資本主義(その10)(岸田首相の“新しい資本主義”に「今更感」が強い理由 何が足りない?、市場原理主義という“怪物”に戦いを挑み続けた「日本人経済学者」がいた…! いま 宇沢弘文が注目を集めるわけ、資本主義が静かに衰退を始めていると言えるワケ 「世界経済の3つの謎」をどう考えばいいのか) [経済]
資本主義については、3月5日に取上げた。今日は、(その10)(岸田首相の“新しい資本主義”に「今更感」が強い理由 何が足りない?、市場原理主義という“怪物”に戦いを挑み続けた「日本人経済学者」がいた…! いま 宇沢弘文が注目を集めるわけ、資本主義が静かに衰退を始めていると言えるワケ 「世界経済の3つの謎」をどう考えばいいのか)である。
先ずは、6月14日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した立命館大学政策科学部教授の上久保誠人氏による「岸田首相の“新しい資本主義”に「今更感」が強い理由、何が足りない?」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/304720
・『岸田文雄首相が掲げる経済政策「新しい資本主義」の実行計画の骨子が明らかになった。だが筆者は、その内容に違和感を覚えた。決して目新しいものではなく、以前から認識されていながら有効な手を打てなかった「古い政策課題」ばかりが並んでいたからだ。新政策はなぜ新規性がなく、どのような視点が欠けているのか』、「決して目新しいものではなく、以前から認識されていながら有効な手を打てなかった「古い政策課題」ばかりが並んでいた」、羊頭狗肉の酷い話だ。
・『「新しい資本主義」に目新しさは全くない 岸田文雄首相が掲げる経済政策「新しい資本主義」の実行計画と「骨太の方針」が6月上旬に閣議決定された。岸田首相は「新しい資本主義」について、「一言で言うならば、資本主義のバージョンアップ」と説明している。 だが、この経済政策は目新しさが全くない。この連載では、自民党はほとんど全ての政策分野に取り組んでいながら、それが「Too Little(少なすぎる)」「Too Late(遅すぎる)」「Too Old(古すぎる)」ことが問題だと批判してきた(本連載第290回)。「新しい資本主義」は、そのことをあらためて痛感させる内容だった。 「新しい資本主義」の実行計画と「骨太の方針」の根幹をなすのは、「人」「科学技術・イノベーション」「スタートアップ」「グリーン・デジタル」の4分野に重点的に投資するという方針だ。 「人」への投資では、これまで以上に「賃上げ」に取り組むとともに、非正規雇用も含めた約100万人に向けて能力開発や再就職の支援を行うとしている。 ただし、この「賃上げ」については、安倍晋三政権期(第2次)にさんざん民間企業に呼び掛けたが、思うような成果を上げられなかったことを忘れてはいけない(第80回・p6)。 当時は「アベノミクス」による「円安」によって輸出企業の利益が増え、「失われた20年」という長期経済停滞から脱することができた。だが、従業員の賃金は一向に上がらなかった。アベノミクスの最も批判される部分だ(第163回)。 第2次安倍政権の約8年弱の期間、グローバリゼーションによる厳しい競争にさらされた企業は内部留保をため込むばかりで、賃上げを行わなかった。また、一部の企業は年功序列の雇用慣行を廃し、終身雇用の正社員を減らして非正規雇用を増やすことでコストダウンを続けた。 正規・非正規雇用の格差問題が国会で議論されたのは、2001年~06年の小泉純一郎政権期までさかのぼる。だが、この問題は長年解決せず、21年4月にようやく、全ての企業を対象とした「同一労働同一賃金」の原則に基づく政策が打ち出された。 だが、政策の裏をかき、正社員の賃金を下げて非正規雇用に合わせることで同一賃金とする企業が少なくなかった。その結果、格差は縮まらず、賃金も一向に上がってこなかった。 「新しい資本主義」の実行計画には、そうした過去の過ちを繰り返さないという視点も盛り込むべきではないだろうか』、「「同一労働同一賃金」の原則に基づく政策が打ち出された。政策の裏をかき、正社員の賃金を下げて非正規雇用に合わせることで同一賃金とする企業が少なくなかった。その結果、格差は縮まらず、賃金も一向に上がってこなかった」、「「新しい資本主義」の実行計画には、そうした過去の過ちを繰り返さないという視点も盛り込むべきではないだろうか」、その通りである。
・『AI投資においては米国の事例を他山の石とすべき 科学技術・イノベーション」への投資では、大学を支援する10兆円規模のファンドを立ち上げ、人工知能(AI)や量子技術などの高度な研究活動に投資するとしている。加えて、AIの活用や研究開発を国家戦略に据え、科学技術投資の抜本拡充を図る方針だ。 しかし、AIを国家戦略に据えることは、諸外国では10年以上前から取り組まれており、目新しさはない(第113回)。そして、AIの研究や利活用を進めたとしても、必ずしも全国民が得をするとは限らないという結果も出ている。 例えば、米国ではバラク・オバマ政権期(09~17年)から、AI活用を国家戦略に据えてきた。オバマ政権は「製造業を国内に残す唯一の方法は、諸外国に比べて高い生産性を実現することだ」と主張し、多数の雇用を生み出す製造業の米国回帰をAI導入によって目指そうとした。 当時の米国は、工場のオペレーションや製造ラインを、AIを搭載した次世代ロボットに置き換えて自動化することを試みた。安い労働コストを求めて海外に移転した工場を米国に戻すべく、自動化によって人件費を低減しようとしたのだ。 その一方で、「製品設計」「工程管理」「製品の販売」「マーケティング」といった付加価値の高い分野では、優秀な人材の雇用を生み出そうとした。また、これらの作業を担う高度人材を育てるための教育を充実させた。 続くドナルド・トランプ政権期(17~21年)でも、この国家戦略は粛々と続いていた。トランプ氏が「アメリカ・ファースト(米国第一主義)」を打ち出し、国内外の企業に対して、工場を米国に移転させることを強く要求したのは周知の通りだ(第150回)。) 当時、多くの企業がトランプ大統領に従い、工場を米国に移転させた。トランプ政権期、コロナ禍が起こるまでは米国経済は非常に好調だった。しかし、好調な経済にもかかわらず、労働者の雇用は増えなかった。 工場の多くが自動化されたことで、未熟練労働者の働き口がなくなったのだ。そのため、石炭や鉄鋼といった産業の衰退が進む「ラストベルト」地域の労働者が、「トランプ大統領はうそつきだ」と反発する事態を招いた。 だが今の日本は、米国の事例を他山の石としておらず、いまだにAIを「未熟練労働者の代替」だと位置付けている印象だ。かといって、米国のように国を挙げて工場の全面自動化を進めてきたわけでもなく、全てが中途半端である。 その要因はいくつか考えられる。一つは年功序列・終身雇用が今も根強く残り、非正規社員を切り捨ててでも正社員の雇用を守ろうとする企業が多いこと。もう一つは、1980年代に通商産業省(当時)主導で、欧米に先駆けて初期のAIを導入するプロジェクトを推進し、失敗した悪夢があることだ。 もし岸田首相が、新政策によってこうした状況を変えたいのであれば、単にAI関連の研究活動に投資するだけでは不十分だ。過去の失敗事例を踏まえて「AIの発展に伴う雇用面のデメリット」という視点を盛り込み、それに対する改善策を併せて議論すべきではないだろうか』、「1980年代に通商産業省(当時)主導で、欧米に先駆けて初期のAIを導入するプロジェクトを推進し、失敗した悪夢がある」、初めて知った。「単にAI関連の研究活動に投資するだけでは不十分だ。過去の失敗事例を踏まえて「AIの発展に伴う雇用面のデメリット」という視点を盛り込み、それに対する改善策を併せて議論すべき」、その通りだ。
・『日本のスタートアップ投資も遅れており自慢できるレベルではない 実行計画における「スタートアップ」の項目では、新興企業への投資額を5年で10倍に増やすことを視野に入れた「5カ年計画」を年末に策定するとしている。 だが、日本政府のスタートアップ支援は他の先進国に比べて相当に遅れており、今さら「新しいことをやっている」とアピールしていることに違和感を覚えざるを得ない。 というのも、私が大学生だった約35年前、すでに「米国の大学では、最も優秀な学生は起業する」と聞いたものだった。 例えば、大学を中退したスティーブ・ジョブズが、ビデオゲーム会社アタリを経てAppleを共同で創業したのが1976年。ビル・ゲイツがハーバード大学を休学し、Microsoftを共同経営でスタートさせたのは75年だった。 80年代、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれ、日本型の年功序列・終身雇用の企業システムは世界に称賛された時期があった。米国経済は停滞し、日本に追い越されるのではないかと言われていた。 だが、その時期の若者の起業によって生まれた萌芽は、90年代以降、米国経済を劇的に復活させた「IT革命」に結実した。 前述のスティーブ・ジョブズらに加えて、Googleを起業したラリー・ペイジやセルゲイ・ブリン、Facebookを起業したマーク・ザッカーバーグ、Amazon.comを起業したジェフ・ベゾスらが登場して、「GAFAM」と呼ばれる国際的巨大IT企業群が次々と米国で台頭したのだ。) それに伴って、世界における「時価総額ランキング」の顔ぶれも変動。かつて上位を占めていた日本企業は、今では上記の巨大IT企業群に取って代わられてしまった。 企業の開業率でも明確な差がついており、欧米諸国では10%前後に上るのに対し、日本では4.2%にとどまっている(19年時点)。 また、スタートアップに対するM&A(企業の合併・買収)も同様で、18年時点での日本における件数はわずか15件。米国の約1%にすぎなかったという(産経新聞『スタートアップ支援、政府に司令塔、新しい資本主義実現会議、実行計画に反映へ』2022年4月12日)。 米国のみならず中国でも、AlibabaをはじめとするIT大手の成長は著しく、星の数ほどのスタートアップが今も誕生していることはいうまでもない。 岸田首相は、今年を「スタートアップ創出元年」とする意向だという。だが、「元年」だといっていること自体が、世界からすれば笑いもののレベルなのだ。 これだけ後れを取っている中、投資額を増やすだけで、世界と伍して戦えるスタートアップが出てくるのか。教育面など、他の領域においても抜本的なテコ入れが不可欠である』、「岸田首相は、今年を「スタートアップ創出元年」とする意向」、これは「岸田首相」オリジナルではなく、官邸の経産省出身官僚の考えだろうが、いまさら「創出元年」でもあるまい。
