イノベーション(その3)(イノベーションを阻害する「同調圧力」の呪縛、失敗を怖れる人間ばかり集まる大企業にイノベーションはできるのか? 入山章栄が語るイノベーティブ人材論、科学と軍事と民生技術を集約 謎のイノベーション推進組織『DARPA(ダーパ)秘史 世界を変えた「戦争の発明家たち」の光と闇』) [イノベーション]
イノベーションについては、昨年6月27日に取上げた。久しぶりの今日は、(その3)(イノベーションを阻害する「同調圧力」の呪縛、失敗を怖れる人間ばかり集まる大企業にイノベーションはできるのか? 入山章栄が語るイノベーティブ人材論、科学と軍事と民生技術を集約 謎のイノベーション推進組織『DARPA(ダーパ)秘史 世界を変えた「戦争の発明家たち」の光と闇』)である。
先ずは、ネットサービス・ベンチャーズ・マネージングパートナーの校條 浩氏が昨年10月15日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「イノベーションを阻害する「同調圧力」の呪縛」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/179866
・『既存製品の延長線上にある新製品や新サービスの開発は次々と実現できるのに、まったく新しいコンセプトの製品を開発したり、既存製品を破壊するようなイノベーションを起こすことができないと悩む企業は多い。その企業に優秀な人材と多種多様な知識、経験が蓄積されているのにもかかわらず、である。 この答えとしてイノベーションのジレンマが有名だ。既存の市場と顧客のニーズへの対応に集中し過ぎることにより、新しいニーズを見失い、イノベーションができなくなることをいう。 しかし、新たな市場や顧客ニーズを見据えたイノベーションチームを社内につくっても、イノベーションを起こすのが難しいことの方が多い。それはなぜだろうか? 答えを先に言えば、その理由は「同調圧力」にあると考えている。イノベーションを起こそうとする人たちに対する、既存組織や周りの環境からの、変化させまいとする圧力である。 同調圧力は「場の空気」と言い換えることができる。「集団の一員であり仲間としての自分」という自覚を持ち行動すべきという暗黙の了解であり、行動規範のようなものだ。 こうした規範について、各人が意見を言うような直接的なことで「圧力」が顕在化するだけではなく、仲間にとってよかれと思って行動すること自体が空気となり圧力となる。その空気の中で、各人が規範から外れることを抑制するようになる』、同調圧力がイノベーションに対するブレーキ役になっているとは、興味深い指摘だ。
・『一人前の技術者から異端児へ 私自身も同調圧力を経験した。私は社会人となり入社した会社で、写真フィルムの開発部隊に配属された。写真フィルムは「乳剤」と呼ばれる感光体を含む液体を塗布、乾燥して作られる。高度な技術に加えてノウハウの塊であった。 そのため、開発者が実験作業を遂行するには技術や知識だけではなく、“職人芸”も要求された。先輩職人の技術を早く習得しなければ実験ができない。私は入社してから、無我夢中で仕事を覚えた。 実はこの過程では、同調圧力はまったく感じなかった。私が「職人芸を覚えた技術者」として、仲間の信頼を勝ち取っていたからである。 状況が一変したのは、世界で初めての電子カメラの試作品がメディアで発表されてからだ。 私は、これは写真フィルムに取って代わる破壊的な技術だと直感した。それ以降、写真フィルムの将来について上司や同僚と話すようになった。 そのころから私は、仲間の行動規範から逸脱し始めたのだろう。上司からは、「余計なことは心配しないで業務に専念するように」と優しく諭され、同僚たちはデジタル写真についての議論に加わらなくなっていった。 しかし、彼らは声を荒らげるようなことは決してない。先輩も同僚も優しかった。ただ、私の話には反応せず、遠巻きに見ているような雰囲気なのである。私は、職人芸を覚えた技術者から、組織の存続意義に疑問を持つ異端児となってしまったわけだ。 私は、夜まで実験作業をこなしながら、深夜や週末に電子カメラの基礎技術を勉強する二重生活を続けるうちに、心身共に疲れ果ててしまった。 これが同調圧力だと分かったのは、社内で自ら立ち上げに参画した、電子映像技術の研究部隊に異動することができてからである。元の組織の共通規範が及ばない他の組織に移って、初めてその圧力を「見る」ことができたのである』、写真フィルムの開発部隊のなかで、自らの存立基盤を揺るがす電子カメラのことは考えたくないとする同僚や上司の反応は理解できるが、少なくとも上司であれば、社内の適切な部署を巻き込んで検討の場を作るべきであったろう。
・『“起業家精神”は問題ではない 行動生態学・進化生物学者の長谷川眞理子氏と、社会心理学者の山岸俊男氏の共著、『きずなと思いやりが日本をダメにする』(集英社インターナショナル)に、興味深い内容があった。 人間の脳が進化したのは、気候変動により食料が豊富な森林が減り、人間がサバンナに出ていかざるを得なかったからだという。サバンナでは食料を探すのに知恵が必要になるし、他の動物から身を守るには、集団で協力した方が効果的だった。 しかし、集団で行動し、社会を形成するには、今までの動物にない知性が必要だった。それが集団内で上手に生きていくための知恵、「社会脳」だ。それは「同じ空間の中で他者と共存し、協力し合って生きていくための知性」であり、「具体的には集団内での衝突を回避するために他者の心の中を想像する能力が必要」だという。このようにして、人間は、集団生活で社会を形成するための知恵を身に付けていったと考えられる。 少子化などの社会問題も、個人の「心」が原因ではなく、環境により規定された社会や集団の中で、その人が最も生存しやすい条件を選択していることが原因だという。 社会脳の特性を考えると、同じ組織の中で、新しい規範の行動、例えばイノベーションを起こすことが、人間の本性として非常に難しいことが分かる。イノベーションが起こらない理由は、「起業家精神が足りない」などという、心の問題ではないのだ。 そう考えていくと、新たな市場や顧客ニーズを見据えた製品やサービスを生み出すなら、イノベーションチームという別の「集団」と、新しい規範による社会脳をつくる必要があるということだ。そうしないと、既存の組織の持つ同調圧力に押しつぶされてしまう。 既存の集団の社会脳は個人の心構えや頑張りでは変えられないのだから、規範や環境そのものを変えるしかない。具体的には、場所、人事制度、報酬を変えることが考えられる。外部から人材を投入、もしくは異業種のコミュニティーへ自ら入るのもよい。異業種の企業を買収するという手段もある。 人間がサバンナで生き抜いた時代は、集団から逸脱することは死を意味した。イノベーション活動を進めるために既存集団から逸脱した途端に、“キャリアの死”を覚悟しなければならない環境では、誰も新たな社会脳をつくることはできないだろう。 環境を変えられるのは経営トップだ。イノベーションの環境づくりはトップダウンでなくてはならないゆえんである』、、既存の組織の持つ同調圧力は、「社会脳」の存在のためとの指摘は大いに参考になった。ただ、日本企業には同調圧力が殊の外強い点にも触れて欲しかった。
次に、早稲田大学ビジネススクール准教授の入山 章栄氏が1月29日付け現代ビジネスに寄稿した「失敗を怖れる人間ばかり集まる大企業にイノベーションはできるのか? 入山章栄が語るイノベーティブ人材論」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/59554
・『「日本の競争力は今後のイノベーションが握る」。政官財あげて大合唱だ。しかし個々人の中でこれほど腹落ちしない議論も他にないだろう。イノベーションを阻む要因しか社内に見当たらないからだ。 パナソニックなどの大企業に所属する若手社員が有志ではじめたコミュニティ「ONE JAPAN」が発足から2年で50社1200人を擁する団体に育ったのは、そのモヤモヤした空気を突破したいビジネスパーソンがいかに多いかをあらわす。 どうして企業は変われないのか。どうすれば企業で革新的イノベーションを起こせるのか。その発足以来「ONE JAPAN」の意義を認めている早稲田大学ビジネススクールの入山章栄准教授は、2018年9月30日に「ONE JAPAN」2周年カンファレンスでプレゼンテーションをおこない、大型台風が迫っていたにもかかわらず集まった1000人が聞き入った。その内容をベースに構成した談話記事をお届けしよう』、「ONE JAPAN」とは初耳なので、興味深そうだ。
・『今のままで10年先はない 今ほど多くの日本企業がイノベーションの必要性を声高に叫ぶ時はかつてなかったかもしれない。その背景には、言うまでもなく人工知能、IoT、ブロックチェーン、将来的には量子コンピュータといった急速なテクノロジーの進歩があり、GAFAのようにそれらを自社の製品・サービスにうまく適応できた新しい企業群が伝統的企業群にとって代わり、産業そのものを根こそぎ変え得る勢力になってきたことがある。 このことは多くの人が共通して認識していることだろう。例えば自動運転テクノロジーの競争の渦中にある自動車産業にいる方々の中には、自社が今のままで10年先を迎えられるとは思えない、というほど深刻な危機感を抱えている方も多い。 では、なぜ日本企業にはイノベーションが足りないのか。イノベーションとは新しいアイデアを生み出すことだ。 どうしたら生み出せるのか、その経営学における原理の一つが、ジョセフ・シュンペーターが80年以上前に提唱した”New Combination”、直訳すると「新結合」である。 イノベーションとは既存の知と既存の知を組み合わせて新しいアイデアを創り出すことになる。すなわち、人・組織は常に新しい知と知を組み合わせ続けなければ、イノベーションはおきないのだ。 ところが人間の認知には限界がある。どうしても目の前で認知できるものだけを組み合わせる傾向になってしまう。 したがって、それを克服するための第一歩が、目の前ではなくて、自分のいる場所からなるべく遠く離れたところを見て、遠くの知を幅広く探索し、それらを持って帰ってきて、いま自分にある既存の知と新しく組み合わせることだ。 これを経営学では”Exploration”と呼ぶ。この概念を私は『世界の経営学者はいま何を考えているのか』(英治出版)という著書で「知の探索」と訳した。人間の認知に限界がある以上、この「知の探索」がイノベーションを生むのに果たす役割は決定的に大きい』、「目の前ではなくて、自分のいる場所からなるべく遠く離れたところを見て、遠くの知を幅広く探索し、それらを持って帰ってきて、いま自分にある既存の知と新しく組み合わせることだ」という「知の探索」は、確かに有効そうに思える。
・『TSUTAYAのレンタル事業は消費者金融から発想 日本におけるイノベーションも多くは知の探索で生まれている。例えば必要な部品を必要な時に必要なだけ揃えるトヨタの「ジャスト・イン・タイム」の生産システムは、アメリカのスーパーマーケットの仕組みと自動車生産の仕組みを組み合わせたことで生まれている。 また、TSUTAYAのレンタル事業も同様で、1000円のCDを3日100円でレンタルする仕組みは、同じように元金を貸して利益を取ることで収益を取る消費者金融から発想されたとされる。創業者の増田宗昭氏はそこから着想してあのビジネスに目をつけたと言われているのだ。これくらい遠くを見ないとイノベーションは起きないのである』、TSUTAYAのレンタル事業の原型は昔あった「貸本屋」なのではないかという気もするが、創業者が「消費者金融から発想」と言っているのであれば、そうなのだろう。
・『とはいえ、企業は「知の探索」ばかりしているわけにはいかない。すでに社内に持っている知を改良したり、同質の知を積み重ねたりして、それらをビジネスに活用し収益を生み出そうとする。これを経営学では”Exploitation”、「知の深化」と呼ぶ。 スタンフォード大学のジェームス・マーチが1991年に発表した論文「Exploration and Exploitation in Organizational Leading」で、「知の探索」と「知の深化」の両方をバランスよく実現することが非常に重要であり、このバランスがよい企業、組織、ビジネスパーソンがイノベーションを起こせる確率が高いとされている。これはまた”Ambidexterity”、「両利きの経営」といい、世界のイノベーション研究で多くの経営学者が依拠する考え方だ』、「知の探索」はプロダクト・イノベーション、「知の深化」はプロセス・イノベーションに近い考え方なのではなかろうか。確かに両者のバランスが重要なので、「両利きの経営」が理想形となるのだろうが、現実には難しそうだ。
・『社内から批判「あの部署はカネの無駄」 しかし現実に日本の大企業で「両利きの経営」ができているケースは少ない。先に述べた認知の限界のためであるだけでなく、日本企業の組織に内在する問題もあると私は考えている。ここ10年ほど、多くの大企業で新規事業開発部やイノベーション推進室などが作られた。それらの組織で何が起こっているのか、典型的な例を挙げてみよう。 まず新規事業開発の部門では、最初は元気よく「知の探索」がおこなわれるのだが、3年ぐらい経つと社内で批判され始める。予算ばかり使って結果が出ないことが続くと「あの部署は金ばかり使っているコストセンターだ」などと言われ始めるわけだ。しかし想像も想定もできないものがイノベーションなのだから「絶対に失敗しないイノベーション」などといったものが存在するわけがない。すぐに結果が出なくても、それは当然なのである。 しかし組織では、そんな状況が続くと、なんとか利益を出そうとして目の前で儲かっている分野を深掘りして「知の深化」に頼ることになる。たしかに「知の深化」によって短期的には儲かる。しかし長い目で見たときには、イノベーションに重要な「知の探索」のほうをなおざりにするので、結果的に中長期的なイノベーションが枯渇してしまう。 こうした悪循環に陥り「知の深化」に偏ってしまうことを、経営学では「コンピテンシー・トラップ」などと呼ぶ。世界の経営学の視点から言うと、今の日本の大企業にイノベーションが足りないのは、ほとんどの企業が「知の深化」に偏りすぎている、つまりコンピテンシー・トラップに陥っていると言うことができるのだ』、その通りだろう。
・『失敗を怖れる人間ばかり集まる大企業 ここまでの前提から、なぜ日本企業にはイノベーションが足りないのか、さらに深掘りした二つの理由を提示しよう。まず一つは、日本企業の多くが「失敗」を許さない組織文化を持っていることだ。 誰もがスティーブ・ジョブズを素晴らしいイノベーターだと考えているだろう。それに間違いはない。しかし試みに「ジョブズ 失敗」でインターネット検索してみてほしい。今はかなりマニアックな人しか覚えていないアップルのソーシャルネットワーク「PING」や音楽携帯の「iPodシャッフル」などなど、使いにくく売れなかった彼の失敗作が驚くほどたくさんヒットする。こうした大量の失敗作がある一方で、ほんの一握りの大ヒットがあり、それがiMacであり、iPhoneなのだ。ジョブズは大天才であると同時に大失敗王でもあるのだ』、ジョブズが「失敗王でもあるのだ」というのは初めて知った。
・『ところが、日本の大企業はこうした失敗を許さない。「iPodシャッフル」のような失敗など絶対あってはいけない。徹頭徹尾何一つ間違ってはいけないという組織では「知の探索」などとてもできない。社員からイノベーションなど生まれようがない土壌ができてしまう。 もう一つの理由が人事評価だ。失敗を許さない企業にいれば、社員は失敗を怖れる。人事で評価されないのであれば、あえて失敗をするかもしれないような仕事をする社員などいないだろう。 歴史の長い大企業独特の人事の問題もある。新卒一括採用で終身雇用制度の会社はどうしても自分たちと同じような人間を採用する傾向にある。だから似たもの同士が、同じ組織の中にずっと一緒にいる。これではいけないと思って同業他社を見渡しても、そこでもおおむね自分たちと似たような人たちが集まっている。 右を見ても左を見ても似た傾向の人たちが目の前の知の組み合わせをしているだけでは、イノベーションは生まれない。「最近うちの会社では、新しいことができていない」と思ったら、それは知と知の組み合わせが出尽くしてしまったからなのだ。 このような理由から、「知の深化」に偏った状態から脱して「知の探索」を促すのは、現在の大企業組織ではかなり困難だというのが私の見方である』、残念ながらその通りだろう。
・『手段と目的が混同されるダイバーシティ では、どうすればいいのだろうか。一つのヒントが、大企業にいながら他業種の多様な人たちと交流できる場を設けている「ONE JAPAN」のような組織だ。私が「ONE JAPAN」に注目しているのは、彼らの考え方と存在価値に共感しているからだ。かれらが出した著書『仕事はもっと楽しくできる 大企業若手 50社1200人 会社変革ドキュメンタリー』に私は「組織でもがきながら、境界を超えてつながる彼らにこそ、日本の未来がある」という推薦文を寄せさせてもらった。 普段は会えない人たちと会うことで「知の探索」に必要なダイバーシティが生まれる。さらに、共通の思いをもって集まる仲間同士には心理的な安全性が生まれるので、失敗も受け入れられやすい。「ONE JAPAN」はこのコミュニティを「実践共同体」と名付けているが、イノベーションが起こるのに必要な条件を持つのは、まさにこのような組織である。私は日頃から、「ONE JAPAN」こそ失敗を許容する組織にしなければならないと主張している。 さらに言えば、ダイバーシティを導入しようとする日本の大企業で起こりがちなのは、その手段と目的を混同するケースだ。2016年に女性活躍推進法が施行されて以来、私の研究室にダイバーシティ推進室長という肩書きのつく方がしばしばいらっしゃる。ダイバーシティを進めるための部署はできたけれど何をしていいかわからないという。 そこで「では何のためにダイバーシティを推進するのですか?」というそもそもの質問をすると、たいてい「わかりません」という答えが返ってくる。会社がそう決めたからとおっしゃる場合もあった。このような認識ではダイバーシティは進まない。ダイバーシティ推進そのものが目的化し、それはイノベーションのための手段であるという理解に乏しいことが多いのだ。 それに対して「ONE JAPAN」はもともとバラバラの個人が集まる組織だから、ダイバーシティな組織になっている。これからもっと多様なバックグランウンドを持つ、多様な業界・多様な年代の人たちを入れて、そのダイバーシティ性をますます徹底してほしい』、「ONE JAPAN」についての具体的な説明がないが、1200人もいるのであれば、多くの分科会に分かれて活動しているのであろう。
・『「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」受賞者たちの共通点 繰り返すと、ダイバーシティはイノベーションを生み出すためのものであり、幅広い知見を組み合わせるための「知の探索」ができる場であると考えられている。しかし、「知の探索」はひとりの個人の中でも起こせる。多様な経験と幅広い知見を持っていたら、その人の中で既存の知と既存の知の新しい組み合わせができる。 これは経営学で「イントラパーソナル・ダイバーシティIntrapersonal Diversity」=「個人内多様性」と呼ぶ新しい概念だ。現在、イノベーティブなことができている人のほとんどは、このイントラパーソナル・ダイバーシティが高い。 リーダー育成のプロである岡島悦子プロノバ社長は「キャリアのタグ=比較優位となる強み」を持てと、よく主張されている。会社の中で「あいつは○○に強い」と「想起される」人になれということなのだが、この考えにしたがえば、自分の中にいくつもタグを持っている人は、それらを組み合わせて発想することができるため、イノベーション人材になり得るわけだ。 私は「日経WOMAN」が主催する「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」の選考委員をしている。2017年の受賞者たちにはある共通点があった。それはマルチキャリアの持ち主ということだ。異なる職業の経験値を革新的なビジネスにつなげている人たちだったのである。 例えばクリエイターのネットワークを構築し地域創生を手がけるロフトワークの林千晶さんは、花王出身である。その後、ボストン大学大学院を経て、共同通信ニューヨーク支局に勤務したのち日本に戻って起業した。「未来食堂」で有名な社会起業家の小林せかいさんは、元IBMのエンジニアだった。 世界的に評価されるVR用のヘッドマウントディスプレーを開発したFOVEのCEO小島由香さんは、なんと元プロの漫画家だ。彼女はもともと漫画を読むことも大好きで、「漫画の中のイケメンの名前を呼んだら振り返って笑ってくれること」が長年の夢だったという。その発想から生まれたFOVEのヘッドマウントディスプレーは、赤外線で目線の動きを感知する視線追跡機能を搭載して世界中の出資者から12億円を集めた。彼女が漫画家でなければ、この発想自体が生まれなかっただろう。 自身の中に多様性があるからこそ、知の探索ができ、イノベーションを生む。ジョブズの言葉を借りるのであれば、これはコネクティング・ドッツともいえる。事前にはわからないけれど、振り返ると、それぞれの点と点が線でつながっているわけだ』、「イントラパーソナル・ダイバーシティ」が高い人は貴重な存在のようだが、きっと「何をやらせても出来る」ような人物なのだろう。
・『「チャラ男」と「チャラ子」の創造力 もうひとつ、イノベーション人材の特徴について述べたい。 ソーシャルネットワークの分野では、人と人とのつながりを解析して、どのような人脈を持つ人がパフォーマンスを上げるかについて研究されている。 そのなかで最もよく知られている考え方が、スタンフォード大学のマーク・グラノヴェッターが1973年に発表した論文「The strength of weak ties=弱い紐帯の強み」だ。家族や親友といった「強い結びつき」と、ただの知り合いどうしでつくられる「弱い結びつき」では、どちらのほうが価値のある情報が伝わるのか。一見、親友のほうだと思われるが、実はそうとは限らない。 親友をつくるのは容易ではないが、「弱い結びつき」はごく簡単につくることができる。だから「弱い結びつき」のほうが遠くに伸びやすい。遠くに伸びれば、そこには自分が知らない多様な知見や考えや経験を持った人がいて、そういう人たちが発信する情報は「弱い結びつき」のほうが多く流れる。 私が先ほどから述べている「知の探索」に向いているのは、この「弱い結びつき」なのだ。したがって「弱い結びつき」をたくさん持っている人のほうがクリエイティブであるということが、多くの研究で示されている。 これがどんな人かを一言でいうなら、「チャラ男」と「チャラ子」だ。チャラい奴はたいてい大企業では疎まれる。普段は人脈づくりと称してあちこちの呑み会に顔を出し、名刺コレクターと呼ばれて普段はバカにされている。 しかしいざ会議をやってみると、意外とチャラ男がだれも思いつかないような斬新な視点から画期的な提案をしたりする。そうして部長から「お、チャラ男、やるじゃん!」などと褒められてますます周りから疎まれるわけなのだが、こうしたことが起きるのは、かれらが「弱い結びつき」を持っているからなのだ』、「「チャラ男」と「チャラ子」の創造力」が高いというのは、言われてみれば理解できるが、常識とは異なる意外な結論だ。
