
・『現代人は、多分に「奴隷的」である  上田:リベラルアーツは一般に「教養」と訳されますが、あらためて考えれば「リベラル(自由)+アーツ(技)」なんですね。 そして、ギリシャ・ローマ時代には「自由市民」と「奴隷」という階級がありました。 自由市民というのは、例えば、ソクラテスやプラトン、アリストテレスのような人たちです。自由市民は「ポリス」という共同体で直接民主政を担う政治家でもありました。だから、共同体をどう導くかについて、日々、思いを巡らせていました。自分の知性と感性を総動員して、共同体の未来を考え、「絶対的な善とは何か」といったことを考えていたわけです。 一方の奴隷ですが、何も鞭(むち)打たれて働かされていたわけではありません。奴隷とは「自由市民の指示で働く労働者」です。指示通りに働くわけですから知性はさほど使いませんし、感性となったらもう、ほとんど使いません。 そう考えると、現代社会の組織の末端で働く私たちには、多分に奴隷的なところがあるわけです。池上先生は自由市民だと思いますが(笑)、副学長であるところの私は当然、学長の指示に従いますし、文部科学省に命じられて、いろんな書類を書いたりしているわけです。ときには「こんな面倒な書類に、どんな意味があるのかなあ」などと思いながら。これはいかにも奴隷っぽいですね。  そうであっても私たちは100%奴隷では生きていけません。リベラルアーツや教養といった言葉が、今、私たちの胸に響くとすれば、そういう事情があると思います。 Q: なるほど。先ほど池上先生が指摘された「イノベーション」が、どちらかというと企業経営の課題であるとしたら、上田先生にご指摘いただいた「人としての根っこ」は、企業をはじめとする組織で働く個人の課題という印象を受けます。教養と「人としての根っこ」の関係について、池上先生は、どう考えますか。 池上:そうですね。例えば、理系の学生が企業に就職して、研究開発部門で働いていたとします。そこで自分の専門分野を探索して、研究成果が上がり、製品化されて、利益が上がった。すると、それだけで喜んでしまって、その成功が副作用として社会にどういう影響を与えているかが見えない。そもそも視野に入っていない、ということが、往々にして起きます。 日本の現代史を振り返れば、水俣病があります』、「理系の学生が企業に就職して、研究開発部門で働いていたとします。そこで自分の専門分野を探索して、研究成果が上がり、製品化されて、利益が上がった。すると、それだけで喜んでしまって、その成功が副作用として社会にどういう影響を与えているかが見えない。そもそも視野に入っていない、ということが、往々にして起きます。 日本の現代史を振り返れば、水俣病があります」、専門バカの怖いところだ。
・『善意の会社員が見落としがちなこと  池上:最初に水俣病の症例が報告されたのは、1956年4月です。原因は、新日本窒素肥料(現チッソ、以下は「チッソ」で統一)という会社が出していた工場排水に含まれる、メチル水銀化合物にありました。ただ、この因果関係が明らかになるまでにはかなり時間がかかりました。当時のチッソは、プラスチックの可塑剤の原料となるアセトアルデヒドの製造で、大成功を収めていたんですね。それまで輸入に頼っていた「オクタノール」という物質を、アセトアルデヒドから誘導・合成することに成功するなど、技術力を誇っていました。 当時、チッソで働いていた研究者はきっと、もっといい可塑剤が作れれば、会社に貢献できる、日本の化学工業界にも貢献できると考えていたと思います。ただ、それだけだと大成功していたアセトアルデヒドの工場周辺で、なぜか奇妙な病気にかかって苦しむ人が出てきているということが、なかなか目に入ってきません。 しかし、チッソの労働組合はやがて、水俣病の被害者の支援に動くようになります。その過程には「自分たちは人間としての志を持っていたか?」「人間として大事なことを忘れていなかったか?」という葛藤があり、気づきがあったのだと思います。 こういうことに気づくには、そもそも人間とは何だろうか、ということを、若いときから幅広い学びのなかで考えることが必要です。若いときに、どれだけ本を読んでいるか、幅広く本を読んでいるか、小説を読んでいるか。  Q:小説ですか』、「当時のチッソは、プラスチックの可塑剤の原料となるアセトアルデヒドの製造で、大成功を収めていたんですね。それまで輸入に頼っていた「オクタノール」という物質を、アセトアルデヒドから誘導・合成することに成功するなど、技術力を誇っていました」、「大成功していたアセトアルデヒドの工場周辺で、なぜか奇妙な病気にかかって苦しむ人が出てきているということが、なかなか目に入ってきません。 しかし、チッソの労働組合はやがて、水俣病の被害者の支援に動くようになります」、「労働組合」が「被害者の支援に動くようになります」、大したものだ。