・『脱炭素シフトの潮流の中で日本のエネルギー企業は遅れている 「グリーン・デジタル」投資では、「脱炭素社会」の実現のために、今後10年間に官民協調で150兆円の関連投資を行う計画だ。だが、これも胸を張って自慢するような話ではない。 というのも、現在、化石燃料を扱う企業に対して「ダイベストメント(投資撤退)」を宣言する世界の投資家・金融機関が急増している(週刊エコノミストOnline『沸騰!脱炭素マネー:環境対応が遅れる日本企業から投資家が資金を引き揚げている……石油メジャーでさえ「最エネ転換」を宣言 環境対応できない企業には淘汰の道が待っている』)。 そして、石油資源開発(JAPEX)、中国電力、INPEX(旧国際石油開発帝石)、電源開発(J-POWER)、北陸電力、北海道電力、出光興産、ENEOSホールディングスなどの日本企業が、「脱炭素事業戦略」が遅れていることを理由として、ダイベストメントされる事例が増えている。いまだに、石炭火力発電所を多く運用しているからだ。 加えて、日本は「再生可能エネルギー」への取り組みが遅れている。それは、安倍政権以降、東日本大震災によって国内の全基が停止した原子力発電所の再稼働を最優先する方向でエネルギー政策を進めてきたからである。 岸田首相の“新しい資本主義”に「今更感」が強い理由、何が足りない? 一方、海外では、ただでさえ強大な力を持っていた「石油メジャー」が再生可能エネルギーに取り組み、「総合エネルギー企業」とでも呼ぶべき企業体への変貌を遂げている。 例えば英BPは、再生可能エネルギーの発電所などを中心とした脱炭素関連事業の年間投資額を、30年までに現状の10倍となる約50億ドル(約5300億円)に拡大する計画だ。水素やCCUS(二酸化炭素の貯蔵・利用)事業も手掛けながら、石油・天然ガスの生産量を削減し、30年までに二酸化炭素排出量を最大40%削減する方針である。 日本のエネルギー企業がダイベストメントされる一方で、海外大手はさらに先に進もうとしているのだ。この差を埋めるにはどうすべきか、日本では官民連携でより深い議論を行うべきではないか』、「日本のエネルギー企業がダイベストメントされる一方で、海外大手はさらに先に進もうとしているのだ。この差を埋めるにはどうすべきか」、マスコミももっと政策を掘り下げて報道すべきだろう。
・『全てが中途半端な自民党政治は厳しく批判されるべき この連載では、自民党の最大の特徴を「キャッチ・オール・パーティー(包括政党)」だと指摘してきた(第169回・p3)。要は、政策の「総合商社」か「デパート」のようなものであり、一応全ての政策課題に対応している。「新しい資本主義」も、現在の全ての政策課題を一覧に並べたようなものだ。 だが、残念なことに、重点投資4分野は新しい政策課題ではない。以前から認識されていながら、有効な手を打てなかった「古い政策課題」ばかりだ。 それらの課題解決のためのプロセスを決めて、予算を組んで実行して取り組むのは悪いことではない。 だが、そもそも欧米や中国などが何年も前に済ませていることを、「新しいことをやります」と胸を張ってアピールするような自民党や官僚組織の姿勢は、真摯(しんし)さも謙虚さも著しく欠いている。 岸田首相は“どや顔”で計画を発表するだけでなく、「なぜ、これまで長年にわたって有効な手を打てなかったのか」「今回の施策は、従来とどう違うのか」といったポイントが国民に伝わるよう、より詳細な説明を行うべきではないだろうか』、「「なぜ、これまで長年にわたって有効な手を打てなかったのか」「今回の施策は、従来とどう違うのか」といったポイントが国民に伝わるよう、より詳細な説明を行うべき」、同感である。
次に、10月14日付け現代ビジネスが掲載したジャーナリストの佐々木 実氏による「市場原理主義という“怪物”に戦いを挑み続けた「日本人経済学者」がいた…! いま、宇沢弘文が注目を集めるわけ」を紹介しよう。
・『戦後日本を代表する経済学者にして思想家、宇沢弘文(うざわ・ひろふみ)。 格差の増大や環境破壊など、資本主義が持つ「陰」の部分に1970年代から気づいていた宇沢は、「社会的共通資本」という概念をベースに、万人が幸福に暮らすことを目指す、新たな資本主義の枠組みを構築しようとしていた。 その思想は半世紀後の現在、再び大きな注目を集めるようになっている。 そもそも、我々はなぜこのような市場原理主義が幅を利かせるような世界に住んでいるのか。 資本主義の世界に暮らす我々の誰もが幸せに生きられるような社会はどうやって創り出せるのか。 今の時代だからこそ読むべき思想家を100ページ程度で語る「現代新書100(ハンドレッド)」シリーズの最新刊、『今を生きる思想 宇沢弘文 新たなる資本主義の道を求めて』から、「はじめに」をご紹介する』、「宇沢は、「社会的共通資本」という概念をベースに、万人が幸福に暮らすことを目指す、新たな資本主義の枠組みを構築しようとしていた」、構築中に倒れられたのは、かえすがえすも残念だ。
・『「資本主義」という問い 資本主義のあり方をめぐって、世界で大きな潮流の変化が起きはじめている。 アメリカの主要企業の経営者をメンバーとするビジネス・ラウンドテーブル(BRT)が「株主資本主義からステークホルダー資本主義への転換」を掲げたのは2019年8月のことだった。株主の利益を極大化することだけを考えるのではなく、顧客や従業員、取引先、地域社会などにも配慮した経営に舵を切ると宣言したのだった。 翌年はじめのダボス会議でさっそく取り上げられ、「ステークホルダー資本主義」はビジネス界の合言葉のように広まった。 日本では、政府が長年にわたって株主資本主義を核とするアメリカ型資本主義をお手本に「改革」を進めてきた。アメリカ財界のステークホルダー資本主義宣言が影響を与えないはずはない。 岸田文雄首相が「新しい資本主義」を唱え、政府に「新しい資本主義実現会議」まで設けたのも、そうした流れの一環と捉えることができる。 株主の利益だけを追い求める企業活動は、所得格差の拡大を通じて、著しく不平等な社会をつくりだすことになった。環境への配慮を欠いた生産活動は、地球温暖化など深刻な環境問題をもたらしている。 そうした反省の気運が、ビジネスの現場で市場原理主義を主導してきた経営者にさえ生まれている。 ESG投資の爆発的な流行も、資本主義の見直しという文脈で理解できる。 ESG投資は、環境(Environment)、社会(Social)、企業統治(Governance)に配慮しているかどかを基準に、投資先の企業を選別する。国連で2015年に採択されたSDGs(持続可能な開発目標)と理念を共有する投資活動といってもいい。 ESGやSDGsが国際的な支持を得ているのは、これまでの資本主義が環境問題をないがしろにしてきたことの裏返しである』、「ESGやSDGsが国際的な支持を得ているのは、これまでの資本主義が環境問題をないがしろにしてきたことの裏返し」、その通りだ。
・『市場原理主義の教祖 いま起きている変化は、長らく世界を牽引してきた市場原理主義が急速に支持を失っていることを物語っている。 市場原理主義の教祖的存在だったのが、アメリカのノーベル賞経済学者ミルトン・フリードマン(1912─2006)である。 小さな政府、国営・公営事業の民営化、規制の緩和・撤廃を唱えるフリードマンは、1980年代以降の市場原理主義の潮流をつくりだした立役者である。ロナルド・レーガン大統領のブレインとなり、イギリスのマーガレット・サッチャー首相からも支持された。狭い学界ではなく、現実の政治に働きかけることで、世界最強のインフルエンサーとなったのである。 フリードマンの特徴は、市場機構への絶対的な信頼と、政府機能(公的部門)への徹底した不信だ。彼の資本主義観は『資本主義と自由』(日経BP社)のつぎの文章によくあらわれている。 「市場が広く活用されるようになれば、そこで行われる活動に関しては無理に合意を強いる必要がなくなるので、社会の絆がほころびるおそれは減る。市場で行われる活動の範囲が拡がるほど、政治の場で決定し合意を形成しなければならない問題は減る。そしてそういう問題が減れば減るほど、自由な社会を維持しつつ合意に達する可能性は高まっていく」 民主主義的な意思決定を、市場での取引が代替できるという見解である。市場領域をひろげていけば、「社会の絆がほころびるおそれは減る」とフリードマンは言っているが、むしろ、あらゆる領域を市場化すれば、「社会の絆」に頼る必要などなくなるという考え方である。 「市場=社会」がフリードマンの理想社会であるようだ』、「あらゆる領域を市場化すれば、「社会の絆」に頼る必要などなくなる」、さすが「市場原理主義の教祖」らしい考え方だ。
・『フリードマンに恐れられた日本人 市場原理主義の思想潮流が世界を覆う前、1960年代からフリードマンと直接対決を繰り広げていた日本人がいたことはあまり知られていない。本書の主人公、宇沢弘文(1928─2014)である。 宇沢は1964年にシカゴ大学の教授に就任し、市場原理主義の総本山「シカゴ学派」の領袖であるフリードマンと同僚になった。市場原理主義が世界を席巻するよりずっと前から、フリードマンに面と向かって異議を唱えていたのである。 シカゴ大学でフリードマンと対峙していたころ、宇沢はアメリカ経済学界で一二を争う若手理論家とみなされていた。フリードマンは著名ではあったが、最先端の理論づくりの現場にかぎれば、16歳も若い宇沢のほうが勢いがあり影響力をもっていた。 アメリカ経済学界での評価が絶頂にあるとき、宇沢はベトナム戦争に異を唱えて突然、アメリカを去った。フリードマンは、帰国後の宇沢が日本語で書いた文章も英語に翻訳させて丹念にチェックしていた。宇沢がフリードマンの学説を批判することに、過剰なほど神経を尖らせていたのである。 アメリカを去ったあと、宇沢はアメリカの経済学者についてこんな総括をしている。 「事実、アメリカの経済学者は、市場機構について一種の信念に近いような考え方をもっているともいえる。利潤追求は各人の行動を規定するもっとも重要な、ときとしては唯一の動機であると考え、価格機構を通じてお互いのコンフリクトを解決することが最良の方法であるという信念である。新古典派理論はこのような信念を正当化するものにすぎないともいえるのであって、理論的な帰結からこのような信念が生れるのではない。この現象はとくにいわゆるシカゴ学派に属する人々について顕著にみられるが、これは必らずしもシカゴ学派に限定されるものではなく、広くアメリカの経済学者一般に共通であるともいえよう」(『自動車の社会的費用』岩波新書) 宇沢が指摘しているのは、市場原理主義的な傾向はフリードマン率いるシカゴ学派に顕著にみられるけれども、しかしそれは、アメリカの経済学者一般に共通している信念だということである。フリードマンひとりを批判して済む問題ではないということだ』、「シカゴ大学でフリードマンと対峙していたころ、宇沢はアメリカ経済学界で一二を争う若手理論家とみなされていた。フリードマンは著名ではあったが、最先端の理論づくりの現場にかぎれば、16歳も若い宇沢のほうが勢いがあり影響力をもっていた。 アメリカ経済学界での評価が絶頂にあるとき、宇沢はベトナム戦争に異を唱えて突然、アメリカを去った」、「宇沢が指摘しているのは、市場原理主義的な傾向はフリードマン率いるシカゴ学派に顕著にみられるけれども、しかしそれは、アメリカの経済学者一般に共通している信念だということである。」、なるほど。
・『社会的共通資本の思想的源流 宇沢は、半世紀も先取りして、行き過ぎた市場原理主義を是正するための、新たな経済学づくりに挑んだ。 すべての人々の人間的尊厳が守られ、魂の自立が保たれ、市民的権利が最大限に享受できる。そのような社会を支える経済体制を実現するため、「社会的共通資本の経済学」を構築した。 この小著では、経済学の専門的な話はできるだけ避け、宇沢が「社会的共通資本」という概念をつくりだした経緯や思想的な背景に焦点をあててみたい。 宇沢が環境問題の研究を始めたのは半世紀も前であり、地球温暖化の問題に取り組んだのは30年あまり前からだった。先見の明というより、問題を見定める際の明確な基準、つまり、思想があったからこそ、いち早く問題の所在に気づくことができたのである』、「宇沢が環境問題の研究を始めたのは半世紀も前であり、地球温暖化の問題に取り組んだのは30年あまり前からだった。先見の明というより、問題を見定める際の明確な基準、つまり、思想があったからこそ、いち早く問題の所在に気づくことができたのである」、さすがである。