・『イノベーションを生む「ONE JAPAN」に注目 そしてこう考えると、「ONE JAPAN」のさらなる重要性がわかるだろう。そう、「ONE JAPAN」こそが、まさに「弱い結びつき」を作れる場なのである。残念ながら、人を企業内・事業部内で抱え込む傾向のある日本の大企業では、人は他企業の人たちと弱い結びつきを作ることが難しい。 そこで「ONE JAPAN」のような、企業の垣根を超えて人と人が繋がるプラットホームがあれば、それは知の探索になるのである。そして、それは個人内の多様性を高めるだろう。 世間には、ONE JAPANを「大企業の若手の仲良しクラブ・交流会」と批判する人もいる。しかし、私に言わせれば、その企業の垣根を超えた交流会こそがまずは重要なのだ。「ONE JAPAN」は人と人が繋がる場だ。ここで多くの今まで知りえなかった多様な人と弱い結びつきを作るはずだ。それ自体に、大きな意味があるのである。 では、ここまで見てきたようなイノベーション人材になるにはどうすればいいだろか。それは別に難しいことではない。まずとにかく「動く」。これしかない。「ONE JAPAN」をその動くきっかけとしてぜひ使って欲しい。 これから日本のビジネスは徐々に「プロジェクト型」に移行していくことになるだろう。個人が自らの中に多様性を持ち、自分らしさが発揮できる機会を求めて「弱い結びつき」の中で多様な人材とプロジェクトごとにつながり、自分が納得できる仕事だけをする。そういう時代が近い将来必ずやってくる。 そうなると、その人にとって企業とは、単なる自分が所属する組織なのではなく、自分らしさを発揮して、自分の作りたい世界を作り、自分がしたいことをするための道具になるだろう。 日本の大企業で働く社員たちにそうした意識が芽生えてきているのは、ここで紹介した「ONE JAPAN」が発足2年で50社1200人も参加するほどのコミュニティになったことが、何よりの証左だろう。イノベーションを生む芽は確実に育ちつつあることを私は実感している』、「ONE JAPAN」の今後の活動を注視していきたい。
第三に、東京大学教授、信州大学教授の玉井克哉氏が1月27日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「科学と軍事と民生技術を集約 謎のイノベーション推進組織『DARPA(ダーパ)秘史 世界を変えた「戦争の発明家たち」の光と闇』」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/191986
・『科学に基づく新たな技術が国家の安全を左右する。1957年、最初の人工衛星スプートニクの打ち上げで旧ソ連(現ロシア)に先んじられた米国は、改(あらた)めてそれを痛感した。 翌58年、対抗策として設立されたのがDARPA(米国防高等研究計画局)である。本書は、かつての機密文書や豊富なインタビュー記録を用い、発足当初から今日に至る足跡をたどっている。 本書が投げかける疑問の一つは、平和研究と軍事研究の境界線だ。旧ソ連との地下核実験禁止条約を締結するため、米国は核実験と地震とを確実に識別する技術を必要とした。そのために、DARPAは大規模な予算を投入し、科学としての地震学を発展させた。軍縮のための基礎科学研究をも、軍事研究と呼ぶべきなのだろうか。 DARPAの実質的な出発点は、ベトナム戦争での60年代以降の秘密作戦だ。軍の旺盛な需要に、彼らは応えた。小型の自動小銃を開発するに止(とど)まらず、ゲリラから隔離した「戦略村」を構想し、空爆による心理的打撃の効果を上げるために社会心理学をも動員した。 もっとも、ベトナム戦争への関与は全体として大きな失敗だった。戦略村は機能せず、社会心理分析は的外れで、枯れ葉剤のように、国際的にも、国内的にも、厳しい非難を浴びた開発成果もあった』、DARPAはインターネットの原型を作ったことで有名だが、ベトナム戦争への関与など功罪相半ばするようだ。
・『研究戦略の観点から興味深いのは、DARPAでの研究者の裁量の大きさと、異常なまでの意思決定の速さである。後世インターネットとして結実した研究は、一人の独創的な研究者の発意を当時の局長がわずか15分で承認したことから始まった。有識者の会議で、長時間かけて意見を集約するようなやり方とは、対照的である』、インターネットの原型を「局長がわずか15分で承認」というのには驚かされた。無論、局長の権限内の予算だったのだろうが、彼我の差を改めて痛感した。
・『とりわけ注目すべきなのは、無人攻撃機、ステルス技術、GPS(全地球測位システム)、自動走行車、音声認識、精密誘導弾、さらにコンピューター間連携による統制支援や兵器群連携システムなどを早くから手掛け、しかもいったんは失敗に終わっていたことだ。 同様のことが、今日も行われている可能性は高い。数十年後に人類が目にする技術は、いま密(ひそ)かに研究されているのかもしれない。成果の公開と自由な相互批判を基盤とする科学研究とは別個に、闇に隠れたダークマターのような技術の世界が、見えないところに広がっているのかもしれない。 近年のDARPAは、有名になった割に活動が低調であり、存在理由すら問われる状況だという。だが、「米中新冷戦」が語られる今日、技術安全保障における米国の躍進をもたらした組織の実像を知る意義は、まことに大きい』、「闇に隠れたダークマターのような技術の世界が、見えないところに広がっているのかもしれない」というのは、不気味だが、とんでもない画期的技術が飛び出してくる可能性があるというのは、楽しみでもある。
先ずは、ネットサービス・ベンチャーズ・マネージングパートナーの校條 浩氏が昨年10月15日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「イノベーションを阻害する「同調圧力」の呪縛」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/179866
・『既存製品の延長線上にある新製品や新サービスの開発は次々と実現できるのに、まったく新しいコンセプトの製品を開発したり、既存製品を破壊するようなイノベーションを起こすことができないと悩む企業は多い。その企業に優秀な人材と多種多様な知識、経験が蓄積されているのにもかかわらず、である。 この答えとしてイノベーションのジレンマが有名だ。既存の市場と顧客のニーズへの対応に集中し過ぎることにより、新しいニーズを見失い、イノベーションができなくなることをいう。 しかし、新たな市場や顧客ニーズを見据えたイノベーションチームを社内につくっても、イノベーションを起こすのが難しいことの方が多い。それはなぜだろうか? 答えを先に言えば、その理由は「同調圧力」にあると考えている。イノベーションを起こそうとする人たちに対する、既存組織や周りの環境からの、変化させまいとする圧力である。 同調圧力は「場の空気」と言い換えることができる。「集団の一員であり仲間としての自分」という自覚を持ち行動すべきという暗黙の了解であり、行動規範のようなものだ。 こうした規範について、各人が意見を言うような直接的なことで「圧力」が顕在化するだけではなく、仲間にとってよかれと思って行動すること自体が空気となり圧力となる。その空気の中で、各人が規範から外れることを抑制するようになる』、同調圧力がイノベーションに対するブレーキ役になっているとは、興味深い指摘だ。
・『一人前の技術者から異端児へ 私自身も同調圧力を経験した。私は社会人となり入社した会社で、写真フィルムの開発部隊に配属された。写真フィルムは「乳剤」と呼ばれる感光体を含む液体を塗布、乾燥して作られる。高度な技術に加えてノウハウの塊であった。 そのため、開発者が実験作業を遂行するには技術や知識だけではなく、“職人芸”も要求された。先輩職人の技術を早く習得しなければ実験ができない。私は入社してから、無我夢中で仕事を覚えた。 実はこの過程では、同調圧力はまったく感じなかった。私が「職人芸を覚えた技術者」として、仲間の信頼を勝ち取っていたからである。 状況が一変したのは、世界で初めての電子カメラの試作品がメディアで発表されてからだ。 私は、これは写真フィルムに取って代わる破壊的な技術だと直感した。それ以降、写真フィルムの将来について上司や同僚と話すようになった。 そのころから私は、仲間の行動規範から逸脱し始めたのだろう。上司からは、「余計なことは心配しないで業務に専念するように」と優しく諭され、同僚たちはデジタル写真についての議論に加わらなくなっていった。 しかし、彼らは声を荒らげるようなことは決してない。先輩も同僚も優しかった。ただ、私の話には反応せず、遠巻きに見ているような雰囲気なのである。私は、職人芸を覚えた技術者から、組織の存続意義に疑問を持つ異端児となってしまったわけだ。 私は、夜まで実験作業をこなしながら、深夜や週末に電子カメラの基礎技術を勉強する二重生活を続けるうちに、心身共に疲れ果ててしまった。 これが同調圧力だと分かったのは、社内で自ら立ち上げに参画した、電子映像技術の研究部隊に異動することができてからである。元の組織の共通規範が及ばない他の組織に移って、初めてその圧力を「見る」ことができたのである』、写真フィルムの開発部隊のなかで、自らの存立基盤を揺るがす電子カメラのことは考えたくないとする同僚や上司の反応は理解できるが、少なくとも上司であれば、社内の適切な部署を巻き込んで検討の場を作るべきであったろう。
・『“起業家精神”は問題ではない 行動生態学・進化生物学者の長谷川眞理子氏と、社会心理学者の山岸俊男氏の共著、『きずなと思いやりが日本をダメにする』(集英社インターナショナル)に、興味深い内容があった。 人間の脳が進化したのは、気候変動により食料が豊富な森林が減り、人間がサバンナに出ていかざるを得なかったからだという。サバンナでは食料を探すのに知恵が必要になるし、他の動物から身を守るには、集団で協力した方が効果的だった。 しかし、集団で行動し、社会を形成するには、今までの動物にない知性が必要だった。それが集団内で上手に生きていくための知恵、「社会脳」だ。それは「同じ空間の中で他者と共存し、協力し合って生きていくための知性」であり、「具体的には集団内での衝突を回避するために他者の心の中を想像する能力が必要」だという。このようにして、人間は、集団生活で社会を形成するための知恵を身に付けていったと考えられる。 少子化などの社会問題も、個人の「心」が原因ではなく、環境により規定された社会や集団の中で、その人が最も生存しやすい条件を選択していることが原因だという。 社会脳の特性を考えると、同じ組織の中で、新しい規範の行動、例えばイノベーションを起こすことが、人間の本性として非常に難しいことが分かる。イノベーションが起こらない理由は、「起業家精神が足りない」などという、心の問題ではないのだ。 そう考えていくと、新たな市場や顧客ニーズを見据えた製品やサービスを生み出すなら、イノベーションチームという別の「集団」と、新しい規範による社会脳をつくる必要があるということだ。そうしないと、既存の組織の持つ同調圧力に押しつぶされてしまう。 既存の集団の社会脳は個人の心構えや頑張りでは変えられないのだから、規範や環境そのものを変えるしかない。具体的には、場所、人事制度、報酬を変えることが考えられる。外部から人材を投入、もしくは異業種のコミュニティーへ自ら入るのもよい。異業種の企業を買収するという手段もある。 人間がサバンナで生き抜いた時代は、集団から逸脱することは死を意味した。イノベーション活動を進めるために既存集団から逸脱した途端に、“キャリアの死”を覚悟しなければならない環境では、誰も新たな社会脳をつくることはできないだろう。 環境を変えられるのは経営トップだ。イノベーションの環境づくりはトップダウンでなくてはならないゆえんである』、、既存の組織の持つ同調圧力は、「社会脳」の存在のためとの指摘は大いに参考になった。ただ、日本企業には同調圧力が殊の外強い点にも触れて欲しかった。
次に、早稲田大学ビジネススクール准教授の入山 章栄氏が1月29日付け現代ビジネスに寄稿した「失敗を怖れる人間ばかり集まる大企業にイノベーションはできるのか? 入山章栄が語るイノベーティブ人材論」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/59554
・『「日本の競争力は今後のイノベーションが握る」。政官財あげて大合唱だ。しかし個々人の中でこれほど腹落ちしない議論も他にないだろう。イノベーションを阻む要因しか社内に見当たらないからだ。 パナソニックなどの大企業に所属する若手社員が有志ではじめたコミュニティ「ONE JAPAN」が発足から2年で50社1200人を擁する団体に育ったのは、そのモヤモヤした空気を突破したいビジネスパーソンがいかに多いかをあらわす。 どうして企業は変われないのか。どうすれば企業で革新的イノベーションを起こせるのか。その発足以来「ONE JAPAN」の意義を認めている早稲田大学ビジネススクールの入山章栄准教授は、2018年9月30日に「ONE JAPAN」2周年カンファレンスでプレゼンテーションをおこない、大型台風が迫っていたにもかかわらず集まった1000人が聞き入った。その内容をベースに構成した談話記事をお届けしよう』、「ONE JAPAN」とは初耳なので、興味深そうだ。
・『今のままで10年先はない 今ほど多くの日本企業がイノベーションの必要性を声高に叫ぶ時はかつてなかったかもしれない。その背景には、言うまでもなく人工知能、IoT、ブロックチェーン、将来的には量子コンピュータといった急速なテクノロジーの進歩があり、GAFAのようにそれらを自社の製品・サービスにうまく適応できた新しい企業群が伝統的企業群にとって代わり、産業そのものを根こそぎ変え得る勢力になってきたことがある。 このことは多くの人が共通して認識していることだろう。例えば自動運転テクノロジーの競争の渦中にある自動車産業にいる方々の中には、自社が今のままで10年先を迎えられるとは思えない、というほど深刻な危機感を抱えている方も多い。 では、なぜ日本企業にはイノベーションが足りないのか。イノベーションとは新しいアイデアを生み出すことだ。 どうしたら生み出せるのか、その経営学における原理の一つが、ジョセフ・シュンペーターが80年以上前に提唱した”New Combination”、直訳すると「新結合」である。 イノベーションとは既存の知と既存の知を組み合わせて新しいアイデアを創り出すことになる。すなわち、人・組織は常に新しい知と知を組み合わせ続けなければ、イノベーションはおきないのだ。 ところが人間の認知には限界がある。どうしても目の前で認知できるものだけを組み合わせる傾向になってしまう。 したがって、それを克服するための第一歩が、目の前ではなくて、自分のいる場所からなるべく遠く離れたところを見て、遠くの知を幅広く探索し、それらを持って帰ってきて、いま自分にある既存の知と新しく組み合わせることだ。 これを経営学では”Exploration”と呼ぶ。この概念を私は『世界の経営学者はいま何を考えているのか』(英治出版)という著書で「知の探索」と訳した。人間の認知に限界がある以上、この「知の探索」がイノベーションを生むのに果たす役割は決定的に大きい』、「目の前ではなくて、自分のいる場所からなるべく遠く離れたところを見て、遠くの知を幅広く探索し、それらを持って帰ってきて、いま自分にある既存の知と新しく組み合わせることだ」という「知の探索」は、確かに有効そうに思える。
・『TSUTAYAのレンタル事業は消費者金融から発想 日本におけるイノベーションも多くは知の探索で生まれている。例えば必要な部品を必要な時に必要なだけ揃えるトヨタの「ジャスト・イン・タイム」の生産システムは、アメリカのスーパーマーケットの仕組みと自動車生産の仕組みを組み合わせたことで生まれている。 また、TSUTAYAのレンタル事業も同様で、1000円のCDを3日100円でレンタルする仕組みは、同じように元金を貸して利益を取ることで収益を取る消費者金融から発想されたとされる。創業者の増田宗昭氏はそこから着想してあのビジネスに目をつけたと言われているのだ。これくらい遠くを見ないとイノベーションは起きないのである』、TSUTAYAのレンタル事業の原型は昔あった「貸本屋」なのではないかという気もするが、創業者が「消費者金融から発想」と言っているのであれば、そうなのだろう。
・『とはいえ、企業は「知の探索」ばかりしているわけにはいかない。すでに社内に持っている知を改良したり、同質の知を積み重ねたりして、それらをビジネスに活用し収益を生み出そうとする。これを経営学では”Exploitation”、「知の深化」と呼ぶ。 スタンフォード大学のジェームス・マーチが1991年に発表した論文「Exploration and Exploitation in Organizational Leading」で、「知の探索」と「知の深化」の両方をバランスよく実現することが非常に重要であり、このバランスがよい企業、組織、ビジネスパーソンがイノベーションを起こせる確率が高いとされている。これはまた”Ambidexterity”、「両利きの経営」といい、世界のイノベーション研究で多くの経営学者が依拠する考え方だ』、「知の探索」はプロダクト・イノベーション、「知の深化」はプロセス・イノベーションに近い考え方なのではなかろうか。確かに両者のバランスが重要なので、「両利きの経営」が理想形となるのだろうが、現実には難しそうだ。
・『社内から批判「あの部署はカネの無駄」 しかし現実に日本の大企業で「両利きの経営」ができているケースは少ない。先に述べた認知の限界のためであるだけでなく、日本企業の組織に内在する問題もあると私は考えている。ここ10年ほど、多くの大企業で新規事業開発部やイノベーション推進室などが作られた。それらの組織で何が起こっているのか、典型的な例を挙げてみよう。 まず新規事業開発の部門では、最初は元気よく「知の探索」がおこなわれるのだが、3年ぐらい経つと社内で批判され始める。予算ばかり使って結果が出ないことが続くと「あの部署は金ばかり使っているコストセンターだ」などと言われ始めるわけだ。しかし想像も想定もできないものがイノベーションなのだから「絶対に失敗しないイノベーション」などといったものが存在するわけがない。すぐに結果が出なくても、それは当然なのである。 しかし組織では、そんな状況が続くと、なんとか利益を出そうとして目の前で儲かっている分野を深掘りして「知の深化」に頼ることになる。たしかに「知の深化」によって短期的には儲かる。しかし長い目で見たときには、イノベーションに重要な「知の探索」のほうをなおざりにするので、結果的に中長期的なイノベーションが枯渇してしまう。 こうした悪循環に陥り「知の深化」に偏ってしまうことを、経営学では「コンピテンシー・トラップ」などと呼ぶ。世界の経営学の視点から言うと、今の日本の大企業にイノベーションが足りないのは、ほとんどの企業が「知の深化」に偏りすぎている、つまりコンピテンシー・トラップに陥っていると言うことができるのだ』、その通りだろう。
・『失敗を怖れる人間ばかり集まる大企業 ここまでの前提から、なぜ日本企業にはイノベーションが足りないのか、さらに深掘りした二つの理由を提示しよう。まず一つは、日本企業の多くが「失敗」を許さない組織文化を持っていることだ。 誰もがスティーブ・ジョブズを素晴らしいイノベーターだと考えているだろう。それに間違いはない。しかし試みに「ジョブズ 失敗」でインターネット検索してみてほしい。今はかなりマニアックな人しか覚えていないアップルのソーシャルネットワーク「PING」や音楽携帯の「iPodシャッフル」などなど、使いにくく売れなかった彼の失敗作が驚くほどたくさんヒットする。こうした大量の失敗作がある一方で、ほんの一握りの大ヒットがあり、それがiMacであり、iPhoneなのだ。ジョブズは大天才であると同時に大失敗王でもあるのだ』、ジョブズが「失敗王でもあるのだ」というのは初めて知った。
・『ところが、日本の大企業はこうした失敗を許さない。「iPodシャッフル」のような失敗など絶対あってはいけない。徹頭徹尾何一つ間違ってはいけないという組織では「知の探索」などとてもできない。社員からイノベーションなど生まれようがない土壌ができてしまう。 もう一つの理由が人事評価だ。失敗を許さない企業にいれば、社員は失敗を怖れる。人事で評価されないのであれば、あえて失敗をするかもしれないような仕事をする社員などいないだろう。 歴史の長い大企業独特の人事の問題もある。新卒一括採用で終身雇用制度の会社はどうしても自分たちと同じような人間を採用する傾向にある。だから似たもの同士が、同じ組織の中にずっと一緒にいる。これではいけないと思って同業他社を見渡しても、そこでもおおむね自分たちと似たような人たちが集まっている。 右を見ても左を見ても似た傾向の人たちが目の前の知の組み合わせをしているだけでは、イノベーションは生まれない。「最近うちの会社では、新しいことができていない」と思ったら、それは知と知の組み合わせが出尽くしてしまったからなのだ。 このような理由から、「知の深化」に偏った状態から脱して「知の探索」を促すのは、現在の大企業組織ではかなり困難だというのが私の見方である』、残念ながらその通りだろう。
・『手段と目的が混同されるダイバーシティ では、どうすればいいのだろうか。一つのヒントが、大企業にいながら他業種の多様な人たちと交流できる場を設けている「ONE JAPAN」のような組織だ。私が「ONE JAPAN」に注目しているのは、彼らの考え方と存在価値に共感しているからだ。かれらが出した著書『仕事はもっと楽しくできる 大企業若手 50社1200人 会社変革ドキュメンタリー』に私は「組織でもがきながら、境界を超えてつながる彼らにこそ、日本の未来がある」という推薦文を寄せさせてもらった。 普段は会えない人たちと会うことで「知の探索」に必要なダイバーシティが生まれる。さらに、共通の思いをもって集まる仲間同士には心理的な安全性が生まれるので、失敗も受け入れられやすい。「ONE JAPAN」はこのコミュニティを「実践共同体」と名付けているが、イノベーションが起こるのに必要な条件を持つのは、まさにこのような組織である。私は日頃から、「ONE JAPAN」こそ失敗を許容する組織にしなければならないと主張している。 さらに言えば、ダイバーシティを導入しようとする日本の大企業で起こりがちなのは、その手段と目的を混同するケースだ。2016年に女性活躍推進法が施行されて以来、私の研究室にダイバーシティ推進室長という肩書きのつく方がしばしばいらっしゃる。ダイバーシティを進めるための部署はできたけれど何をしていいかわからないという。 そこで「では何のためにダイバーシティを推進するのですか?」というそもそもの質問をすると、たいてい「わかりません」という答えが返ってくる。会社がそう決めたからとおっしゃる場合もあった。このような認識ではダイバーシティは進まない。ダイバーシティ推進そのものが目的化し、それはイノベーションのための手段であるという理解に乏しいことが多いのだ。 それに対して「ONE JAPAN」はもともとバラバラの個人が集まる組織だから、ダイバーシティな組織になっている。これからもっと多様なバックグランウンドを持つ、多様な業界・多様な年代の人たちを入れて、そのダイバーシティ性をますます徹底してほしい』、「ONE JAPAN」についての具体的な説明がないが、1200人もいるのであれば、多くの分科会に分かれて活動しているのであろう。
