高齢化社会(その24)(パーキンソン病との折り合い日記(第1回 「うちのパーちゃん」と呼ばれるまで、第2回 主治医の選び方&付き合い方、第6回 DBS(脳深部刺激療法)手術とその効果) [社会]
高齢化社会については、本年7月25日に取上げた。今日は、(その24)(パーキンソン病との折り合い日記(第1回 「うちのパーちゃん」と呼ばれるまで、第2回 主治医の選び方&付き合い方、第6回 DBS(脳深部刺激療法)手術とその効果)である。
先ずは、本年8月9日付けダイヤモンド・オンラインが掲載したジャーナリストの原 英次郎氏による「「俺は今やアンドロイド」元経済誌編集長、パーキンソン病との折り合い日記 第1回 「うちのパーちゃん」と呼ばれるまで」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/325402
・『『会社四季報』『週刊東洋経済』編集長、そして『ダイヤモンド・オンライン』編集長を歴任した著者が、60歳からパーキンソン病と共に生きるようになった日々を赤裸々に告白する。連載第1回は、発症と初診を振り返る』、興味深そうだ。
・『俺は今やアンドロイドだ 俺は、2016年11月に「パーキンソン病」と診断されました。パーキンソン病は脳の神経伝達物質が減少する病で、静止時の震えや筋肉のこわばりなどの運動障害が起きる(詳細は記事末へ)。 パーキンソン病と聞くと、少し知識のある人は、「だんだん体の自由が利かなくなり、最後は寝たきりに。もう、人生終わりだろう」と、思うかもしれない。 ところがどっこい、患者から見れば、ゆっくりとはいえ確実に医学は進歩していて、パーキンソン病はもう「失意の病」ではない。そのことを古巣、ダイヤモンド・オンラインに連載の形を借りて、パーキンソン病と聞くと、少し知識のある人は、「だんだん体の自由が利かなくなり、最後は寝たきりに。もう、人生終わりだろう」と、思うかもしれない。 ところがどっこい、患者から見れば、ゆっくりとはいえ確実に医学は進歩していて、パーキンソン病はもう「失意の病」ではない。そのことを古巣、ダイヤモンド・オンラインに連載の形を借りて、伝伝えていきたい。 もちろん、治療の結果、何か得ると何かを失うことも往々にして起こる。俺の場合は、診断から6年を経て、DBS(Deep Brain Stimulation)という治療法を決断し、22年9月に手術を受けた。頭に穴を開けて、細い針金状の電極を脳の中心部に刺す手術だ。 その電極からは微弱な電気が流れている。だから今、俺はまるで“アンドロイド”だ。でも、1日の多くを寝たきりだった状態から抜け出せたし、筋肉のこわばりが改善し、動きもずっとスムーズになった。薬の量も3分の2程度に減らせた。 とはいえ、もちろん、病気が完治するわけではない。術後、いいことずくめともいかないものだ。新たに、転倒や腰痛(の激化)、失禁の症状が出るようになった。今はこの治療のデメリットを最小限にしようと悪戦苦闘中である。 しかし、手術の直前、妻が俺を撮影した動画を見返すと、DBSの効果を実感する。だから、手術を受けなければよかったとは全く思わない。 何より、こうしてパソコンに向かって原稿が書ける。周りの協力があれば、仕事ができるようになったのは大きな喜びだ。ちなみに先日、飛行機に乗って田舎に帰省することもできた』、「パーキンソン病と聞くと、少し知識のある人は、「だんだん体の自由が利かなくなり、最後は寝たきりに。もう、人生終わりだろう」と、思うかもしれない。 ところがどっこい、患者から見れば、ゆっくりとはいえ確実に医学は進歩していて、パーキンソン病はもう「失意の病」ではない。そのことを古巣、ダイヤモンド・オンラインに連載の形を借りて、パーキンソン病と聞くと、少し知識のある人は、「だんだん体の自由が利かなくなり、最後は寝たきりに。もう、人生終わりだろう」と、思うかもしれない。 ところがどっこい、患者から見れば、ゆっくりとはいえ確実に医学は進歩していて、パーキンソン病はもう「失意の病」ではない。そのことを古巣、ダイヤモンド・オンラインに連載の形を借りて、伝伝えていきたい」、大いに参考になりそうだ。
・『「あなた、歩き方が変よ。老人みたい」 さて、改めて、パーキンソン病に気づいた経緯を振り返ってみたい。実は、父とその姉(つまり伯母)をパーキンソン病で亡くしている。父は4人姉弟なので、発病率は50%にも達する。だから、俺の兄(医者で専門は精神科)は、この病気に詳しかった。 兄から、「パーキンソン病は遺伝する。兄妹3人のうち誰かがパーキンソン病になる可能性は高い」「けれど現代医学では、寿命が尽きるまで日常生活を送れる」と聞いていた(もちろん個人差もあるし、前述した通りそう簡単ではないのも確かだが)。 あれはちょうど60歳、ダイヤモンド社を定年退職する年の夏だった。妻が、「あなた、歩き方が明らかに変よ。老人みたい」と言う。恐らく、やや腰が曲がって、歩幅の小さい歩き方をしていたのだろう。兄によるパーキンソン病の遺伝の話を、妻も聞いていたから、ピンと来たのかもしれない。 そのとき、ひどい頭痛がしたので、近所の脳内科の医者に紹介状を書いてもらい、近くのT大学病院へ。担当の医者は見たところ30歳代で、すぐにパーキンソン病か見極める主要検査をした。 その結果、さらに2週間ほどの検査入院が必要だと言われた。まだ現役バリバリ(週刊ダイヤモンド編集委員)だったので、検査だけで2週間は長すぎるなと思った。そこで、セカンド・オピニオンを取ることに。少し遠慮がちに、その旨をT大学病院の医者に告げると、嫌な顔一つせずに全ての資料を出してくれた。 当時から、順天堂大学病院(正式には順天堂大学付属順天堂医院という)がパーキンソン病の治療と研究で進んでいると聞いていた。病院のホームページを見ると、H医師だけが3カ月待ちとなっている。パーキンソン病は急速に進行する病気ではないし、きっと人気があるのだろうな、とH医師にセカンド・オピニオンをお願いした』、「父とその姉(つまり伯母)をパーキンソン病で亡くしている。父は4人姉弟なので、発病率は50%にも達する。だから、俺の兄(医者で専門は精神科)は、この病気に詳しかった。 兄から、「パーキンソン病は遺伝する。兄妹3人のうち誰かがパーキンソン病になる可能性は高い」「けれど現代医学では、寿命が尽きるまで日常生活を送れる」と聞いていた(もちろん個人差もあるし、前述した通りそう簡単ではないのも確かだが)、事前に予備知識は十分に持っていたようだ。「順天堂大学病院・・・がパーキンソン病の治療と研究で進んでいると聞いていた。病院のホームページを見ると、H医師だけが3カ月待ちとなっている。パーキンソン病は急速に進行する病気ではないし、きっと人気があるのだろうな、とH医師にセカンド・オピニオンをお願いした」、いい医師を見つけたものだ。
・『茫洋としたH医師の即断、命運を委ねた俺 秋も深まった11月、ようやくH医師との面会の日がやってきた。率直に言うと、ファーストインプレッションは、「本当にこの医者、大丈夫かいな?」――。俺と妻があいさつをしても、パソコンの画面をにらみ続けている。髪の毛は白髪混じりで、肩に届かんばかりに長く伸ばし、茫洋としてつかみどころのない人だと感じた。 一通り手足の動作を点検した後、俺の父と母がいとこの子ども同士であることや出身地の話に及ぶと、H医師の口数も増えていったのが印象的だった。パーキンソン病の中でも遺伝性のパーキンソン病が、H医師の専門だということは後に知ることになる。 そうして、一通り話をし終えるとH医師は、「遺伝性のパーキンソン病ですね」と即断した。俺と妻は目配せすること数秒後、「先生にお世話になりたいのですが…」と伝えた。それは何といっても、H医師が自信を持って「即断」されたからに他ならない。 実は、パーキンソン病を診断するのは非常に難しいといわれている。検査は似たような症状を引き起こす病気が他にないかを調べるために行う。なぜならパーキンソン病は、それを示す指標となるものがないからだ。