・『不安定化する世界 ロシアがウクライナに侵略して戦争が始まったとき、欧州のある金融機関が、武器を製造する企業への投資をESG投資に分類し直すという動きがあった。 ふつう、ESG投資家は人道主義の観点から、軍需産業への投資には抑制的だ。しかし、アメリカなどがウクライナに武器を供与する現実を目の当たりにして、「防衛産業への投資は民主主義や人権を守るうえで重要である」と態度を豹変させたのである。 ESGやSDGsに先駆けて「持続可能な社会」の条件を探求した宇沢なら、このようなESG投資を認めることは絶対にあり得ない。思想が許さないからだ。 「ステークホルダー資本主義」「ESG投資」「SDGs」を叫んでみたところで、一本筋の通った思想がなければ、結局は換骨奪胎され、より歪な形で市場原理主義に回収されてしまうのがオチだ。 資本主義見直しの潮流が始まった直後、世界はコロナ・パンデミックに襲われ、ウクライナの戦争に直面した。危機に危機が折り重なって、社会は混沌の度を深めている。 宇沢の思想に共鳴するかしないかが問題なのではない。 生涯にわたって資本主義を問いつづけた経済学者の思考の軌跡は、かならずや混沌から抜け出すヒントを与えるはずである』、「ESGやSDGsに先駆けて「持続可能な社会」の条件を探求した宇沢なら、このようなESG投資を認めることは絶対にあり得ない。思想が許さないからだ」、「生涯にわたって資本主義を問いつづけた経済学者の思考の軌跡は、かならずや混沌から抜け出すヒントを与えるはずである」、そうした論考が出てくることを大いに期待したい。
第三に、12月10日付け東洋経済オンラインが掲載した 慶應義塾大学大学院准教授の小幡 績氏による「資本主義が静かに衰退を始めていると言えるワケ 「世界経済の3つの謎」をどう考えばいいのか」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/638766
・『資本主義は崩壊しないが、今、静かに衰退を始めている。 「近代資本主義が終わった」と歴史的に認識されるのは、22世紀かもしれない。だがそのとき、「衰退が始まったのは21世紀初頭からだった」と明らかになるだろう』、興味深そうだ。
・『「近代資本主義の終焉」でとらえる「世界経済3つの謎」 この連載は競馬をこよなく愛するエコノミスト3人による持ち回り連載です(最終ページには競馬の予想が載っています)。記事の一覧はこちら なぜ、資本主義が衰退を始めていると言い切れるのか。それは、そう考えれば、現在の経済的な常識、経済学では説明できないことの多くが、一貫したストーリーとして描くことができるからだ。 現在、世界経済は3つの大きな謎に包まれている。 第1に、2008年の世界金融危機(リーマンショック)後、長期停滞論が台頭してきた。先進国の成長経済は終わってしまったのか。21世紀に入って、なぜ急に成長が終わってしまったのか。これが第1の謎である。 第2の謎は、なぜ急にインフレーションが起きたのか、ということだ。 先進国経済は、低成長かつ不況でありながら、インフレーションが40年ぶりの水準まで高まっている。不況にもかかわらず、賃金は上昇している。失業率は低いままである。なぜ、低成長かつ不況なのに、インフレーションが起きているのか。賃金が上昇し、失業率が低いのはなぜか。これが第2の謎である。 第3は、格差拡大の謎である。1970年代までは、格差といえば南北問題であり、先進国と発展途上国の所得格差の拡大であった。経済理論では、途上国が安価な労働力で生産を拡大し、自由貿易が行われれば、キャッチアップがすぐに実現するはずであった。 実際には、そうはならなかった。20世紀末には、国家間の格差が理論と異なり現実には解消されないことが、開発経済学における最大の謎であった。ところが、21世紀になると、多くの途上国が著しい経済成長を遂げ、新興国と呼ばれるようになった。突然、21世紀にはキャッチアップが実現し、謎でなくなった。その一方で、1973年のオイルショック以降、国内の格差が拡大を始め、21世紀にはその差を急激に広げてきた。 なぜ、21世紀になって、20世紀には起こりえないと思われていた国家間の経済格差が急に縮小し、一方で、1973年以降、国内の格差が急激に拡大したのか。これが第3の謎である。 これらは、近代資本主義が終わろうとしている、ととらえれば、構造的に説明できる。) 近代資本主義は事実上、1492年に始まった。クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸に流れ着いた年である。コロンブスだけでなく、金(カネ)を稼ごうと、多くの西欧の冒険家が世界へ渡っていった。いわゆる大航海時代の始まりだ。近代資本主義とは、移動、拡大、膨張の時代のことである』、「近代資本主義とは、移動、拡大、膨張の時代のこと」、「大航海時代の始まり」、なるほど。
・『「2つの外部」が近代資本主義を動かした 西欧諸国は、略奪、征服、交換で、そのほかの地域から富を奪った。奪った分だけ経済は拡大した。 閉じていた経済では、技術革新があっても、品質が改良されるだけで、その改良分を以前よりも多く払うことはできない。所得は変わっていないから、その財に払える価格は前と同一で、その場合、経済的には価値は同じ(不変)となり、経済は拡大しない。よって経済成長もない。これが、中世までの繰り返しの循環経済である。 それが1492年以降、外部が生まれたことで、外部からの富の流入が経済の拡大をもたらした。所得が増えたから、払う総額も増えた。これに呼応して、売れる商品を作り始めた。 そして、17世紀には、さらなる経済のテイクオフ(離陸)が起きた。ぜいたくの始まりである。ヴェルナー・ゾンバルトが『恋愛と贅沢と資本主義』で主張する、近代資本主義の本格的な始まりのメカニズムである。伴侶や恋人を見せびらかすための宮廷でのパーティというものが「発明」されたことによる需要増加である。 それまでは、妻や恋人は人目につかないように隠していたが、彼女たちを着飾らせて、躍らせて、みなに見せびらかす、ということが始まったのである。ヴェルサイユ宮殿は、ルイ14世が妾のラ・ヴァリエールのために造り、そこは豪華絢爛に飾り付けられ、パーティが行われたと言われる。「国王に負けじ」とそのほかの貴族たちも妻や妾を着飾らせ、パーティで見せびらかした。女たちも、影の存在から一躍主役として舞台に踊り出た。ぜいたくは無限に膨らんだ。 これこそが、近代資本主義を膨張軌道に乗せた、循環経済の外部からの有効需要の注入であった。2つの外部の存在が、近代資本主義を動かしたのである。) 略奪、交換の対象となる外部の経済。植民地の経済。ここからの富の流入が新しい需要になって、経済を膨張させた。中南米の銀山からのマネーの流入がインフレを起こしたといわれるが、銀はマネーであると同時に、銀という富だったから、現在の中央銀行のマネーサプライと異なり、実体経済をも膨張させたのである。 そして、西欧の各国内でも、循環経済の外から富が流入した。国王や領主貴族がため込んだ富を、ぜいたくとして消費した。宮廷の周りの職人たちは、宮廷のぜいたく需要で所得を得た。これが支出され、経済は循環でなく膨張を始めた。 革命が起きても、この膨張は止まらなかった。何より、ブルジョワジーたちが堂々と貴族のマネを行ったからである。ぜいたくは、経済の富裕層全体に広がった。経済の膨張、つまり、バブルは始まった。近代資本主義というバブルは完全にテイクオフしたのである』、「閉じていた経済では、技術革新があっても、品質が改良されるだけで、その改良分を以前よりも多く払うことはできない。所得は変わっていないから、その財に払える価格は前と同一で、その場合、経済的には価値は同じ(不変)となり、経済は拡大しない。よって経済成長もない。これが、中世までの繰り返しの循環経済」、「1492年以降、外部が生まれたことで、外部からの富の流入が経済の拡大をもたらした。所得が増えたから、払う総額も増えた・・・17世紀には、さらなる経済のテイクオフ(離陸)が起きた。ぜいたくの始まりである」、「ぜいたく」が「経済成長」をもたらしたとは初めて知った。
・『19世紀の途中まで富の投入は限定的だった しかし、ここに、さらなる深い謎が生まれる。それならば「なぜ19世紀後半まで経済成長が起きなかったのか。同様に、なぜ19世紀半ばまで人口もはっきりとは増加しなかったのか。産業革命は18世紀にとっくに始まっているのに、数多くの技術革新が起きたのに、なぜ本格的な人口増加や経済成長が始まらなかったのか」ということだ。 上述の需要増加は、第1が外部からの略奪品、交易品であるが、これらは庶民のための必需品ではなく、富裕層のための嗜好品あるいは交換用の商品や商品作物である。第2のぜいたく需要は、まさにぜいたく品である。これらの獲得、生産のために資源と労働が投入された。 つまり、富は、衣食住という生存維持水準の必需品需要を満たすためには投入されなかったのである。だから人口は増えなかった。作物の収量が増えても、人口増加は一時的で、いわゆるマルサスのわな、つまり、食料生産の増加と人口増加のスピードは、前者が算術級数的であるのに対し、後者が幾何級数的であり、圧倒的に大きいから、すぐに食料が不足するようになった。その結果、人口が増え続けることはなかったのである。 一方、ぜいたく品の生産は増え、富裕層の消費は増えていった。しかし、経済全体で見れば、それは限られていた。だから、経済成長も人口増加も全体としては起きなかったのである。) これが一気に変化したのが、19世紀後半である。19世紀前半に多くの必需品に関する発明が行われた。電信、電気、そして電話。蒸気機関は内燃機関となり、内燃機関が動力として使われるようになった。これが欧米の経済を一新した。 では、それまでのぜいたく品生産、ぜいたく品需要と何が違ったのか。これらの技術革新は、交通・通信革命であったのだ。また、それ以前の技術革新とは何が違ったのか。それらの技術革新は時間を節約したのである。人々の時間に余剰をもたらしたのである。 ぜいたく品の生産、資源をぜいたく品に変えること、これはただの変形にすぎない。普通の服がきれいな服、豪華な服に変わるだけである。しかし、交通・通信革命で移動や意思疎通の時間を大幅に短縮することに成功すると、生産のための最大のリソースである時間が余る。これが新たな財の生産に向かい、経済全体の生産量は飛躍的に増加したのである』、「これらの技術革新は、交通・通信革命であったのだ。また、それ以前の技術革新とは何が違ったのか。それらの技術革新は時間を節約したのである。人々の時間に余剰をもたらしたのである」、「交通・通信革命で移動や意思疎通の時間を大幅に短縮することに成功すると、生産のための最大のリソースである時間が余る。これが新たな財の生産に向かい、経済全体の生産量は飛躍的に増加したのである」、なるほど。