・『「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」受賞者たちの共通点 繰り返すと、ダイバーシティはイノベーションを生み出すためのものであり、幅広い知見を組み合わせるための「知の探索」ができる場であると考えられている。しかし、「知の探索」はひとりの個人の中でも起こせる。多様な経験と幅広い知見を持っていたら、その人の中で既存の知と既存の知の新しい組み合わせができる。 これは経営学で「イントラパーソナル・ダイバーシティIntrapersonal Diversity」=「個人内多様性」と呼ぶ新しい概念だ。現在、イノベーティブなことができている人のほとんどは、このイントラパーソナル・ダイバーシティが高い。 リーダー育成のプロである岡島悦子プロノバ社長は「キャリアのタグ=比較優位となる強み」を持てと、よく主張されている。会社の中で「あいつは○○に強い」と「想起される」人になれということなのだが、この考えにしたがえば、自分の中にいくつもタグを持っている人は、それらを組み合わせて発想することができるため、イノベーション人材になり得るわけだ。 私は「日経WOMAN」が主催する「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」の選考委員をしている。2017年の受賞者たちにはある共通点があった。それはマルチキャリアの持ち主ということだ。異なる職業の経験値を革新的なビジネスにつなげている人たちだったのである。 例えばクリエイターのネットワークを構築し地域創生を手がけるロフトワークの林千晶さんは、花王出身である。その後、ボストン大学大学院を経て、共同通信ニューヨーク支局に勤務したのち日本に戻って起業した。「未来食堂」で有名な社会起業家の小林せかいさんは、元IBMのエンジニアだった。 世界的に評価されるVR用のヘッドマウントディスプレーを開発したFOVEのCEO小島由香さんは、なんと元プロの漫画家だ。彼女はもともと漫画を読むことも大好きで、「漫画の中のイケメンの名前を呼んだら振り返って笑ってくれること」が長年の夢だったという。その発想から生まれたFOVEのヘッドマウントディスプレーは、赤外線で目線の動きを感知する視線追跡機能を搭載して世界中の出資者から12億円を集めた。彼女が漫画家でなければ、この発想自体が生まれなかっただろう。 自身の中に多様性があるからこそ、知の探索ができ、イノベーションを生む。ジョブズの言葉を借りるのであれば、これはコネクティング・ドッツともいえる。事前にはわからないけれど、振り返ると、それぞれの点と点が線でつながっているわけだ』、「イントラパーソナル・ダイバーシティ」が高い人は貴重な存在のようだが、きっと「何をやらせても出来る」ような人物なのだろう。
・『「チャラ男」と「チャラ子」の創造力 もうひとつ、イノベーション人材の特徴について述べたい。 ソーシャルネットワークの分野では、人と人とのつながりを解析して、どのような人脈を持つ人がパフォーマンスを上げるかについて研究されている。 そのなかで最もよく知られている考え方が、スタンフォード大学のマーク・グラノヴェッターが1973年に発表した論文「The strength of weak ties=弱い紐帯の強み」だ。家族や親友といった「強い結びつき」と、ただの知り合いどうしでつくられる「弱い結びつき」では、どちらのほうが価値のある情報が伝わるのか。一見、親友のほうだと思われるが、実はそうとは限らない。 親友をつくるのは容易ではないが、「弱い結びつき」はごく簡単につくることができる。だから「弱い結びつき」のほうが遠くに伸びやすい。遠くに伸びれば、そこには自分が知らない多様な知見や考えや経験を持った人がいて、そういう人たちが発信する情報は「弱い結びつき」のほうが多く流れる。 私が先ほどから述べている「知の探索」に向いているのは、この「弱い結びつき」なのだ。したがって「弱い結びつき」をたくさん持っている人のほうがクリエイティブであるということが、多くの研究で示されている。 これがどんな人かを一言でいうなら、「チャラ男」と「チャラ子」だ。チャラい奴はたいてい大企業では疎まれる。普段は人脈づくりと称してあちこちの呑み会に顔を出し、名刺コレクターと呼ばれて普段はバカにされている。 しかしいざ会議をやってみると、意外とチャラ男がだれも思いつかないような斬新な視点から画期的な提案をしたりする。そうして部長から「お、チャラ男、やるじゃん!」などと褒められてますます周りから疎まれるわけなのだが、こうしたことが起きるのは、かれらが「弱い結びつき」を持っているからなのだ』、「「チャラ男」と「チャラ子」の創造力」が高いというのは、言われてみれば理解できるが、常識とは異なる意外な結論だ。
・『イノベーションを生む「ONE JAPAN」に注目 そしてこう考えると、「ONE JAPAN」のさらなる重要性がわかるだろう。そう、「ONE JAPAN」こそが、まさに「弱い結びつき」を作れる場なのである。残念ながら、人を企業内・事業部内で抱え込む傾向のある日本の大企業では、人は他企業の人たちと弱い結びつきを作ることが難しい。 そこで「ONE JAPAN」のような、企業の垣根を超えて人と人が繋がるプラットホームがあれば、それは知の探索になるのである。そして、それは個人内の多様性を高めるだろう。 世間には、ONE JAPANを「大企業の若手の仲良しクラブ・交流会」と批判する人もいる。しかし、私に言わせれば、その企業の垣根を超えた交流会こそがまずは重要なのだ。「ONE JAPAN」は人と人が繋がる場だ。ここで多くの今まで知りえなかった多様な人と弱い結びつきを作るはずだ。それ自体に、大きな意味があるのである。 では、ここまで見てきたようなイノベーション人材になるにはどうすればいいだろか。それは別に難しいことではない。まずとにかく「動く」。これしかない。「ONE JAPAN」をその動くきっかけとしてぜひ使って欲しい。 これから日本のビジネスは徐々に「プロジェクト型」に移行していくことになるだろう。個人が自らの中に多様性を持ち、自分らしさが発揮できる機会を求めて「弱い結びつき」の中で多様な人材とプロジェクトごとにつながり、自分が納得できる仕事だけをする。そういう時代が近い将来必ずやってくる。 そうなると、その人にとって企業とは、単なる自分が所属する組織なのではなく、自分らしさを発揮して、自分の作りたい世界を作り、自分がしたいことをするための道具になるだろう。 日本の大企業で働く社員たちにそうした意識が芽生えてきているのは、ここで紹介した「ONE JAPAN」が発足2年で50社1200人も参加するほどのコミュニティになったことが、何よりの証左だろう。イノベーションを生む芽は確実に育ちつつあることを私は実感している』、「ONE JAPAN」の今後の活動を注視していきたい。
第三に、東京大学教授、信州大学教授の玉井克哉氏が1月27日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「科学と軍事と民生技術を集約 謎のイノベーション推進組織『DARPA(ダーパ)秘史 世界を変えた「戦争の発明家たち」の光と闇』」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/191986
・『科学に基づく新たな技術が国家の安全を左右する。1957年、最初の人工衛星スプートニクの打ち上げで旧ソ連(現ロシア)に先んじられた米国は、改(あらた)めてそれを痛感した。 翌58年、対抗策として設立されたのがDARPA(米国防高等研究計画局)である。本書は、かつての機密文書や豊富なインタビュー記録を用い、発足当初から今日に至る足跡をたどっている。 本書が投げかける疑問の一つは、平和研究と軍事研究の境界線だ。旧ソ連との地下核実験禁止条約を締結するため、米国は核実験と地震とを確実に識別する技術を必要とした。そのために、DARPAは大規模な予算を投入し、科学としての地震学を発展させた。軍縮のための基礎科学研究をも、軍事研究と呼ぶべきなのだろうか。 DARPAの実質的な出発点は、ベトナム戦争での60年代以降の秘密作戦だ。軍の旺盛な需要に、彼らは応えた。小型の自動小銃を開発するに止(とど)まらず、ゲリラから隔離した「戦略村」を構想し、空爆による心理的打撃の効果を上げるために社会心理学をも動員した。 もっとも、ベトナム戦争への関与は全体として大きな失敗だった。戦略村は機能せず、社会心理分析は的外れで、枯れ葉剤のように、国際的にも、国内的にも、厳しい非難を浴びた開発成果もあった』、DARPAはインターネットの原型を作ったことで有名だが、ベトナム戦争への関与など功罪相半ばするようだ。
・『研究戦略の観点から興味深いのは、DARPAでの研究者の裁量の大きさと、異常なまでの意思決定の速さである。後世インターネットとして結実した研究は、一人の独創的な研究者の発意を当時の局長がわずか15分で承認したことから始まった。有識者の会議で、長時間かけて意見を集約するようなやり方とは、対照的である』、インターネットの原型を「局長がわずか15分で承認」というのには驚かされた。無論、局長の権限内の予算だったのだろうが、彼我の差を改めて痛感した。
・『とりわけ注目すべきなのは、無人攻撃機、ステルス技術、GPS(全地球測位システム)、自動走行車、音声認識、精密誘導弾、さらにコンピューター間連携による統制支援や兵器群連携システムなどを早くから手掛け、しかもいったんは失敗に終わっていたことだ。 同様のことが、今日も行われている可能性は高い。数十年後に人類が目にする技術は、いま密(ひそ)かに研究されているのかもしれない。成果の公開と自由な相互批判を基盤とする科学研究とは別個に、闇に隠れたダークマターのような技術の世界が、見えないところに広がっているのかもしれない。 近年のDARPAは、有名になった割に活動が低調であり、存在理由すら問われる状況だという。だが、「米中新冷戦」が語られる今日、技術安全保障における米国の躍進をもたらした組織の実像を知る意義は、まことに大きい』、「闇に隠れたダークマターのような技術の世界が、見えないところに広がっているのかもしれない」というのは、不気味だが、とんでもない画期的技術が飛び出してくる可能性があるというのは、楽しみでもある。
タグ:大企業に所属する若手社員が有志ではじめたコミュニティ「ONE JAPAN」が発足から2年で50社1200人を擁する団体に育った なぜ日本企業にはイノベーションが足りないのか 「両利きの経営」 イノベーションを生む「ONE JAPAN」に注目 後世インターネットとして結実した研究は、一人の独創的な研究者の発意を当時の局長がわずか15分で承認したことから始まった “キャリアの死”を覚悟しなければならない環境では、誰も新たな社会脳をつくることはできないだろう。 入山 章栄 現代ビジネス 「弱い結びつき」のほうが遠くに伸びやすい。遠くに伸びれば、そこには自分が知らない多様な知見や考えや経験を持った人がいて、そういう人たちが発信する情報は「弱い結びつき」のほうが多く流れる ベトナム戦争への関与は全体として大きな失敗 無人攻撃機、ステルス技術、GPS(全地球測位システム)、自動走行車、音声認識、精密誘導弾、さらにコンピューター間連携による統制支援や兵器群連携システム 「チャラ男」と「チャラ子」の創造力 「知の探索」と「知の深化」の両方をバランスよく実現することが非常に重要であり、このバランスがよい企業、組織、ビジネスパーソンがイノベーションを起こせる確率が高い 「知の深化」 「個人内多様性」 イントラパーソナル・ダイバーシティ 「失敗を怖れる人間ばかり集まる大企業にイノベーションはできるのか? 入山章栄が語るイノベーティブ人材論」 「科学と軍事と民生技術を集約 謎のイノベーション推進組織『DARPA(ダーパ)秘史 世界を変えた「戦争の発明家たち」の光と闇』」 玉井克哉 人間の認知には限界 目の前ではなくて、自分のいる場所からなるべく遠く離れたところを見て、遠くの知を幅広く探索し、それらを持って帰ってきて、いま自分にある既存の知と新しく組み合わせることだ 「知の探索」 「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」受賞者たちの共通点 手段と目的が混同されるダイバーシティ 日本の大企業はこうした失敗を許さない ジョブズは大天才であると同時に大失敗王でもあるのだ コンピテンシー・トラップ 社内から批判「あの部署はカネの無駄」 「知の深化」によって短期的には儲かる。しかし長い目で見たときには、イノベーションに重要な「知の探索」のほうをなおざりにするので、結果的に中長期的なイノベーションが枯渇 失敗を怖れる人間ばかり集まる大企業 新たな市場や顧客ニーズを見据えた製品やサービスを生み出すなら、イノベーションチームという別の「集団」と、新しい規範による社会脳をつくる必要 “起業家精神”は問題ではない 一人前の技術者から異端児へ 「イノベーションを阻害する「同調圧力」の呪縛」 ダイヤモンド・オンライン 校條 浩 (その3)(イノベーションを阻害する「同調圧力」の呪縛、失敗を怖れる人間ばかり集まる大企業にイノベーションはできるのか? 入山章栄が語るイノベーティブ人材論、科学と軍事と民生技術を集約 謎のイノベーション推進組織『DARPA(ダーパ)秘史 世界を変えた「戦争の発明家たち」の光と闇』) イノベーション すでに社内に持っている知を改良したり、同質の知を積み重ねたりして、それらをビジネスに活用し収益を生み出そうとする
日本のスポーツ界(その23)(アマ指導者に警鐘の筒香 甲子園を主催の新聞社も痛烈批判、小田嶋氏:SMO48運営側に贈る言葉) [社会]
日本のスポーツ界については、1月11日に取上げた。今日は、(その23)(アマ指導者に警鐘の筒香 甲子園を主催の新聞社も痛烈批判、小田嶋氏:SMO48運営側に贈る言葉)である。
先ずは、1月26日付け日刊ゲンダイ「アマ指導者に警鐘の筒香 甲子園を主催の新聞社も痛烈批判」を紹介しよう。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/246304
・『「聖域」にも斬り込んだ。 25日、DeNAの筒香嘉智(27)が日本外国特派員協会で会見を開いた。以前から言及してきた、勝利至上主義によるアマチュア野球指導者の選手酷使や暴言・暴力について改めて問題提起。この日も「大人が守らないと子供の将来は潰れる」と警鐘を鳴らし、少年野球や高校野球でのリーグ戦導入や球数制限ルールの適用について訴えた。 「プロ野球選手の(ように)体ができた大人ですらリーグ戦でやっているのに、体のできていない小さい子供たちがトーナメントをしている。将来がある子供たちを守るには一発勝負のトーナメント制をやめ、リーグ制を導入したり、ルールで球数制限や練習時間を決める必要があると思う」』、「日本外国特派員協会で会見」とはいい場所を選んだものだ。勇気ある発言で、正論である。
・『高校野球の「悪」を伝え切れていない 昨夏、金足農の吉田輝星(18=現日本ハム)は、秋田県大会から甲子園の準決勝まで10試合連続完投勝利。11試合目となる決勝で12失点を喫し、計881球で途中降板した。過去にも、早実の斎藤佑樹(30=現日本ハム)は甲子園だけで948球、1998年、横浜の松坂大輔(38=現中日)も782球を投じている。 高校野球はエースがマウンドに立ち続けることが美学とされ、抑えれば「怪物」、打たれれば「悲運」。メディアはこぞって感動的な物語に仕立て上げ、高校野球人気を煽っている。筒香はそういったマスコミにも矛先を向けた。 「高校生が甲子園に出てやっていることは、あれは部活動です。高校の部活に大きなお金が動いたり、教育の場と言いながらドラマのようなことをつくることもある。新聞社が高校野球を主催していますので、子供にとって良くないと思っている方はたくさんいると思いますが、(メディアは)高校野球の『悪』というか、子供たちのためになっていないという思いをなかなか伝え切れていないのが現状かなと思います」 会場で聞いていた甲子園大会を主催する「新聞社」は耳が痛かったに違いない。主催の新聞社にとって高校野球はドル箱事業。朝日新聞は中高生の部活動に対する熱中症の記事を掲載しながら、昨夏の大会で熱中症患者が続出したことへの問題提起は皆無だった。 この会見後、春のセンバツ出場校が発表され、筒香の母校である横浜高は5年ぶり16回目の出場が決定。使命感に燃える野球の伝道師は、球界とメディアの間にはびこる悪しき文化も変えるか』、残念ながら、筒香選手の勇気ある発言は、メディアの厚い壁に阻まれたが、第二、第三の筒香が続くことで、世間の「空気」が変わってほしいものだ。
次に、コラムニストの小田嶋 隆氏が1月18日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「SMO48運営側に贈る言葉」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00001/?P=1
・『第72代横綱の稀勢の里が引退を表明した。 残念だ。とても悲しい。 当コラムの連載の中で、これまでに何度か「もう大相撲は見捨てた」という主旨の言葉を書いた記憶がある。 「もう相撲については書かない」と明言したこともある。 で、その度に自分のその言明を裏切ってきた。なさけない話だ。われながら、不徹底な態度だったと思っている。 大相撲を一時的に見捨てたことがなさけないと言っているのではない。結果として見捨てなかったことが不徹底だったと悔いているのでもない。 見捨てることなんかできっこないくせに、「見捨てる」だとか「もう見ない」だとかいう直情的な断言を、口走るだけならともかく、わざわざ文字にして残してしまったことがみっともなかったと私は申し上げている。バカな態度だった。 しかしまあ、何かに対して愛情を抱くということは、その対象についてみっともない人間になるということでもある。これは、人が人である以上、仕方のないことだ。 何かや誰かに対してみっともない振る舞い方をする時、その人間はその誰かや何かに対して愛情を抱いている。 まことにみっともないなりゆきだが、本当のことなのだからしかたがない』、「何かに対して愛情を抱くということは、その対象についてみっともない人間になるということでもある」というのは、言い訳を通り越して、人間の本質を突いているようだ。
・『私は、相撲について書いたり話したりする時、論理的に一貫した冷静な人間であることができない。 ほぼ必ず情緒的で怒りっぽくも未練たらたらな厄介なオヤジとして過剰な言葉を並べ立ててしまう。 もっと、事実に即した書き方ができれば良いとも思うのだが、 「事実に即して書くくらいならはじめから原稿なんか書くもんか」と、大相撲ライターとしての私は、どうやら本気でそう思いこんでしまっている。 困ったことだ。 ともあれ、相撲ファンである私は、一時的に、相撲をめぐる報道や、土俵の周辺で起こる愚かな事件にうんざりすることはあっても、相撲そのものを嫌いになることはできない。 その私の大相撲への愛情の大きな部分を担っていてくれていた力士が、ほかならぬ稀勢の里だった。 稀勢の里の相撲は、デビュー当時から大好きだった。 土俵の外での言動や故郷でのエピソードや稽古風景も含めて、あらゆる点で尊敬できる相撲取りだった。 報道によれば、稀勢の里は「引退させてください」と親方に申し出たのだそうだ。 なりゆきからして、逃げ場のない選択だったのだろう。 初日から続いていた黒星が3つ並んでしまった時点で、引退は、本人の決断の問題というよりは、世間の空気として、既に動かしがたい状況だった。 NHKの大相撲中継の実況アナウンサーや解説陣の口吻からも 「空気読んでください」という引退勧告に近い気配が横溢していた。 というよりも、前日、すなわち2連敗が決定した初場所2日目段階で、世間の趨勢は固まっていた。 「あー、これは引退だな」と、横綱に「潔さ」を求める多くの無責任な日本人は、そう感じていたはずだ。 初場所2日目の土俵で、横綱の2つ目の黒星が記録されると、テレビカメラは、支度部屋に殺到する報道陣の後ろ姿をとらえて、その印象的な画像をしばらくフィックスのまま流し続けた。 「大勢の報道陣が支度部屋を取り囲もうとしています」と、実況アナは、国技館の通路を走るカメラを持った人々の様子を実況してみせた』、私自身は稀勢の里ファンではないので、無理して体を痛めたのも自己責任で、ふがいない横綱で引退は当然と思っていた。ただ、小田嶋氏のような熱烈なファンの気持ちはそれなりに理解できる。
・『「あああ」と私はそう思いながら画面を眺めていた。 相撲ファンの大多数は同じ気持ちだったはずだ。 われわれは「あああ」以外に適切な単語を思い浮かべることができない。それほど、私たちの気持ちは千々に乱れていた。 野次馬は違う。彼らはむしろハイになっていたはずだ。 野次馬諸氏は「おっ?」と思いながら、身を乗り出して画面に注目する。毎度同じだ。彼らはあらゆる不幸な事態を面白がっている。別の言い方をすれば、どんな状況に対してであれ、騒動が拡大する方向で推移することを願っている人々をわれわれは野次馬と呼んでいるのであって、彼らは、とにもかくにも他人の転落や悲嘆が大好物なのだ』、私もさしずめ野次馬の1人なのだろう。
・『私が個人的に残念に思っているのは、大相撲の世界が、この10年ほど、その野次馬の意図と願望に寄り添う方向の決断を繰り返してきた点だ。 もう少し実態に即した言い方をすると、朝青龍を追放し、雅山を排除し、日馬富士に引導を渡し、貴ノ岩を叩き出したこの10年ほどの角界の改革三昧は、相撲の世界を正常化するための避けて通れない試練であったように見えて、実のところ、角を矯めて牛を殺す愚行に似た、浅はかな弥縫策以外のナニモノでもなかったということだ。 稀勢の里の身の回りに起こった度重なる故障と、その故障がもたらした早すぎる引退それ自体は、相撲協会の愚かな決断の直接の結果ではない。 が、人一倍巨大な責任感の持ち主である稀勢の里が、暴力や賭博の問題で揺れる角界を支えるために必要以上に自分を追い詰めていたのであろうことは否定できない。 こんな異常な事態が続いている状況でなかったら、稀勢の里とてもう少しゆったりとした構えで土俵に向かうことができたはずだ。もし仮に、怪我をおして土俵に立つ決断を、彼が撤回できていたら、稀勢の里の引退のタイミングは、もう2年か3年先に持っていくことができた気がする。そう思うと残念でならない。 総体として、日本相撲協会は、ファンの声に耳を傾けているようでいて、その実、野次馬の邪悪な叫び声にコントロールされていた』、最後の部分は、言われてみれば、その通りなのかも知れない。
・『で、「記事になりやすい扇情的な見出しを提供する」標準活動に血道をあげ、「騒動の拡大を喜ぶ野次馬に向けて劇的なシナリオを用意する」べく努力を傾けてきた。 その結果が、「品格や相撲の美を強要して力士を追い詰め」るアナクロニズムであり、「相撲を相撲としてではなく、何かの代理戦争として楽しんでいる邪悪な見物人の要望に応える」幾多の改革や処分だったと、私はそういうふうに受け止めている。 要するに相撲の運営をまかされた面々は、この10年ほど、SMO48の運営側みたいな杜撰なアイドル見世物商売まがいを繰り広げてきたのである』、手厳しい相撲協会批判である。