要するに、症状の原因が他の病気のせいではないと分かった上で、医者が患者の動きを見て判断する。だから、数多くのパーキンソン病の症例を見てきた医者が、判断しやすいということになる。 このように経験の要素が多いとすれば、若い医師はとうていベテラン医師に追いつけない。兄からは、「若い医者を育てるつもりで、そっちを選ぶのも一つの考え方だ」などと言われていたが、俺はそこまで広い度量を持てなかった。名医と呼ばれるH医師を頼り、自分の命運を委ねることにした。 H医師は診察初日、俺に、「お父さまは何歳で亡くなったの? 83歳ですか。じゃあ、その年までは生きましょう」と言った。その後も診察の度、「(パーキンソン病に)なったものは、くよくよしても仕方ない」「何でも前向きに捉えていこう」と聞かされる。 実は昔、兄が寝ているときに体が勝手に動く姿を目撃したことがあり、兄がパーキンソン病を発症するのではと心配していた。だから、60歳のあの夏、「えっ、なんで俺が!?」と恨み節の一つくらいは出た。 けれど結局、兄とH医師のおかげで、パーキンソン病を「恐れず、騒がず、悲観せず」の態度で迎えることができた。さらに、ノリのいい妻は、俺のことを「うちのパーちゃん(パーキンソン病のパ)」と呼ぶことにしたのだった。 連載の次回は、主治医の選び方・付き合い方(セカンド・オピニオンの重要性)について、H医師と俺と妻のやりとりの詳細をさらに書いてみたい』、「パーキンソン病は、それを示す指標となるものがないからだ。要するに、症状の原因が他の病気のせいではないと分かった上で、医者が患者の動きを見て判断する。だから、数多くのパーキンソン病の症例を見てきた医者が、判断しやすいということになる・・・兄とH医師のおかげで、パーキンソン病を「恐れず、騒がず、悲観せず」の態度で迎えることができた」、なるほど。
・『パーキンソン病とは~ パーキンソン病という名前は、約200年も前に、イギリスのジェームズ・パーキンソン医師が、振戦麻痺(まひ)に関して発表した論文に由来する。パーキンソン病は脳の神経伝達物質であるドパミンが減少することによって起こる。 ドパミンは体をスムーズに動かすために、脳の指令を筋肉に伝える物質(ホルモンの一種)で、脳の中の黒質神経細胞で作られる。この黒質神経細胞が壊れることで、ドパミンの量が減ってしまうのが、パーキンソン病だ。なぜ黒質細胞がより多く死滅するのかについては、まだ明確な原因は特定されていない。 パーキンソン病になると、さまざまな運動障害が出てくる。次の四つが典型的だ。(1)静止時の震え、(2)筋肉が硬くこわばる筋固縮、(3)動きが遅くなる寡動・無動、(4)転びやすくなる姿勢反射障害。 パーキンソン病を発症した有名人では、ボクシング・ヘビー級の偉大なチャンピオンだったモハメド・アリがいる。1996年のアトランタ五輪で、震える腕で聖火をかざす姿を思い出す人も多いだろう。また、人気映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズの主演を務めたマイケル・J・フォックスは、発症後も俳優の仕事を長年にわたり続けている』、「パーキンソン病になると、さまざまな運動障害が出てくる。次の四つが典型的だ。(1)静止時の震え、(2)筋肉が硬くこわばる筋固縮、(3)動きが遅くなる寡動・無動、(4)転びやすくなる姿勢反射障害」、なるほど。
・『俺の場合~ 静止時の震えは全くなく、筋肉が硬くこわばる筋固縮が症状の中心だった。筋固縮による腰痛にも悩まされていた。それがDBS手術後、全般的に症状は改善し、寝込むこともなくなったものの、姿勢反射障害による転倒がひどくなり、これをどうコントロールするかが目下の課題だ』、「姿勢反射障害による転倒がひどくなり」、これは危険で注意が必要だ。
次に、8月15日付けダイヤモンド・オンラインが掲載したジャーナリストの原 英次郎氏による「パーキンソン病になった元経済誌編集長、主治医の選び方&付き合い方の大切さを思い知る 第2回 主治医の選び方&付き合い方~セカンド・オピニオンは大事~」を紹介しよう。
・『会社四季報』『週刊東洋経済』編集長、そして『ダイヤモンド・オンライン』編集長を歴任した著者が、60歳からパーキンソン病と共に生きるようになった日々を赤裸々に告白する。連載第2回は、主治医の選び方&付き合い方について』、興味深そうだ。
・『長く付き合う病で大切な主治医の存在(連載第1回の『「俺は今やアンドロイド」元経済誌編集長、パーキンソン病との折り合い日記』では、パーキンソン病の発症と初診を振り返り、俺が「うちのパーちゃん」と妻に呼ばれるまでの顛末を書いた。 俺が60歳で診断されたパーキンソン病は、完治することはない。ゆっくりと病状が進行していく病だ(もちろん、症状や、病の進行度合いには個人差がある)。 パーキンソン病とは「長い付き合い」になるので、主治医との相性はとても重要だ。俺と主治医のH医師は、出会ってもう7年。順天堂大学病院にセカンド・オピニオンを申し込んだとき、H医師に担当をお願いして初診を受け、そのまま主治医となった。 なぜH医師にお願いしたかというと、H医師だけが3カ月待ちと知り、きっと人気があるのだろうな、とその人気に引かれたまでだ。要するに、ミーハー心だった。ふたを開けてみると、H医師はパーキンソン病の権威であり、この病気に関わる人なら誰もが知っているほどの有名人だった。 前回、H医師の第一印象が「茫洋としてつかみどころがない」と書いたが、実はその雰囲気がとても「いい味」を生んでいた。H医師の口癖は、「(パーキンソン病に)なってしまったものは仕方がない。何でも前向きに考えていこう」だ。 「これもできなくなった。あれもできなくなった…」と嘆くのではなく、「あれもまだできる。これもまだまだできる!」と考えるのがいかに大切かは、老いや病に直面するとよく分かる。 俺の場合は発症してしばらくすると、食器棚からコップを取り出したり、冷蔵庫からペットボトルを取り出したりすると9割の確率で床に落とすようになり、イライラするようになった。 けれど、「落ち着いてよくよく注意して取り出しさえすれば、落とすことはないんだ」と思うようにした。H医師の助言を受けての、発想の転換だ。 もちろん、そう思うようになっても往々に失敗するときもある。けれど、そうやって気持ちを切り替えれば、「できることは、まだたくさん残っている」と思える。 パーキンソン病患者の約20パーセントが、「レビー小体型認知症」を発症するといわれている。H医師の思考の習慣に倣えば、「5人に1人も認知症になるんだ…」ではなく、「5人のうち4人は認知症にならないんだ!」と、いうことだ。考える方向を変えるだけで、物事は全く違った見え方をする。 H医師はユーモアのセンスもある。定期診断で患者を歩かせるとき、「かかと、かかと」と号令をかけてくれるのだが、あるときの会話はこんな感じだった。 「かかとから下りないと、転ぶよ」とH医師。 「そういうふうに声をかければいいんですね」と俺の妻。 「奥さんではダメなんだな。いつも聞いている奥さんの声じゃあ、脳の刺激にならないんだ。若い女の子なら、なおいいね」。 なんてやりとりに、その場に居合わせた一同、大笑いだ。なお、俺の場合は妻の声でも大いに助かっている(と、ここでは一応、書いておこう…)』、「パーキンソン病患者の約20パーセントが、「レビー小体型認知症」を発症するといわれている。H医師の思考の習慣に倣えば、「5人に1人も認知症になるんだ…」ではなく、「5人のうち4人は認知症にならないんだ!」と、いうことだ。考える方向を変えるだけで、物事は全く違った見え方をする」、前向きな捉え方が大切なようだ。
