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幸福(その4)(ちきりん:承認欲求の充足は「自分の意見」から始まる(前篇)、(中篇)、(後編)) [人生]

幸福については、昨年9月26日に取上げた。今日は、(その4)(ちきりん:承認欲求の充足は「自分の意見」から始まる(前篇)(中篇、(後編))である。

先ずは、本年2月16日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した社会派ブロガーのちきりんさんによる「承認欲求の充足は「自分の意見」から始まる(前篇)」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/296428
・『社会派ブロガー・ちきりんさんの最新刊『自分の意見で生きていこう』が、発売直後から反響を呼んでいます。特に読者の感想として目立つのが、「承認欲求と意見の関係」を説明する一節についてです。今回より3回に分けて、その該当部分を一部編集し公開します。(この記事は3回シリーズの前篇です。続きはこちら) 「承認欲求」という言葉を、よく聞くようになりました。「自分という人間の存在を認めてほしい」という気持ちを表す言葉ですが、もう少し正確にいうと「他の人とは違う、自分というオリジナルな人格を認めてほしい」ということです。 承認欲求自体は誰にでもある自然な気持ちですが、実はそれを得るために不可欠なのが「自分の意見をもつこと」だというのは、あまり認識されていません。 そこでここからは、承認欲求と自分の意見がどのように関係しているのか、考えていきます』、興味深そうだ。
・『● 自分はどんな人間?  みなさんが誰か知り合いについて「あの人はどんな人か?」と問われたら、どのように答えるでしょう? ほとんどの場合は性別や年齢、知っていれば職業や肩書きを使って、その人がどのような人か、説明しますよね。 たとえば、「80代の男性で、昔は大企業に勤めていたけど、もうずっと前に定年退職したらしい」とか「子どもがふたりいる専業主婦みたいよ。40代くらいじゃないかな」「彼女は大学生だよ。まだ20歳くらいじゃない?」といったぐあいです。 でもこういった説明は、「その人がどんな人か」をどれほど表しているでしょう? 大企業を定年退職した80代の男性も、ふたりの子どもがいる40代の専業主婦も、20歳くらいの女子学生も、何万人も存在しています。 周りから「20歳くらいの女子学生ってこんな感じなんでしょ? あなたもそうなんですよね?」と言われて素直に肯定できる人、嬉しい人はどれくらいいるでしょう? 大半の人は「女子学生といってもいろんな人がいて、ひとりひとりまったく違うんですよ!」と反発したくなるのではないでしょうか。 承認欲求とはまさにそういう気持ちのことです。誰だって「年代と性別だけで十把一絡げにしてほしくない」と思うものです。つまり私たちは「あなたは20代の女性ですよね」とか「40代の会社員の男性ですよね」などと認知されることを求めているわけではありません。 そうではなく、私たちが承認されたいと求めているのは「他の誰とも異なる個としての自分」なのです』、確かに究極の「個としての自分」を求めているようだ。
・『● 外形情報と内面情報  では、「他の誰とも異なる個としての自分」を認めてもらうためにはどうすればよいのでしょう? そのために必要なのは、あなたと他の人を区別するための情報を提供することです。 そういう情報がなければ、性別や年齢、職業といった情報に頼らざるを得ず、「20代の女性」「40代の男性で会社員」といった認識しかしてもらえません。「他の人と異なる自分」を認めてもらうには、それら外形的な情報を超える、よりパーソナルな情報を提供する必要があるのです。 では、それはいったいどのような情報なのでしょう? 個人を識別する情報には大きく分けてふたつのカテゴリーがあります。ひとつは外形的な情報で、見た目に加え、学歴や職歴など、文字として記録できる情報です。 そしてもうひとつは、性格や人格といった「見た目や資料では判断できない情報」です。ここではそういった情報を「内面情報」と呼ぶことにします。 内面情報はその定義上、他者に伝えるのが簡単ではありません。見た目なら立っているだけで伝えられるし、資料でわかることなら開示するなり配るなりすればよいので簡単です。 