・『引退の第一報を受けて、テレビ各局は、「19年ぶりに誕生した日本出身の横綱」というフレーズを連呼していた。 ニュースを片耳で聞き流しながら、私は、またしても大相撲を見捨てる気持ちに傾いていた。感情的にならずにおれなかった。それほど心の底からあきれかえってしまったからだ。 おそらく、大相撲ファンでない普通のテレビ視聴者は、この「日本出身の」という奇妙な言い回しが醸しているニュアンスを言葉どおりの意味では了解できていないはずだ。なので、以下、いささか押し付けがましくなるが、私が知っている限りの事情を解説しておく。 この「日本出身の」という、はじめて聞いた人間にはにわかに意味のわからない不可思議な言い回しには、実は、古くからの相撲ファンならよく知っているちょっとした来歴がある。 はじめて使われたのは、2016年の初場所に大関琴奨菊が優勝した時だった。 用例としては、この時の琴奨菊の優勝が「日本出身の力士として、2006年初場所の栃東以来10年ぶりの優勝」であることが、しきりに強調されたのである。 どうして「日本人力士による10年ぶりの優勝」と、普通にそう言わなかったのかというと、「日本人力士の優勝」ということになると、2012年の5月場所にモンゴル出身の帰化日本人である旭天鵬が優勝していたからだ。 つまり、単に「日本人力士の優勝」という言い方をすると、それは4年ぶりに過ぎなかっただったわけだ。 それを「日本出身の日本人力士としての優勝」に限定すれば10年ぶりになる。その点を強調したいがために、この言い方が発明されたのである。 もう少し丁寧に言えば、「日本出身の力士による10年ぶりの優勝」というこの言い方は「生まれも育ちも日本で、両親も日本人である生粋の日本人と、外国にルーツを持つ外国生まれの元外国人である帰化日本人を区別して、別の日本人として扱うのが、わが国の『日本人』のスタンダードである」ということを行間で示唆するために発明されたフレーズだったわけだ。 このことからわかるのは、われわれが、「日本人」という言葉に「国籍」(ナショナリティ)「血統(民族性)」(エスニシティ)と「文化的バックグラウンド」をすべてひっくるめた極めて厳密な資格審査を求めているということだ。 してみると、帰化した日本人は、国籍においては日本人であっても、血統や文化性においていまだ日本人と呼ぶには足りないわけで、だからこそ、その「ニセモノの日本人」をあぶり出して区別するための記号として、メディアは、「日本出身の」というタグを発明した次第なのだ』、「日本出身の」の意味を再認識させられた。なんと、日本らしい「島国根性」なのだろう。
・『で、そのタグがいままた稀勢の里に対して適用されている。 今回のケースでは、「日本出身の横綱」というこのフレーズは、「日本国籍を持つ日本人ではあるものの、日本生まれの日本出身の日本人ではない曙や武蔵丸と生粋の日本人である稀勢の里を区別する」ために用いられてもいれば、 「現在のところはモンゴル国籍なのだが、既に公式に帰化を申請していることが報道されており、いずれ日本国籍を取得する見込みの横綱である鶴竜と、生まれつきのどこからどう見ても完全な日本人である稀勢の里を区別」するために使用されてもいる。 いずれにせよ、この言葉には「日本生まれで両親が日本人で日本の国籍を持っている生粋の日本人であるわれわれの横綱を私たちは特別に尊重しようではありませんか」というニュアンスがこめられている。 考えすぎだろうか? あるいは考えすぎなのかも知れない。 実際、ほぼ同じことを書いた私のツイートに対しては、 「考えすぎですよ(笑)」「そうやって差別的に解釈するおまえの脳内が差別的だってだけの話だよ」という感じのリプライがいくつかとどけられている。 なかなかむずかしい問題だ。 いまのところ、私は、この件について、明確な答えを持っていない。 なので、この場では「聞きようによっては差別に聞こえかねない言い方は、差別と思われても仕方がないのではなかろうか」と言うにとどめておく。 ただ、「本当の日本人ならそんなことは気にしないはずだ」という言い方が、ほぼ完全に差別そのものであることだけはこの場を借りて指摘しておきたい』、「この言葉には「日本生まれで両親が日本人で日本の国籍を持っている生粋の日本人であるわれわれの横綱を私たちは特別に尊重しようではありませんか」というニュアンスがこめられている」というのは、「考えすぎ」どころではなく、その通りだと思う。嫌な「島国根性」の発露以外の何物でもない。
・『ともあれ、2016年の初場所の千秋楽、琴奨菊の優勝報道を横目で眺めながら、私は「ああ、うちの国のメディアの人間たちは、いまだに帰化した日本人を本当の日本人として扱うことに納得していないのだな」ということに強い印象を抱いた。 もっとも、この時、旭天鵬のもとにインタビューに行った記者もいて、その記者は旭天鵬の口から「オレも日本人なんだけどなあ」 という味わい深いコメントを引き出している。 私はその記事を読んで、「でもまあ、こういう記事が新聞に載ってもいるわけなのだからして、まるっきりうちの国がモンゴル差別一色ということでもないのかな」と、一方では、やや安心してもいた。 ちなみに申し上げるなら、ふだんから大相撲中継を毎日見ているディープな相撲ファンの中に、この種の国粋的な文言を振り回す人間はまずいない。 というよりも、相撲を愛するファンにとっては、あくまでも好きな相撲取りや強いお相撲さんがいるだけのことで、国籍や血統や民族性は周辺情報に過ぎない。 たしかに、稀勢の里が茨城県牛久の出身で遠藤が石川県鳳珠郡穴水町の生まれであることを私が暗記していることからもわかる通り、相撲は伝統的に力士の出身地を大切に扱う地域オリエンテッドな格技ではある。とはいえ、少なくとも外国人力士に門戸を開いて以降の現代の相撲ファンは、国籍や民族性をさして重視していない。ファンはあくまでも、個々の力士の力量と相撲っぷりに惚れ込むことになっている。そうでなくても毎日相撲を見ていれば、じきに外国人であるのか日本人であるのかは、たいした問題ではなくなる。 ところが、相撲について知識も愛情も持っていない市井のワイドショー視聴者は、もっぱらスキャンダルと国籍と不祥事を通して相撲を鑑賞している』、「ディープな相撲ファンの中に、この種の国粋的な文言を振り回す人間はまずいない」、というのは、僅かながらも救いだ。
・『であるからして、ワイドショー視聴者向けに稀勢の里という力士を紹介する文脈では、ただただ「19年ぶりに誕生した日本出身の横綱」の引退を惜しんでいるかのように聞こえるこの不自然な連呼を繰り返すことになる。 この「日本出身の」というこの奇妙な言い方が稀勢の里を引退に追い込んだと言い張るつもりはない。 ただ、モンゴル人力士と日本人力士の間にある確執であるとか、力士間に蔓延する暴力と賭博とプロテインであるとかいった、噂の真偽よりも、単にそれを面白がる人々の娯楽のために書かれている与太記事が土俵を害していることはまぎれもない事実だと思っている。また、21世紀の大相撲を間違った方向に誘導しているのが、相撲取りでも相撲協会の人間でも相撲ファンでもない、非相撲ファンのバカな野次馬だということもまた目をそらしてはならない事実だと思っている。 とりあえず、日本相撲協会は、ワイドショーのレポーターと週刊誌メディアの取材を拒絶するべきだと思う。 広報担当の人間には、「うるせえばか」という言葉をおぼえてほしい。 たいていの取材は、このフレーズで対応可能だと思う』、なんと乱暴な結びなのだろう。「私は、相撲について書いたり話したりする時、論理的に一貫した冷静な人間であることができない。 ほぼ必ず情緒的で怒りっぽくも未練たらたらな厄介なオヤジとして過剰な言葉を並べ立ててしまう」という小田嶋氏の性格に免じて、見逃すことにしたい。
先ずは、1月26日付け日刊ゲンダイ「アマ指導者に警鐘の筒香 甲子園を主催の新聞社も痛烈批判」を紹介しよう。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/246304
・『「聖域」にも斬り込んだ。 25日、DeNAの筒香嘉智(27)が日本外国特派員協会で会見を開いた。以前から言及してきた、勝利至上主義によるアマチュア野球指導者の選手酷使や暴言・暴力について改めて問題提起。この日も「大人が守らないと子供の将来は潰れる」と警鐘を鳴らし、少年野球や高校野球でのリーグ戦導入や球数制限ルールの適用について訴えた。 「プロ野球選手の(ように)体ができた大人ですらリーグ戦でやっているのに、体のできていない小さい子供たちがトーナメントをしている。将来がある子供たちを守るには一発勝負のトーナメント制をやめ、リーグ制を導入したり、ルールで球数制限や練習時間を決める必要があると思う」』、「日本外国特派員協会で会見」とはいい場所を選んだものだ。勇気ある発言で、正論である。
・『高校野球の「悪」を伝え切れていない 昨夏、金足農の吉田輝星(18=現日本ハム)は、秋田県大会から甲子園の準決勝まで10試合連続完投勝利。11試合目となる決勝で12失点を喫し、計881球で途中降板した。過去にも、早実の斎藤佑樹(30=現日本ハム)は甲子園だけで948球、1998年、横浜の松坂大輔(38=現中日)も782球を投じている。 高校野球はエースがマウンドに立ち続けることが美学とされ、抑えれば「怪物」、打たれれば「悲運」。メディアはこぞって感動的な物語に仕立て上げ、高校野球人気を煽っている。筒香はそういったマスコミにも矛先を向けた。 「高校生が甲子園に出てやっていることは、あれは部活動です。高校の部活に大きなお金が動いたり、教育の場と言いながらドラマのようなことをつくることもある。新聞社が高校野球を主催していますので、子供にとって良くないと思っている方はたくさんいると思いますが、(メディアは)高校野球の『悪』というか、子供たちのためになっていないという思いをなかなか伝え切れていないのが現状かなと思います」 会場で聞いていた甲子園大会を主催する「新聞社」は耳が痛かったに違いない。主催の新聞社にとって高校野球はドル箱事業。朝日新聞は中高生の部活動に対する熱中症の記事を掲載しながら、昨夏の大会で熱中症患者が続出したことへの問題提起は皆無だった。 この会見後、春のセンバツ出場校が発表され、筒香の母校である横浜高は5年ぶり16回目の出場が決定。使命感に燃える野球の伝道師は、球界とメディアの間にはびこる悪しき文化も変えるか』、残念ながら、筒香選手の勇気ある発言は、メディアの厚い壁に阻まれたが、第二、第三の筒香が続くことで、世間の「空気」が変わってほしいものだ。
次に、コラムニストの小田嶋 隆氏が1月18日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「SMO48運営側に贈る言葉」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00001/?P=1
・『第72代横綱の稀勢の里が引退を表明した。 残念だ。とても悲しい。 当コラムの連載の中で、これまでに何度か「もう大相撲は見捨てた」という主旨の言葉を書いた記憶がある。 「もう相撲については書かない」と明言したこともある。 で、その度に自分のその言明を裏切ってきた。なさけない話だ。われながら、不徹底な態度だったと思っている。 大相撲を一時的に見捨てたことがなさけないと言っているのではない。結果として見捨てなかったことが不徹底だったと悔いているのでもない。 見捨てることなんかできっこないくせに、「見捨てる」だとか「もう見ない」だとかいう直情的な断言を、口走るだけならともかく、わざわざ文字にして残してしまったことがみっともなかったと私は申し上げている。バカな態度だった。 しかしまあ、何かに対して愛情を抱くということは、その対象についてみっともない人間になるということでもある。これは、人が人である以上、仕方のないことだ。 何かや誰かに対してみっともない振る舞い方をする時、その人間はその誰かや何かに対して愛情を抱いている。 まことにみっともないなりゆきだが、本当のことなのだからしかたがない』、「何かに対して愛情を抱くということは、その対象についてみっともない人間になるということでもある」というのは、言い訳を通り越して、人間の本質を突いているようだ。
・『私は、相撲について書いたり話したりする時、論理的に一貫した冷静な人間であることができない。 ほぼ必ず情緒的で怒りっぽくも未練たらたらな厄介なオヤジとして過剰な言葉を並べ立ててしまう。 もっと、事実に即した書き方ができれば良いとも思うのだが、 「事実に即して書くくらいならはじめから原稿なんか書くもんか」と、大相撲ライターとしての私は、どうやら本気でそう思いこんでしまっている。 困ったことだ。 ともあれ、相撲ファンである私は、一時的に、相撲をめぐる報道や、土俵の周辺で起こる愚かな事件にうんざりすることはあっても、相撲そのものを嫌いになることはできない。 その私の大相撲への愛情の大きな部分を担っていてくれていた力士が、ほかならぬ稀勢の里だった。 稀勢の里の相撲は、デビュー当時から大好きだった。 土俵の外での言動や故郷でのエピソードや稽古風景も含めて、あらゆる点で尊敬できる相撲取りだった。 報道によれば、稀勢の里は「引退させてください」と親方に申し出たのだそうだ。 なりゆきからして、逃げ場のない選択だったのだろう。 初日から続いていた黒星が3つ並んでしまった時点で、引退は、本人の決断の問題というよりは、世間の空気として、既に動かしがたい状況だった。 NHKの大相撲中継の実況アナウンサーや解説陣の口吻からも 「空気読んでください」という引退勧告に近い気配が横溢していた。 というよりも、前日、すなわち2連敗が決定した初場所2日目段階で、世間の趨勢は固まっていた。 「あー、これは引退だな」と、横綱に「潔さ」を求める多くの無責任な日本人は、そう感じていたはずだ。 初場所2日目の土俵で、横綱の2つ目の黒星が記録されると、テレビカメラは、支度部屋に殺到する報道陣の後ろ姿をとらえて、その印象的な画像をしばらくフィックスのまま流し続けた。 「大勢の報道陣が支度部屋を取り囲もうとしています」と、実況アナは、国技館の通路を走るカメラを持った人々の様子を実況してみせた』、私自身は稀勢の里ファンではないので、無理して体を痛めたのも自己責任で、ふがいない横綱で引退は当然と思っていた。ただ、小田嶋氏のような熱烈なファンの気持ちはそれなりに理解できる。
・『「あああ」と私はそう思いながら画面を眺めていた。 相撲ファンの大多数は同じ気持ちだったはずだ。 われわれは「あああ」以外に適切な単語を思い浮かべることができない。それほど、私たちの気持ちは千々に乱れていた。 野次馬は違う。彼らはむしろハイになっていたはずだ。 野次馬諸氏は「おっ?」と思いながら、身を乗り出して画面に注目する。毎度同じだ。彼らはあらゆる不幸な事態を面白がっている。別の言い方をすれば、どんな状況に対してであれ、騒動が拡大する方向で推移することを願っている人々をわれわれは野次馬と呼んでいるのであって、彼らは、とにもかくにも他人の転落や悲嘆が大好物なのだ』、私もさしずめ野次馬の1人なのだろう。
・『私が個人的に残念に思っているのは、大相撲の世界が、この10年ほど、その野次馬の意図と願望に寄り添う方向の決断を繰り返してきた点だ。 もう少し実態に即した言い方をすると、朝青龍を追放し、雅山を排除し、日馬富士に引導を渡し、貴ノ岩を叩き出したこの10年ほどの角界の改革三昧は、相撲の世界を正常化するための避けて通れない試練であったように見えて、実のところ、角を矯めて牛を殺す愚行に似た、浅はかな弥縫策以外のナニモノでもなかったということだ。 稀勢の里の身の回りに起こった度重なる故障と、その故障がもたらした早すぎる引退それ自体は、相撲協会の愚かな決断の直接の結果ではない。 が、人一倍巨大な責任感の持ち主である稀勢の里が、暴力や賭博の問題で揺れる角界を支えるために必要以上に自分を追い詰めていたのであろうことは否定できない。 こんな異常な事態が続いている状況でなかったら、稀勢の里とてもう少しゆったりとした構えで土俵に向かうことができたはずだ。もし仮に、怪我をおして土俵に立つ決断を、彼が撤回できていたら、稀勢の里の引退のタイミングは、もう2年か3年先に持っていくことができた気がする。そう思うと残念でならない。 総体として、日本相撲協会は、ファンの声に耳を傾けているようでいて、その実、野次馬の邪悪な叫び声にコントロールされていた』、最後の部分は、言われてみれば、その通りなのかも知れない。
・『で、「記事になりやすい扇情的な見出しを提供する」標準活動に血道をあげ、「騒動の拡大を喜ぶ野次馬に向けて劇的なシナリオを用意する」べく努力を傾けてきた。 その結果が、「品格や相撲の美を強要して力士を追い詰め」るアナクロニズムであり、「相撲を相撲としてではなく、何かの代理戦争として楽しんでいる邪悪な見物人の要望に応える」幾多の改革や処分だったと、私はそういうふうに受け止めている。 要するに相撲の運営をまかされた面々は、この10年ほど、SMO48の運営側みたいな杜撰なアイドル見世物商売まがいを繰り広げてきたのである』、手厳しい相撲協会批判である。
・『引退の第一報を受けて、テレビ各局は、「19年ぶりに誕生した日本出身の横綱」というフレーズを連呼していた。 ニュースを片耳で聞き流しながら、私は、またしても大相撲を見捨てる気持ちに傾いていた。感情的にならずにおれなかった。それほど心の底からあきれかえってしまったからだ。 おそらく、大相撲ファンでない普通のテレビ視聴者は、この「日本出身の」という奇妙な言い回しが醸しているニュアンスを言葉どおりの意味では了解できていないはずだ。なので、以下、いささか押し付けがましくなるが、私が知っている限りの事情を解説しておく。 この「日本出身の」という、はじめて聞いた人間にはにわかに意味のわからない不可思議な言い回しには、実は、古くからの相撲ファンならよく知っているちょっとした来歴がある。 はじめて使われたのは、2016年の初場所に大関琴奨菊が優勝した時だった。 用例としては、この時の琴奨菊の優勝が「日本出身の力士として、2006年初場所の栃東以来10年ぶりの優勝」であることが、しきりに強調されたのである。 どうして「日本人力士による10年ぶりの優勝」と、普通にそう言わなかったのかというと、「日本人力士の優勝」ということになると、2012年の5月場所にモンゴル出身の帰化日本人である旭天鵬が優勝していたからだ。 つまり、単に「日本人力士の優勝」という言い方をすると、それは4年ぶりに過ぎなかっただったわけだ。 それを「日本出身の日本人力士としての優勝」に限定すれば10年ぶりになる。その点を強調したいがために、この言い方が発明されたのである。 もう少し丁寧に言えば、「日本出身の力士による10年ぶりの優勝」というこの言い方は「生まれも育ちも日本で、両親も日本人である生粋の日本人と、外国にルーツを持つ外国生まれの元外国人である帰化日本人を区別して、別の日本人として扱うのが、わが国の『日本人』のスタンダードである」ということを行間で示唆するために発明されたフレーズだったわけだ。 このことからわかるのは、われわれが、「日本人」という言葉に「国籍」(ナショナリティ)「血統(民族性)」(エスニシティ)と「文化的バックグラウンド」をすべてひっくるめた極めて厳密な資格審査を求めているということだ。 してみると、帰化した日本人は、国籍においては日本人であっても、血統や文化性においていまだ日本人と呼ぶには足りないわけで、だからこそ、その「ニセモノの日本人」をあぶり出して区別するための記号として、メディアは、「日本出身の」というタグを発明した次第なのだ』、「日本出身の」の意味を再認識させられた。なんと、日本らしい「島国根性」なのだろう。
・『で、そのタグがいままた稀勢の里に対して適用されている。 今回のケースでは、「日本出身の横綱」というこのフレーズは、「日本国籍を持つ日本人ではあるものの、日本生まれの日本出身の日本人ではない曙や武蔵丸と生粋の日本人である稀勢の里を区別する」ために用いられてもいれば、 「現在のところはモンゴル国籍なのだが、既に公式に帰化を申請していることが報道されており、いずれ日本国籍を取得する見込みの横綱である鶴竜と、生まれつきのどこからどう見ても完全な日本人である稀勢の里を区別」するために使用されてもいる。 いずれにせよ、この言葉には「日本生まれで両親が日本人で日本の国籍を持っている生粋の日本人であるわれわれの横綱を私たちは特別に尊重しようではありませんか」というニュアンスがこめられている。 考えすぎだろうか? あるいは考えすぎなのかも知れない。 実際、ほぼ同じことを書いた私のツイートに対しては、 「考えすぎですよ(笑)」「そうやって差別的に解釈するおまえの脳内が差別的だってだけの話だよ」という感じのリプライがいくつかとどけられている。 なかなかむずかしい問題だ。 いまのところ、私は、この件について、明確な答えを持っていない。 なので、この場では「聞きようによっては差別に聞こえかねない言い方は、差別と思われても仕方がないのではなかろうか」と言うにとどめておく。 ただ、「本当の日本人ならそんなことは気にしないはずだ」という言い方が、ほぼ完全に差別そのものであることだけはこの場を借りて指摘しておきたい』、「この言葉には「日本生まれで両親が日本人で日本の国籍を持っている生粋の日本人であるわれわれの横綱を私たちは特別に尊重しようではありませんか」というニュアンスがこめられている」というのは、「考えすぎ」どころではなく、その通りだと思う。嫌な「島国根性」の発露以外の何物でもない。
・『ともあれ、2016年の初場所の千秋楽、琴奨菊の優勝報道を横目で眺めながら、私は「ああ、うちの国のメディアの人間たちは、いまだに帰化した日本人を本当の日本人として扱うことに納得していないのだな」ということに強い印象を抱いた。 もっとも、この時、旭天鵬のもとにインタビューに行った記者もいて、その記者は旭天鵬の口から「オレも日本人なんだけどなあ」 という味わい深いコメントを引き出している。 私はその記事を読んで、「でもまあ、こういう記事が新聞に載ってもいるわけなのだからして、まるっきりうちの国がモンゴル差別一色ということでもないのかな」と、一方では、やや安心してもいた。 ちなみに申し上げるなら、ふだんから大相撲中継を毎日見ているディープな相撲ファンの中に、この種の国粋的な文言を振り回す人間はまずいない。 というよりも、相撲を愛するファンにとっては、あくまでも好きな相撲取りや強いお相撲さんがいるだけのことで、国籍や血統や民族性は周辺情報に過ぎない。 たしかに、稀勢の里が茨城県牛久の出身で遠藤が石川県鳳珠郡穴水町の生まれであることを私が暗記していることからもわかる通り、相撲は伝統的に力士の出身地を大切に扱う地域オリエンテッドな格技ではある。とはいえ、少なくとも外国人力士に門戸を開いて以降の現代の相撲ファンは、国籍や民族性をさして重視していない。ファンはあくまでも、個々の力士の力量と相撲っぷりに惚れ込むことになっている。そうでなくても毎日相撲を見ていれば、じきに外国人であるのか日本人であるのかは、たいした問題ではなくなる。 ところが、相撲について知識も愛情も持っていない市井のワイドショー視聴者は、もっぱらスキャンダルと国籍と不祥事を通して相撲を鑑賞している』、「ディープな相撲ファンの中に、この種の国粋的な文言を振り回す人間はまずいない」、というのは、僅かながらも救いだ。
・『であるからして、ワイドショー視聴者向けに稀勢の里という力士を紹介する文脈では、ただただ「19年ぶりに誕生した日本出身の横綱」の引退を惜しんでいるかのように聞こえるこの不自然な連呼を繰り返すことになる。 この「日本出身の」というこの奇妙な言い方が稀勢の里を引退に追い込んだと言い張るつもりはない。 ただ、モンゴル人力士と日本人力士の間にある確執であるとか、力士間に蔓延する暴力と賭博とプロテインであるとかいった、噂の真偽よりも、単にそれを面白がる人々の娯楽のために書かれている与太記事が土俵を害していることはまぎれもない事実だと思っている。また、21世紀の大相撲を間違った方向に誘導しているのが、相撲取りでも相撲協会の人間でも相撲ファンでもない、非相撲ファンのバカな野次馬だということもまた目をそらしてはならない事実だと思っている。 とりあえず、日本相撲協会は、ワイドショーのレポーターと週刊誌メディアの取材を拒絶するべきだと思う。 広報担当の人間には、「うるせえばか」という言葉をおぼえてほしい。 たいていの取材は、このフレーズで対応可能だと思う』、なんと乱暴な結びなのだろう。「私は、相撲について書いたり話したりする時、論理的に一貫した冷静な人間であることができない。 ほぼ必ず情緒的で怒りっぽくも未練たらたらな厄介なオヤジとして過剰な言葉を並べ立ててしまう」という小田嶋氏の性格に免じて、見逃すことにしたい。