・『パーキンソン病で「世界一」目指すH医師 われわれ夫婦が、H医師に大きな信頼を寄せるようになったきっかけは他にもある。初めて会ってから3~4年たった頃、いつものように診断も終わりかけ、会話が漫談のようになってきたとき、妻が単刀直入に「先生はどうしてパーキンソン病を専門にしようと思ったのですか」と、尋ねたのだ。すると、 「先々代も先代の担当教授もパーキンソン病が専門でした。初めは精神科医になりたいと思ったんだけど、もう少し、科学の力で証明できるようなものが好きだったので、パーキンソン病を選んだんです」と、H医師は話し始めた。 「それで、『パーキンソン病なら、Hだ』と言われる存在になりたいなと。実際、自分は世界で一番パーキンソン病に詳しい…(と、言いかけて)、世界一パーキンソン病患者を診ている。だから、臨床と研究の両方やっているんです」 俺と妻はこの話にすっかり感心してしまった。ジャーナリストという職業柄、自分が納得する説明にたどり着くまで満足しないタイプであり、H医師に対してたまに、「やや言葉足らずだな」などと、俺は少し不満を抱いていた。 しかし先の話を聞いた途端、「俺はなんて小さなことにこだわっていたのか…」と反省した。「世界一」という高い目標を掲げて、それを患者に公言するなんて、そうとう覚悟がないとできないことだ。H医師は、強い決心と人並み外れた努力をしたに違いない。 ここで、自分の拙い話をさせてもらう。俺が20代後半に経済誌の記者として金融業を担当していた頃、「スワップ取引」が始まった。今では一般的になった、金融デリバティブ商品のことだ。俺は、「金融の最新テーマに一番詳しい記者になろう」と目標を立て、取材と執筆に精を出した。が、しばらくして担当業種が変わると、あっという間にそのテーマを追うのをやめてしまった。 そんな若き日の俺に比べたら、H医師の志はなんと気高いことだろう。自分が恥ずかしい気持ちになったことは、言うまでもない。そしてこのときから、H医師に全幅の信頼を寄せるようになった』、「「世界一」という高い目標を掲げて、それを患者に公言するなんて、そうとう覚悟がないとできないことだ。H医師は、強い決心と人並み外れた努力をしたに違いない」、その通りだ。
・『主治医の条件は人それぞれだが… もちろん、どんなタイプの医師が主治医に向いているかは、人それぞれだ。俺にとってのH医師が、他の誰に対しても良き主治医になるとは限らない。相性の良しあしというものがある。 では、主治医の条件とは何だろう。パーキンソン病患者となって思うのは、不治の病だからこそ、自分の病気のこと、つらいことなど、とにかく話を聞いてほしいということだ。しゃべるだけでも、身も心も軽くなるような気がする。 だから、「思いを受け止めてくれている」と患者が感じられること、そして診察が終わる頃には明るい気持ちにしてくれる医者こそ、この種の病の主治医にふさわしいと思う。コミュニケーションの仕方や表現のスタイルは、人それぞれ違って構わない。 俺は、セカンド・オピニオンを行うことで幸運にも、自分にぴったりの主治医を見つけることができた。つい最近も、新聞の見だし風に言えば、「H医師、○年連れ添った熟年夫婦を“離婚の危機”から救う」なんて出来事があったのだが、それはまた改めて書くことにする。 連載の次回は、「人は優しく、街は冷たい」だ。難病になって以降、人々の優しさに触れる機会が多く感動することもしばしば。対して街の作りのなんと冷たいことか。難病者の実体験に基づいた「ここがダメだよ東京のバリアフリー」とでも予告しておこう。乞うご期待』、「パーキンソン病患者となって思うのは、不治の病だからこそ、自分の病気のこと、つらいことなど、とにかく話を聞いてほしいということだ。しゃべるだけでも、身も心も軽くなるような気がする。 だから、「思いを受け止めてくれている」と患者が感じられること、そして診察が終わる頃には明るい気持ちにしてくれる医者こそ、この種の病の主治医にふさわしいと思う」、確かにその通りだろう。
第三に、11月21日付けダイヤモンド・オンラインが掲載したジャーナリストの原 英次郎氏による「脳の手術後「夫の人格が変わった」「電極を抜いて」と語る妻…本当の闘いはこれからだ 第6回 DBS(脳深部刺激療法)手術とその効果【後編】」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/333023
・『60歳で難病の診断を受けた筆者が闘病生活を赤裸々につづる連載。第6回以降は、頭に穴を開けるDBS(脳深部刺激療法)手術とその効果について前・中・後編に分けてお届けしている。今回は、2022年9月30日に手術を受けてから1年をつづる後編』、興味深そうだ。
・『手術が終わってからが治療の始まり そもそも効果の期待できない3things DBS(脳深部刺激療法)は、「手術が終わってからが治療の始まり」だという。実際、この言葉の通りだというのが1年たった俺の感想だ。得たものも大きかったが、新しく克服しなければならならない課題も生じた。 (図1:DBSシステム はリンク先参照) 得たものは、差が大きくて苦しめられていたオン(薬が効いている時間)とオフ(薬の効いていない時間)の差がなくなり、一日中活動できるようになったことだ。オフの時間に寝込む必要がなくなったのは、本当にうれしい。 一方、新たな課題は、とても転びやすくなったこと、言葉が出にくくなったことだ。 そもそもDBSでは、改善の効果が期待できない3thingsというものがある(図2参照)。俺の新たな課題はこの中にも入っていて、DBSではそもそも改善は期待できない。「新たな」といったが、この1年でいっそう悪化したことといった方がいいだろう。 (図2:効果の期待できない“3 things”はリンク先参照) 2022年9月30日に手術を受け、10月21日に退院、そして同月31日は初めての外来による診察だった。オンとオフがなくなったのは、まさにDBS手術の狙い通りだが、新しい課題については担当医のO先生に相談した(下記は、その時の様子を友人たちへ報告したメールから引用)。 「左後方に倒れやすいこと、足の裏のしびれ、それから私の性欲が強いことについて相談しました。 転倒と足の裏の痺れについては、0.2mmA電流を強くし、性欲についてはやる気を刺激する貼り薬のニュープロバッチを18mgから15.75mgへと減らすことになりました。まだ、脳の腫れが残っており、腫れが引くにつれ、電流を強くし薬を減らして行く予定です」 O先生によれば、退院した後も電極を入れただけで良くなってしまう一時的な効果もあるので、それが落ち着く半年間は、月1回の外来診療で微調整する必要があるという。その後、もちろん医師の指示通り月1ペースで通院したが、転びやすいという姿勢反射障害はなかなか克服されなかった。
人間の生活は、「無意識」が多い。俺は、無意識に方向転換する時が危ない。牛乳をコップ1杯飲み干したのでもう1杯飲もうと、冷蔵庫のドアを開けた瞬間に後ろにひっくり返る。階段から無事に降りたと思ったのも束の間、左右どちらかに方向転換するとひっくり返るといった具合である。特に、自宅にいる時が危ない。壁までの距離が近い上に、家具なども並べてあるからだ。 どうしたものかと思っていた時、実兄のアイデアで、ラグビーのヘッドキャップをかぶるようにした(俺は、高校時代ラガーマンだった)。これが、いかように転んでも頭を保護してくれて、すごい威力を発揮している。外出時にかぶる時もあるが、ラグビー好きのおじさんくらいにしか思われない(と思う…)。 キャップ姿の写真をこの連載の担当者に送ったら、「似合っていますね、すごく若々しく見えますよ!」なんておだてられてしまい、いつの間にか連載のトップ画像になっていた。>>『元経済誌編集長、パーキンソン病と闘う』』、「転倒と足の裏の痺れについては、0.2mmA電流を強くし、性欲についてはやる気を刺激する貼り薬のニュープロバッチを18mgから15.75mgへと減らすことになりました。まだ、脳の腫れが残っており、腫れが引くにつれ、電流を強くし薬を減らして行く予定です」 O先生によれば、退院した後も電極を入れただけで良くなってしまう一時的な効果もあるので、それが落ち着く半年間は、月1回の外来診療で微調整する必要があるという」、手術しても「電流」の強さの「微調整」などが必要なようだ。