・『一段と時間の節約が進んだ20世紀 さらに、20世紀になると、家事労働革命が起きる。水をくみに行かずに上下水道により家庭に水が届き、廃棄が行われる。洗濯機、掃除機、冷蔵庫により、それまでほとんどの時間を家事に使っていたのが、ほかの仕事ができるようになる。ミシンの普及により裁縫の時間も激減する。 また、農作業の時間が増え、賃金がもらえる仕事ができるようになる。農業にも動力が使われるようになり、生産力が増加する。冷蔵船のさらなる発達により、植民地から食料、とりわけ肉が輸入できるようになる。このように、衣食住の効率が大幅に上昇し、庶民の時間も余るようになる。それが労働投入増となる。よって生産力は急増する。 そして、自動車の普及である。移動時間が減る。馬のための施設、土地、汚物処理が要らなくなる。土地が余り、時間が余り、労働が増える。生産力が急増する。 これで、99%の庶民も含む社会全体の人々の生活水準が上昇し、市場向けの生産のための労働力の投入量が急増したのである。これで経済は急成長を始めた。そして、人口も、マルサスのわなを超えて増加を続けるようになった。これが、19世紀後半からの高成長時代の第1の経済成長である。 では、次の第2の成長とは何か。それは、庶民の時間が余るということである。 第1の成長と同じに見えるが、まったく違う。逆側である。すなわち、庶民は家事労働などから解放され、農作業の時間も増やし、賃金を得ることのできる外での労働時間も増やし、所得を増やした。さらなる技術進歩による必需品の効率的な生産がさらに進んだ。この効率化により、さらに庶民の時間が余った。 そして、余暇が生まれた。娯楽、レジャーの誕生である。庶民が、かつての国王、貴族のぜいたく、ブルジョワのぜいたく、それにならって、余った時間を消費活動に費やすようになった。エンターテインメント消費が誕生した。 これで消費が爆発した。庶民までがぜいたく品を消費するようになった。つまり、技術革新により必需品の生産の効率化が進み、時間が余り、第1には労働投入時間の増加となり所得を増やしたが、第2には、余った時間をぜいたく消費に充てるようになり、消費が増大したのである。 まず供給力が増え、次に需要が増えたのである。ここに成長は加速した。これがアメリカの20世紀の成長であり、日本の高度成長である』、「エンターテインメント消費が誕生した。 これで消費が爆発した。庶民までがぜいたく品を消費するようになった。つまり、技術革新により必需品の生産の効率化が進み、時間が余り、第1には労働投入時間の増加となり所得を増やしたが、第2には、余った時間をぜいたく消費に充てるようになり、消費が増大したのである。 まず供給力が増え、次に需要が増えたのである。ここに成長は加速した。これがアメリカの20世紀の成長であり、日本の高度成長である」、このように歴史的に整理されると理解し易い。
・『「新しい」が価値そのものになった しかし、これはオイルショックで止まった。必需品生産の効率化、必需品の技術革新による進歩が一巡して終わったのである。 いや、本来は、さらなる必需品の技術進歩も、物理的、技術的には可能だった。しかし、それは経済的には合理的ではなかった。なぜなら、すべての人々がぜいたく品の消費を始めたからだ。ぜいたく品は好奇心をひきつけ、目新しさが欲望を刺激したからだ。 新しいぜいたく品、イノベーションという名の下に、次々と新製品を売りつけるほうが手っ取り早く売れた、儲かったからである。必需品はみなが経験済みである。だから、本当に進歩しているか、必要な新製品か、誰にでもわかるから、ごまかしが利かない。役に立つ技術進歩が難しいのである。 一方、新しい製品は、要は新しければよかった。役に立たなくても、エンターテインメントだから、必要でないものであり、ただ楽しむもの、物欲を満たすものであればよかったから、生み出すのは簡単だった。 ここに広告やマーケティングが発達し、ブランド戦略が発達した。差別化というのが、企業の最も重要なキーワードとなった。必需品であれば、差別化というものは存在しなかった。差は関係なく、絶対的に役に立つかどうかがすべてであったからだ。 これが、現在の第3の経済成長段階である。次から次へと新製品が生み出され、「新しい」ということが価値そのものとなったのである。 そして現在、これは最終段階を迎えている。なぜなら、人々は「新しい」こと自体に価値を見いださなくなってきたからである。つまり、「新しい」ものに飽きたのである。「新しいもの」を消費することは「新しく」ないのである。新しいものを消費することの繰り返しに飽きたのである。 これに企業はどう対応したか。 新しいぜいたく品を売りつけても、人々は飽きている。あるいは、すぐ次の新しいものに移る。賞味期限が短くなっている。これでは、持続的に儲けられない。 そこで、単なるぜいたく品ではなく、ぜいたく品を必需品に仕立て上げ、すべての人々に永続的に消費させるようにしたのである。必需品たるぜいたく品、やめられないぜいたく品、そう、すべては「麻薬」になったのである』、「「新しい」ものに飽きたのである」、「これに企業はどう対応したか。 新しいぜいたく品を売りつけても、人々は飽きている。あるいは、すぐ次の新しいものに移る。賞味期限が短くなっている。これでは、持続的に儲けられない。 そこで、単なるぜいたく品ではなく、ぜいたく品を必需品に仕立て上げ、すべての人々に永続的に消費させるようにしたのである。必需品たるぜいたく品、やめられないぜいたく品、そう、すべては「麻薬」になった」、なにやら健全とはほど遠い姿だ。
・『かくして「麻薬」は途上国へ 現在の経済成長は、次々と新しい麻薬を生み出して、本当は必要のないぜいたく品を必需品に仕立て上げて、消費を増大させ続けようと、企業がしのぎを削っているのである。 それが、テレビ番組であり、ゲームであり、スマートフォンであり、SNSであり、動画投稿である。スマホは便利だが、本当の必需品は電話やメールだけといってもいいくらいである。仕事や家族間の連絡が取れれば十分だ。しかし、スマホのほとんどの機能、99.9%はそれ以外のエンターテインメント、暇つぶし、寂しさを紛らわすためにある。 麻薬経済の到来である。ということは、みなが中毒になり、社会はおかしくなる。近代資本主義社会は衰退せざるをえなくなるだろう。 このように考えてくると、冒頭の3つの謎がわかるはずだ。第1の先進国が低成長となった理由は明らかだ。新しいぜいたく品を人々は必要としなくなったのであり、麻薬にも限界があるから、消費はこれ以上増えないのだ。だから、量的拡大という経済成長は起きない。 第2に、経済が拡大しないのに、働き手が不足し、インフレが起きるのはなぜか。ぜいたく品と麻薬の生産にかまけたため、必需品の生産が手薄になり、必需品を提供する労働力も不足するようになったからである。しかし、必需品は儲からないから、それを生産する企業は増えない。よって、食料、資源、単純労働、サービス労働の価格高騰が起きる。 第3に、富裕層は、必需品が高くなっても購入できるから問題ないが、貧困層は生活に苦しむ。実質的な格差が拡大する。新しい製品への開発投資に金が向かわないから、投資はほとんどが金融市場に向かう。金融市場に多額の資金が流入すれば、当然値上がりする。バブルになる。富裕層は、資産を増大させる。 ただし、これは評価額にすぎず、このバブルが持続不可能になったときに崩壊する。ただし、庶民にも投資を勧める社会となっているから、ババをつかまされるのは庶民かもしれない。暗号資産でそれは始まっているが、ほかのリスク資産にも波及するだろう。よって、国内の富裕層と貧困層の格差は広がる。 一方、途上国はまだ前述の経済成長の第1段階および第2段階だったから、高成長が続いた。必需品が普及し、効率化する過程にあった。だから、国家間の格差は縮まったのである。 しかし、まもなく彼らも麻薬経済の第3段階の成長局面に入ってくるだろう。そして、世界全体で近代資本主義は衰退していくのである。(今回は競馬コーナーはお休みです。ご了承ください)』、「麻薬経済の到来である。ということは、みなが中毒になり、社会はおかしくなる。近代資本主義社会は衰退せざるをえなくなるだろう」、ここまでくると、ついていけない。ここまでは、それなりに、刺激的だったが、ここからは余りに奇想天外だ。「麻薬経済」なら「衰退せざるをえなくなる」というのは理解はできるが、次の社会の方向性を示さずに、終わるのはいただけない。小幡氏も時には、駄作もあるようだ。
先ずは、6月14日付けダイヤモンド・オンラインが掲載した立命館大学政策科学部教授の上久保誠人氏による「岸田首相の“新しい資本主義”に「今更感」が強い理由、何が足りない?」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/304720
・『岸田文雄首相が掲げる経済政策「新しい資本主義」の実行計画の骨子が明らかになった。だが筆者は、その内容に違和感を覚えた。決して目新しいものではなく、以前から認識されていながら有効な手を打てなかった「古い政策課題」ばかりが並んでいたからだ。新政策はなぜ新規性がなく、どのような視点が欠けているのか』、「決して目新しいものではなく、以前から認識されていながら有効な手を打てなかった「古い政策課題」ばかりが並んでいた」、羊頭狗肉の酷い話だ。
・『「新しい資本主義」に目新しさは全くない 岸田文雄首相が掲げる経済政策「新しい資本主義」の実行計画と「骨太の方針」が6月上旬に閣議決定された。岸田首相は「新しい資本主義」について、「一言で言うならば、資本主義のバージョンアップ」と説明している。 だが、この経済政策は目新しさが全くない。この連載では、自民党はほとんど全ての政策分野に取り組んでいながら、それが「Too Little(少なすぎる)」「Too Late(遅すぎる)」「Too Old(古すぎる)」ことが問題だと批判してきた(本連載第290回)。「新しい資本主義」は、そのことをあらためて痛感させる内容だった。 「新しい資本主義」の実行計画と「骨太の方針」の根幹をなすのは、「人」「科学技術・イノベーション」「スタートアップ」「グリーン・デジタル」の4分野に重点的に投資するという方針だ。 「人」への投資では、これまで以上に「賃上げ」に取り組むとともに、非正規雇用も含めた約100万人に向けて能力開発や再就職の支援を行うとしている。 ただし、この「賃上げ」については、安倍晋三政権期(第2次)にさんざん民間企業に呼び掛けたが、思うような成果を上げられなかったことを忘れてはいけない(第80回・p6)。 当時は「アベノミクス」による「円安」によって輸出企業の利益が増え、「失われた20年」という長期経済停滞から脱することができた。だが、従業員の賃金は一向に上がらなかった。アベノミクスの最も批判される部分だ(第163回)。 第2次安倍政権の約8年弱の期間、グローバリゼーションによる厳しい競争にさらされた企業は内部留保をため込むばかりで、賃上げを行わなかった。また、一部の企業は年功序列の雇用慣行を廃し、終身雇用の正社員を減らして非正規雇用を増やすことでコストダウンを続けた。 正規・非正規雇用の格差問題が国会で議論されたのは、2001年~06年の小泉純一郎政権期までさかのぼる。だが、この問題は長年解決せず、21年4月にようやく、全ての企業を対象とした「同一労働同一賃金」の原則に基づく政策が打ち出された。 だが、政策の裏をかき、正社員の賃金を下げて非正規雇用に合わせることで同一賃金とする企業が少なくなかった。その結果、格差は縮まらず、賃金も一向に上がってこなかった。 「新しい資本主義」の実行計画には、そうした過去の過ちを繰り返さないという視点も盛り込むべきではないだろうか』、「「同一労働同一賃金」の原則に基づく政策が打ち出された。政策の裏をかき、正社員の賃金を下げて非正規雇用に合わせることで同一賃金とする企業が少なくなかった。その結果、格差は縮まらず、賃金も一向に上がってこなかった」、「「新しい資本主義」の実行計画には、そうした過去の過ちを繰り返さないという視点も盛り込むべきではないだろうか」、その通りである。