しかし自分という人間の性格や人格を深く理解してもらおうと思えば、一定期間、同じ家で暮らすなど、それなりの時間がかかります。家族や学生時代の同級生のように、一定期間、生活空間を共有すれば、性格や人格は自然と伝わります。 しかしこれでは、自分を理解してもらうために多大な時間がかかります。というか、そんな長い時間を共有できる場所は家庭と、あとは学校か職場くらいです。「大人になると友達をつくりにくい」といわれる理由のひとつもこれでしょう。また、「仕事人間」と呼ばれた人たちが、定年後の地域コミュニティで人格さえ認識されない存在になってしまうのも、それまでの共有時間があまりに短すぎるからだと思われます。 ただし、長い時間を共有する家庭においても「親子である」とか「兄妹である」「夫婦である」といった関係性だけでは、性格や人格を深く理解し合うことは不可能です。「お互いに心を開き、相手を理解しようという意思をもって一定の時間と空間を共有する」という経験を経ないと、「自分を理解してくれる人」は手に入りません。実際、同じ家に住んでいるのに会話する機会が少なく、まったくわかり合えないままになっている親子も存在するはずです。 このように、自分の内面情報を他者に伝えるのは、とても時間のかかるプロセスであり、だからこそ他者からの承認欲求を満たすのは、簡単なことではないのです』、「自分の内面情報を他者に伝えるのは、とても時間のかかるプロセスであり、だからこそ他者からの承認欲求を満たすのは、簡単なことではないのです」、その通りだ。親子や夫婦の間でも「自分の内面情報を他者に伝えるのは、とても時間のかかるプロセスであり」、勝手に断念しているケースが多そうだ。

この続きを、2月19日付けダイヤモンド・オンライン「承認欲求の充足は「自分の意見」から始まる(中篇)」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/296435
・・・ 『ファンは「キャラクター」につく  もうひとつ別の例で、考えてみましょう。みなさんも、テレビでしか見ることのない俳優さんについて、「この人はこんな人だ」というイメージをもつことがあると思います。そのときのイメージは、どのような情報に基づいて作られているでしょうか? まずは、見た目情報ですよね。性別や年齢、目や髪の色なども含めた容姿、身長や体重などのスタイル、さらに髪型や服装などからもイメージが形成されます。 次に経歴情報。親も俳優で二世だとか、歌舞伎界の出身だとか。俳優さんであれば、映画やドラマでの役柄や演技に関する情報もたくさん手に入ります。 では、テレビで観る俳優さんについて、私たちはこういった情報から「その人がどんな人か?」をイメージしているでしょうか? 実は視聴者の多くは、俳優さんの容姿など外形情報や、ドラマでの役どころや演技といった情報よりも、よりパーソナルな情報から会ったこともない俳優さんの人格や性格を想像しています。 具体例を挙げれば、番組宣伝のために出演したトーク番組での日常生活に関するやりとりや、バラエティ番組などで披露されたとっさのリアクションなどです。 視聴者にとってはこういった(彼らの本業とは無関係な、でも、よりパーソナルな)情報のほうが、「本人の性格」を伝える情報として大きな力をもっています。 というのも、映画やドラマで表現されるのは、あくまで「役柄」の人格であって、その俳優さんの人格ではないからです。個人としての人格を理解しようと思えば、当然に、演技をしていないときの、素の本人の情報のほうが重要になります。 今はそういった素の情報が、SNSを通じて本人から提供されるようにもなりました。しかしずっと昔から、こういった情報は各種メディアを通して、積極的に視聴者に提供されていました。 高度成長期には、銀幕のスター(映画俳優)を特集するさまざまな芸能雑誌が発売され、大変な人気でしたし、その後も、週刊誌やテレビ番組(黒柳徹子さんの『徹子の部屋』などはその典型です)を通して、俳優個人の個性は、積極的に視聴者に提供されてきたのです。 なぜなら、もし俳優さんが「若くてきれいな女優さん」とか「任侠映画で迫力抜群の男優さん」としてしか表現されなかったら、たとえ映画が大ヒットしても、その俳優さん本人に心酔するコアなファンは増えないからです。 これはなにを意味しているのでしょう? 