・『母の危篤と死に伴い九州を何度も往復 腰~太ももの裏側を貫く激痛に襲われる ただ、O先生からは念のため、「自宅キッチン出入り禁止令」を出されてしまった。23年の初め頃には、姿勢反射障害、腰痛、失禁が新たな3大課題となった。 失禁については、外出時は紙おむつを利用することで対応可能だし、街のバリアフリーについて考える良いきっかけにもなった(連載の第3回『ヤマダデンキの「神トイレ」に感激…難病患者が「本当にありがたかった」と語る理由』を参照してほしい)。 腰痛も徐々に和らぎつつあった。問題は、姿勢反射障害だ。そんなとき、思わぬ不幸が俺を襲った。 九州にいる俺の母が危篤に陥り、そのまま帰らぬ人となり、葬儀、四九日法要と何度も九州と自宅(千葉県)を往復することになったのだ。忙しさと長時間の移動で、急激に腰から臀部(でんぶ)、太ももの裏側を貫く激痛に襲われるようになった。 この痛みに対して、持病の脊柱管狭窄(きょうさく)症による神経圧迫と、さらにパーキンソン病による筋肉固縮が血液循環を悪化させ、神経を圧迫し、いっそう痛みが増しているという点では、どの医師の見立ても変わらない。しかし、痛みの期間が長引くにつれ、治療に関しては少しずつ意見が異なるようになってきた。 (図3:DBSの適応基準(一般的な例) はリンク先参照) (表:DBSが効く症状、DBSが効かない症状 はリンク先参照)』、「この痛みに対して、持病の脊柱管狭窄(きょうさく)症による神経圧迫と、さらにパーキンソン病による筋肉固縮が血液循環を悪化させ、神経を圧迫し、いっそう痛みが増しているという点では、どの医師の見立ても変わらない。しかし、痛みの期間が長引くにつれ、治療に関しては少しずつ意見が異なるようになってきた」、痛みの治療法で医者間の意見がまとまらないというのは困ったことだ。
・『手術への期待と現実のギャップ 俺の「人格が変わってきた」という妻 6年間にわたる薬物治療とDBSを通じて感じたのは、パーキンソン病の個別性の高さである。薬物治療は個人の症状の違いに合わせて常に、薬の種類と量を調整していく必要がある(第5回『「高をくくっていた…」難病患者が明かす、“薬がよく効く期間”の後に下した2度の大決断』参照)。 DBS治療の場合は、手術前の検査が何よりも大切だと思う。DBSが効くかどうかを判断するだけでなく、患者が抱いた期待と、その後の現実とのギャップに戸惑うことも多いからだ。 DBSで外来に通っていると、似た境遇の患者と話をする機会がある。ある中年女性はジスキネジア(本人の意思とは関係なく、体の一部が勝手に不規則で異様な動きする現象)がひどい。彼女は「こんなことなら手術なんかするんじゃなかった」とぼやいていた。もちろん、手術によって以前よりジスキネジアが軽くなっているのかもしれない。ただ、本人としては、頭に穴を開けたのだから、もっと良い結果を想像していたのだろう。 我が家の“山の神”も、当初はDBSをとても評価していた。だが、手術から1年たち、DBSによって俺の人格が変わってきた、という。性格が変化する上に、毎朝、痛みで七転八倒している俺を見かねて、「電極を抜いてください」ともう一人の主治医であるH先生に要望するほど、評価が一転してしまった。 かみさんに言わせると、DBS手術で性格が変わり得ること、意思疎通に問題が生じるほど言葉が出にくくなること、手術をしても強烈な腰の痛みがとても長く続く可能性については、「聞いていない」というのだ。 先生方からすれば、一通り説明したということになるが、なにせ専門家と素人である。そこに、誤解や理解の差があって当然だ。問題はその差が明らかになった時、どうやって互いが納得するような対策を見いだせるかだろう。 一方、術後1年してパーキンソン病そのものに対する診断は、病気の進行はほとんど見られない、つまりDBSは有効であるという上々の結果となった。手術現場で起こった視床下核の異常な反応の悪影響は、杞憂(きゆう)に終わったようだ。 では、この結果と痛みに追いまくられる現実をどう考えたらいいのか――。パーキンソン病が主因なのか、脊柱管狭窄症が主因なのか、痛みの原因は複雑に絡んでいて、明確な答えは出ていない。 痛みは、体力のみならず気力までも奪い取る。だから、この痛みさえ取れれば、やれることは大きく広がるはずだ。オンとオフがなくなったメリットはそれだけ大きい。そのメリットを生かすためにも、本当の「闘い」はこれからだと思っている』、「我が家の“山の神”も、当初はDBSをとても評価していた。だが、手術から1年たち、DBSによって俺の人格が変わってきた、という。性格が変化する上に、毎朝、痛みで七転八倒している俺を見かねて、「電極を抜いてください」ともう一人の主治医であるH先生に要望するほど、評価が一転してしまった。 かみさんに言わせると、DBS手術で性格が変わり得ること、意思疎通に問題が生じるほど言葉が出にくくなること、手術をしても強烈な腰の痛みがとても長く続く可能性については、「聞いていない」というのだ・・・痛みの原因は複雑に絡んでいて、明確な答えは出ていない。 痛みは、体力のみならず気力までも奪い取る。だから、この痛みさえ取れれば、やれることは大きく広がるはずだ。オンとオフがなくなったメリットはそれだけ大きい。そのメリットを生かすためにも、本当の「闘い」はこれからだと思っている」、やはり「パ-キンソン病」の手術は術後の対応も大変のようだ。
先ずは、本年8月9日付けダイヤモンド・オンラインが掲載したジャーナリストの原 英次郎氏による「「俺は今やアンドロイド」元経済誌編集長、パーキンソン病との折り合い日記 第1回 「うちのパーちゃん」と呼ばれるまで」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/325402
・『『会社四季報』『週刊東洋経済』編集長、そして『ダイヤモンド・オンライン』編集長を歴任した著者が、60歳からパーキンソン病と共に生きるようになった日々を赤裸々に告白する。連載第1回は、発症と初診を振り返る』、興味深そうだ。
・『俺は今やアンドロイドだ 俺は、2016年11月に「パーキンソン病」と診断されました。パーキンソン病は脳の神経伝達物質が減少する病で、静止時の震えや筋肉のこわばりなどの運動障害が起きる(詳細は記事末へ)。 パーキンソン病と聞くと、少し知識のある人は、「だんだん体の自由が利かなくなり、最後は寝たきりに。もう、人生終わりだろう」と、思うかもしれない。 ところがどっこい、患者から見れば、ゆっくりとはいえ確実に医学は進歩していて、パーキンソン病はもう「失意の病」ではない。そのことを古巣、ダイヤモンド・オンラインに連載の形を借りて、パーキンソン病と聞くと、少し知識のある人は、「だんだん体の自由が利かなくなり、最後は寝たきりに。もう、人生終わりだろう」と、思うかもしれない。 ところがどっこい、患者から見れば、ゆっくりとはいえ確実に医学は進歩していて、パーキンソン病はもう「失意の病」ではない。そのことを古巣、ダイヤモンド・オンラインに連載の形を借りて、伝伝えていきたい。 もちろん、治療の結果、何か得ると何かを失うことも往々にして起こる。俺の場合は、診断から6年を経て、DBS(Deep Brain Stimulation)という治療法を決断し、22年9月に手術を受けた。頭に穴を開けて、細い針金状の電極を脳の中心部に刺す手術だ。 その電極からは微弱な電気が流れている。だから今、俺はまるで“アンドロイド”だ。でも、1日の多くを寝たきりだった状態から抜け出せたし、筋肉のこわばりが改善し、動きもずっとスムーズになった。薬の量も3分の2程度に減らせた。 とはいえ、もちろん、病気が完治するわけではない。術後、いいことずくめともいかないものだ。新たに、転倒や腰痛(の激化)、失禁の症状が出るようになった。今はこの治療のデメリットを最小限にしようと悪戦苦闘中である。 しかし、手術の直前、妻が俺を撮影した動画を見返すと、DBSの効果を実感する。だから、手術を受けなければよかったとは全く思わない。 何より、こうしてパソコンに向かって原稿が書ける。周りの協力があれば、仕事ができるようになったのは大きな喜びだ。ちなみに先日、飛行機に乗って田舎に帰省することもできた』、「パーキンソン病と聞くと、少し知識のある人は、「だんだん体の自由が利かなくなり、最後は寝たきりに。もう、人生終わりだろう」と、思うかもしれない。 ところがどっこい、患者から見れば、ゆっくりとはいえ確実に医学は進歩していて、パーキンソン病はもう「失意の病」ではない。そのことを古巣、ダイヤモンド・オンラインに連載の形を借りて、パーキンソン病と聞くと、少し知識のある人は、「だんだん体の自由が利かなくなり、最後は寝たきりに。もう、人生終わりだろう」と、思うかもしれない。 ところがどっこい、患者から見れば、ゆっくりとはいえ確実に医学は進歩していて、パーキンソン病はもう「失意の病」ではない。そのことを古巣、ダイヤモンド・オンラインに連載の形を借りて、伝伝えていきたい」、大いに参考になりそうだ。