・『AI投資においては米国の事例を他山の石とすべき 科学技術・イノベーション」への投資では、大学を支援する10兆円規模のファンドを立ち上げ、人工知能(AI)や量子技術などの高度な研究活動に投資するとしている。加えて、AIの活用や研究開発を国家戦略に据え、科学技術投資の抜本拡充を図る方針だ。 しかし、AIを国家戦略に据えることは、諸外国では10年以上前から取り組まれており、目新しさはない(第113回)。そして、AIの研究や利活用を進めたとしても、必ずしも全国民が得をするとは限らないという結果も出ている。 例えば、米国ではバラク・オバマ政権期(09~17年)から、AI活用を国家戦略に据えてきた。オバマ政権は「製造業を国内に残す唯一の方法は、諸外国に比べて高い生産性を実現することだ」と主張し、多数の雇用を生み出す製造業の米国回帰をAI導入によって目指そうとした。 当時の米国は、工場のオペレーションや製造ラインを、AIを搭載した次世代ロボットに置き換えて自動化することを試みた。安い労働コストを求めて海外に移転した工場を米国に戻すべく、自動化によって人件費を低減しようとしたのだ。 その一方で、「製品設計」「工程管理」「製品の販売」「マーケティング」といった付加価値の高い分野では、優秀な人材の雇用を生み出そうとした。また、これらの作業を担う高度人材を育てるための教育を充実させた。 続くドナルド・トランプ政権期(17~21年)でも、この国家戦略は粛々と続いていた。トランプ氏が「アメリカ・ファースト(米国第一主義)」を打ち出し、国内外の企業に対して、工場を米国に移転させることを強く要求したのは周知の通りだ(第150回)。) 当時、多くの企業がトランプ大統領に従い、工場を米国に移転させた。トランプ政権期、コロナ禍が起こるまでは米国経済は非常に好調だった。しかし、好調な経済にもかかわらず、労働者の雇用は増えなかった。 工場の多くが自動化されたことで、未熟練労働者の働き口がなくなったのだ。そのため、石炭や鉄鋼といった産業の衰退が進む「ラストベルト」地域の労働者が、「トランプ大統領はうそつきだ」と反発する事態を招いた。 だが今の日本は、米国の事例を他山の石としておらず、いまだにAIを「未熟練労働者の代替」だと位置付けている印象だ。かといって、米国のように国を挙げて工場の全面自動化を進めてきたわけでもなく、全てが中途半端である。 その要因はいくつか考えられる。一つは年功序列・終身雇用が今も根強く残り、非正規社員を切り捨ててでも正社員の雇用を守ろうとする企業が多いこと。もう一つは、1980年代に通商産業省(当時)主導で、欧米に先駆けて初期のAIを導入するプロジェクトを推進し、失敗した悪夢があることだ。 もし岸田首相が、新政策によってこうした状況を変えたいのであれば、単にAI関連の研究活動に投資するだけでは不十分だ。過去の失敗事例を踏まえて「AIの発展に伴う雇用面のデメリット」という視点を盛り込み、それに対する改善策を併せて議論すべきではないだろうか』、「1980年代に通商産業省(当時)主導で、欧米に先駆けて初期のAIを導入するプロジェクトを推進し、失敗した悪夢がある」、初めて知った。「単にAI関連の研究活動に投資するだけでは不十分だ。過去の失敗事例を踏まえて「AIの発展に伴う雇用面のデメリット」という視点を盛り込み、それに対する改善策を併せて議論すべき」、その通りだ。
・『日本のスタートアップ投資も遅れており自慢できるレベルではない 実行計画における「スタートアップ」の項目では、新興企業への投資額を5年で10倍に増やすことを視野に入れた「5カ年計画」を年末に策定するとしている。 だが、日本政府のスタートアップ支援は他の先進国に比べて相当に遅れており、今さら「新しいことをやっている」とアピールしていることに違和感を覚えざるを得ない。 というのも、私が大学生だった約35年前、すでに「米国の大学では、最も優秀な学生は起業する」と聞いたものだった。 例えば、大学を中退したスティーブ・ジョブズが、ビデオゲーム会社アタリを経てAppleを共同で創業したのが1976年。ビル・ゲイツがハーバード大学を休学し、Microsoftを共同経営でスタートさせたのは75年だった。 80年代、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれ、日本型の年功序列・終身雇用の企業システムは世界に称賛された時期があった。米国経済は停滞し、日本に追い越されるのではないかと言われていた。 だが、その時期の若者の起業によって生まれた萌芽は、90年代以降、米国経済を劇的に復活させた「IT革命」に結実した。 前述のスティーブ・ジョブズらに加えて、Googleを起業したラリー・ペイジやセルゲイ・ブリン、Facebookを起業したマーク・ザッカーバーグ、Amazon.comを起業したジェフ・ベゾスらが登場して、「GAFAM」と呼ばれる国際的巨大IT企業群が次々と米国で台頭したのだ。) それに伴って、世界における「時価総額ランキング」の顔ぶれも変動。かつて上位を占めていた日本企業は、今では上記の巨大IT企業群に取って代わられてしまった。 企業の開業率でも明確な差がついており、欧米諸国では10%前後に上るのに対し、日本では4.2%にとどまっている(19年時点)。 また、スタートアップに対するM&A(企業の合併・買収)も同様で、18年時点での日本における件数はわずか15件。米国の約1%にすぎなかったという(産経新聞『スタートアップ支援、政府に司令塔、新しい資本主義実現会議、実行計画に反映へ』2022年4月12日)。 米国のみならず中国でも、AlibabaをはじめとするIT大手の成長は著しく、星の数ほどのスタートアップが今も誕生していることはいうまでもない。 岸田首相は、今年を「スタートアップ創出元年」とする意向だという。だが、「元年」だといっていること自体が、世界からすれば笑いもののレベルなのだ。 これだけ後れを取っている中、投資額を増やすだけで、世界と伍して戦えるスタートアップが出てくるのか。教育面など、他の領域においても抜本的なテコ入れが不可欠である』、「岸田首相は、今年を「スタートアップ創出元年」とする意向」、これは「岸田首相」オリジナルではなく、官邸の経産省出身官僚の考えだろうが、いまさら「創出元年」でもあるまい。
・『脱炭素シフトの潮流の中で日本のエネルギー企業は遅れている 「グリーン・デジタル」投資では、「脱炭素社会」の実現のために、今後10年間に官民協調で150兆円の関連投資を行う計画だ。だが、これも胸を張って自慢するような話ではない。 というのも、現在、化石燃料を扱う企業に対して「ダイベストメント(投資撤退)」を宣言する世界の投資家・金融機関が急増している(週刊エコノミストOnline『沸騰!脱炭素マネー:環境対応が遅れる日本企業から投資家が資金を引き揚げている……石油メジャーでさえ「最エネ転換」を宣言 環境対応できない企業には淘汰の道が待っている』)。 そして、石油資源開発(JAPEX)、中国電力、INPEX(旧国際石油開発帝石)、電源開発(J-POWER)、北陸電力、北海道電力、出光興産、ENEOSホールディングスなどの日本企業が、「脱炭素事業戦略」が遅れていることを理由として、ダイベストメントされる事例が増えている。いまだに、石炭火力発電所を多く運用しているからだ。 加えて、日本は「再生可能エネルギー」への取り組みが遅れている。それは、安倍政権以降、東日本大震災によって国内の全基が停止した原子力発電所の再稼働を最優先する方向でエネルギー政策を進めてきたからである。 岸田首相の“新しい資本主義”に「今更感」が強い理由、何が足りない? 一方、海外では、ただでさえ強大な力を持っていた「石油メジャー」が再生可能エネルギーに取り組み、「総合エネルギー企業」とでも呼ぶべき企業体への変貌を遂げている。 例えば英BPは、再生可能エネルギーの発電所などを中心とした脱炭素関連事業の年間投資額を、30年までに現状の10倍となる約50億ドル(約5300億円)に拡大する計画だ。水素やCCUS(二酸化炭素の貯蔵・利用)事業も手掛けながら、石油・天然ガスの生産量を削減し、30年までに二酸化炭素排出量を最大40%削減する方針である。 日本のエネルギー企業がダイベストメントされる一方で、海外大手はさらに先に進もうとしているのだ。この差を埋めるにはどうすべきか、日本では官民連携でより深い議論を行うべきではないか』、「日本のエネルギー企業がダイベストメントされる一方で、海外大手はさらに先に進もうとしているのだ。この差を埋めるにはどうすべきか」、マスコミももっと政策を掘り下げて報道すべきだろう。
・『全てが中途半端な自民党政治は厳しく批判されるべき この連載では、自民党の最大の特徴を「キャッチ・オール・パーティー(包括政党)」だと指摘してきた(第169回・p3)。要は、政策の「総合商社」か「デパート」のようなものであり、一応全ての政策課題に対応している。「新しい資本主義」も、現在の全ての政策課題を一覧に並べたようなものだ。 だが、残念なことに、重点投資4分野は新しい政策課題ではない。以前から認識されていながら、有効な手を打てなかった「古い政策課題」ばかりだ。 それらの課題解決のためのプロセスを決めて、予算を組んで実行して取り組むのは悪いことではない。 だが、そもそも欧米や中国などが何年も前に済ませていることを、「新しいことをやります」と胸を張ってアピールするような自民党や官僚組織の姿勢は、真摯(しんし)さも謙虚さも著しく欠いている。 岸田首相は“どや顔”で計画を発表するだけでなく、「なぜ、これまで長年にわたって有効な手を打てなかったのか」「今回の施策は、従来とどう違うのか」といったポイントが国民に伝わるよう、より詳細な説明を行うべきではないだろうか』、「「なぜ、これまで長年にわたって有効な手を打てなかったのか」「今回の施策は、従来とどう違うのか」といったポイントが国民に伝わるよう、より詳細な説明を行うべき」、同感である。
次に、10月14日付け現代ビジネスが掲載したジャーナリストの佐々木 実氏による「市場原理主義という“怪物”に戦いを挑み続けた「日本人経済学者」がいた…! いま、宇沢弘文が注目を集めるわけ」を紹介しよう。
・『戦後日本を代表する経済学者にして思想家、宇沢弘文(うざわ・ひろふみ)。 格差の増大や環境破壊など、資本主義が持つ「陰」の部分に1970年代から気づいていた宇沢は、「社会的共通資本」という概念をベースに、万人が幸福に暮らすことを目指す、新たな資本主義の枠組みを構築しようとしていた。 その思想は半世紀後の現在、再び大きな注目を集めるようになっている。 そもそも、我々はなぜこのような市場原理主義が幅を利かせるような世界に住んでいるのか。 資本主義の世界に暮らす我々の誰もが幸せに生きられるような社会はどうやって創り出せるのか。 今の時代だからこそ読むべき思想家を100ページ程度で語る「現代新書100(ハンドレッド)」シリーズの最新刊、『今を生きる思想 宇沢弘文 新たなる資本主義の道を求めて』から、「はじめに」をご紹介する』、「宇沢は、「社会的共通資本」という概念をベースに、万人が幸福に暮らすことを目指す、新たな資本主義の枠組みを構築しようとしていた」、構築中に倒れられたのは、かえすがえすも残念だ。