・『『罪と罰』を読みましたか?  上田:小説はいいです。普段、体験できないようなことをバーチャルに体験できます。そのことによって人間の奥底にある心理とはどういうものか、人としてどう生きるべきかといったことが考えられる。 池上:そう、若いときにそういう時間を持つことが、後年、すごく生きてくる。 Q: 教養は企業倫理にもつながるのですね。確かに「倫理感」といったものは、上司から「持て」といわれて、持てるものではない気がします。いろいろな経験や学びをへて、自分の内面から生まれてくるのが、本当の倫理感かもしれません。 池上:例えば、ドストエフスキーの『罪と罰』なんていうのは、我々の学生時代には必読書でした。要するに「ごうつくばりな婆さんが大金を持っていたって、なんの役にも立たない。だから俺様のものにして有効に使ってやるよ」と、金を奪い、老婆を殺してしまった青年の話です。でも、実際に殺人を犯してしまうと、すごく悩むわけです。心底悩む。その心情を読者は疑似体験するわけです。こういう本を、若いときに社員や役員、経営トップが読んでいるかどうかで、企業がどう成長していくかも変わってくるのではないでしょうか』、私は恥ずかしながら『罪と罰』を読んでない。しかし、「若いときに」読んだとしても、もう忘れている人が多いのではなかろうか。

第四に、本年1月12日付けPRESIDENT Onlineが掲載した昭和女子大学総長・理事長の坂東 眞理子氏による「「大学院卒」でも企業では評価されない…世界中で進む高学歴化に日本だけが取り残されている理由 「高偏差値大学の卒業生は優秀」はもう古い」を紹介しよう。
・『学歴はその後の人生にどのような影響を与えるのか。昭和女子大学総長の坂東眞理子さんは「日本では、偏差値の高い大学に入った人は優秀だ、という思い込みがあるが、国内外の現状は大きく変わってきている」という――。※本稿は、坂東眞理子『思い込みにとらわれない生き方』(ポプラ社)の一部を再編集したものです』、興味深そうだ。
・『「4年制なんかに行けばお嫁に行けなくなる」  ここでは日本の学歴社会に焦点をあてて考えてみたいと思います。 私の世代だと、高校から大学へ進学する女性の割合は10%もいませんでした。特に女性は「女の子に学問はいらない」「東京へは出せない」「女の子が4年制なんかに行けばお嫁に行けなくなる」といった親の思い込みから、成績が良くても、大学に進学できない人が数多くいました。そして、「それでも勉強したい」と望む場合には短大へ進学したものでした。 つまり、昔は、優秀だけれども親のアンコンシャス・バイアス(無意識の思い込み)の影響で、短大や高校卒業という進路を選ばざるを得なかった女性が多かったのです。 しかし今は、短大卒と言うと「成績が悪くて4年制に行けなかったから短大に行った」という偏見をもっている人もいます。そういったことも影響して短大への進学率が著しく下がっていますし、短大そのものの数も減ってきています』、「短大への進学率が著しく下がっていますし、短大そのものの数も減ってきています」、その通りだ。
・『「学歴フィルター」は給与には作用しない  大企業は、ほとんどが大卒を採用するので、大学を出ていることが必要となっています。 日本の場合、時代によって「大学に行くのがスタンダード」になったり「高校卒がスタンダード」になったりしており、今は偏差値の高い大学を出ることが学歴の良さだという思い込みがあるのです。しかし入試の偏差値が高い大学も入学してしまえば、ほとんどの人が卒業できますし、大学の成績は就職であまり考慮されなくなっています。 しかし、他の国はそうではありません。 例えば、アメリカは日本以上に学歴社会です。大学入学は日本より楽ですが、勉強しなければ留年、退学です。