・『「あなた、歩き方が変よ。老人みたい」 さて、改めて、パーキンソン病に気づいた経緯を振り返ってみたい。実は、父とその姉(つまり伯母)をパーキンソン病で亡くしている。父は4人姉弟なので、発病率は50%にも達する。だから、俺の兄(医者で専門は精神科)は、この病気に詳しかった。 兄から、「パーキンソン病は遺伝する。兄妹3人のうち誰かがパーキンソン病になる可能性は高い」「けれど現代医学では、寿命が尽きるまで日常生活を送れる」と聞いていた(もちろん個人差もあるし、前述した通りそう簡単ではないのも確かだが)。 あれはちょうど60歳、ダイヤモンド社を定年退職する年の夏だった。妻が、「あなた、歩き方が明らかに変よ。老人みたい」と言う。恐らく、やや腰が曲がって、歩幅の小さい歩き方をしていたのだろう。兄によるパーキンソン病の遺伝の話を、妻も聞いていたから、ピンと来たのかもしれない。 そのとき、ひどい頭痛がしたので、近所の脳内科の医者に紹介状を書いてもらい、近くのT大学病院へ。担当の医者は見たところ30歳代で、すぐにパーキンソン病か見極める主要検査をした。 その結果、さらに2週間ほどの検査入院が必要だと言われた。まだ現役バリバリ(週刊ダイヤモンド編集委員)だったので、検査だけで2週間は長すぎるなと思った。そこで、セカンド・オピニオンを取ることに。少し遠慮がちに、その旨をT大学病院の医者に告げると、嫌な顔一つせずに全ての資料を出してくれた。 当時から、順天堂大学病院(正式には順天堂大学付属順天堂医院という)がパーキンソン病の治療と研究で進んでいると聞いていた。病院のホームページを見ると、H医師だけが3カ月待ちとなっている。パーキンソン病は急速に進行する病気ではないし、きっと人気があるのだろうな、とH医師にセカンド・オピニオンをお願いした』、「父とその姉(つまり伯母)をパーキンソン病で亡くしている。父は4人姉弟なので、発病率は50%にも達する。だから、俺の兄(医者で専門は精神科)は、この病気に詳しかった。 兄から、「パーキンソン病は遺伝する。兄妹3人のうち誰かがパーキンソン病になる可能性は高い」「けれど現代医学では、寿命が尽きるまで日常生活を送れる」と聞いていた(もちろん個人差もあるし、前述した通りそう簡単ではないのも確かだが)、事前に予備知識は十分に持っていたようだ。「順天堂大学病院・・・がパーキンソン病の治療と研究で進んでいると聞いていた。病院のホームページを見ると、H医師だけが3カ月待ちとなっている。パーキンソン病は急速に進行する病気ではないし、きっと人気があるのだろうな、とH医師にセカンド・オピニオンをお願いした」、いい医師を見つけたものだ。
・『茫洋としたH医師の即断、命運を委ねた俺 秋も深まった11月、ようやくH医師との面会の日がやってきた。率直に言うと、ファーストインプレッションは、「本当にこの医者、大丈夫かいな?」――。俺と妻があいさつをしても、パソコンの画面をにらみ続けている。髪の毛は白髪混じりで、肩に届かんばかりに長く伸ばし、茫洋としてつかみどころのない人だと感じた。 一通り手足の動作を点検した後、俺の父と母がいとこの子ども同士であることや出身地の話に及ぶと、H医師の口数も増えていったのが印象的だった。パーキンソン病の中でも遺伝性のパーキンソン病が、H医師の専門だということは後に知ることになる。 そうして、一通り話をし終えるとH医師は、「遺伝性のパーキンソン病ですね」と即断した。俺と妻は目配せすること数秒後、「先生にお世話になりたいのですが…」と伝えた。それは何といっても、H医師が自信を持って「即断」されたからに他ならない。 実は、パーキンソン病を診断するのは非常に難しいといわれている。検査は似たような症状を引き起こす病気が他にないかを調べるために行う。なぜならパーキンソン病は、それを示す指標となるものがないからだ。要するに、症状の原因が他の病気のせいではないと分かった上で、医者が患者の動きを見て判断する。だから、数多くのパーキンソン病の症例を見てきた医者が、判断しやすいということになる。 このように経験の要素が多いとすれば、若い医師はとうていベテラン医師に追いつけない。兄からは、「若い医者を育てるつもりで、そっちを選ぶのも一つの考え方だ」などと言われていたが、俺はそこまで広い度量を持てなかった。名医と呼ばれるH医師を頼り、自分の命運を委ねることにした。 H医師は診察初日、俺に、「お父さまは何歳で亡くなったの? 83歳ですか。じゃあ、その年までは生きましょう」と言った。その後も診察の度、「(パーキンソン病に)なったものは、くよくよしても仕方ない」「何でも前向きに捉えていこう」と聞かされる。 実は昔、兄が寝ているときに体が勝手に動く姿を目撃したことがあり、兄がパーキンソン病を発症するのではと心配していた。だから、60歳のあの夏、「えっ、なんで俺が!?」と恨み節の一つくらいは出た。 けれど結局、兄とH医師のおかげで、パーキンソン病を「恐れず、騒がず、悲観せず」の態度で迎えることができた。さらに、ノリのいい妻は、俺のことを「うちのパーちゃん(パーキンソン病のパ)」と呼ぶことにしたのだった。 連載の次回は、主治医の選び方・付き合い方(セカンド・オピニオンの重要性)について、H医師と俺と妻のやりとりの詳細をさらに書いてみたい』、「パーキンソン病は、それを示す指標となるものがないからだ。要するに、症状の原因が他の病気のせいではないと分かった上で、医者が患者の動きを見て判断する。だから、数多くのパーキンソン病の症例を見てきた医者が、判断しやすいということになる・・・兄とH医師のおかげで、パーキンソン病を「恐れず、騒がず、悲観せず」の態度で迎えることができた」、なるほど。
・『パーキンソン病とは~ パーキンソン病という名前は、約200年も前に、イギリスのジェームズ・パーキンソン医師が、振戦麻痺(まひ)に関して発表した論文に由来する。パーキンソン病は脳の神経伝達物質であるドパミンが減少することによって起こる。 ドパミンは体をスムーズに動かすために、脳の指令を筋肉に伝える物質(ホルモンの一種)で、脳の中の黒質神経細胞で作られる。この黒質神経細胞が壊れることで、ドパミンの量が減ってしまうのが、パーキンソン病だ。なぜ黒質細胞がより多く死滅するのかについては、まだ明確な原因は特定されていない。 パーキンソン病になると、さまざまな運動障害が出てくる。次の四つが典型的だ。(1)静止時の震え、(2)筋肉が硬くこわばる筋固縮、(3)動きが遅くなる寡動・無動、(4)転びやすくなる姿勢反射障害。 パーキンソン病を発症した有名人では、ボクシング・ヘビー級の偉大なチャンピオンだったモハメド・アリがいる。1996年のアトランタ五輪で、震える腕で聖火をかざす姿を思い出す人も多いだろう。また、人気映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズの主演を務めたマイケル・J・フォックスは、発症後も俳優の仕事を長年にわたり続けている』、「パーキンソン病になると、さまざまな運動障害が出てくる。次の四つが典型的だ。(1)静止時の震え、(2)筋肉が硬くこわばる筋固縮、(3)動きが遅くなる寡動・無動、(4)転びやすくなる姿勢反射障害」、なるほど。