タグ:総体として、日本相撲協会は、ファンの声に耳を傾けているようでいて、その実、野次馬の邪悪な叫び声にコントロールされていた この言葉には「日本生まれで両親が日本人で日本の国籍を持っている生粋の日本人であるわれわれの横綱を私たちは特別に尊重しようではありませんか」というニュアンスがこめられている 高校野球はエースがマウンドに立ち続けることが美学とされ、抑えれば「怪物」、打たれれば「悲運」 彼らは、とにもかくにも他人の転落や悲嘆が大好物なのだ 野次馬諸氏は「おっ?」と思いながら、身を乗り出して画面に注目する。毎度同じだ。彼らはあらゆる不幸な事態を面白がっている 「日本人」という言葉に「国籍」(ナショナリティ)「血統(民族性)」(エスニシティ)と「文化的バックグラウンド」をすべてひっくるめた極めて厳密な資格審査を求めているということだ 「生まれも育ちも日本で、両親も日本人である生粋の日本人と、外国にルーツを持つ外国生まれの元外国人である帰化日本人を区別して、別の日本人として扱うのが、わが国の『日本人』のスタンダードである」ということを行間で示唆するために発明されたフレーズ 「日本出身の」 19年ぶりに誕生した日本出身の横綱 「相撲を相撲としてではなく、何かの代理戦争として楽しんでいる邪悪な見物人の要望に応える」幾多の改革や処分だった 「品格や相撲の美を強要して力士を追い詰め」るアナクロニズム 私が個人的に残念に思っているのは、大相撲の世界が、この10年ほど、その野次馬の意図と願望に寄り添う方向の決断を繰り返してきた点だ 稀勢の里の相撲は、デビュー当時から大好きだった 私は、相撲について書いたり話したりする時、論理的に一貫した冷静な人間であることができない。 ほぼ必ず情緒的で怒りっぽくも未練たらたらな厄介なオヤジとして過剰な言葉を並べ立ててしまう 「SMO48運営側に贈る言葉」 日経ビジネスオンライン 小田嶋 隆 主催の新聞社にとって高校野球はドル箱事業 メディアはこぞって感動的な物語に仕立て上げ、高校野球人気を煽っている 松坂大輔 少年野球や高校野球でのリーグ戦導入や球数制限ルールの適用について訴えた 日本外国特派員協会で会見 DeNAの筒香嘉智 「アマ指導者に警鐘の筒香 甲子園を主催の新聞社も痛烈批判」 日刊ゲンダイ (その23)(アマ指導者に警鐘の筒香 甲子園を主催の新聞社も痛烈批判、小田嶋氏:SMO48運営側に贈る言葉) 日本のスポーツ界 斎藤佑樹 大相撲中継を毎日見ているディープな相撲ファンの中に、この種の国粋的な文言を振り回す人間はまずいない 吉田輝星 「プロ野球選手の(ように)体ができた大人ですらリーグ戦でやっているのに、体のできていない小さい子供たちがトーナメントをしている。将来がある子供たちを守るには一発勝負のトーナメント制をやめ、リーグ制を導入したり、ルールで球数制限や練習時間を決める必要があると思う」 勝利至上主義によるアマチュア野球指導者の選手酷使や暴言・暴力について改めて問題提起
農業(その2)(コメの価格が3年で3割も上昇した根本理由 なぜ主食用のコメが値上がりしているのか、植物工場「6割が赤字」に未来はあるか 商機をつかむのはトップの意志、最終回 農業を「天命」と言い切る幸せ 透き通る青空の下で未来を思う) [国内政治]
農業については、2016年12月23日に取上げた。久しぶりの今日は、(その2)(コメの価格が3年で3割も上昇した根本理由 なぜ主食用のコメが値上がりしているのか、植物工場「6割が赤字」に未来はあるか 商機をつかむのはトップの意志、最終回 農業を「天命」と言い切る幸せ 透き通る青空の下で未来を思う)である。なお、タイトルから「改革」を外した。
先ずは、慶應義塾大学 経済学部教授の土居 丈朗氏が昨年4月30日付け東洋経済オンラインに寄稿した「コメの価格が3年で3割も上昇した根本理由 なぜ主食用のコメが値上がりしているのか」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/218648
・『米(コメ)の値上がりが止まらない。消費者物価上昇率は日本銀行が目標に掲げる2%に満たず、「インフレ目標」が達成できてないのに、コメ(主食用)の価格は最近3年で3割も上昇した。その影響は家庭で食べるご飯だけでなく、牛丼の値上げや、値段を据え置くおにぎりや米菓でコメの分量を減らすなどの形で及んでいる。なぜコメは値上がりしているのか。 天候不良や生産地での自然災害ばかりが原因ではない。コメの作況指数は、2015年産米が100で平年並み、2016年産米が103でやや良、2017年産米が100で平年並みだったから、不作が原因ではない。実はそこには財政がかかわっている。 コメが値上がりしている根本原因は、稲作農家が、「主食用米」(家庭用や業務用)ではなく、「飼料用米」(多収性専用品種)に作付を振り替えてしまったからだ。簡単に言えば、人が食べるコメを作るのをやめて、家畜の餌にするコメを作ることにした農家が増えたからである』、農水省の政策の荒っぽさには改めて驚かされた。
・『農家が飼料用米を作りたがる理由 農家が、人が食べるためのコメを作りたがらないから、値段が上がり、それが追い打ちをかけ、日本におけるコメの需要をますます減らしている。コメにこだわりのない人は、値段が高ければ、パンやパスタなどに替えてもいいと思うだろう。このところ、日本での主食用のコメの需要は、年平均で8万トンずつコンスタントに減っていて、今や754万トンとなっており、今後さらに減るという予想もある。 では、どうして主食用米でなく、飼料用米に振り替わっているのか。それは、飼料用米への補助金が手厚いからだ。これまでの半世紀にわたる経緯を順を追って説明しよう。 そもそも、コメの供給過剰が恒常化したことから、1971年に減反が本格的に始まった。減反とは生産調整のことである。 減反政策の本質は、コメの生産量をいかに減らすか。だから、減反政策は、米の生産数量目標を農家に国が配分し、その目標に従わせることで生産量を抑制する方策と、米農家に転作助成金を支給する方策という、2本立てである。 前者についてはコメの作付面積を政府が配分していた時期もあったが、要するに、政府が農家ごとに目標量を決め、それを超えないように生産することを各農家に求めた。後者はコメ以外の作物に転作した農家に対して国が補助金を出すというものである。 減反政策は生産数量目標をいかに達成するかがカギなので、生産調整に応じてコメを作らなかった農家に補助金を出すだけでなく、生産数量目標を達成できなければ、転作助成金をはじめもろもろの補助金は出さない、という罰まであった。 そこに、2009~2012年の民主党政権による、戸別所得補償制度の導入が加わった。これとあわせて2010年から、生産数量目標を達成できなかった農家にも、主食用米以外の飼料用米などへの「転作助成金」を支給することにした。これがやがて冒頭のコメの値上がりと関係してくる。こうして、生産数量目標を達成しようがしまいが、国から補助金がもらえる状況になった。 2012年に自民党政権へと代わり、第2次安倍晋三内閣は戸別所得補償制度を廃止。といっても、農家への補助金を全廃するわけにもいかないので、民主党政権期の補助金をどう見直すかが焦点となった。その際、行政による生産数量目標の配分を2018年度以降、撤廃することを決めた。この「行政による生産数量目標の配分」の撤廃を、減反廃止と評する向きもあるが、実質的には廃止とは言えない。なぜなら前述のとおり、減反政策は、生産数量目標の配分だけではなく、転作助成金もあるからである。 安倍政権が2013年に決めた見直しで、行政による生産数量目標の配分を廃止するのに合わせて主食用米への補助金はなくすことにしたが、転作助成金を残すこととした。しかも、転作助成金は、民主党政権期に生産数量目標に関係なく補助金を出すことにしたのを踏襲している』、「行政による生産数量目標の配分廃止」はいいとしても、問題は転作助成金が妥当かどうかだ。
・『農家が「経営判断」で生産調整 行政による生産数量目標の配分はなくなったが、農業者の経営判断による生産調整は残る。生産調整は必要と認識する当事者も多いため、農林水産省が2015年に策定した「食料・農業・農村基本計画」では、食料自給率を維持すべく生産努力目標を主要品目ごとに示した。 同計画で示されたコメの生産努力目標は、2013年度の872万トンから2025年度に872万トンとした。要するに2025年度でも2013年度と同じ生産量を維持することを努力目標として掲げたのだ。中でも飼料用米は、2013年度の11万トンから2025年に110万トンに増やすことを、努力目標としたのである。 これが飼料用米への手厚い補助金の裏付けとなっている。全体のコメの生産量を維持しつつ、飼料用米の生産量を増やすということは、主食用米の生産量を減らして飼料用米を増やすことにほかならない。そうした計画になっているのである。 飼料用米を増やすためにとった手立てが、転作助成金(水田活用の直接支払交付金)であり、主食用米から飼料用米に転作した場合、この助成金を手厚く出すことだった。 どれほど手厚いか見てみよう。作物別にみた10アール当たりの所得と労働時間だ。主食用米だと、販売収入は10万4000円、経営費は7万1000円で、差し引き、3万3000円の所得が得られる。その主食用米にはもはや2018年度以降に補助金がなくなった。 これに対して飼料用米は、販売収入が9000円、経営費が6万8000円だが、転作助成金が11万7000円もらえるので、差し引き、5万8000円の所得が得られる。同じ10アールの水田でも、所得は、主食用米だと3万3000円、飼料用米だと転作助成付きで5万8000円なのである。 これをみた農家は、飼料用米へと転作を進めている。主食用米の国内需要は、前述のように中長期的な減少傾向が続いているから、主食用米の生産が過剰になってはいけないのはわかる。だが、冒頭で指摘したように、主食用米の価格が最近3年で3割も上昇するという事態は、やはり飼料用米への転作が過剰に誘導されているといわざるをえない』、過剰な誘導とはお粗末な話だ。飼
・『そこまでして飼料用米が必要なのか おまけに飼料用米への転作が、手厚い転作助成金によって誘導されているということは、そのために多額の税金が使われていることを意味する。財務省の機械的な試算では、もし飼料用米で前掲の生産努力目標の110万トンを達成するならば、この転作助成金は2016年度の676億円から2025年度には1160億~1660億円程度に増額しなければならないという。 そこまでして飼料用米が必要なのか。飼料用米では、補助金なしに自力で稼げる販売収入が10アール当たり9000円と、主食用米の10分の1未満しかない。 国内で畜産用に飼料が必要なら、コメにこだわる必要はまったくない。飼料用のトウモロコシを作れば、同じ10アール当たり3万1000円の所得が得られる。この所得は主食用米とほぼ同じだが、労働時間は主食用米の7分の1で済む。財政面から見ても、転作助成金は飼料用米の約3分の1で済む。 他の穀物に転作する方法だってある。小麦に転作すれば、10アール当たり4万3000円の所得が得られ、主食用米より労働時間は少なく所得は多くなる。小麦だと転作助成金(畑作物の直接支払交付金を含む)を飼料用米より少なく抑えられる。 さらには、同じ10アールの土地があるなら、水田を畑地化して、たまねぎやキャベツを作れば、所得は飼料用米を作るよりももっと増える。しかも国から補助金をもらわずに、だ。 確かに労働時間はコメを作るより多くなるが、機械化してたまねぎやキャベツを作れば、コメを作る時間とほぼ同じで済む。補助金に頼らず、コメを作るときと同じ労働時間で、コメを作るのよりも圧倒的に多くの所得が得られる方法はあるのだ』、政策的な選択肢はこんなに多いのに、飼料用米にこだわるのは不思議だ。
・『適地適作で、水田を水田のまま残すな 最近のコメの値上がりは、こうした飼料用米への過剰な転作誘導が手厚い補助金によって行われていることが、原因としてある。それを改めるにはこの手厚い補助金の配分を抜本的に改めることだ。行政による生産数量目標の配分は廃止されたものの、減反政策の残滓である「転作助成金」のひずみという問題は、依然として残っている。 確かに、これまで減反の象徴だった「行政による生産数量目標の配分」を廃止するところに持っていくまででも、政治的な困難があり、前掲のように、コメの生産量を将来にわたって維持する計画を示しつつ、ようやく2018年度にその廃止にたどり着いた。 ただ、もう廃止されたのだから、いつまでもコメの生産にこだわる必要はない。助成金を使った飼料用米への過剰な転作誘導をやめつつ、需要減が不可避な主食用米の効果的な転作を進めていくべきだ。適地適作を見極めながら、水田を水田のまま残すことにこだわらず、今こそ生産性の高い農業を目指すときである』、説得力のある主張で、大賛成だ。
次に、ジャーナリストの吉田 忠則氏が4月27日付け日経ビジネスオンラインに掲載した「植物工場「6割が赤字」に未来はあるか 商機をつかむのはトップの意志」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/report/15/252376/042400142/?P=1
・『農業取材を始めたころ、いくつかの先入観を持っていた。農業をダメにしたのは農協で、兼業農家は否定すべき存在、企業がやれば農業はうまくいく――の3つだ。この連載の1回目が「『兼業農家が日本を支えている』と強弁する罪」(2013年8月23日)というタイトルだったことを思い返すと、ずいぶんステレオタイプな見方をしていたものだと恥ずかしくなる。 農業の側からすれば、あまりにも偏った見方と思うかも知れないが、一方、農業を外から見ている側には今も似たような考え方が少なからずあるように思う。そして筆者にとってこの連載の継続は、そうした表面的な見方を現場の取材と発信を通して改めていくプロセスでもあった。 農協の中にはがんばっているところも、そうでないところもある。それは、会社組織になった農業法人も同じことだ。農協でときに見られる閉鎖的で同調圧力を求める体質は、農協という組織に根ざす問題というより、農村社会を覆う空気を背景にしているケースが少なくない。そしてそれは、都会で働くサラリーマン社会とまったく無縁なものとも思えない。 残りの2つの論点に移れば、兼業農家は技術と経営の両面でイノベーションを起こすことはできなかったが、日本の社会の安定と食料供給に貢献してきた。連載で具体例を検証してきたが、企業の農業ビジネスには失敗例が珍しくない。それは、「岩盤規制」などと言われるものとはほとんど関係ない。 最後の「企業がやればうまくいく」の派生型とでも言えるのが、「植物工場は農業を救う」だ。多くの記者が、LED(発光ダイオード)の光が野菜を妖しく照らす様にうっとりし、植物工場の未来を明るく描いてきた。筆者の場合は反対で、農業取材を始めてかなりたっていたため、「うまくいかない」と思いながら植物工場の取材を始めた。 これもほかのテーマと共通で、答えは「一概には言えない」。大企業が資本力と技術力をバックにレタス生産の勢力図を塗り替えるような計画を発表する一方、破綻したり、戦略の大幅な見直しを迫られたりしたケースもある。ただ取材を通して見えてきたのは、天候不順が続く中、生産が安定している植物工場への期待が中・外食を中心に着実に高まっていることだ。長期的に見れば、植物工場の可能性は広がっていくと見ていいだろう。 ただし、植物工場という注目されているテーマで「一概には言えない」「うまくいくところもあれば、そうでないところもある」だけでおしまいでは、先行きを探るヒントにならない。一方で、植物工場の世界は今ようやく黎明期を脱しようという段階で、実例だけで全体像を描くことも難しい。そこで今回は、異例だが統計の力を借りてみようと思う。 日本施設園芸協会が最近、植物工場に関する調査結果を発表した。実施したのは2017年8~11月。発送した調査票は529票で、有効回答率は19・3%。なおこの調査は、LEDや蛍光灯などの人工光を使う植物工場だけでなく、太陽光を使う環境制御型の工場も対象になっており、比較のために太陽光型の結果にも触れながら話を進めたいと思う』、長年、農業を取材してきただけあって、筆者の主張には重みがある。
・『太陽光型と人工光型の違い まず栽培を始めた時期を見ると、太陽光型は2009年までが47%を占めているのに対し、人工光型は2010年以降が70%に達している。人工光型で新しい工場が多いのは、経済産業省と農林水産省が2009年に植物工場への助成に力を入れ始めたことが背景にあると見られる。 日本で人工光型の植物工場の研究が本格的に始まったのは1970年代。それにもかかわらず、「現在、稼働している工場の7割が過去10年以内に栽培をスタート」という事実は、技術がずっと実用化の手前の段階にあったことを示唆している。この連載で、「黎明期をようやく脱した段階」という表現を何回か使ってきたのはそういう意味だ。そのことは、人工光型の成否を現時点で結論づけるのが難しいことも示している。 栽培品目でも大きな違いがある。太陽光型はトマトやパプリカといった果菜類が78%と圧倒的に多い。これに対し、人工光型はレタス類が83%に達しているほか、レタス以外の葉物類も6%ある。ただし、ここで注意が必要なのは、太陽光型で実際に作っているのは収益性の高い果菜類が中心だが、レタスなどの葉物類もふつうに作れる点だ。 太陽光は人工光と比べて光がはるかに強く、葉や茎が商品にならない果菜類でも大量生産が可能。これに対し、人工光を使って果菜類を作ろうとすると、電気代がかさんで採算に合いにくいため、光合成でできた植物体のほとんどが商品になるレタスが中心になる。人工光型の支持派からは「太陽光型は環境制御をしても、天気の影響を免れない」などと指摘する声もあるが、現時点の技術で見れば、効率性では太陽光型に軍配が上がるだろう。 栽培できる品目の多様性と並び、人工光型が大きく制約を受けているのが、規模拡大の可能性だ。もう先を読まなくても結論はわかりそうだが、大規模なのは太陽光型。人工光型は1000平方メートル未満が81%なのに対し、太陽光型は1ケタ違う10000平方メートル以上が88%を占める。比べる意味がないほどの差と言っていい』、人工光型の植物工場はテレビなどでもよく紹介されるが、「効率性では太陽光型に軍配が上がるだろう」というのは納得できる。
・『直面する大きなハードル というわけで、とどめの項目。直近の決算で利益が出ているかどうかの質問に対し、太陽光型は48%が黒字で、14%が収支均衡、39%が赤字だった。では人工光型はどうか。植物工場の可能性を連載で強調してきた身として、現実を直視しないわけにはいかないだろう。答えは次の通り。 「黒字は17%、収支均衡が25%、赤字が58%」 足元の業績で見ると、人工光型は収益モデルを確立できているとは言い難い。もちろん、「栽培を始めた時期」の項で見たとおり、人工光型は新しい工場が多く、黒字化の途上にあると見ることもできる。ただし、一部の例外を除けば、電気代や人件費など、ランニングコストの高さが収益を圧迫する構造を改善できていない可能性は十分にある。積年の課題だ。 これに関連し、人工光型の決算状況を規模別に見ると、500平方メートル未満は77%が赤字で、4000平方メートル以上は100%黒字だった。だが、500平方メートル未満はサンプル数が13あるのに対し、4000平方メートル以上はたった2しかなく、統計として有意かどうかは疑問符がつく。ただ他の規模のデータも照らし合わせて浮かびあがってくるのは、規模が小さいほど利益が出にくいという点だ。 統計の紹介はここまで。ここで挙げたいくつかのデータを見ただけでも、人工光型植物工場がなお大きなハードルに直面していることがわかるが、難点についての説明をさらに続けなければならない。 節税対策の投資や、開発目的の試験的な運営を除けば、工場の運営を続けるかどうかの判断基準は結局、収益状況がカギを握る。そして、面積が数100平方メートルしかない小さい工場で利益を出すのが至難のわざであることもわかってきた。 だから、植物工場は農産物加工などと違って、小さく産んで、少しずつ利益を出しながら規模を大きくしていくという方法をとりにくい。黒字化するには、一定の大きさが必要だ。だが、投資額がかさむ一方、コストが高くて収益性が低いため、フローで利益を出せても、投資を回収するのは簡単ではない。つまり、工場だけで見るなら、財務にとって重い負担になるのだ』、太陽光型に比べ電気を使う人工光型がコスト高になるのは理解できるが、それにしても半分以上が赤字とは、確かに「収益モデルを確立できているとは言い難い」ようだ。ただ、設備投資の減価償却を定率法でやっているところが多いようであれば、償却負担はやがて減ってくるだろう。
・『中・外食業界を中心に広がるニーズ 悩ましいのは、「だからビジネスチャンスはない」と簡単に切り捨てられない点だ。外食チェーンやコンビニ、総菜店など中・外食業界を中心に、安定供給が可能な工場野菜への需要は今や無視できないほど広がりつつある。商機は確実にある。問題はそれにどう応えるかだ。 今は収益性の低い植物工場だが、そもそも現在の設備や栽培の仕組みが最適なものかどうかはわからない。LEDやタネ、肥料ももっと植物工場に向いているものが作れないかどうか検証が必要だろう。少ないとは言え、黒字化した工場が17%あることは、イノベーションの手がかりになる。 こうした状況を突破するのは、企業が一部門で手がけるような片手間の参入では難しい。必要なのは、工場を造っておしまいではなく、既存の技術で本当にいいかどうかをゼロベースで考える発想力。そして最も大事なのが、事業をやり抜くトップの意志だろう。それが、黎明期を脱しようとする産業の課題だ。リアリズムに徹しながらも、経営者が夢を抱けなければ、道は開けない』、その通りだろう。
第三に、同じ筆者が1月11日付け日経ビジネスオンラインに掲載した「最終回 農業を「天命」と言い切る幸せ 透き通る青空の下で未来を思う」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/report/15/252376/010800187/?P=1