卒業するまでしっかり勉強して良い大学を出て、さらに大学院や専門職大学院へ進学して良い成績をとっていれば、高いお給料の仕事に採用される、というシステムなのです。企業は、人材が必要になったら新卒者だけでなく中途転職者も募集し、採用します。 しかし日本は、「大卒」として4月に全部一律に採用し、大卒の新入社員は一律の給料です。就職試験の面接時などでは少なからず、卒業予定大学名でのアンコンシャス・バイアスのフィルターがかかるのに、大学名や大学時の成績の差が給与として反映されることはありません』、「卒業予定大学名でのアンコンシャス・バイアスのフィルターがかかるのに、大学名や大学時の成績の差が給与として反映されることはありません」、その通りだ。
・『大学生は自由を謳歌していればよかったが…  つまり日本では「大学で何を学んできたか、より入試の偏差値が高い大学に入学する人が優秀」というアンコンシャス・バイアスがあるのです。アメリカでは、修士号、博士号をもっているのが高学歴者で、有名大学でも学部卒は高学歴とみなされません。 日本のほとんどの企業では、学生が大学時代に学んできたことと、社会人になってからの仕事に関係がないということも問題です。 ちなみに、学歴と関連して「進学した後、大学で何をするか」というとらえ方も変化してきました。20〜30年くらい前までの日本の大学では、「厳しい受験戦争を乗り切ったのだから、あなたの優秀さは証明されました。その後4年間はサークルや部活動など好きなことをしてください。仕事に必要な知識は入社してから職場で教えます」といった風潮がありました』、かつては「大学生は自由を謳歌していればよかった」、「仕事に必要な知識は入社してから職場で教えます」、その通りだ。
・『「大卒」だけではライバルと差別化できない  が、今はそうではありません。 そのように変化した背景には企業が丁寧に教育・訓練する余裕がなくなったことと、大卒の人間が増え、ライバルが多くなったことがあります。「資格を取ろう」「スキルをつけよう」というように、大卒という資格に、さらに付加価値をつけようとする学生が増えてきています。学生のうちから企業のインターンに参加し、就業経験を積む学生も多くなっています。 このように学歴に関するアンコンシャス・バイアスは、少子高齢化で大学全入になっている現実を反映してどんどん変わってきました。そして今後も変わっていく、ととらえたほうが良いと考えています。 最近では一般入試より前に行われる推薦入試などで入学する学生も増えています。今後、偏差値は意味をなさなくなるでしょう。日本の有名校へ進学することが必ずしも正解ではない、そんな時代が来るのかもしれません。 大切なのは情報をきちんと集め、「今後の社会で何が求められているか」「自分はどんなことが得意なのか」を考え、勉強していくことではないでしょうか。 アンコンシャス・バイアスから脱却することは、生き方の多様性を広げることになります。学歴信仰にまどわされることなく、自分らしい生き方をつかんでほしいと思います』、「偏差値は意味をなさなくなるでしょう。日本の有名校へ進学することが必ずしも正解ではない、そんな時代が来るのかもしれません。 大切なのは情報をきちんと集め、「今後の社会で何が求められているか」「自分はどんなことが得意なのか」を考え、勉強していくことではないでしょうか」、その通りだ。
・『「普通の人が進学できる時代」の大きな変化  最終学歴も、特に日本の職業選択においては重要な要素であり、アンコンシャス・バイアスがかかりやすい部分です。 先にもお話ししましたが、時代は変わり、少子高齢化のあおりを受けて、今や過半数の人が大学に行ける時代になりました。 普通の人が進学できる時代になったのです。トップクラスの高校生が進学していた時代と比べて、「今の大学生は昔に比べて勉強しない」とか「頭が悪い」と言われるのは、大学進学率が高くなったからです。 つまり、「大卒」とひと括りで言っても、その内容は時代によって大きく変わるということなのです。今は半分以上の人が大学に行くようになっていますが、おそらくもう一世代経つと今度は「あなたは大卒なの? 大学院は出ていないの?」と馬鹿にされる時代が来るのではないかと、私は内心思っています』、「もう一世代経つと今度は「あなたは大卒なの? 大学院は出ていないの?」と馬鹿にされる時代が来るのではないか」、私もそう思う。