・『俺の場合~ 静止時の震えは全くなく、筋肉が硬くこわばる筋固縮が症状の中心だった。筋固縮による腰痛にも悩まされていた。それがDBS手術後、全般的に症状は改善し、寝込むこともなくなったものの、姿勢反射障害による転倒がひどくなり、これをどうコントロールするかが目下の課題だ』、「姿勢反射障害による転倒がひどくなり」、これは危険で注意が必要だ。
次に、8月15日付けダイヤモンド・オンラインが掲載したジャーナリストの原 英次郎氏による「パーキンソン病になった元経済誌編集長、主治医の選び方&付き合い方の大切さを思い知る 第2回 主治医の選び方&付き合い方~セカンド・オピニオンは大事~」を紹介しよう。
・『会社四季報』『週刊東洋経済』編集長、そして『ダイヤモンド・オンライン』編集長を歴任した著者が、60歳からパーキンソン病と共に生きるようになった日々を赤裸々に告白する。連載第2回は、主治医の選び方&付き合い方について』、興味深そうだ。
・『長く付き合う病で大切な主治医の存在(連載第1回の『「俺は今やアンドロイド」元経済誌編集長、パーキンソン病との折り合い日記』では、パーキンソン病の発症と初診を振り返り、俺が「うちのパーちゃん」と妻に呼ばれるまでの顛末を書いた。 俺が60歳で診断されたパーキンソン病は、完治することはない。ゆっくりと病状が進行していく病だ(もちろん、症状や、病の進行度合いには個人差がある)。 パーキンソン病とは「長い付き合い」になるので、主治医との相性はとても重要だ。俺と主治医のH医師は、出会ってもう7年。順天堂大学病院にセカンド・オピニオンを申し込んだとき、H医師に担当をお願いして初診を受け、そのまま主治医となった。 なぜH医師にお願いしたかというと、H医師だけが3カ月待ちと知り、きっと人気があるのだろうな、とその人気に引かれたまでだ。要するに、ミーハー心だった。ふたを開けてみると、H医師はパーキンソン病の権威であり、この病気に関わる人なら誰もが知っているほどの有名人だった。 前回、H医師の第一印象が「茫洋としてつかみどころがない」と書いたが、実はその雰囲気がとても「いい味」を生んでいた。H医師の口癖は、「(パーキンソン病に)なってしまったものは仕方がない。何でも前向きに考えていこう」だ。 「これもできなくなった。あれもできなくなった…」と嘆くのではなく、「あれもまだできる。これもまだまだできる!」と考えるのがいかに大切かは、老いや病に直面するとよく分かる。 俺の場合は発症してしばらくすると、食器棚からコップを取り出したり、冷蔵庫からペットボトルを取り出したりすると9割の確率で床に落とすようになり、イライラするようになった。 けれど、「落ち着いてよくよく注意して取り出しさえすれば、落とすことはないんだ」と思うようにした。H医師の助言を受けての、発想の転換だ。 もちろん、そう思うようになっても往々に失敗するときもある。けれど、そうやって気持ちを切り替えれば、「できることは、まだたくさん残っている」と思える。 パーキンソン病患者の約20パーセントが、「レビー小体型認知症」を発症するといわれている。H医師の思考の習慣に倣えば、「5人に1人も認知症になるんだ…」ではなく、「5人のうち4人は認知症にならないんだ!」と、いうことだ。考える方向を変えるだけで、物事は全く違った見え方をする。 H医師はユーモアのセンスもある。定期診断で患者を歩かせるとき、「かかと、かかと」と号令をかけてくれるのだが、あるときの会話はこんな感じだった。 「かかとから下りないと、転ぶよ」とH医師。 「そういうふうに声をかければいいんですね」と俺の妻。 「奥さんではダメなんだな。いつも聞いている奥さんの声じゃあ、脳の刺激にならないんだ。若い女の子なら、なおいいね」。 なんてやりとりに、その場に居合わせた一同、大笑いだ。なお、俺の場合は妻の声でも大いに助かっている(と、ここでは一応、書いておこう…)』、「パーキンソン病患者の約20パーセントが、「レビー小体型認知症」を発症するといわれている。H医師の思考の習慣に倣えば、「5人に1人も認知症になるんだ…」ではなく、「5人のうち4人は認知症にならないんだ!」と、いうことだ。考える方向を変えるだけで、物事は全く違った見え方をする」、前向きな捉え方が大切なようだ。
・『パーキンソン病で「世界一」目指すH医師 われわれ夫婦が、H医師に大きな信頼を寄せるようになったきっかけは他にもある。初めて会ってから3~4年たった頃、いつものように診断も終わりかけ、会話が漫談のようになってきたとき、妻が単刀直入に「先生はどうしてパーキンソン病を専門にしようと思ったのですか」と、尋ねたのだ。すると、 「先々代も先代の担当教授もパーキンソン病が専門でした。初めは精神科医になりたいと思ったんだけど、もう少し、科学の力で証明できるようなものが好きだったので、パーキンソン病を選んだんです」と、H医師は話し始めた。 「それで、『パーキンソン病なら、Hだ』と言われる存在になりたいなと。実際、自分は世界で一番パーキンソン病に詳しい…(と、言いかけて)、世界一パーキンソン病患者を診ている。だから、臨床と研究の両方やっているんです」 俺と妻はこの話にすっかり感心してしまった。ジャーナリストという職業柄、自分が納得する説明にたどり着くまで満足しないタイプであり、H医師に対してたまに、「やや言葉足らずだな」などと、俺は少し不満を抱いていた。 しかし先の話を聞いた途端、「俺はなんて小さなことにこだわっていたのか…」と反省した。「世界一」という高い目標を掲げて、それを患者に公言するなんて、そうとう覚悟がないとできないことだ。H医師は、強い決心と人並み外れた努力をしたに違いない。 ここで、自分の拙い話をさせてもらう。俺が20代後半に経済誌の記者として金融業を担当していた頃、「スワップ取引」が始まった。今では一般的になった、金融デリバティブ商品のことだ。俺は、「金融の最新テーマに一番詳しい記者になろう」と目標を立て、取材と執筆に精を出した。が、しばらくして担当業種が変わると、あっという間にそのテーマを追うのをやめてしまった。 そんな若き日の俺に比べたら、H医師の志はなんと気高いことだろう。自分が恥ずかしい気持ちになったことは、言うまでもない。そしてこのときから、H医師に全幅の信頼を寄せるようになった』、「「世界一」という高い目標を掲げて、それを患者に公言するなんて、そうとう覚悟がないとできないことだ。H医師は、強い決心と人並み外れた努力をしたに違いない」、その通りだ。
・『主治医の条件は人それぞれだが… もちろん、どんなタイプの医師が主治医に向いているかは、人それぞれだ。俺にとってのH医師が、他の誰に対しても良き主治医になるとは限らない。相性の良しあしというものがある。 では、主治医の条件とは何だろう。パーキンソン病患者となって思うのは、不治の病だからこそ、自分の病気のこと、つらいことなど、とにかく話を聞いてほしいということだ。しゃべるだけでも、身も心も軽くなるような気がする。 だから、「思いを受け止めてくれている」と患者が感じられること、そして診察が終わる頃には明るい気持ちにしてくれる医者こそ、この種の病の主治医にふさわしいと思う。コミュニケーションの仕方や表現のスタイルは、人それぞれ違って構わない。 俺は、セカンド・オピニオンを行うことで幸運にも、自分にぴったりの主治医を見つけることができた。つい最近も、新聞の見だし風に言えば、「H医師、○年連れ添った熟年夫婦を“離婚の危機”から救う」なんて出来事があったのだが、それはまた改めて書くことにする。 連載の次回は、「人は優しく、街は冷たい」だ。難病になって以降、人々の優しさに触れる機会が多く感動することもしばしば。対して街の作りのなんと冷たいことか。難病者の実体験に基づいた「ここがダメだよ東京のバリアフリー」とでも予告しておこう。乞うご期待』、「パーキンソン病患者となって思うのは、不治の病だからこそ、自分の病気のこと、つらいことなど、とにかく話を聞いてほしいということだ。しゃべるだけでも、身も心も軽くなるような気がする。 だから、「思いを受け止めてくれている」と患者が感じられること、そして診察が終わる頃には明るい気持ちにしてくれる医者こそ、この種の病の主治医にふさわしいと思う」、確かにその通りだろう。