・『透き通るような晴天に恵まれた先週末、神奈川県秦野市の農村を訪れた。取材に向かった先は、ブルーベリーや野菜を栽培している伊藤隆弘さん。15年前、45歳の時に脱サラし、ここで就農した。 「大げさな言い方をすれば、天命だと思って農業の世界に入りました」伊藤さんは、当時の気持ちをこうふり返る。 就農する前、伊藤さんは三菱電機でコンピューターのエンジニアの仕事をしていた。20年以上にわたり、IT関係の研究開発を担当していた伊藤さんが農業に挑戦した理由は大きく分けて2つある。 1つは、それまでやってきた仕事に疑問を感じたことだ。「IT分野で新しくて便利なものを作ってきましたが、人間はそういうものを作り過ぎているんじゃないかと思うようになりました。これ以上便利なものが、生活の中で必要なのかと感じるようになったんです」 研究が嫌になったわけではない。「科学技術は趣味としてやるなら、どんどん入り込める。一生続けても面白い」。ただ、生涯の仕事にできるかというと、疑問を持つようになったという。「生活が安定し、ストレスなく一日を過ごすことを目指して、みんなやってますが、それに科学技術は貢献できているだろうか。そうではないと、思うようになったんです」。 もう1つは、30代のころから子どもの弁当を作るようになり、食への関心が高まったことだ。「食べることって大事だと、無意識のうちに考えるようになりました。安心な野菜をどこで買ったらいいのか。どうやって作られているのか。そういうことに、興味を持つようになりました」。 もともと家庭菜園はやっていた。だが、スーパーに並んでいるような見事なトマトやキュウリはできたことがない。そこで当時、鎌倉市に住んでいた伊藤さんは、神奈川県の野菜の一大生産地である三浦市の農家を週末に飛び込みで訪ね、農作業を手伝わせてもらうようになった。「プロの農家のところに行かなければ、農業のことはわからない」と思ったからだった。 手伝ってみて確信できたのは、農家がとても大切な仕事をしているということだった。だが一方で、毎日朝早くから畑に出て収穫し、夜なべで作業している。「それに比べ、自分は机の上でアプリを作り、ある時刻になったら退社する。それで安定した給料をもらうことができている」。 就農から15年たったいま、農業が生易しい仕事でないことを肌身で感じている。だが、そういう農業を変えたいという思いが、就農の動機になった。「今から思えばうぬぼれていましたが、何とかしなくちゃいけない、他産業並みに安定した収入を持ち、家族サービスもできる産業にしないといけない。そのモデルを作ってみたいという気持ちが強まったんです」。 もちろん、家族を抱える身で安定収入を失うことへの不安はあった。だが、もっと大きなプレッシャーとして浮上したのが、自分の年齢だ。「これ以上先送りしたら、農業の世界に入っても、体がついていかないんじゃないか」。そう思い、45歳のときに会社を辞め、退路を断った。 ただし、就農にいたるまでには若干の曲折があった。週末に農家を手伝っているくらいでは、規定の日数に満たず、農地を借りることができなかったのだ。そこで県の農業会議に相談し、研修先の農家を紹介してもらったが、会社で働きながらでは、やはり日数を満たせず、就農できなかった。最近と比べ、新規就農に対するハードルがずっと高かったという事情もある。 そこで意を決し、会社を辞めて県の農業学校に1年間通い、就農を認めてもらった。幸いだったのは、三浦市の地主が好意的で、まだ会社で働いているときから、家庭菜園という名目で農地を貸してくれたことだ。農業会議の担当者も農業委員会も、これを応援してくれた。伊藤さんの「絶対ここで農業をやる」という強い思いが、関係者を動かしたのだろう』、45歳のときにIT技術者の職を投げうって農業に飛び込むとは、思い切った決断だ。
・『痛感した栽培の難しさ 天命と思って飛び込んだ世界だが、プロになって痛感したのが、栽培の難しさだった。「最初の3年間は全滅した品目のほうが多かった」。ミニトマトが病気にかかり、キャベツが虫にやられて出荷できなくなった。農薬は使っているが、キャベツが結球したあとで農薬をまいても、虫には届かない。タイミングを逸してしまったのだ。経験でしか、克服できない課題だ。 ようやく黒字になったのが5年目。その間に知ったのが、リスク分散の大切さだった。複数の品目を作っていれば、どれかで失敗しても、別の品目でカバーすることができる。「そういうやり方でしのいできたというのが、本当のところです」。単一の作物を広大な畑で効率的に生産する産地ではなく、都市に近い小規模な農地で栽培する農家にとって主流のやり方だ』、「ようやく黒字になったのが5年目」とは、やはり大変なようだ。病気や害虫、天候などリスク要因は多いので、「リスク分散の大切さ」とはその通りなのだろう。
・『「こと」を提供する観光農園 販路に関しては、農協が頼りになった。市場で売ろうと思えば、大きさや形のそろった作物をたくさん出荷する必要がある。その点、近くの農協が直売所を開放しているので、作物の大きさや出来具合に応じて自分で値段をつけて売ることができた。初心者にとってハードルの低い販路だった。 就農からすでに15年。当初、掲げた目標の一部は実現することができた。その1つが観光農園だ。伊藤さんはたんに作物を作って売るのではなく、収穫という体験も含めた「こと」を提供することを目指してきた。その結果、ブルーベリー園には毎年1000人を超す消費者が訪れ、トマトやナス、キュウリなど野菜の収穫体験にも700~800人が参加するようになった。 この際、伊藤さんが心がけたのが、「整然としてきれいなプロの農家の畑」を見せることだった。雑草をきちんと管理し、清潔にし、野菜を商品として扱う。サービス色を前面に出した、消費者主導の体験農園ではない。実際、伊藤さんは農協の直売所やスーパーへの出荷を今も続けている。 「元気な野菜はどんな環境で育てられ、届けられているのか。それがいかに大変か。本来、1個100~200円で買えるような手軽なものではないことを、理解してほしい」という。前段で触れたように、これは伊藤さんが就農前、飛び込みで畑を手伝っていたときに得た思いそのものだ。 では伊藤さんの畑は、「プロの畑」としてどのレベルまで到達できたのだろう。「これはかなわない、まだ追いつけないと思う農家が周りにたくさんいます。段取りが良く、ある作物が終わったら、すばやく次の作物を植え、畑が空くことがない」。これは技術の未熟さの告白ではなく、農業技術の充実を追求し続ける姿勢から得た洞察とみるべきだろう。 「マニュアルに書くことはできない。日々の暮らしと経験の中で積み上げたもの。本当に素晴らしいし、そこに歴史を感じることもあります」 これは、20数年にわたってエンジニアの仕事をした経験にもとづく結論でもある。「畑は工場と違い、これが最適と言える方法を絞り込むことが難しい。朝礼で予定を立てても、予定通りいけばラッキーというのが実感です。予期しないことが必ず起きます。起きなかった年など一度もない」。 そこで、伊藤さんがたどり着いた答えは、人が育つ以外に方法はないということだ。いま伊藤さんの畑で作業しているのは妻と、20代の女性社員、それとパートだ。「雑草の取り方一つとっても、効率的と思うやり方は人によって違う。それを認めたうえで、どれが一番効率的かを自分で考えてもらうしかない」。任せることが、畑を回すためのはじめの一歩になる。 最後に、今の農業への思いを聞いてみた。「農業のモデルを作ると意気込んで始めましたが、まだそれがどんなものか見つかってません」。それでも、「農業は天命」という思いは就農した当初にも増して強まったという。モデルとなるべき農業の姿を実現し、次代に託すのが伊藤さんの夢だ。 「農業が好きか嫌いかと聞かれれば、もちろん好きなほうです。でも、好きだということがモチベーションになるとは思いません。農業は自分がやるべき仕事だという思いで、ここまでやってきたんです」』、「農業のモデルを作ると意気込んで始めましたが、まだそれがどんなものか見つかってません」とは、農業も奥深いもののようだ。
・『農業への思いが危機を突破する 情熱なくして未来は開けず 2013年にスタートしたこの連載も今回で最終回です。 前回触れたように、日本の農業の未来は必ずしも楽観的な状況にはなく、事態を突破するための手がかりは多様性の中にしかないと思っています。ただし、様々な処方箋の底にある共通項は農業への思いであるべきでしょう。農業の特殊性を強調したいわけでなく、情熱なくして未来は開けないと考えるからです。 食と農に関する取材は今後も続けていきます。伊藤さんのように強い言葉で思いを表現はできませんが、記者としてこれからも長く追求したいテーマだと思っています。それでは、引き続きよろしくお願いします!』、筆者の連載の一覧は下記
https://business.nikkei.com/article/report/20130819/252376/
「事態を突破するための手がかりは多様性の中にしかないと思っています」というのは、長年の取材を通して得ただけに、重みがある。
先ずは、慶應義塾大学 経済学部教授の土居 丈朗氏が昨年4月30日付け東洋経済オンラインに寄稿した「コメの価格が3年で3割も上昇した根本理由 なぜ主食用のコメが値上がりしているのか」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/218648
・『米(コメ)の値上がりが止まらない。消費者物価上昇率は日本銀行が目標に掲げる2%に満たず、「インフレ目標」が達成できてないのに、コメ(主食用)の価格は最近3年で3割も上昇した。その影響は家庭で食べるご飯だけでなく、牛丼の値上げや、値段を据え置くおにぎりや米菓でコメの分量を減らすなどの形で及んでいる。なぜコメは値上がりしているのか。 天候不良や生産地での自然災害ばかりが原因ではない。コメの作況指数は、2015年産米が100で平年並み、2016年産米が103でやや良、2017年産米が100で平年並みだったから、不作が原因ではない。実はそこには財政がかかわっている。 コメが値上がりしている根本原因は、稲作農家が、「主食用米」(家庭用や業務用)ではなく、「飼料用米」(多収性専用品種)に作付を振り替えてしまったからだ。簡単に言えば、人が食べるコメを作るのをやめて、家畜の餌にするコメを作ることにした農家が増えたからである』、農水省の政策の荒っぽさには改めて驚かされた。
・『農家が飼料用米を作りたがる理由 農家が、人が食べるためのコメを作りたがらないから、値段が上がり、それが追い打ちをかけ、日本におけるコメの需要をますます減らしている。コメにこだわりのない人は、値段が高ければ、パンやパスタなどに替えてもいいと思うだろう。このところ、日本での主食用のコメの需要は、年平均で8万トンずつコンスタントに減っていて、今や754万トンとなっており、今後さらに減るという予想もある。 では、どうして主食用米でなく、飼料用米に振り替わっているのか。それは、飼料用米への補助金が手厚いからだ。これまでの半世紀にわたる経緯を順を追って説明しよう。 そもそも、コメの供給過剰が恒常化したことから、1971年に減反が本格的に始まった。減反とは生産調整のことである。 減反政策の本質は、コメの生産量をいかに減らすか。だから、減反政策は、米の生産数量目標を農家に国が配分し、その目標に従わせることで生産量を抑制する方策と、米農家に転作助成金を支給する方策という、2本立てである。 前者についてはコメの作付面積を政府が配分していた時期もあったが、要するに、政府が農家ごとに目標量を決め、それを超えないように生産することを各農家に求めた。後者はコメ以外の作物に転作した農家に対して国が補助金を出すというものである。 減反政策は生産数量目標をいかに達成するかがカギなので、生産調整に応じてコメを作らなかった農家に補助金を出すだけでなく、生産数量目標を達成できなければ、転作助成金をはじめもろもろの補助金は出さない、という罰まであった。 そこに、2009~2012年の民主党政権による、戸別所得補償制度の導入が加わった。これとあわせて2010年から、生産数量目標を達成できなかった農家にも、主食用米以外の飼料用米などへの「転作助成金」を支給することにした。これがやがて冒頭のコメの値上がりと関係してくる。こうして、生産数量目標を達成しようがしまいが、国から補助金がもらえる状況になった。 2012年に自民党政権へと代わり、第2次安倍晋三内閣は戸別所得補償制度を廃止。といっても、農家への補助金を全廃するわけにもいかないので、民主党政権期の補助金をどう見直すかが焦点となった。その際、行政による生産数量目標の配分を2018年度以降、撤廃することを決めた。この「行政による生産数量目標の配分」の撤廃を、減反廃止と評する向きもあるが、実質的には廃止とは言えない。なぜなら前述のとおり、減反政策は、生産数量目標の配分だけではなく、転作助成金もあるからである。 安倍政権が2013年に決めた見直しで、行政による生産数量目標の配分を廃止するのに合わせて主食用米への補助金はなくすことにしたが、転作助成金を残すこととした。しかも、転作助成金は、民主党政権期に生産数量目標に関係なく補助金を出すことにしたのを踏襲している』、「行政による生産数量目標の配分廃止」はいいとしても、問題は転作助成金が妥当かどうかだ。
・『農家が「経営判断」で生産調整 行政による生産数量目標の配分はなくなったが、農業者の経営判断による生産調整は残る。生産調整は必要と認識する当事者も多いため、農林水産省が2015年に策定した「食料・農業・農村基本計画」では、食料自給率を維持すべく生産努力目標を主要品目ごとに示した。 同計画で示されたコメの生産努力目標は、2013年度の872万トンから2025年度に872万トンとした。要するに2025年度でも2013年度と同じ生産量を維持することを努力目標として掲げたのだ。中でも飼料用米は、2013年度の11万トンから2025年に110万トンに増やすことを、努力目標としたのである。 これが飼料用米への手厚い補助金の裏付けとなっている。全体のコメの生産量を維持しつつ、飼料用米の生産量を増やすということは、主食用米の生産量を減らして飼料用米を増やすことにほかならない。そうした計画になっているのである。 飼料用米を増やすためにとった手立てが、転作助成金(水田活用の直接支払交付金)であり、主食用米から飼料用米に転作した場合、この助成金を手厚く出すことだった。 どれほど手厚いか見てみよう。作物別にみた10アール当たりの所得と労働時間だ。主食用米だと、販売収入は10万4000円、経営費は7万1000円で、差し引き、3万3000円の所得が得られる。その主食用米にはもはや2018年度以降に補助金がなくなった。 これに対して飼料用米は、販売収入が9000円、経営費が6万8000円だが、転作助成金が11万7000円もらえるので、差し引き、5万8000円の所得が得られる。同じ10アールの水田でも、所得は、主食用米だと3万3000円、飼料用米だと転作助成付きで5万8000円なのである。 これをみた農家は、飼料用米へと転作を進めている。主食用米の国内需要は、前述のように中長期的な減少傾向が続いているから、主食用米の生産が過剰になってはいけないのはわかる。だが、冒頭で指摘したように、主食用米の価格が最近3年で3割も上昇するという事態は、やはり飼料用米への転作が過剰に誘導されているといわざるをえない』、過剰な誘導とはお粗末な話だ。飼
・『そこまでして飼料用米が必要なのか おまけに飼料用米への転作が、手厚い転作助成金によって誘導されているということは、そのために多額の税金が使われていることを意味する。財務省の機械的な試算では、もし飼料用米で前掲の生産努力目標の110万トンを達成するならば、この転作助成金は2016年度の676億円から2025年度には1160億~1660億円程度に増額しなければならないという。 そこまでして飼料用米が必要なのか。飼料用米では、補助金なしに自力で稼げる販売収入が10アール当たり9000円と、主食用米の10分の1未満しかない。 国内で畜産用に飼料が必要なら、コメにこだわる必要はまったくない。飼料用のトウモロコシを作れば、同じ10アール当たり3万1000円の所得が得られる。この所得は主食用米とほぼ同じだが、労働時間は主食用米の7分の1で済む。財政面から見ても、転作助成金は飼料用米の約3分の1で済む。 他の穀物に転作する方法だってある。小麦に転作すれば、10アール当たり4万3000円の所得が得られ、主食用米より労働時間は少なく所得は多くなる。小麦だと転作助成金(畑作物の直接支払交付金を含む)を飼料用米より少なく抑えられる。 さらには、同じ10アールの土地があるなら、水田を畑地化して、たまねぎやキャベツを作れば、所得は飼料用米を作るよりももっと増える。しかも国から補助金をもらわずに、だ。 確かに労働時間はコメを作るより多くなるが、機械化してたまねぎやキャベツを作れば、コメを作る時間とほぼ同じで済む。補助金に頼らず、コメを作るときと同じ労働時間で、コメを作るのよりも圧倒的に多くの所得が得られる方法はあるのだ』、政策的な選択肢はこんなに多いのに、飼料用米にこだわるのは不思議だ。
・『適地適作で、水田を水田のまま残すな 最近のコメの値上がりは、こうした飼料用米への過剰な転作誘導が手厚い補助金によって行われていることが、原因としてある。それを改めるにはこの手厚い補助金の配分を抜本的に改めることだ。行政による生産数量目標の配分は廃止されたものの、減反政策の残滓である「転作助成金」のひずみという問題は、依然として残っている。 確かに、これまで減反の象徴だった「行政による生産数量目標の配分」を廃止するところに持っていくまででも、政治的な困難があり、前掲のように、コメの生産量を将来にわたって維持する計画を示しつつ、ようやく2018年度にその廃止にたどり着いた。 ただ、もう廃止されたのだから、いつまでもコメの生産にこだわる必要はない。助成金を使った飼料用米への過剰な転作誘導をやめつつ、需要減が不可避な主食用米の効果的な転作を進めていくべきだ。適地適作を見極めながら、水田を水田のまま残すことにこだわらず、今こそ生産性の高い農業を目指すときである』、説得力のある主張で、大賛成だ。
次に、ジャーナリストの吉田 忠則氏が4月27日付け日経ビジネスオンラインに掲載した「植物工場「6割が赤字」に未来はあるか 商機をつかむのはトップの意志」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/report/15/252376/042400142/?P=1
・『農業取材を始めたころ、いくつかの先入観を持っていた。農業をダメにしたのは農協で、兼業農家は否定すべき存在、企業がやれば農業はうまくいく――の3つだ。この連載の1回目が「『兼業農家が日本を支えている』と強弁する罪」(2013年8月23日)というタイトルだったことを思い返すと、ずいぶんステレオタイプな見方をしていたものだと恥ずかしくなる。 農業の側からすれば、あまりにも偏った見方と思うかも知れないが、一方、農業を外から見ている側には今も似たような考え方が少なからずあるように思う。そして筆者にとってこの連載の継続は、そうした表面的な見方を現場の取材と発信を通して改めていくプロセスでもあった。 農協の中にはがんばっているところも、そうでないところもある。それは、会社組織になった農業法人も同じことだ。農協でときに見られる閉鎖的で同調圧力を求める体質は、農協という組織に根ざす問題というより、農村社会を覆う空気を背景にしているケースが少なくない。そしてそれは、都会で働くサラリーマン社会とまったく無縁なものとも思えない。 残りの2つの論点に移れば、兼業農家は技術と経営の両面でイノベーションを起こすことはできなかったが、日本の社会の安定と食料供給に貢献してきた。連載で具体例を検証してきたが、企業の農業ビジネスには失敗例が珍しくない。それは、「岩盤規制」などと言われるものとはほとんど関係ない。 最後の「企業がやればうまくいく」の派生型とでも言えるのが、「植物工場は農業を救う」だ。多くの記者が、LED(発光ダイオード)の光が野菜を妖しく照らす様にうっとりし、植物工場の未来を明るく描いてきた。筆者の場合は反対で、農業取材を始めてかなりたっていたため、「うまくいかない」と思いながら植物工場の取材を始めた。 これもほかのテーマと共通で、答えは「一概には言えない」。大企業が資本力と技術力をバックにレタス生産の勢力図を塗り替えるような計画を発表する一方、破綻したり、戦略の大幅な見直しを迫られたりしたケースもある。ただ取材を通して見えてきたのは、天候不順が続く中、生産が安定している植物工場への期待が中・外食を中心に着実に高まっていることだ。長期的に見れば、植物工場の可能性は広がっていくと見ていいだろう。 ただし、植物工場という注目されているテーマで「一概には言えない」「うまくいくところもあれば、そうでないところもある」だけでおしまいでは、先行きを探るヒントにならない。一方で、植物工場の世界は今ようやく黎明期を脱しようという段階で、実例だけで全体像を描くことも難しい。そこで今回は、異例だが統計の力を借りてみようと思う。 日本施設園芸協会が最近、植物工場に関する調査結果を発表した。実施したのは2017年8~11月。発送した調査票は529票で、有効回答率は19・3%。なおこの調査は、LEDや蛍光灯などの人工光を使う植物工場だけでなく、太陽光を使う環境制御型の工場も対象になっており、比較のために太陽光型の結果にも触れながら話を進めたいと思う』、長年、農業を取材してきただけあって、筆者の主張には重みがある。
・『太陽光型と人工光型の違い まず栽培を始めた時期を見ると、太陽光型は2009年までが47%を占めているのに対し、人工光型は2010年以降が70%に達している。人工光型で新しい工場が多いのは、経済産業省と農林水産省が2009年に植物工場への助成に力を入れ始めたことが背景にあると見られる。 日本で人工光型の植物工場の研究が本格的に始まったのは1970年代。それにもかかわらず、「現在、稼働している工場の7割が過去10年以内に栽培をスタート」という事実は、技術がずっと実用化の手前の段階にあったことを示唆している。この連載で、「黎明期をようやく脱した段階」という表現を何回か使ってきたのはそういう意味だ。そのことは、人工光型の成否を現時点で結論づけるのが難しいことも示している。 栽培品目でも大きな違いがある。太陽光型はトマトやパプリカといった果菜類が78%と圧倒的に多い。これに対し、人工光型はレタス類が83%に達しているほか、レタス以外の葉物類も6%ある。ただし、ここで注意が必要なのは、太陽光型で実際に作っているのは収益性の高い果菜類が中心だが、レタスなどの葉物類もふつうに作れる点だ。 太陽光は人工光と比べて光がはるかに強く、葉や茎が商品にならない果菜類でも大量生産が可能。これに対し、人工光を使って果菜類を作ろうとすると、電気代がかさんで採算に合いにくいため、光合成でできた植物体のほとんどが商品になるレタスが中心になる。人工光型の支持派からは「太陽光型は環境制御をしても、天気の影響を免れない」などと指摘する声もあるが、現時点の技術で見れば、効率性では太陽光型に軍配が上がるだろう。 栽培できる品目の多様性と並び、人工光型が大きく制約を受けているのが、規模拡大の可能性だ。もう先を読まなくても結論はわかりそうだが、大規模なのは太陽光型。人工光型は1000平方メートル未満が81%なのに対し、太陽光型は1ケタ違う10000平方メートル以上が88%を占める。比べる意味がないほどの差と言っていい』、人工光型の植物工場はテレビなどでもよく紹介されるが、「効率性では太陽光型に軍配が上がるだろう」というのは納得できる。
・『直面する大きなハードル というわけで、とどめの項目。直近の決算で利益が出ているかどうかの質問に対し、太陽光型は48%が黒字で、14%が収支均衡、39%が赤字だった。では人工光型はどうか。植物工場の可能性を連載で強調してきた身として、現実を直視しないわけにはいかないだろう。答えは次の通り。 「黒字は17%、収支均衡が25%、赤字が58%」 足元の業績で見ると、人工光型は収益モデルを確立できているとは言い難い。もちろん、「栽培を始めた時期」の項で見たとおり、人工光型は新しい工場が多く、黒字化の途上にあると見ることもできる。ただし、一部の例外を除けば、電気代や人件費など、ランニングコストの高さが収益を圧迫する構造を改善できていない可能性は十分にある。積年の課題だ。 これに関連し、人工光型の決算状況を規模別に見ると、500平方メートル未満は77%が赤字で、4000平方メートル以上は100%黒字だった。だが、500平方メートル未満はサンプル数が13あるのに対し、4000平方メートル以上はたった2しかなく、統計として有意かどうかは疑問符がつく。ただ他の規模のデータも照らし合わせて浮かびあがってくるのは、規模が小さいほど利益が出にくいという点だ。 統計の紹介はここまで。ここで挙げたいくつかのデータを見ただけでも、人工光型植物工場がなお大きなハードルに直面していることがわかるが、難点についての説明をさらに続けなければならない。 節税対策の投資や、開発目的の試験的な運営を除けば、工場の運営を続けるかどうかの判断基準は結局、収益状況がカギを握る。そして、面積が数100平方メートルしかない小さい工場で利益を出すのが至難のわざであることもわかってきた。 だから、植物工場は農産物加工などと違って、小さく産んで、少しずつ利益を出しながら規模を大きくしていくという方法をとりにくい。黒字化するには、一定の大きさが必要だ。だが、投資額がかさむ一方、コストが高くて収益性が低いため、フローで利益を出せても、投資を回収するのは簡単ではない。つまり、工場だけで見るなら、財務にとって重い負担になるのだ』、太陽光型に比べ電気を使う人工光型がコスト高になるのは理解できるが、それにしても半分以上が赤字とは、確かに「収益モデルを確立できているとは言い難い」ようだ。ただ、設備投資の減価償却を定率法でやっているところが多いようであれば、償却負担はやがて減ってくるだろう。