実は、ファンというのは、決して演技や音楽性といったアーティスティックな側面だけに惹かれるわけではないのです。もちろんファンの多くはそれらをすばらしいものだと評価しています。 しかし「理屈を超えたファンだという気持ち」が生まれるのは、その俳優やミュージシャンの、より個人的な魅力に惹かれるからです。ミュージシャンのコンサートだって、音楽だけでなく、演奏の間のトークがファン形成に貢献している度合いは相当に大きいのではないでしょうか。 だから、今も昔もスターたちは(というか、彼らが所属する事務所は)、スターの素顔やパーソナリティに関する情報をファンに提供してくれるのです。 結局のところ、「ファン」というのは、プロとしての卓越したパフォーマンスというより、個人としての性格や人格の魅力につくものだといえるでしょう。だからスターではない一般人の場合と同じく、内面情報が開示されないとファンはつかないのです。 そしてまた俳優ら自身も「若くてきれいな女優さん」といった認識のされ方だけでは、承認欲求を満たせません。「若くてきれいな女優さん」などいくらでもいるからです。だから本人も、「自分だけを推してくれるファン」を求めて、積極的にパーソナルな情報を提供するのです。 余談ですが、今と昔では、それら開示されるパーソナルな情報の「真実度」はかなり異なっていそうです。なぜなら昔はそういった情報も、かなり意図的に設計&整形されていたからです。 「こういうイメージで売りたい」という方針に基づいて、飾られた部屋やコーディネートされた私服が公開され、休みの日にはファンからもらったファンレターを読んで過ごしている、といった休日の様子があたかも真実のように開示されていた時代です。 本人や事務所の方針にもよりますが、今はより実態に近い個人情報が提供されていますよね。 同時に、週刊誌によって暴露される生々しい情報が、本人や事務所が伝えようとするイメージとはまったく異なる「パーソナルな情報」を視聴者に提供してしまい、ファンの間に失望や軽蔑を生んでしまうことも増えています。 いずれにしてもファンや視聴者は、その俳優、ミュージシャン、タレントさんの作品やパフォーマンスだけでなく、個人としての性格や人格に基づき、自分がその人を好きかどうかを判断しているのです』、「「ファン」というのは、プロとしての卓越したパフォーマンスというより、個人としての性格や人格の魅力につくものだといえるでしょう。だからスターではない一般人の場合と同じく、内面情報が開示されないとファンはつかないのです」、「ファンや視聴者は、その俳優、ミュージシャン、タレントさんの作品やパフォーマンスだけでなく、個人としての性格や人格に基づき、自分がその人を好きかどうかを判断しているのです」、その通りなのだろう。
・『「ちきりん」という人格  次は私自身の話です。私には本名での生活のほか、「ちきりん」というペンネームでの生活があります。このふたつの関係は、自我と承認欲求の関係を理解するのにとても役立つので、ここからは私自身の例を使ってその関係を説明してみます。 なお、「自我」にも「承認欲求」にも学問的に研究された定義が存在すると思いますが、ここではざっくりと次のような意味で使われていると理解しておいてください。 「自我」=自分は誰か、どんな人間かという自分自身の意識 「承認欲求」=他の人とは異なる個としての自分を認めてほしいという気持ち 私は過去10年以上にわたり、社会のさまざまな事柄について自分の意見をブログに書いてきました。けれどそれは、「他者や社会に影響を与えたいから」でも「人気ブロガーになって承認欲求を満たしたいから」でもありません。 本やブログを書くようになるずっと前から、私は何十年も日記を書いてきました。最初に日記をつけ始めたのは小学校5年生の頃です。 当時から私の日記は、「今日はなにを食べました」「今日はどこに行きました」といった行動の記録ではありませんでした。そうではなく「今日はこのコトについてこう考えた」とか、「今日知ったある事件について、こう感じた」という、自分の感情や思考の記録だったのです。 当然、その日記を読むのは自分だけです。誰かに見せるために書いていたのではありません。ではいったいなぜ、私は何十年も自分の気持ちや意見を言語化し続けてこられたのでしょう? そうすることのモチベーションはどこにあったのでしょう? 