第三に、11月21日付けダイヤモンド・オンラインが掲載したジャーナリストの原 英次郎氏による「脳の手術後「夫の人格が変わった」「電極を抜いて」と語る妻…本当の闘いはこれからだ 第6回 DBS(脳深部刺激療法)手術とその効果【後編】」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/333023
・『60歳で難病の診断を受けた筆者が闘病生活を赤裸々につづる連載。第6回以降は、頭に穴を開けるDBS(脳深部刺激療法)手術とその効果について前・中・後編に分けてお届けしている。今回は、2022年9月30日に手術を受けてから1年をつづる後編』、興味深そうだ。
・『手術が終わってからが治療の始まり そもそも効果の期待できない3things DBS(脳深部刺激療法)は、「手術が終わってからが治療の始まり」だという。実際、この言葉の通りだというのが1年たった俺の感想だ。得たものも大きかったが、新しく克服しなければならならない課題も生じた。 (図1:DBSシステム はリンク先参照) 得たものは、差が大きくて苦しめられていたオン(薬が効いている時間)とオフ(薬の効いていない時間)の差がなくなり、一日中活動できるようになったことだ。オフの時間に寝込む必要がなくなったのは、本当にうれしい。 一方、新たな課題は、とても転びやすくなったこと、言葉が出にくくなったことだ。 そもそもDBSでは、改善の効果が期待できない3thingsというものがある(図2参照)。俺の新たな課題はこの中にも入っていて、DBSではそもそも改善は期待できない。「新たな」といったが、この1年でいっそう悪化したことといった方がいいだろう。 (図2:効果の期待できない“3 things”はリンク先参照) 2022年9月30日に手術を受け、10月21日に退院、そして同月31日は初めての外来による診察だった。オンとオフがなくなったのは、まさにDBS手術の狙い通りだが、新しい課題については担当医のO先生に相談した(下記は、その時の様子を友人たちへ報告したメールから引用)。 「左後方に倒れやすいこと、足の裏のしびれ、それから私の性欲が強いことについて相談しました。 転倒と足の裏の痺れについては、0.2mmA電流を強くし、性欲についてはやる気を刺激する貼り薬のニュープロバッチを18mgから15.75mgへと減らすことになりました。まだ、脳の腫れが残っており、腫れが引くにつれ、電流を強くし薬を減らして行く予定です」 O先生によれば、退院した後も電極を入れただけで良くなってしまう一時的な効果もあるので、それが落ち着く半年間は、月1回の外来診療で微調整する必要があるという。その後、もちろん医師の指示通り月1ペースで通院したが、転びやすいという姿勢反射障害はなかなか克服されなかった。
人間の生活は、「無意識」が多い。俺は、無意識に方向転換する時が危ない。牛乳をコップ1杯飲み干したのでもう1杯飲もうと、冷蔵庫のドアを開けた瞬間に後ろにひっくり返る。階段から無事に降りたと思ったのも束の間、左右どちらかに方向転換するとひっくり返るといった具合である。特に、自宅にいる時が危ない。壁までの距離が近い上に、家具なども並べてあるからだ。 どうしたものかと思っていた時、実兄のアイデアで、ラグビーのヘッドキャップをかぶるようにした(俺は、高校時代ラガーマンだった)。これが、いかように転んでも頭を保護してくれて、すごい威力を発揮している。外出時にかぶる時もあるが、ラグビー好きのおじさんくらいにしか思われない(と思う…)。 キャップ姿の写真をこの連載の担当者に送ったら、「似合っていますね、すごく若々しく見えますよ!」なんておだてられてしまい、いつの間にか連載のトップ画像になっていた。>>『元経済誌編集長、パーキンソン病と闘う』』、「転倒と足の裏の痺れについては、0.2mmA電流を強くし、性欲についてはやる気を刺激する貼り薬のニュープロバッチを18mgから15.75mgへと減らすことになりました。まだ、脳の腫れが残っており、腫れが引くにつれ、電流を強くし薬を減らして行く予定です」 O先生によれば、退院した後も電極を入れただけで良くなってしまう一時的な効果もあるので、それが落ち着く半年間は、月1回の外来診療で微調整する必要があるという」、手術しても「電流」の強さの「微調整」などが必要なようだ。
・『母の危篤と死に伴い九州を何度も往復 腰~太ももの裏側を貫く激痛に襲われる ただ、O先生からは念のため、「自宅キッチン出入り禁止令」を出されてしまった。23年の初め頃には、姿勢反射障害、腰痛、失禁が新たな3大課題となった。 失禁については、外出時は紙おむつを利用することで対応可能だし、街のバリアフリーについて考える良いきっかけにもなった(連載の第3回『ヤマダデンキの「神トイレ」に感激…難病患者が「本当にありがたかった」と語る理由』を参照してほしい)。 腰痛も徐々に和らぎつつあった。問題は、姿勢反射障害だ。そんなとき、思わぬ不幸が俺を襲った。 九州にいる俺の母が危篤に陥り、そのまま帰らぬ人となり、葬儀、四九日法要と何度も九州と自宅(千葉県)を往復することになったのだ。忙しさと長時間の移動で、急激に腰から臀部(でんぶ)、太ももの裏側を貫く激痛に襲われるようになった。 この痛みに対して、持病の脊柱管狭窄(きょうさく)症による神経圧迫と、さらにパーキンソン病による筋肉固縮が血液循環を悪化させ、神経を圧迫し、いっそう痛みが増しているという点では、どの医師の見立ても変わらない。しかし、痛みの期間が長引くにつれ、治療に関しては少しずつ意見が異なるようになってきた。 (図3:DBSの適応基準(一般的な例) はリンク先参照) (表:DBSが効く症状、DBSが効かない症状 はリンク先参照)』、「この痛みに対して、持病の脊柱管狭窄(きょうさく)症による神経圧迫と、さらにパーキンソン病による筋肉固縮が血液循環を悪化させ、神経を圧迫し、いっそう痛みが増しているという点では、どの医師の見立ても変わらない。しかし、痛みの期間が長引くにつれ、治療に関しては少しずつ意見が異なるようになってきた」、痛みの治療法で医者間の意見がまとまらないというのは困ったことだ。
・『手術への期待と現実のギャップ 俺の「人格が変わってきた」という妻 6年間にわたる薬物治療とDBSを通じて感じたのは、パーキンソン病の個別性の高さである。薬物治療は個人の症状の違いに合わせて常に、薬の種類と量を調整していく必要がある(第5回『「高をくくっていた…」難病患者が明かす、“薬がよく効く期間”の後に下した2度の大決断』参照)。 DBS治療の場合は、手術前の検査が何よりも大切だと思う。DBSが効くかどうかを判断するだけでなく、患者が抱いた期待と、その後の現実とのギャップに戸惑うことも多いからだ。 DBSで外来に通っていると、似た境遇の患者と話をする機会がある。ある中年女性はジスキネジア(本人の意思とは関係なく、体の一部が勝手に不規則で異様な動きする現象)がひどい。彼女は「こんなことなら手術なんかするんじゃなかった」とぼやいていた。もちろん、手術によって以前よりジスキネジアが軽くなっているのかもしれない。ただ、本人としては、頭に穴を開けたのだから、もっと良い結果を想像していたのだろう。 我が家の“山の神”も、当初はDBSをとても評価していた。だが、手術から1年たち、DBSによって俺の人格が変わってきた、という。性格が変化する上に、毎朝、痛みで七転八倒している俺を見かねて、「電極を抜いてください」ともう一人の主治医であるH先生に要望するほど、評価が一転してしまった。 かみさんに言わせると、DBS手術で性格が変わり得ること、意思疎通に問題が生じるほど言葉が出にくくなること、手術をしても強烈な腰の痛みがとても長く続く可能性については、「聞いていない」というのだ。 