・『中・外食業界を中心に広がるニーズ 悩ましいのは、「だからビジネスチャンスはない」と簡単に切り捨てられない点だ。外食チェーンやコンビニ、総菜店など中・外食業界を中心に、安定供給が可能な工場野菜への需要は今や無視できないほど広がりつつある。商機は確実にある。問題はそれにどう応えるかだ。 今は収益性の低い植物工場だが、そもそも現在の設備や栽培の仕組みが最適なものかどうかはわからない。LEDやタネ、肥料ももっと植物工場に向いているものが作れないかどうか検証が必要だろう。少ないとは言え、黒字化した工場が17%あることは、イノベーションの手がかりになる。 こうした状況を突破するのは、企業が一部門で手がけるような片手間の参入では難しい。必要なのは、工場を造っておしまいではなく、既存の技術で本当にいいかどうかをゼロベースで考える発想力。そして最も大事なのが、事業をやり抜くトップの意志だろう。それが、黎明期を脱しようとする産業の課題だ。リアリズムに徹しながらも、経営者が夢を抱けなければ、道は開けない』、その通りだろう。
第三に、同じ筆者が1月11日付け日経ビジネスオンラインに掲載した「最終回 農業を「天命」と言い切る幸せ 透き通る青空の下で未来を思う」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/report/15/252376/010800187/?P=1
・『透き通るような晴天に恵まれた先週末、神奈川県秦野市の農村を訪れた。取材に向かった先は、ブルーベリーや野菜を栽培している伊藤隆弘さん。15年前、45歳の時に脱サラし、ここで就農した。 「大げさな言い方をすれば、天命だと思って農業の世界に入りました」伊藤さんは、当時の気持ちをこうふり返る。 就農する前、伊藤さんは三菱電機でコンピューターのエンジニアの仕事をしていた。20年以上にわたり、IT関係の研究開発を担当していた伊藤さんが農業に挑戦した理由は大きく分けて2つある。 1つは、それまでやってきた仕事に疑問を感じたことだ。「IT分野で新しくて便利なものを作ってきましたが、人間はそういうものを作り過ぎているんじゃないかと思うようになりました。これ以上便利なものが、生活の中で必要なのかと感じるようになったんです」 研究が嫌になったわけではない。「科学技術は趣味としてやるなら、どんどん入り込める。一生続けても面白い」。ただ、生涯の仕事にできるかというと、疑問を持つようになったという。「生活が安定し、ストレスなく一日を過ごすことを目指して、みんなやってますが、それに科学技術は貢献できているだろうか。そうではないと、思うようになったんです」。 もう1つは、30代のころから子どもの弁当を作るようになり、食への関心が高まったことだ。「食べることって大事だと、無意識のうちに考えるようになりました。安心な野菜をどこで買ったらいいのか。どうやって作られているのか。そういうことに、興味を持つようになりました」。 もともと家庭菜園はやっていた。だが、スーパーに並んでいるような見事なトマトやキュウリはできたことがない。そこで当時、鎌倉市に住んでいた伊藤さんは、神奈川県の野菜の一大生産地である三浦市の農家を週末に飛び込みで訪ね、農作業を手伝わせてもらうようになった。「プロの農家のところに行かなければ、農業のことはわからない」と思ったからだった。 手伝ってみて確信できたのは、農家がとても大切な仕事をしているということだった。だが一方で、毎日朝早くから畑に出て収穫し、夜なべで作業している。「それに比べ、自分は机の上でアプリを作り、ある時刻になったら退社する。それで安定した給料をもらうことができている」。 就農から15年たったいま、農業が生易しい仕事でないことを肌身で感じている。だが、そういう農業を変えたいという思いが、就農の動機になった。「今から思えばうぬぼれていましたが、何とかしなくちゃいけない、他産業並みに安定した収入を持ち、家族サービスもできる産業にしないといけない。そのモデルを作ってみたいという気持ちが強まったんです」。 もちろん、家族を抱える身で安定収入を失うことへの不安はあった。だが、もっと大きなプレッシャーとして浮上したのが、自分の年齢だ。「これ以上先送りしたら、農業の世界に入っても、体がついていかないんじゃないか」。そう思い、45歳のときに会社を辞め、退路を断った。 ただし、就農にいたるまでには若干の曲折があった。週末に農家を手伝っているくらいでは、規定の日数に満たず、農地を借りることができなかったのだ。そこで県の農業会議に相談し、研修先の農家を紹介してもらったが、会社で働きながらでは、やはり日数を満たせず、就農できなかった。最近と比べ、新規就農に対するハードルがずっと高かったという事情もある。 そこで意を決し、会社を辞めて県の農業学校に1年間通い、就農を認めてもらった。幸いだったのは、三浦市の地主が好意的で、まだ会社で働いているときから、家庭菜園という名目で農地を貸してくれたことだ。農業会議の担当者も農業委員会も、これを応援してくれた。伊藤さんの「絶対ここで農業をやる」という強い思いが、関係者を動かしたのだろう』、45歳のときにIT技術者の職を投げうって農業に飛び込むとは、思い切った決断だ。
・『痛感した栽培の難しさ 天命と思って飛び込んだ世界だが、プロになって痛感したのが、栽培の難しさだった。「最初の3年間は全滅した品目のほうが多かった」。ミニトマトが病気にかかり、キャベツが虫にやられて出荷できなくなった。農薬は使っているが、キャベツが結球したあとで農薬をまいても、虫には届かない。タイミングを逸してしまったのだ。経験でしか、克服できない課題だ。 ようやく黒字になったのが5年目。その間に知ったのが、リスク分散の大切さだった。複数の品目を作っていれば、どれかで失敗しても、別の品目でカバーすることができる。「そういうやり方でしのいできたというのが、本当のところです」。単一の作物を広大な畑で効率的に生産する産地ではなく、都市に近い小規模な農地で栽培する農家にとって主流のやり方だ』、「ようやく黒字になったのが5年目」とは、やはり大変なようだ。病気や害虫、天候などリスク要因は多いので、「リスク分散の大切さ」とはその通りなのだろう。
・『「こと」を提供する観光農園 販路に関しては、農協が頼りになった。市場で売ろうと思えば、大きさや形のそろった作物をたくさん出荷する必要がある。その点、近くの農協が直売所を開放しているので、作物の大きさや出来具合に応じて自分で値段をつけて売ることができた。初心者にとってハードルの低い販路だった。 就農からすでに15年。当初、掲げた目標の一部は実現することができた。その1つが観光農園だ。伊藤さんはたんに作物を作って売るのではなく、収穫という体験も含めた「こと」を提供することを目指してきた。その結果、ブルーベリー園には毎年1000人を超す消費者が訪れ、トマトやナス、キュウリなど野菜の収穫体験にも700~800人が参加するようになった。 この際、伊藤さんが心がけたのが、「整然としてきれいなプロの農家の畑」を見せることだった。雑草をきちんと管理し、清潔にし、野菜を商品として扱う。サービス色を前面に出した、消費者主導の体験農園ではない。実際、伊藤さんは農協の直売所やスーパーへの出荷を今も続けている。 「元気な野菜はどんな環境で育てられ、届けられているのか。それがいかに大変か。本来、1個100~200円で買えるような手軽なものではないことを、理解してほしい」という。前段で触れたように、これは伊藤さんが就農前、飛び込みで畑を手伝っていたときに得た思いそのものだ。 では伊藤さんの畑は、「プロの畑」としてどのレベルまで到達できたのだろう。「これはかなわない、まだ追いつけないと思う農家が周りにたくさんいます。段取りが良く、ある作物が終わったら、すばやく次の作物を植え、畑が空くことがない」。これは技術の未熟さの告白ではなく、農業技術の充実を追求し続ける姿勢から得た洞察とみるべきだろう。 「マニュアルに書くことはできない。日々の暮らしと経験の中で積み上げたもの。本当に素晴らしいし、そこに歴史を感じることもあります」 これは、20数年にわたってエンジニアの仕事をした経験にもとづく結論でもある。「畑は工場と違い、これが最適と言える方法を絞り込むことが難しい。朝礼で予定を立てても、予定通りいけばラッキーというのが実感です。予期しないことが必ず起きます。起きなかった年など一度もない」。 そこで、伊藤さんがたどり着いた答えは、人が育つ以外に方法はないということだ。いま伊藤さんの畑で作業しているのは妻と、20代の女性社員、それとパートだ。「雑草の取り方一つとっても、効率的と思うやり方は人によって違う。それを認めたうえで、どれが一番効率的かを自分で考えてもらうしかない」。任せることが、畑を回すためのはじめの一歩になる。 最後に、今の農業への思いを聞いてみた。「農業のモデルを作ると意気込んで始めましたが、まだそれがどんなものか見つかってません」。それでも、「農業は天命」という思いは就農した当初にも増して強まったという。モデルとなるべき農業の姿を実現し、次代に託すのが伊藤さんの夢だ。 「農業が好きか嫌いかと聞かれれば、もちろん好きなほうです。でも、好きだということがモチベーションになるとは思いません。農業は自分がやるべき仕事だという思いで、ここまでやってきたんです」』、「農業のモデルを作ると意気込んで始めましたが、まだそれがどんなものか見つかってません」とは、農業も奥深いもののようだ。
・『農業への思いが危機を突破する 情熱なくして未来は開けず 2013年にスタートしたこの連載も今回で最終回です。 前回触れたように、日本の農業の未来は必ずしも楽観的な状況にはなく、事態を突破するための手がかりは多様性の中にしかないと思っています。ただし、様々な処方箋の底にある共通項は農業への思いであるべきでしょう。農業の特殊性を強調したいわけでなく、情熱なくして未来は開けないと考えるからです。 食と農に関する取材は今後も続けていきます。伊藤さんのように強い言葉で思いを表現はできませんが、記者としてこれからも長く追求したいテーマだと思っています。それでは、引き続きよろしくお願いします!』、筆者の連載の一覧は下記
https://business.nikkei.com/article/report/20130819/252376/
「事態を突破するための手がかりは多様性の中にしかないと思っています」というのは、長年の取材を通して得ただけに、重みがある。
タグ:「コメの価格が3年で3割も上昇した根本理由 なぜ主食用のコメが値上がりしているのか」 農家が飼料用米を作りたがる理由 吉田 忠則 直面する大きなハードル 「最終回 農業を「天命」と言い切る幸せ 透き通る青空の下で未来を思う」 農業への思いが危機を突破する 情熱なくして未来は開けず 日経ビジネスオンライン 農家が「経営判断」で生産調整 そこまでして飼料用米が必要なのか 適地適作で、水田を水田のまま残すな 「植物工場「6割が赤字」に未来はあるか 商機をつかむのはトップの意志」 中・外食業界を中心に広がるニーズ 太陽光型と人工光型の違い 痛感した栽培の難しさ 東洋経済オンライン 「こと」を提供する観光農園 (その2)(コメの価格が3年で3割も上昇した根本理由 なぜ主食用のコメが値上がりしているのか、植物工場「6割が赤字」に未来はあるか 商機をつかむのはトップの意志、最終回 農業を「天命」と言い切る幸せ 透き通る青空の下で未来を思う) 農業 土居 丈朗
日産ゴーン不正問題(その5)(ゴーン事件に学ぶ 経営につまずかない「企業統治」の仕組み作り、カルロス・ゴーン氏逮捕事件 心配な今後の展開、「カルロス・ゴーンという黒船」がこじ開けた 裁判所の閉鎖性 事件を機に 自立の時期を迎えた…?) [企業経営]
日産ゴーン不正問題については、昨年12月28日に取上げた。今日は、(その5)(ゴーン事件に学ぶ 経営につまずかない「企業統治」の仕組み作り、カルロス・ゴーン氏逮捕事件 心配な今後の展開、「カルロス・ゴーンという黒船」がこじ開けた 裁判所の閉鎖性 事件を機に 自立の時期を迎えた…?)である。
先ずは、1月16日付けダイヤモンド・オンライン「ゴーン事件に学ぶ、経営につまずかない「企業統治」の仕組み作り 池尾和人・立正大学経済学部教授に聞く」を紹介しよう(Qは聞き手の質問、Aは池尾氏の回答)。
https://diamond.jp/articles/-/190934
・『日産自動車カルロス・ゴーン元会長の逮捕は、経済界に大きな衝撃を与えた。ゴーン氏は拘留理由開示手続きを通じて無罪を主張するも保釈が認められず、事態は混迷の度合いを強めている。これまでコーポレートガバナンス(企業統治)に無頓着だった企業は、この事件を教訓に社内体制をどう整えるべきか。日本においてコーポレートガバナンス・コードの策定を主導した池尾和人・立正大学経済学部教授に聞いた』、コーポレートガバナンス問題の第一人者に聞くというのは、実にタイムリーだ。
・『「企業統治」の意味を正しく理解しているか Q:ゴーン事件をきっかけに議論が盛り上がるコーポレートガバナンス(企業統治)ですが、企業にとってそれを徹底することの意義を改めて教えてください。 A:誤解されがちですが、コーポレートガバナンスの仕組みを導入するだけで会社がよくなるわけではありません。企業関係者は、その本来の意義をまずきちんと整理して理解すべきです。 私は金融庁と東京証券取引所が取りまとめ、2015年に適用が始まったコーポレートガバナンス・コードの策定において、有識者会議の座長を務めました。このコーポレートガバナンス・コードとは、上場企業が守るべき行動規範を示し、株主がその権利を適切に行使できる環境を整備するための企業統治の指針です。その目的は、企業のパフォーマンスを向上させ、株主などのステークホルダーに還元することです。 ただ、企業のパフォーマンスに対して一義的に影響を与えるのはマネジメント(経営)であるというのが私の持論です。もしコーポレートガバナンスの体制に不備があっても、優秀なトップがうまく企業を経営すれば、パフォーマンスが向上することはあり得ます。リーダーが優秀であれば、むしろ下手な民主制よりも求心力の強い独裁制のほうが効率的でしょう。それゆえ、コーポレートガバナンスの整備と企業のパフォーマンスは、必ずしも連動しないケースがあります。 とはいえ、経営者に立派で優秀な人が必ず就任する保証はない。会社の利益より自己の利益を追求する人や、無能な人がトップになったらマネジメントはおぼつきません。だから、適正な人が経営者になる確率を高めるための「品質保証」の仕組みとして、コーポレートガバナンスが必要となる。それが本来の意義です。 また、ガバナンスが機能しているか否かは短期で判断するのではなく、中長期で見て「おおむね機能している」状況にもっていけるのが理想です』、さすが、実務的にみてもバランスが取れた見解だ。
・『パフォーマンスがよければ市場は注文をつけないという現実 Q:日産自動車は、なぜガバナンスが徹底されていなかったのでしょうか。 A:投資家にとって、最も重要なのは企業のパフォーマンス。それが良ければ、投資家は「企業統治がきちんと機能している」と思い、あまり細かい注文を付けないものです。日本企業全体を見ても、「稼ぐ力」が低下し、投資家の不満が高まった結果、コーポレートガバナンスが重視され始めた経緯があります。 ゴーン氏は、死に体だった日産を奇跡的に立ち直らせた実績があり、投資家からカリスマのように信頼されていました。だからこれまで、経営者の品質を保証するのが本来の目的であるコーポレートガバナンスの必要性に投資家の関心が向かず、日産も体制整備に本腰を入れなかったのでしょう。 似た事例として、米グーグルがあります。同社は創業者らが黄金株(極端に大きな支配権が付与された特殊な株式)を保有しており、一般株主が経営をコントロールしにくい構造になっています。これは、標準的なコーポレートガバナンスの観点からは適正とは言い難いもの。しかしパフォーマンスがいいから、米国の取引所や投資家は同社を受け入れています。そういう状況は実際にあるのです』、「投資家にとって、最も重要なのは企業のパフォーマンス」と、株式市場による監視の限界や、グーグルの黄金株を例示するなども、さすがだ。
・『Q:有価証券報告書の虚偽記載で取り沙汰されたゴーン氏の高額報酬は、以前から疑問視されていました。しかし実績がスゴイから、あまり追求されなかったと。そうした実態を考えると、コーポレートガバナンスはどこまで有効なものでしょうか。 A:確かに株式市場では、潜在的に重要なことが疎かにされ、表面的なパフォーマンスだけで企業が評価される側面はあります。資本主義の目的は利益を上げることですから。しかし、だからと言ってルールに従わなくていいわけではない。市場経済はプロスポーツと一緒で、勝つことが至上の目的であっても、何でもありではなく、ルールに従った上での「勝ち」でないと認められません。結果が良ければルール違反を見逃してもらえるということにはならないのです。 またゴーン氏に限らず、始めは優秀だった経営者が永久にそうであり続ける保証はなく、途中で変質することもあるでしょう。そう考えると、経営者の質を中長期で保証するコーポレートガバナンスの体制は、やはり重要なのです』、確かにカリスマ頼みというのは不安定だ。
・『Q:金融商品取引法違反では、ゴーン氏に加えて日産自身も起訴されました。今回の事件は、ゴーン氏と日産の責任をどう区別して考えるべきかが、難しいケースですね。 A:そうですね。ただいずれにせよ、経営者の行動をチェックできずにそうした事態を招いた会社側に責任がないとは言えません。 現在の企業は単体ではなく、グループ全体でガバナンスを考えるのが普通です。日産の最大の問題点は、ルノー、日産、三菱という、それぞれ支配・被支配の関係がある3社連合のトップをゴーン氏が兼任しており、グループとして経営者をチェックする機能を喪失していたことです。 従来は持ち株会社のトップと傘下の主力銀行のトップが同じであることが当たり前だった銀行にしても、フィナンシャルグループとしてビジネスを展開するようになり、そうした体制を見直してきました。同じ大企業グループと比べて、日産のガバナンス不在は明らかだったと言わざるを得ません』、その通りだろうが、フランス政府というやっかいな大株主もいることから、仕組み上ではあえて曖昧なままにして、運用上でゴーンの政治力に期待したのだろう。
・『ガバナンスの一手段として「司法取引」は適切か Q:日産は、ゴーン氏の捜査に協力する見返りに刑事処分が軽減される司法取引制度を利用しました。これはある意味「自律的な動き」とも言えます。司法取引は、コーポレートガバナンスの一手段となり得るのでしょうか。「日本人のメンタルには合わない手法」という声も聞かれますが。 A.会社の中で何が起きているかという情報を外から得るのは非常に難しいため、時としてインサイダー(内部の関係者)の協力を得る必要はあります。そのインサイダーに情報提供のインセンティブを与えるためには、それなりの見返りが必要。そう考えると司法取引のような捜査手法は、コーポレートガバナンスとして有効だと思います。 ただし、企業の談合事件の捜査にも言えることですが、最初に自白して情報提供した側の処分が軽くなり、最後まで秘匿した側の処分が重くなるようなやり方は、やはり不公平感があるため、日本では議論を生むでしょう。そうしないと得られない情報を引き出せるというプラス面が、マイナス面と比べてどれだけ大きいかによって、司法取引適用の価値があるケースかどうかを判断すべきだと思います。 Q:不祥事を起こしてしまった企業がガバナンスを再構築するためには、まず何をすべきでしょうか。 A:一般的に言えば、不祥事を起こした企業は、独立した第三者委員会を設置し、原因と責任の所在を明らかにして、調査報告書の作成などを行ないます。その際、社内の内部監査のチームと連携することが重要です。 通常、内部監査部門は社長に直属しており、経営者の「目」として社内各部署で不正行為がないかをチェックするのが役目です。しかし、仕組み上社長自らの不正を摘発することはできないため、ゴーン事件のようなケースでは機能しない。一方、独立性が高くても社内事情に疎い第三者委員会は、内部監査部門から情報をもらわないとスムーズに動けない。だから、両者が連携して調査を行なうのが理想です。 そして次のステップでは、社内にコーポレートガバナンスの仕組みをつくっていきます』、なるほど。
・『ガバナンス徹底には第三者委員会と内部監査チームの連携が不可欠 Q:不祥事を起こした企業や、まだ企業統治への取組みが十分でない企業は、ガバナンス体制を具体的にどうやって構築していけばいいでしょうか。 A:コーポレートガバナンスの基本ポリシーは、経営の監督機能と業務執行機能の分離です。取締役会の中に、社外取締役を中心とする指名委員会(取締役の選任・解任)、監査委員会(役員の職務監視)、報酬委員会(役員の報酬決定)の3つの委員会を設置する一方、取締役の業務執行機能を執行役(取締役会で選任された役員)に移管する、指名委員会等設置会社が増えています。 ただし、3~5名程度であることが多い各委員会が組織全てをモニタリングするのは不可能です。委員が頻繁に集まるだけではダメで、やはり内部監査部門との連携が重要となります。連携などの仕組みがしっかりしていれば、平時は委員会を月1~2回開催すれば十分でしょう。 昨年6月、コーポレートガバナンス・コードの一部改訂が行われましたが、そこで強調されたポイントが、経営者の選任・解任に関する取り決めの整備でした。その後のフォローアップ会議で、「ゴーン事件の前にコーポレートガバナンス・コードを改訂していたため、後追いにならなくてよかった」という意見が出たことを覚えています』、トップが不正に関与していた場合には、「内部監査部門との連携」がどれだけ機能するのかは疑問も残る。