端的にいえばそれは「自分で自分という人間を理解したい」という欲求に基づくものでした。つまりは自分自身のため、「自我の確立のため」だったのです。 小学校の高学年、思春期を迎えた多感な時期に「自分はどういう人間なんだろう?」「自分はなんのために生きているんだろう?」といった哲学的な問いにとらわれる子どもは少なくありません。私もそのひとりでした。 その問いへの答えを手に入れること、すなわち、自分はどのような人間なのか、自分で自分という人間を理解することこそ、私が日記を書く目的だったのです。 それは一種の自己探求プロセスともいえるものです。私にとって「自分の意見をもつ」というのは、自分自身と向きあって自我を確立し、ひとりの人格として自立するために、すなわち、大人になるために不可欠な行為でした』、「自分はどのような人間なのか、自分で自分という人間を理解することこそ、私が日記を書く目的だったのです。 それは一種の自己探求プロセスともいえるものです」、なるほど。
・『内面情報だけで承認される人格  そんな私の前にインターネットというツールが現れたのは、日記を書き始めてから数十年後、すっかり大人になってからのことでした。 2005年、日記を紙のノートではなくネット上のブログとして書き始めて以来、それまで誰にも読まれることのなかった「私の意見」は、広く多くの人に読まれるようになりました。これが「Chikirinの日記」というブログであり、「ちきりん」は、それを書くために使ったペンネームです。 ブログが有名になると、「ちきりん」という人格が認知され、「ちきりん」のファンだという人も増えてきました。これはとても興味深いことです。 当時の「ちきりん」は、経歴はおろか、年齢や性別さえ開示していませんでした。写真も出さず、イラストのアイコンだけで活動していたため、対談で会った人から「男性だと思っていました!」と驚かれることもあったほどです。 ほとんどの人は私と話したこともなければ、私の顔さえ見たことがありません。にもかかわらず、読者やフォロワーの間では、「ちきりんとはこんな人である」という、極めて具体的なイメージが形成されていきました。それが証拠に、SNS上では会ったこともない人から「ちきりんらしい」とか「ちきりんらしくない」などと頻繁に指摘されるのです。 多くの人がもつこのイメージこそ、私が常日頃、書籍やブログ、ツイッターやボイシー(音声配信)を通して発信している「さまざまな事柄に関する私の意見」から形成されたものです。換言すれば「ちきりん」というキャラクター、すなわち人格は、私がこれまで表明してきた、私の意見の集合体として認識されているのです。 「自分で自分をもっと理解したい」という思春期の純粋な思い(自分という人間に対する好奇心)から始まった「自分の意見を言語化する」という営みは、自分のための行為であって、誰かに認められたり、メッセージを送るための行為ではありませんでした。 私はいつも「あなたの意見は?」と聞かれたとき、それがなんであれどう答えるべきか明確にしておきたいと考えていたのです。なぜならそれこそが「私」という人間だからです。そして、その(自分のアタマで考え、自分の意見を明確化する)プロセスを通して、私は「私」になりました。 けれども、そうやって自分の意見を次々と言語化していくことで、副産物として他者にも私の人格(キャラクター)が伝わりました。それがネット上での「ちきりん」というキャラクター(人格)として「承認」されたのです。 しかも、そんなキャラクターに何十万人もの読者がつき、熱烈なファンが現れたことは、人が誰かのファンになるのに、必ずしも外形情報は必要とされていない、ということを意味しています。 これは、私だけに起こったことではありません。SNS時代が始まって以来、経歴を隠し、匿名やペンネームで発信を続けているうちに、多くのファンやフォロワーを獲得した人はいくらでもいます。彼らもまた内面情報のみによって承認されています。 もちろん、「承認」というのは必ずしも好かれることだけを指すわけではありません。「他の誰とも違う個人」として認められても、好かれる人と嫌われる人はいます。それでもネットの時代になり、「内面情報だけでも、オリジナルな個人として承認される」ということが証明されたのはとても意義深いことと思います。 というのも、将来、身体さえもたないコンピューター上のAIが自分のさまざまな意見を開示し始めれば、私たちはそれを「ひとりの人格」として認知するだろうと予想できるからです。