・『急速に高学歴化するアジアの国々  現にアメリカはすでにそのような状況です。普通の会社員の間でも、「マスターズ・ディグリー(大学院修士課程修了で得られる学位)を持っていないの?」といった会話が、日常的にされています。日本で大学院卒というと、何か専門的な学問の研究者といったイメージがありますが、アメリカではごく一般的な会社員や高校教師なども大学院を出ているのが当たり前なのです。 この現象は中国でも見られるようです。大学院の修士号や博士号を持っていると組織内の出世でプラスになるからと、日本に駐在で働く中国の方が3〜5年の駐在期間のうちに大学院で学ぶといった話もよく耳にします。アジアの国々は急速に高学歴化しています。 彼らには「大学院を出ておくことが出世につながるから勉強しよう」という意欲があるのです。それに比べて、日本では大学院を出ていたとしても一般企業ではほとんど評価されません。これでは、他国より教育水準が下がってしまうのも仕方がないとしかいえません。 といっても、教育水準の低下は、日本の大学にも責任の一端があります。大学院は、もっと社会人にも入りやすく、勉強しやすいものにするべきなのです』、「大学院は、もっと社会人にも入りやすく、勉強しやすいものにするべき」、同意する。
・『「社会人は職場で学べ」を変えていくべき  もともと日本の大学院は研究者養成が中心でしたから、普通の職業人たちに勉強してもらおうという意識がなかったのです。そうした社会人を教えられる大学の先生が少ないという問題もあります。この背景には、「社会人は、学校ではなく職場で実際に仕事をしながら学んでください」という考えがあってのことなのでしょう。 しかし、時代は変わってきています。日本の大学、大学院も世界の潮流に合わせて変わっていくべきだと思います。昭和女子大学でも社会人向けの専門職大学院が2023年からスタートします』、「日本の大学、大学院も世界の潮流に合わせて変わっていくべき」、その通りだ。
・『「仕事の能力は学歴ではない」という知恵  一方で、日本における大卒に対する評価も変わりつつあります。一昔前までは「大学を出ていること=幹部候補生」でしたが、現在は専門学校を出た人、あるいはそういったところから叩き上げで社会に出てオン・ザ・ジョブで仕事をする人、高等専門学校(高専)を出た人の評価が高くなっています。 さまざまな企業、特に中堅企業あたりでは、東大卒を採用して失敗した話はたくさんあるけれど、高専卒を採用して失敗した話はないといわれており、高専卒は高い評価を得ています。これらは、「仕事の能力は学歴ではない」という失敗を経てつかみとった知恵なのかもしれません。 今や人生100年時代といわれ、「学び直し」にスポットライトが当たる機会も増えてきました。「大学は高校を卒業した人だけが行くところ」ではなく、「学びたい」と思ったあらゆる世代の人が行く、そんな場所になりつつあります。大学側も、もっと門戸を広げ、いろいろな人に教育の機会を提供していくべきではないかと私は考えています』、同感である。 
タグ:大学 (その12)(日本の大学教授の脳は「前頭葉が弱い」と言い切れる残念すぎる理由、池上彰氏「ウクライナ危機とソ連・冬戦争。なぜ教養を学ぶのか」、池上彰氏と考える教養 “奴隷的”な現代人が小説を読むべき理由、「大学院卒」でも企業では評価されない…世界中で進む高学歴化に日本だけが取り残されている理由 「高偏差値大学の卒業生は優秀」はもう古い) ダイヤモンド・オンライン 和田秀樹氏による「日本の大学教授の脳は「前頭葉が弱い」と言い切れる残念すぎる理由」 和田秀樹『50歳からの「脳のトリセツ」』(PHPビジネス新書) 「ぬるま湯でいてほしい人たちがいる」、教授たち以外にもいるのだろうか。 「文科省や厚労省などの官僚たち」「は在任中や退官後に大学教授として再就職することをあてにしています。つまり、天下りです。官僚の天下りは国家公務員法で禁止されていますが、今も数々の抜け道があり、とりわけ大学は大きな受け皿となっています」、なるほど。 やはり「日本」でも「研究の価値を正当に評価する」努力を重ねてゆくべきだろう。さもないと、日本は世界から取り残されてしまうだろう。 