・『「資本主義」という問い 資本主義のあり方をめぐって、世界で大きな潮流の変化が起きはじめている。 アメリカの主要企業の経営者をメンバーとするビジネス・ラウンドテーブル(BRT)が「株主資本主義からステークホルダー資本主義への転換」を掲げたのは2019年8月のことだった。株主の利益を極大化することだけを考えるのではなく、顧客や従業員、取引先、地域社会などにも配慮した経営に舵を切ると宣言したのだった。 翌年はじめのダボス会議でさっそく取り上げられ、「ステークホルダー資本主義」はビジネス界の合言葉のように広まった。 日本では、政府が長年にわたって株主資本主義を核とするアメリカ型資本主義をお手本に「改革」を進めてきた。アメリカ財界のステークホルダー資本主義宣言が影響を与えないはずはない。 岸田文雄首相が「新しい資本主義」を唱え、政府に「新しい資本主義実現会議」まで設けたのも、そうした流れの一環と捉えることができる。 株主の利益だけを追い求める企業活動は、所得格差の拡大を通じて、著しく不平等な社会をつくりだすことになった。環境への配慮を欠いた生産活動は、地球温暖化など深刻な環境問題をもたらしている。 そうした反省の気運が、ビジネスの現場で市場原理主義を主導してきた経営者にさえ生まれている。 ESG投資の爆発的な流行も、資本主義の見直しという文脈で理解できる。 ESG投資は、環境(Environment)、社会(Social)、企業統治(Governance)に配慮しているかどかを基準に、投資先の企業を選別する。国連で2015年に採択されたSDGs(持続可能な開発目標)と理念を共有する投資活動といってもいい。 ESGやSDGsが国際的な支持を得ているのは、これまでの資本主義が環境問題をないがしろにしてきたことの裏返しである』、「ESGやSDGsが国際的な支持を得ているのは、これまでの資本主義が環境問題をないがしろにしてきたことの裏返し」、その通りだ。
・『市場原理主義の教祖 いま起きている変化は、長らく世界を牽引してきた市場原理主義が急速に支持を失っていることを物語っている。 市場原理主義の教祖的存在だったのが、アメリカのノーベル賞経済学者ミルトン・フリードマン(1912─2006)である。 小さな政府、国営・公営事業の民営化、規制の緩和・撤廃を唱えるフリードマンは、1980年代以降の市場原理主義の潮流をつくりだした立役者である。ロナルド・レーガン大統領のブレインとなり、イギリスのマーガレット・サッチャー首相からも支持された。狭い学界ではなく、現実の政治に働きかけることで、世界最強のインフルエンサーとなったのである。 フリードマンの特徴は、市場機構への絶対的な信頼と、政府機能(公的部門)への徹底した不信だ。彼の資本主義観は『資本主義と自由』(日経BP社)のつぎの文章によくあらわれている。 「市場が広く活用されるようになれば、そこで行われる活動に関しては無理に合意を強いる必要がなくなるので、社会の絆がほころびるおそれは減る。市場で行われる活動の範囲が拡がるほど、政治の場で決定し合意を形成しなければならない問題は減る。そしてそういう問題が減れば減るほど、自由な社会を維持しつつ合意に達する可能性は高まっていく」 民主主義的な意思決定を、市場での取引が代替できるという見解である。市場領域をひろげていけば、「社会の絆がほころびるおそれは減る」とフリードマンは言っているが、むしろ、あらゆる領域を市場化すれば、「社会の絆」に頼る必要などなくなるという考え方である。 「市場=社会」がフリードマンの理想社会であるようだ』、「あらゆる領域を市場化すれば、「社会の絆」に頼る必要などなくなる」、さすが「市場原理主義の教祖」らしい考え方だ。
・『フリードマンに恐れられた日本人 市場原理主義の思想潮流が世界を覆う前、1960年代からフリードマンと直接対決を繰り広げていた日本人がいたことはあまり知られていない。本書の主人公、宇沢弘文(1928─2014)である。 宇沢は1964年にシカゴ大学の教授に就任し、市場原理主義の総本山「シカゴ学派」の領袖であるフリードマンと同僚になった。市場原理主義が世界を席巻するよりずっと前から、フリードマンに面と向かって異議を唱えていたのである。 シカゴ大学でフリードマンと対峙していたころ、宇沢はアメリカ経済学界で一二を争う若手理論家とみなされていた。フリードマンは著名ではあったが、最先端の理論づくりの現場にかぎれば、16歳も若い宇沢のほうが勢いがあり影響力をもっていた。 アメリカ経済学界での評価が絶頂にあるとき、宇沢はベトナム戦争に異を唱えて突然、アメリカを去った。フリードマンは、帰国後の宇沢が日本語で書いた文章も英語に翻訳させて丹念にチェックしていた。宇沢がフリードマンの学説を批判することに、過剰なほど神経を尖らせていたのである。 アメリカを去ったあと、宇沢はアメリカの経済学者についてこんな総括をしている。 「事実、アメリカの経済学者は、市場機構について一種の信念に近いような考え方をもっているともいえる。利潤追求は各人の行動を規定するもっとも重要な、ときとしては唯一の動機であると考え、価格機構を通じてお互いのコンフリクトを解決することが最良の方法であるという信念である。新古典派理論はこのような信念を正当化するものにすぎないともいえるのであって、理論的な帰結からこのような信念が生れるのではない。この現象はとくにいわゆるシカゴ学派に属する人々について顕著にみられるが、これは必らずしもシカゴ学派に限定されるものではなく、広くアメリカの経済学者一般に共通であるともいえよう」(『自動車の社会的費用』岩波新書) 宇沢が指摘しているのは、市場原理主義的な傾向はフリードマン率いるシカゴ学派に顕著にみられるけれども、しかしそれは、アメリカの経済学者一般に共通している信念だということである。フリードマンひとりを批判して済む問題ではないということだ』、「シカゴ大学でフリードマンと対峙していたころ、宇沢はアメリカ経済学界で一二を争う若手理論家とみなされていた。フリードマンは著名ではあったが、最先端の理論づくりの現場にかぎれば、16歳も若い宇沢のほうが勢いがあり影響力をもっていた。 アメリカ経済学界での評価が絶頂にあるとき、宇沢はベトナム戦争に異を唱えて突然、アメリカを去った」、「宇沢が指摘しているのは、市場原理主義的な傾向はフリードマン率いるシカゴ学派に顕著にみられるけれども、しかしそれは、アメリカの経済学者一般に共通している信念だということである。」、なるほど。
・『社会的共通資本の思想的源流 宇沢は、半世紀も先取りして、行き過ぎた市場原理主義を是正するための、新たな経済学づくりに挑んだ。 すべての人々の人間的尊厳が守られ、魂の自立が保たれ、市民的権利が最大限に享受できる。そのような社会を支える経済体制を実現するため、「社会的共通資本の経済学」を構築した。 この小著では、経済学の専門的な話はできるだけ避け、宇沢が「社会的共通資本」という概念をつくりだした経緯や思想的な背景に焦点をあててみたい。 宇沢が環境問題の研究を始めたのは半世紀も前であり、地球温暖化の問題に取り組んだのは30年あまり前からだった。先見の明というより、問題を見定める際の明確な基準、つまり、思想があったからこそ、いち早く問題の所在に気づくことができたのである』、「宇沢が環境問題の研究を始めたのは半世紀も前であり、地球温暖化の問題に取り組んだのは30年あまり前からだった。先見の明というより、問題を見定める際の明確な基準、つまり、思想があったからこそ、いち早く問題の所在に気づくことができたのである」、さすがである。
・『不安定化する世界 ロシアがウクライナに侵略して戦争が始まったとき、欧州のある金融機関が、武器を製造する企業への投資をESG投資に分類し直すという動きがあった。 ふつう、ESG投資家は人道主義の観点から、軍需産業への投資には抑制的だ。しかし、アメリカなどがウクライナに武器を供与する現実を目の当たりにして、「防衛産業への投資は民主主義や人権を守るうえで重要である」と態度を豹変させたのである。 ESGやSDGsに先駆けて「持続可能な社会」の条件を探求した宇沢なら、このようなESG投資を認めることは絶対にあり得ない。思想が許さないからだ。 「ステークホルダー資本主義」「ESG投資」「SDGs」を叫んでみたところで、一本筋の通った思想がなければ、結局は換骨奪胎され、より歪な形で市場原理主義に回収されてしまうのがオチだ。 資本主義見直しの潮流が始まった直後、世界はコロナ・パンデミックに襲われ、ウクライナの戦争に直面した。危機に危機が折り重なって、社会は混沌の度を深めている。 宇沢の思想に共鳴するかしないかが問題なのではない。 生涯にわたって資本主義を問いつづけた経済学者の思考の軌跡は、かならずや混沌から抜け出すヒントを与えるはずである』、「ESGやSDGsに先駆けて「持続可能な社会」の条件を探求した宇沢なら、このようなESG投資を認めることは絶対にあり得ない。思想が許さないからだ」、「生涯にわたって資本主義を問いつづけた経済学者の思考の軌跡は、かならずや混沌から抜け出すヒントを与えるはずである」、そうした論考が出てくることを大いに期待したい。
第三に、12月10日付け東洋経済オンラインが掲載した 慶應義塾大学大学院准教授の小幡 績氏による「資本主義が静かに衰退を始めていると言えるワケ 「世界経済の3つの謎」をどう考えばいいのか」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/638766
・『資本主義は崩壊しないが、今、静かに衰退を始めている。 「近代資本主義が終わった」と歴史的に認識されるのは、22世紀かもしれない。だがそのとき、「衰退が始まったのは21世紀初頭からだった」と明らかになるだろう』、興味深そうだ。