そして、その人(?)に多くの支持者やファンが現れたとしても、けっして不思議ではありません。 私もときどき、「ちきりんに政治家になってほしい!」と言われることがありますが、AIだってその意見により人格が認められ、「ぜひ選挙に立候補してほしい!」と言われるようになるかもしれないのです。 しかしこれは、なかなか実現しないかもしれません。というのも、実はAIにとってもっとも難しいことこそ、「自分の意見をもつ」ことだと言われているからです。どれだけ情報を集めても、どれだけ知識が豊富でも、それで意見がもてるわけではありません。「自分の意見をもてる」のは、(今のところ?)人間の、とても貴重な特権なのです』、私も「ちきりん」さんのファンだった。「AIにとってもっとも難しいことこそ、「自分の意見をもつ」ことだと言われている」、「「自分の意見をもてる」のは、(今のところ?)人間の、とても貴重な特権なのです」、確かに、その通りだ。

第三に、この続きを、2月23日付けダイヤモンド・オンライン「承認欲求の充足は「自分の意見」から始まる(後篇)」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/296442
・・・『「意見の束」が人格を創る  「ちきりん」というキャラクターがその「意見の束」によって認知されたように、他者から「30代の会社員」とか「40代のワーキングマザー」と一括りにされるのではなく、きちんと個人として認めてほしいと思うなら、必要なのは「さまざまなコトに関して、自分の意見を表明すること」です。 ひとりの人間の人格の全体像を伝えるためには、なにかひとつのトピックについて意見を言えば十分ということはなく、継続的に、さまざまなことについて意見を表明する必要があります。 というのも、ひとつやふたつのことについてなら、「たまたま、自分と同じ意見の人」もいるけれど、千のことについて、万のことについて、日常のあらゆる場面で「自分の意見」を明確にしていたら、それらの意見がすべて同じ人など存在しないからです。 だから、多くのことについて意見を明らかにすればするほど、「他の誰とも違う○○さん」として認知されるようになります。「あなただけの意見の束」こそが、あなたを他者から区別する、あなただけの人格を創るのです。 そういわれても、「意見」を言うなんて難しいと感じるかもしれません。「知識不足で、よくわからない」と思えることもあるでしょう。でも、間違いを怖れたり、遠慮したりする必要はありません。意見には間違いも正解もないからです。 そもそも、他者と意見が異なることを怖れ、常に周囲と同じ意見を言っていたら、いつまでたっても「その他大勢のひとり」としてしか認知されません。 「他者と意見が異なることが怖い」のに、「その他大勢のひとりではなく、私という個人を承認してほしい」と考えるのは矛盾していますよね。 とはいえ、無理矢理に突飛な意見をひねりだす必要も、格好をつける必要もありません。ただ素直に、自分の「こう思う」を、言葉にすればいいだけです。素の自分とは異なる「すてきな私」や「尊敬される自分」を人為的に作り上げるなど、誰にもできません。 またその意見は、誰かに言う必要さえありません。私が長く続けてきたように、自分しか読まない日記帳に書き留めるだけでもいいし、匿名のブログやSNSで呟くだけでもいいのです。 大切なことは、自分自身で自分の意見をしっかり理解しておくことだけです。そうすれば、意見を表明すべきと考える機会にいつ遭遇しても、「わからない」「そんなこと考えたこともない」と答えるのではなく、しっかり具体的な意見が言える人として認知されるでしょう』、「「あなただけの意見の束」こそが、あなたを他者から区別する、あなただけの人格を創るのです」、「間違いを怖れたり、遠慮したりする必要はありません。意見には間違いも正解もないからです」、「その意見は、誰かに言う必要さえありません。私が長く続けてきたように、自分しか読まない日記」、帳に書き留めるだけでもいいし、匿名のブログやSNSで呟くだけでもいいのです」、なるほど。