先生方からすれば、一通り説明したということになるが、なにせ専門家と素人である。そこに、誤解や理解の差があって当然だ。問題はその差が明らかになった時、どうやって互いが納得するような対策を見いだせるかだろう。 一方、術後1年してパーキンソン病そのものに対する診断は、病気の進行はほとんど見られない、つまりDBSは有効であるという上々の結果となった。手術現場で起こった視床下核の異常な反応の悪影響は、杞憂(きゆう)に終わったようだ。 では、この結果と痛みに追いまくられる現実をどう考えたらいいのか――。パーキンソン病が主因なのか、脊柱管狭窄症が主因なのか、痛みの原因は複雑に絡んでいて、明確な答えは出ていない。 痛みは、体力のみならず気力までも奪い取る。だから、この痛みさえ取れれば、やれることは大きく広がるはずだ。オンとオフがなくなったメリットはそれだけ大きい。そのメリットを生かすためにも、本当の「闘い」はこれからだと思っている』、「我が家の“山の神”も、当初はDBSをとても評価していた。だが、手術から1年たち、DBSによって俺の人格が変わってきた、という。性格が変化する上に、毎朝、痛みで七転八倒している俺を見かねて、「電極を抜いてください」ともう一人の主治医であるH先生に要望するほど、評価が一転してしまった。 かみさんに言わせると、DBS手術で性格が変わり得ること、意思疎通に問題が生じるほど言葉が出にくくなること、手術をしても強烈な腰の痛みがとても長く続く可能性については、「聞いていない」というのだ・・・痛みの原因は複雑に絡んでいて、明確な答えは出ていない。 痛みは、体力のみならず気力までも奪い取る。だから、この痛みさえ取れれば、やれることは大きく広がるはずだ。オンとオフがなくなったメリットはそれだけ大きい。そのメリットを生かすためにも、本当の「闘い」はこれからだと思っている」、やはり「パ-キンソン病」の手術は術後の対応も大変のようだ。
タグ:原 英次郎氏による「脳の手術後「夫の人格が変わった」「電極を抜いて」と語る妻…本当の闘いはこれからだ 第6回 DBS(脳深部刺激療法)手術とその効果【後編】」 「パーキンソン病患者となって思うのは、不治の病だからこそ、自分の病気のこと、つらいことなど、とにかく話を聞いてほしいということだ。しゃべるだけでも、身も心も軽くなるような気がする。 だから、「思いを受け止めてくれている」と患者が感じられること、そして診察が終わる頃には明るい気持ちにしてくれる医者こそ、この種の病の主治医にふさわしいと思う」、確かにその通りだろう。 「「世界一」という高い目標を掲げて、それを患者に公言するなんて、そうとう覚悟がないとできないことだ。H医師は、強い決心と人並み外れた努力をしたに違いない」、その通りだ。 「パーキンソン病患者の約20パーセントが、「レビー小体型認知症」を発症するといわれている。H医師の思考の習慣に倣えば、「5人に1人も認知症になるんだ…」ではなく、「5人のうち4人は認知症にならないんだ!」と、いうことだ。考える方向を変えるだけで、物事は全く違った見え方をする」、前向きな捉え方が大切なようだ。 原 英次郎氏による「パーキンソン病になった元経済誌編集長、主治医の選び方&付き合い方の大切さを思い知る 第2回 主治医の選び方&付き合い方~セカンド・オピニオンは大事~」 「姿勢反射障害による転倒がひどくなり」、これは危険で注意が必要だ。 「パーキンソン病になると、さまざまな運動障害が出てくる。次の四つが典型的だ。(1)静止時の震え、(2)筋肉が硬くこわばる筋固縮、(3)動きが遅くなる寡動・無動、(4)転びやすくなる姿勢反射障害」、なるほど。 「パーキンソン病は、それを示す指標となるものがないからだ。要するに、症状の原因が他の病気のせいではないと分かった上で、医者が患者の動きを見て判断する。だから、数多くのパーキンソン病の症例を見てきた医者が、判断しやすいということになる・・・兄とH医師のおかげで、パーキンソン病を「恐れず、騒がず、悲観せず」の態度で迎えることができた」、なるほど。 「順天堂大学病院・・・がパーキンソン病の治療と研究で進んでいると聞いていた。病院のホームページを見ると、H医師だけが3カ月待ちとなっている。パーキンソン病は急速に進行する病気ではないし、きっと人気があるのだろうな、とH医師にセカンド・オピニオンをお願いした」、いい医師を見つけたものだ。 「父とその姉(つまり伯母)をパーキンソン病で亡くしている。父は4人姉弟なので、発病率は50%にも達する。だから、俺の兄(医者で専門は精神科)は、この病気に詳しかった。 兄から、「パーキンソン病は遺伝する。兄妹3人のうち誰かがパーキンソン病になる可能性は高い」「けれど現代医学では、寿命が尽きるまで日常生活を送れる」と聞いていた(もちろん個人差もあるし、前述した通りそう簡単ではないのも確かだが)、事前に予備知識は十分に持っていたようだ。 患者から見れば、ゆっくりとはいえ確実に医学は進歩していて、パーキンソン病はもう「失意の病」ではない。そのことを古巣、ダイヤモンド・オンラインに連載の形を借りて、伝伝えていきたい」、大いに参考になりそうだ。 患者から見れば、ゆっくりとはいえ確実に医学は進歩していて、パーキンソン病はもう「失意の病」ではない。そのことを古巣、ダイヤモンド・オンラインに連載の形を借りて、パーキンソン病と聞くと、少し知識のある人は、「だんだん体の自由が利かなくなり、最後は寝たきりに。もう、人生終わりだろう」と、思うかもしれない。 ところがどっこい、患者から見れば、ゆっくりとはいえ確実に医学は進歩していて、パーキンソン病はもう「失意の病」ではない。 原 英次郎氏による「「俺は今やアンドロイド」元経済誌編集長、パーキンソン病との折り合い日記 第1回 「うちのパーちゃん」と呼ばれるまで」 ダイヤモンド・オンライン (その24)(パーキンソン病との折り合い日記(第1回 「うちのパーちゃん」と呼ばれるまで、第2回 主治医の選び方&付き合い方、第6回 DBS(脳深部刺激療法)手術とその効果) 高齢化社会 「転倒と足の裏の痺れについては、0.2mmA電流を強くし、性欲についてはやる気を刺激する貼り薬のニュープロバッチを18mgから15.75mgへと減らすことになりました。まだ、脳の腫れが残っており、腫れが引くにつれ、電流を強くし薬を減らして行く予定です」 O先生によれば、退院した後も電極を入れただけで良くなってしまう一時的な効果もあるので、それが落ち着く半年間は、月1回の外来診療で微調整する必要があるという」、手術しても「電流」の強さの「微調整」などが必要なようだ。 「この痛みに対して、持病の脊柱管狭窄(きょうさく)症による神経圧迫と、さらにパーキンソン病による筋肉固縮が血液循環を悪化させ、神経を圧迫し、いっそう痛みが増しているという点では、どの医師の見立ても変わらない。しかし、痛みの期間が長引くにつれ、治療に関しては少しずつ意見が異なるようになってきた」、痛みの治療法で医者間の意見がまとまらないというのは困ったことだ。 「我が家の“山の神”も、当初はDBSをとても評価していた。だが、手術から1年たち、DBSによって俺の人格が変わってきた、という。性格が変化する上に、毎朝、痛みで七転八倒している俺を見かねて、「電極を抜いてください」ともう一人の主治医であるH先生に要望するほど、評価が一転してしまった。 かみさんに言わせると、DBS手術で性格が変わり得ること、意思疎通に問題が生じるほど言葉が出にくくなること、手術をしても強烈な腰の痛みがとても長く続く可能性については、「聞いていない」というのだ・・・ 痛みの原因は複雑に絡んでいて、明確な答えは出ていない。 痛みは、体力のみならず気力までも奪い取る。だから、この痛みさえ取れれば、やれることは大きく広がるはずだ。オンとオフがなくなったメリットはそれだけ大きい。そのメリットを生かすためにも、本当の「闘い」はこれからだと思っている」、やはり「パ-キンソン病」の手術は術後の対応も大変のようだ。