日経ビジネスオンライン 池上 彰 上田紀行 対談「池上彰氏「ウクライナ危機とソ連・冬戦争。なぜ教養を学ぶのか」」 「『池上彰の教養のススメ』が刊行されたのち、ビジネス書の世界では、教養の一大ブームが訪れました」、現在のブームの基礎をつくったとはさすがだ。 「歴史は繰り返さないが、韻を踏む(米国の作家マーク・トウェインの言葉)、確かに思い当たる節がある。「歴史というのは、学んでもすぐには役に立ちません。けれど、「韻を踏む」さまを目の当たりにすることで、人間の愚かさというものが見えてきて、それによって現代の世界を分析することもできる。長い人間の歴史を見ることによって、今を深く見る視点が養われる。そういう役割が教養にはあるのではないかと思います」、その通りだ。 3人だけの世帯から、「60人以上の教授を擁するリベラルアーツ研究教育院に発展」とは大したものだ。「きっかけは、オウム真理教による地下鉄サリン事件」、「オウム」の数少ないプラスの効果だ。 「大学の教育において、漢方のように時間をかけてじわじわ効くというアプローチが軽んじられた。そのことにはやっぱり問題があって、今の教養ブームにつながっている、と」、その通りだ。 池上 彰氏 上田紀行氏による対談 「池上彰氏と考える教養、“奴隷的”な現代人が小説を読むべき理由」 「リベラルアーツというのは、その名の通り、「自分を自由にする技」なんですね」、言い得て妙だ。 「理系の学生が企業に就職して、研究開発部門で働いていたとします。そこで自分の専門分野を探索して、研究成果が上がり、製品化されて、利益が上がった。すると、それだけで喜んでしまって、その成功が副作用として社会にどういう影響を与えているかが見えない。そもそも視野に入っていない、ということが、往々にして起きます。 日本の現代史を振り返れば、水俣病があります」、専門バカの怖いところだ。 「当時のチッソは、プラスチックの可塑剤の原料となるアセトアルデヒドの製造で、大成功を収めていたんですね。それまで輸入に頼っていた「オクタノール」という物質を、アセトアルデヒドから誘導・合成することに成功するなど、技術力を誇っていました」、「大成功していたアセトアルデヒドの工場周辺で、なぜか奇妙な病気にかかって苦しむ人が出てきているということが、なかなか目に入ってきません。 しかし、チッソの労働組合はやがて、水俣病の被害者の支援に動くようになります」、「労働組合」が「被害者の支援に動くようになります」、大したものだ。 私は恥ずかしながら『罪と罰』を読んでない。しかし、「若いときに」読んだとしても、もう忘れている人が多いのではなかろうか。 PRESIDENT ONLINE 坂東 眞理子氏による「「大学院卒」でも企業では評価されない…世界中で進む高学歴化に日本だけが取り残されている理由 「高偏差値大学の卒業生は優秀」はもう古い」 坂東眞理子『思い込みにとらわれない生き方』(ポプラ社) 「短大への進学率が著しく下がっていますし、短大そのものの数も減ってきています」、その通りだ。 「卒業予定大学名でのアンコンシャス・バイアスのフィルターがかかるのに、大学名や大学時の成績の差が給与として反映されることはありません」、その通りだ。 かつては「大学生は自由を謳歌していればよかった」、「仕事に必要な知識は入社してから職場で教えます」、その通りだ。 「偏差値は意味をなさなくなるでしょう。日本の有名校へ進学することが必ずしも正解ではない、そんな時代が来るのかもしれません。 大切なのは情報をきちんと集め、「今後の社会で何が求められているか」「自分はどんなことが得意なのか」を考え、勉強していくことではないでしょうか」、その通りだ。 「もう一世代経つと今度は「あなたは大卒なの? 大学院は出ていないの?」と馬鹿にされる時代が来るのではないか」、私もそう思う。 「大学院は、もっと社会人にも入りやすく、勉強しやすいものにするべき」、同意する。 「日本の大学、大学院も世界の潮流に合わせて変わっていくべき」、その通りだ。 大学側も、もっと門戸を広げ、いろいろな人に教育の機会を提供していくべきではないかと私は考えています』、同感である
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