・『自我と他者からの認知の乖離  ただし大切なのは多くの人から認知されることではなく、正しく認知されることです。たとえ大勢から認知されても、そのイメージが「自分が理解している自分=自我」とズレていると、むしろ認知されていないほうが幸せだと感じられるほどつらいものです。 たとえば、ずっと無名のクリエイターだったのに、世界的に有名な賞をとったことである日突然メディアから注目され、あれよあれよという間に自分の実態とはかけ離れたイメージが作られてしまう人がいます。 これではいくら有名になっても、本人はずっと居心地の悪さを感じ続けることになります。しかも、それがイヤで「本当の自分」を見せ始めると、「イメージが崩れた!」「いい人だと思っていたのに」といった理不尽な非難を受けてしまったりします。 このように、たとえ他者からの大きな認知が得られても、認知された人格が本当の自分(自分自身が認知している自分)と乖離してしまうと、意味がありません。 大手プロダクションから本来の自分とはまったく異なるイメージで売りだされるアイドルやスターのなかにも、まだ自我も確立していない年齢なのに、外部から多大な承認を得てしまう人(というか子ども)がいます。 こういう場合も、多くのファンから承認されること自体は嬉しくても、自己肯定感がもてない、すなわち、自分で自分を承認できない状態のままとなり、不安な気持ちから逃れられなかったりします。 周りの人に承認された人格が、本当の自分とは異なる虚像のように思えたり、ものすごく多くの人から知られているにもかかわらず、「誰もわかってくれない」と不安を感じたりもします。 「オレも多くの人に認知されたい!」「私も有名になりたい!」と望む人にとっては想像しにくいかもしれませんが、ものすごく多くの人に認知されていながら「誰にも理解してもらえない」と悩んだり、「本当の自分とは異なるイメージが一人歩きしてしまってつらい」と感じる人は少なくありません。それはときに、まったく誰からも承認されないのと同じくらい、つらいことだったりするのです』、「「本当の自分とは異なるイメージが一人歩きしてしまってつらい」と感じる人は少なくありません。それはときに、まったく誰からも承認されないのと同じくらい、つらいことだったりするのです」、そんなこともあるのだろう。
・『最初に必要なのは自我の確立  だからこそ、他者から承認されたいと考える人にとって必要な最初の一歩とは、自分で自分を承認できるようになることなのです。他者からの認知を得ようと考える前に、自分で自分を理解し、肯定する。そういうプロセスを経てこそ、高い自己肯定感につつまれた人生が手に入ります。 この順番はとても大切なので言語化しておきましょう。 【承認欲求が充足するステップ】
 1.日常生活で見聞きし、体験したさまざまなことについて、自分の意見を明確にする。外部に表明する必要はなく、日記帳や他者が閲覧できないブログやメモに書き記すだけでもOK。↓ 
 2.それらの「自分の意見の束」によって、自分という人間がどのような人間なのかを、自分で理解する。[自我の確立]↓
 3.そのありのままの自分を、自分で肯定する。[自己承認、自己肯定感] ↓
 4.それらの意見の束を(自分を理解してほしい、と思える人に)開示することにより、自分という人格を、外部からも承認してもらう。[承認欲求の充足] 
 ここでなにより大切なのが最初のプロセスです。「他者から承認されたい」と思うなら、まずは「承認される対象としての自己」を確立しないと始まりません。 自分で理解できていない自分を、誰かに伝えることなどできませんよね? そんな状態では、外部からの承認など得られるはずがありません。だからまずは、自分だけが読む日記帳やメモでよいので、自分の意見を言語化することから始めましょう。 ちなみに3番目の「ありのままの自分を自分で肯定する」ところまで到達できると、実は最後のステップである「他者からの承認の有無」はあまり気にならなくなります。 これはおそらく「誰に自分を承認してほしいのか」という問いの答えが「まずは自分自身」だからでしょう。 「自分で自分を理解し、承認する」──これこそが「自己肯定感」と呼ばれるものであり、自己肯定感さえ得られれば、自分に自信がつき、他者からの承認の有無(もしくは大小)をむやみに気にすることがなくなるのです。 換言すれば、外部からの承認が得られず焦りを感じている人というのは、多くの場合、自分で自分を承認できていないことのほうが根本的な問題なのかもしれません。