・『「近代資本主義の終焉」でとらえる「世界経済3つの謎」 この連載は競馬をこよなく愛するエコノミスト3人による持ち回り連載です(最終ページには競馬の予想が載っています)。記事の一覧はこちら なぜ、資本主義が衰退を始めていると言い切れるのか。それは、そう考えれば、現在の経済的な常識、経済学では説明できないことの多くが、一貫したストーリーとして描くことができるからだ。 現在、世界経済は3つの大きな謎に包まれている。 第1に、2008年の世界金融危機(リーマンショック)後、長期停滞論が台頭してきた。先進国の成長経済は終わってしまったのか。21世紀に入って、なぜ急に成長が終わってしまったのか。これが第1の謎である。 第2の謎は、なぜ急にインフレーションが起きたのか、ということだ。 先進国経済は、低成長かつ不況でありながら、インフレーションが40年ぶりの水準まで高まっている。不況にもかかわらず、賃金は上昇している。失業率は低いままである。なぜ、低成長かつ不況なのに、インフレーションが起きているのか。賃金が上昇し、失業率が低いのはなぜか。これが第2の謎である。 第3は、格差拡大の謎である。1970年代までは、格差といえば南北問題であり、先進国と発展途上国の所得格差の拡大であった。経済理論では、途上国が安価な労働力で生産を拡大し、自由貿易が行われれば、キャッチアップがすぐに実現するはずであった。 実際には、そうはならなかった。20世紀末には、国家間の格差が理論と異なり現実には解消されないことが、開発経済学における最大の謎であった。ところが、21世紀になると、多くの途上国が著しい経済成長を遂げ、新興国と呼ばれるようになった。突然、21世紀にはキャッチアップが実現し、謎でなくなった。その一方で、1973年のオイルショック以降、国内の格差が拡大を始め、21世紀にはその差を急激に広げてきた。 なぜ、21世紀になって、20世紀には起こりえないと思われていた国家間の経済格差が急に縮小し、一方で、1973年以降、国内の格差が急激に拡大したのか。これが第3の謎である。 これらは、近代資本主義が終わろうとしている、ととらえれば、構造的に説明できる。) 近代資本主義は事実上、1492年に始まった。クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸に流れ着いた年である。コロンブスだけでなく、金(カネ)を稼ごうと、多くの西欧の冒険家が世界へ渡っていった。いわゆる大航海時代の始まりだ。近代資本主義とは、移動、拡大、膨張の時代のことである』、「近代資本主義とは、移動、拡大、膨張の時代のこと」、「大航海時代の始まり」、なるほど。
・『「2つの外部」が近代資本主義を動かした 西欧諸国は、略奪、征服、交換で、そのほかの地域から富を奪った。奪った分だけ経済は拡大した。 閉じていた経済では、技術革新があっても、品質が改良されるだけで、その改良分を以前よりも多く払うことはできない。所得は変わっていないから、その財に払える価格は前と同一で、その場合、経済的には価値は同じ(不変)となり、経済は拡大しない。よって経済成長もない。これが、中世までの繰り返しの循環経済である。 それが1492年以降、外部が生まれたことで、外部からの富の流入が経済の拡大をもたらした。所得が増えたから、払う総額も増えた。これに呼応して、売れる商品を作り始めた。 そして、17世紀には、さらなる経済のテイクオフ(離陸)が起きた。ぜいたくの始まりである。ヴェルナー・ゾンバルトが『恋愛と贅沢と資本主義』で主張する、近代資本主義の本格的な始まりのメカニズムである。伴侶や恋人を見せびらかすための宮廷でのパーティというものが「発明」されたことによる需要増加である。 それまでは、妻や恋人は人目につかないように隠していたが、彼女たちを着飾らせて、躍らせて、みなに見せびらかす、ということが始まったのである。ヴェルサイユ宮殿は、ルイ14世が妾のラ・ヴァリエールのために造り、そこは豪華絢爛に飾り付けられ、パーティが行われたと言われる。「国王に負けじ」とそのほかの貴族たちも妻や妾を着飾らせ、パーティで見せびらかした。女たちも、影の存在から一躍主役として舞台に踊り出た。ぜいたくは無限に膨らんだ。 これこそが、近代資本主義を膨張軌道に乗せた、循環経済の外部からの有効需要の注入であった。2つの外部の存在が、近代資本主義を動かしたのである。) 略奪、交換の対象となる外部の経済。植民地の経済。ここからの富の流入が新しい需要になって、経済を膨張させた。中南米の銀山からのマネーの流入がインフレを起こしたといわれるが、銀はマネーであると同時に、銀という富だったから、現在の中央銀行のマネーサプライと異なり、実体経済をも膨張させたのである。 そして、西欧の各国内でも、循環経済の外から富が流入した。国王や領主貴族がため込んだ富を、ぜいたくとして消費した。宮廷の周りの職人たちは、宮廷のぜいたく需要で所得を得た。これが支出され、経済は循環でなく膨張を始めた。 革命が起きても、この膨張は止まらなかった。何より、ブルジョワジーたちが堂々と貴族のマネを行ったからである。ぜいたくは、経済の富裕層全体に広がった。経済の膨張、つまり、バブルは始まった。近代資本主義というバブルは完全にテイクオフしたのである』、「閉じていた経済では、技術革新があっても、品質が改良されるだけで、その改良分を以前よりも多く払うことはできない。所得は変わっていないから、その財に払える価格は前と同一で、その場合、経済的には価値は同じ(不変)となり、経済は拡大しない。よって経済成長もない。これが、中世までの繰り返しの循環経済」、「1492年以降、外部が生まれたことで、外部からの富の流入が経済の拡大をもたらした。所得が増えたから、払う総額も増えた・・・17世紀には、さらなる経済のテイクオフ(離陸)が起きた。ぜいたくの始まりである」、「ぜいたく」が「経済成長」をもたらしたとは初めて知った。
・『19世紀の途中まで富の投入は限定的だった しかし、ここに、さらなる深い謎が生まれる。それならば「なぜ19世紀後半まで経済成長が起きなかったのか。同様に、なぜ19世紀半ばまで人口もはっきりとは増加しなかったのか。産業革命は18世紀にとっくに始まっているのに、数多くの技術革新が起きたのに、なぜ本格的な人口増加や経済成長が始まらなかったのか」ということだ。 上述の需要増加は、第1が外部からの略奪品、交易品であるが、これらは庶民のための必需品ではなく、富裕層のための嗜好品あるいは交換用の商品や商品作物である。第2のぜいたく需要は、まさにぜいたく品である。これらの獲得、生産のために資源と労働が投入された。 つまり、富は、衣食住という生存維持水準の必需品需要を満たすためには投入されなかったのである。だから人口は増えなかった。作物の収量が増えても、人口増加は一時的で、いわゆるマルサスのわな、つまり、食料生産の増加と人口増加のスピードは、前者が算術級数的であるのに対し、後者が幾何級数的であり、圧倒的に大きいから、すぐに食料が不足するようになった。その結果、人口が増え続けることはなかったのである。 一方、ぜいたく品の生産は増え、富裕層の消費は増えていった。しかし、経済全体で見れば、それは限られていた。だから、経済成長も人口増加も全体としては起きなかったのである。) これが一気に変化したのが、19世紀後半である。19世紀前半に多くの必需品に関する発明が行われた。電信、電気、そして電話。蒸気機関は内燃機関となり、内燃機関が動力として使われるようになった。これが欧米の経済を一新した。 では、それまでのぜいたく品生産、ぜいたく品需要と何が違ったのか。これらの技術革新は、交通・通信革命であったのだ。また、それ以前の技術革新とは何が違ったのか。それらの技術革新は時間を節約したのである。人々の時間に余剰をもたらしたのである。 ぜいたく品の生産、資源をぜいたく品に変えること、これはただの変形にすぎない。普通の服がきれいな服、豪華な服に変わるだけである。しかし、交通・通信革命で移動や意思疎通の時間を大幅に短縮することに成功すると、生産のための最大のリソースである時間が余る。これが新たな財の生産に向かい、経済全体の生産量は飛躍的に増加したのである』、「これらの技術革新は、交通・通信革命であったのだ。また、それ以前の技術革新とは何が違ったのか。それらの技術革新は時間を節約したのである。人々の時間に余剰をもたらしたのである」、「交通・通信革命で移動や意思疎通の時間を大幅に短縮することに成功すると、生産のための最大のリソースである時間が余る。これが新たな財の生産に向かい、経済全体の生産量は飛躍的に増加したのである」、なるほど。
・『一段と時間の節約が進んだ20世紀 さらに、20世紀になると、家事労働革命が起きる。水をくみに行かずに上下水道により家庭に水が届き、廃棄が行われる。洗濯機、掃除機、冷蔵庫により、それまでほとんどの時間を家事に使っていたのが、ほかの仕事ができるようになる。ミシンの普及により裁縫の時間も激減する。 また、農作業の時間が増え、賃金がもらえる仕事ができるようになる。農業にも動力が使われるようになり、生産力が増加する。冷蔵船のさらなる発達により、植民地から食料、とりわけ肉が輸入できるようになる。このように、衣食住の効率が大幅に上昇し、庶民の時間も余るようになる。それが労働投入増となる。よって生産力は急増する。 そして、自動車の普及である。移動時間が減る。馬のための施設、土地、汚物処理が要らなくなる。土地が余り、時間が余り、労働が増える。生産力が急増する。 これで、99%の庶民も含む社会全体の人々の生活水準が上昇し、市場向けの生産のための労働力の投入量が急増したのである。これで経済は急成長を始めた。そして、人口も、マルサスのわなを超えて増加を続けるようになった。これが、19世紀後半からの高成長時代の第1の経済成長である。 では、次の第2の成長とは何か。それは、庶民の時間が余るということである。 第1の成長と同じに見えるが、まったく違う。逆側である。すなわち、庶民は家事労働などから解放され、農作業の時間も増やし、賃金を得ることのできる外での労働時間も増やし、所得を増やした。さらなる技術進歩による必需品の効率的な生産がさらに進んだ。この効率化により、さらに庶民の時間が余った。 そして、余暇が生まれた。娯楽、レジャーの誕生である。庶民が、かつての国王、貴族のぜいたく、ブルジョワのぜいたく、それにならって、余った時間を消費活動に費やすようになった。エンターテインメント消費が誕生した。 これで消費が爆発した。庶民までがぜいたく品を消費するようになった。つまり、技術革新により必需品の生産の効率化が進み、時間が余り、第1には労働投入時間の増加となり所得を増やしたが、第2には、余った時間をぜいたく消費に充てるようになり、消費が増大したのである。 まず供給力が増え、次に需要が増えたのである。ここに成長は加速した。これがアメリカの20世紀の成長であり、日本の高度成長である』、「エンターテインメント消費が誕生した。 これで消費が爆発した。庶民までがぜいたく品を消費するようになった。つまり、技術革新により必需品の生産の効率化が進み、時間が余り、第1には労働投入時間の増加となり所得を増やしたが、第2には、余った時間をぜいたく消費に充てるようになり、消費が増大したのである。 まず供給力が増え、次に需要が増えたのである。ここに成長は加速した。これがアメリカの20世紀の成長であり、日本の高度成長である」、このように歴史的に整理されると理解し易い。