そして、なぜ自分で自分を承認できていないのかといえば、それは、自分で自分という人間について、しっかりと理解できていないからでしょう。 SNSで自分と同じように見えるごく普通の人が突然、有名になり人気者になるのを目にしてしまうと、「自分もそうなりたい!」と焦る人もいるでしょう。 でも、急がば回れです。自我も確立していないのに外部からの承認ばかりを求めてしまうと、とにかく突飛なことをすればよい、といったおかしな方向に進んでしまったり、やたらと周りに迎合し、「自分を失ってしまう」状態に陥ったりします。 まずは自分の意見を明確にすることにより、自分で自分をしっかり理解する。それがすべての始まりなのだということを忘れないでください』、「「自分で自分を理解し、承認する」──これこそが「自己肯定感」と呼ばれるものであり、自己肯定感さえ得られれば、自分に自信がつき、他者からの承認の有無(もしくは大小)をむやみに気にすることがなくなるのです」、「「自分で自分を理解し、承認する」──これこそが「自己肯定感」と呼ばれるものであり、自己肯定感さえ得られれば、自分に自信がつき、他者からの承認の有無・・・をむやみに気にすることがなくなるのです」、確かに「自己肯定感」は生きてゆく上で、極めて重要な要素だ。
タグ:幸福 (その4)(ちきりん:承認欲求の充足は「自分の意見」から始まる(前篇)、(中篇)、(後編)) ダイヤモンド・オンライン ちきりんさんによる「承認欲求の充足は「自分の意見」から始まる(前篇)」 確かに究極の「個としての自分」を求めているようだ。 「自分の内面情報を他者に伝えるのは、とても時間のかかるプロセスであり、だからこそ他者からの承認欲求を満たすのは、簡単なことではないのです」、その通りだ。親子や夫婦の間でも「自分の内面情報を他者に伝えるのは、とても時間のかかるプロセスであり」、勝手に断念しているケースが多そうだ。 「承認欲求の充足は「自分の意見」から始まる(中篇)」 「「ファン」というのは、プロとしての卓越したパフォーマンスというより、個人としての性格や人格の魅力につくものだといえるでしょう。だからスターではない一般人の場合と同じく、内面情報が開示されないとファンはつかないのです」、「ファンや視聴者は、その俳優、ミュージシャン、タレントさんの作品やパフォーマンスだけでなく、個人としての性格や人格に基づき、自分がその人を好きかどうかを判断しているのです」、その通りなのだろう。 「自分はどのような人間なのか、自分で自分という人間を理解することこそ、私が日記を書く目的だったのです。 それは一種の自己探求プロセスともいえるものです」、なるほど。 ダイヤモンド・オンライン「承認欲求の充足は「自分の意見」から始まる(中篇)」 私も「ちきりん」さんのファンだった。「AIにとってもっとも難しいことこそ、「自分の意見をもつ」ことだと言われている」、「「自分の意見をもてる」のは、(今のところ?)人間の、とても貴重な特権なのです」、確かに、その通りだ。 ダイヤモンド・オンライン「承認欲求の充足は「自分の意見」から始まる(後篇)」 「「あなただけの意見の束」こそが、あなたを他者から区別する、あなただけの人格を創るのです」、「間違いを怖れたり、遠慮したりする必要はありません。意見には間違いも正解もないからです」、「その意見は、誰かに言う必要さえありません。私が長く続けてきたように、自分しか読まない日記」、帳に書き留めるだけでもいいし、匿名のブログやSNSで呟くだけでもいいのです」、なるほど。 「「本当の自分とは異なるイメージが一人歩きしてしまってつらい」と感じる人は少なくありません。それはときに、まったく誰からも承認されないのと同じくらい、つらいことだったりするのです」、そんなこともあるのだろう。 「「自分で自分を理解し、承認する」──これこそが「自己肯定感」と呼ばれるものであり、自己肯定感さえ得られれば、自分に自信がつき、他者からの承認の有無(もしくは大小)をむやみに気にすることがなくなるのです」、「「自分で自分を理解し、承認する」──これこそが「自己肯定感」と呼ばれるものであり、自己肯定感さえ得られれば、自分に自信がつき、他者からの承認の有無・・・をむやみに気にすることがなくなるのです」、確かに「自己肯定感」は生きてゆく上で、極めて重要な要素だ。
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