・『「新しい」が価値そのものになった しかし、これはオイルショックで止まった。必需品生産の効率化、必需品の技術革新による進歩が一巡して終わったのである。 いや、本来は、さらなる必需品の技術進歩も、物理的、技術的には可能だった。しかし、それは経済的には合理的ではなかった。なぜなら、すべての人々がぜいたく品の消費を始めたからだ。ぜいたく品は好奇心をひきつけ、目新しさが欲望を刺激したからだ。 新しいぜいたく品、イノベーションという名の下に、次々と新製品を売りつけるほうが手っ取り早く売れた、儲かったからである。必需品はみなが経験済みである。だから、本当に進歩しているか、必要な新製品か、誰にでもわかるから、ごまかしが利かない。役に立つ技術進歩が難しいのである。 一方、新しい製品は、要は新しければよかった。役に立たなくても、エンターテインメントだから、必要でないものであり、ただ楽しむもの、物欲を満たすものであればよかったから、生み出すのは簡単だった。 ここに広告やマーケティングが発達し、ブランド戦略が発達した。差別化というのが、企業の最も重要なキーワードとなった。必需品であれば、差別化というものは存在しなかった。差は関係なく、絶対的に役に立つかどうかがすべてであったからだ。 これが、現在の第3の経済成長段階である。次から次へと新製品が生み出され、「新しい」ということが価値そのものとなったのである。 そして現在、これは最終段階を迎えている。なぜなら、人々は「新しい」こと自体に価値を見いださなくなってきたからである。つまり、「新しい」ものに飽きたのである。「新しいもの」を消費することは「新しく」ないのである。新しいものを消費することの繰り返しに飽きたのである。 これに企業はどう対応したか。 新しいぜいたく品を売りつけても、人々は飽きている。あるいは、すぐ次の新しいものに移る。賞味期限が短くなっている。これでは、持続的に儲けられない。 そこで、単なるぜいたく品ではなく、ぜいたく品を必需品に仕立て上げ、すべての人々に永続的に消費させるようにしたのである。必需品たるぜいたく品、やめられないぜいたく品、そう、すべては「麻薬」になったのである』、「「新しい」ものに飽きたのである」、「これに企業はどう対応したか。 新しいぜいたく品を売りつけても、人々は飽きている。あるいは、すぐ次の新しいものに移る。賞味期限が短くなっている。これでは、持続的に儲けられない。 そこで、単なるぜいたく品ではなく、ぜいたく品を必需品に仕立て上げ、すべての人々に永続的に消費させるようにしたのである。必需品たるぜいたく品、やめられないぜいたく品、そう、すべては「麻薬」になった」、なにやら健全とはほど遠い姿だ。
・『かくして「麻薬」は途上国へ 現在の経済成長は、次々と新しい麻薬を生み出して、本当は必要のないぜいたく品を必需品に仕立て上げて、消費を増大させ続けようと、企業がしのぎを削っているのである。 それが、テレビ番組であり、ゲームであり、スマートフォンであり、SNSであり、動画投稿である。スマホは便利だが、本当の必需品は電話やメールだけといってもいいくらいである。仕事や家族間の連絡が取れれば十分だ。しかし、スマホのほとんどの機能、99.9%はそれ以外のエンターテインメント、暇つぶし、寂しさを紛らわすためにある。 麻薬経済の到来である。ということは、みなが中毒になり、社会はおかしくなる。近代資本主義社会は衰退せざるをえなくなるだろう。 このように考えてくると、冒頭の3つの謎がわかるはずだ。第1の先進国が低成長となった理由は明らかだ。新しいぜいたく品を人々は必要としなくなったのであり、麻薬にも限界があるから、消費はこれ以上増えないのだ。だから、量的拡大という経済成長は起きない。 第2に、経済が拡大しないのに、働き手が不足し、インフレが起きるのはなぜか。ぜいたく品と麻薬の生産にかまけたため、必需品の生産が手薄になり、必需品を提供する労働力も不足するようになったからである。しかし、必需品は儲からないから、それを生産する企業は増えない。よって、食料、資源、単純労働、サービス労働の価格高騰が起きる。 第3に、富裕層は、必需品が高くなっても購入できるから問題ないが、貧困層は生活に苦しむ。実質的な格差が拡大する。新しい製品への開発投資に金が向かわないから、投資はほとんどが金融市場に向かう。金融市場に多額の資金が流入すれば、当然値上がりする。バブルになる。富裕層は、資産を増大させる。 ただし、これは評価額にすぎず、このバブルが持続不可能になったときに崩壊する。ただし、庶民にも投資を勧める社会となっているから、ババをつかまされるのは庶民かもしれない。暗号資産でそれは始まっているが、ほかのリスク資産にも波及するだろう。よって、国内の富裕層と貧困層の格差は広がる。 一方、途上国はまだ前述の経済成長の第1段階および第2段階だったから、高成長が続いた。必需品が普及し、効率化する過程にあった。だから、国家間の格差は縮まったのである。 しかし、まもなく彼らも麻薬経済の第3段階の成長局面に入ってくるだろう。そして、世界全体で近代資本主義は衰退していくのである。(今回は競馬コーナーはお休みです。ご了承ください)』、「麻薬経済の到来である。ということは、みなが中毒になり、社会はおかしくなる。近代資本主義社会は衰退せざるをえなくなるだろう」、ここまでくると、ついていけない。ここまでは、それなりに、刺激的だったが、ここからは余りに奇想天外だ。「麻薬経済」なら「衰退せざるをえなくなる」というのは理解はできるが、次の社会の方向性を示さずに、終わるのはいただけない。小幡氏も時には、駄作もあるようだ。
タグ:「岸田首相は、今年を「スタートアップ創出元年」とする意向」、これは「岸田首相」オリジナルではなく、官邸の経産省出身官僚の考えだろうが、いまさら「創出元年」でもあるまい。 「1980年代に通商産業省(当時)主導で、欧米に先駆けて初期のAIを導入するプロジェクトを推進し、失敗した悪夢がある」、初めて知った。「単にAI関連の研究活動に投資するだけでは不十分だ。過去の失敗事例を踏まえて「AIの発展に伴う雇用面のデメリット」という視点を盛り込み、それに対する改善策を併せて議論すべき」、その通りだ。 「「同一労働同一賃金」の原則に基づく政策が打ち出された。政策の裏をかき、正社員の賃金を下げて非正規雇用に合わせることで同一賃金とする企業が少なくなかった。その結果、格差は縮まらず、賃金も一向に上がってこなかった」、「「新しい資本主義」の実行計画には、そうした過去の過ちを繰り返さないという視点も盛り込むべきではないだろうか」、その通りである。 「決して目新しいものではなく、以前から認識されていながら有効な手を打てなかった「古い政策課題」ばかりが並んでいた」、羊頭狗肉の酷い話だ。 上久保誠人氏による「岸田首相の“新しい資本主義”に「今更感」が強い理由、何が足りない?」 ダイヤモンド・オンライン 資本主義 (その10)(岸田首相の“新しい資本主義”に「今更感」が強い理由 何が足りない?、市場原理主義という“怪物”に戦いを挑み続けた「日本人経済学者」がいた…! いま 宇沢弘文が注目を集めるわけ、資本主義が静かに衰退を始めていると言えるワケ 「世界経済の3つの謎」をどう考えばいいのか) 「日本のエネルギー企業がダイベストメントされる一方で、海外大手はさらに先に進もうとしているのだ。この差を埋めるにはどうすべきか」、マスコミももっと政策を掘り下げて報道すべきだろう。 「「なぜ、これまで長年にわたって有効な手を打てなかったのか」「今回の施策は、従来とどう違うのか」といったポイントが国民に伝わるよう、より詳細な説明を行うべき」、同感である。 現代ビジネス 佐々木 実氏による「市場原理主義という“怪物”に戦いを挑み続けた「日本人経済学者」がいた…! いま、宇沢弘文が注目を集めるわけ」 「宇沢は、「社会的共通資本」という概念をベースに、万人が幸福に暮らすことを目指す、新たな資本主義の枠組みを構築しようとしていた」、構築中に倒れられたのは、かえすがえすも残念だ。 「ESGやSDGsが国際的な支持を得ているのは、これまでの資本主義が環境問題をないがしろにしてきたことの裏返し」、その通りだ。 「あらゆる領域を市場化すれば、「社会の絆」に頼る必要などなくなる」、さすが「市場原理主義の教祖」らしい考え方だ。 「シカゴ大学でフリードマンと対峙していたころ、宇沢はアメリカ経済学界で一二を争う若手理論家とみなされていた。フリードマンは著名ではあったが、最先端の理論づくりの現場にかぎれば、16歳も若い宇沢のほうが勢いがあり影響力をもっていた。 アメリカ経済学界での評価が絶頂にあるとき、宇沢はベトナム戦争に異を唱えて突然、アメリカを去った」、「宇沢が指摘しているのは、市場原理主義的な傾向はフリードマン率いるシカゴ学派に顕著にみられるけれども、しかしそれは、アメリカの経済学者一般に共通している信念だということである。」、 「宇沢が環境問題の研究を始めたのは半世紀も前であり、地球温暖化の問題に取り組んだのは30年あまり前からだった。先見の明というより、問題を見定める際の明確な基準、つまり、思想があったからこそ、いち早く問題の所在に気づくことができたのである」、さすがである。 「ESGやSDGsに先駆けて「持続可能な社会」の条件を探求した宇沢なら、このようなESG投資を認めることは絶対にあり得ない。思想が許さないからだ」、「生涯にわたって資本主義を問いつづけた経済学者の思考の軌跡は、かならずや混沌から抜け出すヒントを与えるはずである」、そうした論考が出てくることを大いに期待したい。 東洋経済オンライン 小幡 績 「資本主義が静かに衰退を始めていると言えるワケ 「世界経済の3つの謎」をどう考えばいいのか」 「近代資本主義とは、移動、拡大、膨張の時代のこと」、「大航海時代の始まり」、なるほど。 「閉じていた経済では、技術革新があっても、品質が改良されるだけで、その改良分を以前よりも多く払うことはできない。所得は変わっていないから、その財に払える価格は前と同一で、その場合、経済的には価値は同じ(不変)となり、経済は拡大しない。よって経済成長もない。これが、中世までの繰り返しの循環経済」、 「1492年以降、外部が生まれたことで、外部からの富の流入が経済の拡大をもたらした。所得が増えたから、払う総額も増えた・・・17世紀には、さらなる経済のテイクオフ(離陸)が起きた。ぜいたくの始まりである」、「ぜいたく」が「経済成長」をもたらしたとは初めて知った。 「これらの技術革新は、交通・通信革命であったのだ。また、それ以前の技術革新とは何が違ったのか。それらの技術革新は時間を節約したのである。人々の時間に余剰をもたらしたのである」、「交通・通信革命で移動や意思疎通の時間を大幅に短縮することに成功すると、生産のための最大のリソースである時間が余る。これが新たな財の生産に向かい、経済全体の生産量は飛躍的に増加したのである」、なるほど。 「エンターテインメント消費が誕生した。 これで消費が爆発した。庶民までがぜいたく品を消費するようになった。つまり、技術革新により必需品の生産の効率化が進み、時間が余り、第1には労働投入時間の増加となり所得を増やしたが、第2には、余った時間をぜいたく消費に充てるようになり、消費が増大したのである。 まず供給力が増え、次に需要が増えたのである。ここに成長は加速した。これがアメリカの20世紀の成長であり、日本の高度成長である」、このように歴史的に整理されると理解し易い。 「「新しい」ものに飽きたのである」、「これに企業はどう対応したか。 新しいぜいたく品を売りつけても、人々は飽きている。あるいは、すぐ次の新しいものに移る。賞味期限が短くなっている。これでは、持続的に儲けられない。 そこで、単なるぜいたく品ではなく、ぜいたく品を必需品に仕立て上げ、すべての人々に永続的に消費させるようにしたのである。必需品たるぜいたく品、やめられないぜいたく品、そう、すべては「麻薬」になった」、なにやら健全とはほど遠い姿だ。 「麻薬経済の到来である。ということは、みなが中毒になり、社会はおかしくなる。近代資本主義社会は衰退せざるをえなくなるだろう」、ここまでくると、ついていけない。ここまでは、それなりに、刺激的だったが、ここからは余りに奇想天外だ。「麻薬経済」なら「衰退せざるをえなくなる」というのは理解はできるが、次の社会の方向性を示さずに、終わるのはいただけない。小幡氏も時には、駄作もあるようだ。