・『インサイダーが正当性を主張しても説得力がない Q:無資格検査問題からゴーン事件と、日産では立て続けに不祥事が明るみに出ました。同社は新たに「ガバナンス改善特別委員会」を立ち上げましたが、これまで指名委員会や報酬委員会が設けられていませんでした。 A:日頃からコーポレートガバナンスの体制を整えておくことには、不正の防止という現実的な目的はもちろん、万一の事態が起きたときに経営の正当性を主張するという目的もあります。 日産については、もともとコーポレートガバナンスが不十分な経営体制で生じた不正がインサイダーによって明るみに出たケースのため、世間は日産の新しい経営体制に懐疑的です。「ひょっとしたら、ゴーン氏を辞めさせた当事者たちの中に、ある種の責任を問われるべき立場の人がいるかもしれない」と思うかもしれません。また、司法取引というやり方についても、自己規律が健全に発揮されたという印象は薄い。 そうしたムードの中で、インサイダーが自らの正当性を主張しても、「言い訳」と受け取られてしまい、説得力はありません。同社が信頼を取り戻すためには、前述のような統治体制の構築に真摯に取り組む必要があります。 それに対して、もともとコーポレートガバナンスをきちんとやっていた会社は、自社のコントロールが及ばない原因で不祥事が起きても、経営の責任は問われないことが多いものです。 Q:やはり、どこかできちんとやらないとダメなのですね。そうして整備した統治体制を有名無実化せず、きちんと運用するにはどうしたらいいでしょう。 A:コーポレートガバナンス・コードのフォローアップ会議におけるキャッチフレーズは、まさに「形式から実質へ」です。制度が形だけ整っていても魂が入っていないというケースは、よくあります。たとえば東芝は、委員会設置会社の形式をとって「先進的」と言われていたにもかかわらず、あんな不祥事を起こしてしまった。 しかし、だからと言って形式がどうでもよいというわけではない。本当に細かい部分まで形式を整えていくと、それなりに実質が担保される側面もあるからです。その点東芝は、コーポレートガバナンスの体制を大枠だけ整え、細かいところまで配慮していなかったと考えられます。監査委員会の委員長が内部出身の取締役で、しかももともと経理部門のトップだったということは、形式面から考えても明らかにおかしい。 形式を整えないと何も始まらないので、それは第一にやる。しかし、そこで終わらずに魂を入れた運用をしていく、という意識が必要なのです。 Q:池尾教授は、これまで多くの企業の経営に参画し、コーポレートガバナンス・コードの策定にも関わりました。それらの過程で、企業の様々な取組み事例を見て来たと思いますが、足もとで企業統治への機運は高まっていると感じますか。 A:数年前と比べて大きく変わったという印象はあります。全体の取組みを10とした場合、積極的な企業が3割、事務的にやっている企業が4割、全く取組んでいない企業が3割。マラソンに例えると、先頭がスピードアップしたため、後続との距離が広がっているという感じです』、コーポレートガバナンスへの取組みは、信用格付けで評価される可能性があるが、上場企業といっても信用格付けする取得してない企業も多いので、遅れた企業は当分、残るだろう。
・『あおぞら銀行のボードは一般的なものではなかった 私は学者ですが、コーポレートガバナンスとの関わりは実践から出発しています。これまで日本を代表する経営者と接する機会に恵まれ、その考えや行動を興味深く見聞きしてきました。 2000年、一時国営化されていた日本債券信用銀行(後のあおぞら銀行)が再民営化された際、ソフトバンクの孫正義社長、オリックスの宮内義彦社長らとともに同社の取締役に就任しました。そして、同行がスポンサーの1社だったソフトバンクの機関銀行(特定の事業会社などの資金調達目的で預金を集める銀行)とならないよう、モニタリングするために設けられた特別監査委員会の委員長を務めました。 そうした組織のトップは、大学教授など中立的な人間がいいということだったのでしょう。その後、日本郵政公社の生田正治総裁の招きで、同公社の社外理事も経験しています。 委員会等設置会社が認められたのは、2002年の改正商法からであったにもかかわらず、当初のあおぞら銀行のボード(取締役会)は、執行サイドは社長と専務の2人だけ、あとは全部社外取締役という陣容でした。 だから、当時私はそういうのが当たり前だと思っていたのです。しかし、ほとんどの日本企業はそうではなく、あおぞら銀行のボードは特別中の特別だったということを後から知り、驚きました。しかしここにきて、当時と同じ機運が経営者の中に広がってきたと感じています』、コーポレートガバナンスへの取組み機運が高まってきたというのは結構なことだ。
・『コーポレートガバナンスが「太陽政策」である理由 Q:トップを走っている企業とそれ以下の企業とでは、何がどう違いますか。 A:やはり経営者の自覚です。コーポレートガバナンスの目的は、経営者を縛ったり見張ったりするのではなく、経営者が投資家に対して憂いなく説明責任を果たせるよう、健全な経営の仕組みをつくること。言うなれば、経営者にとって「北風政策」ではなく「太陽政策」なのです。 そうした本質に気づいている経営者は取組みに前向きですが、自分を縛るものと考えている経営者は取組みが中途半端になりがちです。 Q:日本企業のガバナンスに対する考え方は、グローバルな感覚に近づいてきていると思いますか。 A:欧米企業では、悪い経営者はとことん悪いことをする。だから、制約の強さはむしろ海外のコーポレートガバナンスのほうが強いかもしれません。その点、日本のコーポレートガバナンス・コードは、日本企業にマッチするように策定されています。そもそもルール(規則)ではなくプリンシプル(原則)という位置づけになっているし、株主をはじめ色々なステークホルダーとの協働によって、短期ではなく中長期での成長を目指すことが強調されています。 もっとも、狭い意味での株主主権を振りかざすことがグローバルスタンダートではないはずなので、こうした考え方は「日本的」というより「普遍的」なものであると理解すべきかもしれません』、日本のコーポレートガバナンス・コードが「ルール(規則)ではなくプリンシプル(原則)という位置づけになっている」というのは、プリンシプルが好きだった全金融庁長官の影響もあるとはいえ、望ましい方向だろう。
次に、在米作家の冷泉彰彦氏が1月19日付けメールマガジンJMMに寄稿した「「カルロス・ゴーン氏逮捕事件、心配な今後の展開」 from911/USAレポート」を紹介しよう。
・『日産、ルノー、三菱という自動車メーカー三社連合を率いていたカルロス・ゴーン氏は、昨年11月19日に逮捕されて以来、拘留が50日を越えています。この問題は、著名な経営者が果たして犯罪を犯していたのかという点、そして世界最大の自動車製造グループの一角が今後どうなるのかという点など、グローバルな話題性のあるニュースであると思います。 ですが、アメリカでは大きなニュースになっていません。逮捕のニュースは伝えられましたが、その後の報道は散発的です。理由の一つは、余りに国内ニュースが「騒がしい」ので、ビジネス関連の国際ニュースにまで関心が回らないということがあります。 具体的には、国境の「壁」建設費を要求している大統領と、これを拒否する議会(民主党+共和党の一部)の対立から、予算が成立せず「政府閉鎖」が28日目に入っており、このニュースと大統領に関する「ロシア疑惑」の特別検察官報告が近いというニュースなどがあります。 特に「政府閉鎖」については、大統領と議会はどちらも一歩も引けない状況に立たされています。そんな中で、民主党は大統領に対して「こんな状況では年頭一般教書演説は延期せよ」と迫ると、大統領が「民主党議員団のアフガン視察」に「軍用機使用を禁止して旅程を断念させる」という「逆襲」に出ています。また、その大統領自身は「米国としてダボス会議への公式参加は全部キャンセル」とするなど、大きな影響が出ています。 政府職員については何しろ給与が出ないのですから、生活費のキャッシュ・フローのためには、「公職の方は病気欠勤」にして、日銭の稼げるアルバイトに出る人が増えています。その影響で、複数の空港では保安検査場が一部閉鎖になっています。食品安全検査員、沿岸警備隊、航空管制官の間では顕著な欠勤はないようですが、生活が成り立たないという動揺が始まっていると報じられています』、ゴーン氏逮捕事件が、トランプを巡る大騒動にかき消されて、「アメリカでは大きなニュースになっていません」というのは一安心だ。
・『一方で、英国では報道されているように、15日(火)にはメイ政権が提出した「離脱案」が下院で否決されてしまいました。ですが、同じ下院は16日にはメイ首相の不信任案を否決しており、今後は「代替案」の審議、その「代替案」が否決されると「合意なき離脱の回避」のためには「国民投票のやり直し」という流れになるかもしれません。 では、どうして米国も英国もこうした「内部の激しい対立劇」を演じていられるのかというと、現時点では「景気がいい」からです。確かに「米中通商戦争」がトリガーになって、世界が同時不況に陥る危険性はゼロではありません。ですが、少なくとも現時点では、即座に株が暴落したり、金融危機が発生したりする可能性は低いわけです。 こうした事情がある中で、特にアメリカの場合は国内の対立劇に関心が集約されており、ゴーン氏の事件などは忘れられた格好とも言えます。また、株価は不安定ながら、景気が好調だという中で、巨大な北米自動車市場の状態も悪くないわけで、日産のドル箱市場である北米が堅調だということは、一種のお家騒動というべきこの事件を「やっている余裕」を与えているとも言えます』、米英でいまのところ「景気がいい」ので、「「内部の激しい対立劇」を演じていられる」とはその通りなのだろう。
・『もう一つ、ゴーン氏の事件が「そんなに大騒ぎにならない」理由があります。昨年、2018年の年明けは、「EV(電気自動車)化」と「AV(自動運転車)化」という、自動車業界の近未来に起きるであろう大きな変化が、大変な話題になっていました。 例えば、2018年1月にラスベガスで行われたCES(コンシューマー・エレクトロニクス・ショー)ではトヨタの豊田章男社長が登場して、業界の大変革へ向けた危機感を表明したり、中国の百度(バイドゥ)とBMWが共同で行ったAVデモ走行なども含めて、AV+EVが大変に注目されていました。 年初からそんな雰囲気でしたから、その勢いで行けば2018年は「AV元年」とでもいうことになって、自動運転車のデモ走行が世界中で行われたり、企業間の提携や買収が派手に発生したりしていたはずでした。ところが、3月にアリゾナ州のテンペで「自動運転試験中」の車が、自転車を押して渡っていた女性を認識できずに死亡事故を起こしてしまうという事件が起きました。 この事件の前は、例えばグーグル系の「ウェイモ」社などは、「自動運転車の死亡事故率が、人間の運転する車の事故率を下回るのであれば、どんどん普及する」などと豪語していたのですが、事件後は「1件の死亡事故」を契機として自動運転車への社会の目は「厳しくなる」ことが証明された格好です。 事故に関与したウーバー社は、AVソフトウェアの開発ではトップランナーの一つでしたが、その後はIPOを優先していることもあり、AVの試験走行に関しては派手なデモンストレーションは自粛しているようです。同じように、EV+AVのコンセプトで話題を集めていた「テスラ」社も、派手な話題を呼ぶことはなくなりました。 今年、2019年も同じラスベガスでCESが行われましたが、今年はAVについては大きな話題にはなっていません。そんなわけで、2018年の後半から現在にかけては、自動車業界の特にAV化の部分については、一息ついた格好になっています。 全体の株価が堅調で各国、特に米国が国内政治の話題ばかりに関心が行っている、しかも業界の変革がスローダウンしている、つまりは、こうした環境があるから「ゴーン氏の事件」は余り関心を呼んでいないし、また同時に「ゆっくり係争を続ける」ことも許されるというわけです。 仮に景気や市場が悪ければ、日産やルノーの株は国際市場で叩き売られていますし、仮に大幅な株安となれば、業界再編を狙うライバルや、資金力にモノを言わすシリコンバレーなどが、企業の買収に食指を伸ばしてくるわけで、「そうならない」環境があるがゆえの事件ということも言えると思います』、確かに日産は「ツイ」ているといえるのかも知れない。
・『以上は、長めの前置きでですが、日産=ルノー=三菱連合を取り巻く環境は、そんなわけで「緩い」わけですが、それでも事件の今後の展開については、多くの心配があります。 この事件ですが、私は「全体像をつかんだ何者かのシナリオによる陰謀」という考え方は難しいと思うようになってきました。事件の当初は、一部に「ゴーン氏は日産とルノーの経営統合を模索しており、このままでは日産がフランスの会社になってしまうという危機感からクーデターが発生した」という見方がありました。 ですが、時価総額で言えば、日産がルノーの約2倍ある中では、経営統合によるルノーの日産への支配強化ということは筋が通らない話です。そこで、私は「AV+EVの熾烈な開発競争の中で、経営効率を更に高めようというゴーン体制と、フランス側、日本側の対立があった、つまりフランスでの雇用創出を求める声や、日産はあくまで日本の会社という観点をベースにした、日仏の政府が意向を重ね合わせてのクーデター」という仮説を持っていました。 ですが、その後の日仏のギクシャクした関係を見ていますと、背後で日仏が連携しての逮捕劇というのは「ハズレ」という感じもしています。そうなると、例えばですが、ゴーン氏の派手な経費の付け替えなどに怖くなった日産の内部通報者が、弁護士に相談したら「関与したあなたも危ない」と言われて、司法取引欲しさに検察に駆け込んだとか、「小さなキッカケ」が契機となって、関与している全てのプレーヤーの「引っ込みがつかなくなった」という「筋書きのないドラマ」に突入しているという見方の方がリアリティがあるようにも思われます』、「日仏の政府が意向を重ね合わせてのクーデター」というのは理解に苦しむ。日産と日本政府によるクーデター説が日本ではいまだ強いが、冷泉氏の見方も1つの見解として参考になる。
・『問題は、検察がいつまでも拘留を続ける中で、ゴーン氏本人の保釈を認めていない点です。これも憶測になりますが、不自然なまでに拘留が長期化している背景には、検察はゴーン氏が保釈された場合に、すぐに記者会見を行って理路整然と自分に非のないことを国際世論に向かって訴える、そのことを恐れているのではないか、そんな印象を与えるわけです。仮にそうだとしたら、これは大変な問題です。 何が大変なのかというと、仮にそのような180度の対立があるのであれば、日本の司法制度においては、裁判の長期化の可能性があるからです。裁判が長期化すれば、その間に国際経済が深刻な不況になり、株価の水準が大きく下がる時期も来るでしょう。その一方で、やがて資金力を得たウーバー=トヨタ連合や、グーグル、アップルなどのAV積極派が世界における自動運転の社会的認知に成功するかもしれません。 更に、EVの世界では中国勢やインドのタタなどが部品のモジュール化を進めながら、「自家用車」を「保有することに意味のある付加価値」から解放して、コモデティ化してしまうかもしれません。 そんな中で、いつまでもルノー、日産がこの事件の裁判を続けていたら、買収のターゲットになってしまいます。これが最悪のシナリオです。そうなっては、日産、そして三菱自動車という企業もブランドも消滅してしまうかもしれません』、確かに、「最悪のシナリオ」も大いにありそうだ。
・『そのために、この問題の解決にあたっては以下の3点を考慮することが必要と思われます。 1点目は、とにかく迅速な解決を行うということです。検察は決定的な証拠を手にしており、既に起訴した容疑で公判維持ができるのであれば、勾留を解き、何を言われても主張を貫き、法廷の決定に従うべきです。また、どう考えても公判が維持できなくなったら、メンツにこだわらずに撤退することも必要でしょう。 この事件は、形式としては刑事事件ですが、本質は民事です。ですから民事的な和解なり、現状復帰などが可能であれば、そちらを優先して、刑事責任を延々と追及して裁判が長期化するのは避けるべきと思います』、「この事件は、形式としては刑事事件ですが、本質は民事です」というのは初耳だが、言われてみればその通りだ。ただ、検察が「メンツにこだわらずに撤退する」可能性が残念ながら低そうだ。
・『2点目は、「制度の使い勝手」を考えて行くということです。例えばですが、噂されているように、今回の事件において日本人の経営陣が司法取引を使っているのであれば、これは新しく導入されたこの制度を本格的に適用する貴重なケースであるわけです。それこそ、司法取引で減刑ないし免じられた刑事責任については、社会的な批判や非難からも逃れられるのかなど、しっかり議論をして制度を固めてゆかねばなりません。 大きな問題としては、有報への虚偽記載、承認なき報酬という容疑です。どちらも日本の企業ガバナンス制度が機能しているかを問う裁判になります。企業内法務部門や、企業内監査部門、外部監査人や社外取締役など、現在の日本の上場企業には二重三重のチェック体制が制度として取られています。 ですが、今回の容疑は「カリスマ的な経営者」が強い権力を持った場合には、こうしたチェック体制が発動しないという認識を前提に、その「カリスマ的経営者」自身
を最初から刑事責任を問う形で告発しているわけです。 そうなると、内部統制などということを、検察は信じていないということになるわけです。これはある意味では形式主義を排し、本質に迫る告発として正しいのかもしれませんが、同時に、膨大な労力を投じて運営されている日本企業の内部統制というのが、要は形式主義であり、トップの意向で何とでもなるというレベルだと断定しているようなものでもあります。 仮にそうであれば、本当に機能する内部統制の方法を考えなくてはなりません。その意味で、例えばですが、西川社長以下の経営陣が「違法と認識しつつトップの暴走を止められなかった」場合に、行為そのものの刑事責任については、司法取引でチャラにできるのかもしれませんが、善管注意義務など株主に対する民事責任はどうなるのかも大変に気になります』、確かに事実関係が明確になったら、株主代表訴訟が提起される可能性があろう。
・『いずれにしても、今回の事件は制度の使い勝手を問う性格のものであり、特に内部統制については、コンプライアンスがどうとか散々手間暇をかけてやってきたことが、要は形式だったことを暴露してしまった、その点はどう改善していくのかが問われるのだと思います。 制度の使い勝手ということでは、企業の提携関係について、今回の事件は非常に歪んだ実態を明らかにしています。日産は、北米日産というドル箱を抱えているために、ルノーの約2倍の時価総額を有しています。にも関わらず、株式の持ち合いにおいては、ルノーの方が比率が高いばかりか、日産の持つルノー株にはフランス法の規制により議決権が付帯されていません。 仮に、ルノーによる日産支配の比率が高いのであれば、投資家はルノーを通じて日産の保有・支配を目指すはずですが、そのルノーには政府保有株の存在など公社的性格が残っているために、面倒があるわけです。そこで日産に直接投資した方がシンプルということと、業績としても日産が優良であるために、日産株が価値を持って上場されているわけです。 非常に複雑でスッキリしない話です。更に問題を複雑にしているのが、日産=ルノー=三菱のアライアンスを管理する統合会社が存在することです。この統合会社は、しかしながら持ち株会社ではありません。3社がそれぞれ出資してできており、いわば共同で保有している子会社のようなものです。 しかも、悪いことに、このアライアンス管理会社が、闇報酬の支払い元になっているという疑惑が出ているのです。こうなると、内部統制とか、ガバナンスとかいうレベルではありません。まるで非上場の同族会社が、好き勝手やっているレベルに近いわけです。 とにかく、親子上場をやめさせて、企業の、特に同一産業におけるアライアンスの場合は、キチンと経営統合をして、保有の頂点にある親会社が持ち株会社の要件を満たし、その会社だけが公開企業として、株式市場からの資金調達を行うとともに、経営責任と情報公開義務を持つ、そのようなピラミッド型のシンプルな形式にしなくてはダメです』、正論ではあるが、ルノー大株主としてのフランス政府の存在を考えると、そう簡単な話ではなさそうだ。
・『3点目は「経営の落とし所」です。仮に、西川社長がゴーン氏追放を真剣に考えているのであれば、「ポスト・ゴーン体制」とは何か、ということへの明確なビジョンが必要だということです。 前述したように、現在は短い「モラトリアム時期」かもしれませんが、やがて自動車産業には2つの厳しい冬がやってくると思います。1つは、景気循環の結果としての需要の落ち込みであり、もう1つはAV+EVの本格化による業界秩序の再編です。 その場合は、既存の自動車産業内での集合離散だけではなく、シリコンバレーの巨人たちも参戦しての壮絶な合従連衡の戦いが繰り広げられることでしょう。 その場合に「ポスト・ゴーン」の日産をどうしたらいいのでしょうか? 車台の共通化や、EV+AVに関する研究開発を通じて、アライアンスの中で一体化で走ってきた部分は大きくなっています。そこを重視するのであれば、第一ステップとして「日産はルノーの買収」ないしは「持ち株比率の逆転」を要求し、歯を食いしばって資金調達をして、そのように「関係のねじれ」を解消すべきです。 そうでなければアライアンスとしての企業価値を十分に発揮できずに、合従連衡の戦いに参加できないからです。その場合、恐らくルノーはその要求を蹴るでしょう。 丁重に話を持って行って、それでも蹴られたら、その場合は日産あるいは日産+三菱がルノー資本から自由になって、日本の民族資本となるので「万々歳」かというと、それは違います。 いくら北米日産というドル箱を抱えているからと言って、それだけでは激しい集合離散の戦いを勝ち抜くことはできません。ウカウカしていて、株安なり円安なりに付け込まれると、デトロイト、ドイツ勢、シリコンバレー、あるいは中国やインドなどの新興勢力に敵対買収されてしまうこともあり得ます。 そうではなくて、仮にルノーとの別離を経験したら、日産は国際的なM&Aの台風の目として「撃って出る」べきです。デトロイトのどこか、ドイツのどれか、トヨタ以外の日本メーカー、中国、インド、シリコンバレーなど、様々な提携関係が模索される中で、日産として買われて行くのではなく、買って行く、そして現在の「3社連合」を上回るアライアンスを作って、本格的なAV+EV時代を戦い続けるべきと思います。 カルロス・ゴーンという稀代の天才を過去の存在にしようというのであれば、誰かがその代わりに日産のリーダーシップを取って行くべきです。そして本格的なAV+EV時代の到来や、次の景気後退期をどう戦って行くのか、そのビジョンを見せて行くべきです。そのリーダーシップが見えない、これがこの事件の最大の問題であると思います。やがて、アメリカの経済界がこの問題に関心を持つ時期がくると思います。 そうなれば、白馬の騎士を装ったハイエナが押し寄せてくるのは目に見えています。 その前に、とにかく事件の決着と新体制への移行が何としても必要と思うのです』、「仮にルノーとの別離を経験したら、日産は国際的なM&Aの台風の目として「撃って出る」べきです」というのは、冷泉氏はなかなかの戦略家だ。しかし、そんなビジョンやリーダーシップを持った人物なぞ、残念ながら見当たらないのが実情なのではなかろうか。
第三に、ジャーナリストの伊藤 博敏氏が1月24日付け現代ビジネスに寄稿した「「カルロス・ゴーンという黒船」がこじ開けた、裁判所の閉鎖性 事件を機に、自立の時期を迎えた…?」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/59532
・『裁判所が「自立の時期」を迎えた…? カルロス・ゴーン被告は、やはりタダ者ではない。日本の常識を覆し、知力の限りを尽くして検察に戦いを挑み、裁判所に意義を突きつける。その結果、山は動いた――。 現在、小菅の東京拘置所に、ゴーン被告を除いて、特捜部が手掛けた「特捜案件」の被告はいない。リニア談合の被告も、文部科学省事件の被告も、昨年末から今年にかけて、否認のまま保釈した。 それは、12月20日、検察が求めたゴーン被告の勾留延長を却下する際、「海外要人だから特別扱いした」という批判を受けないようにするための“布石”ではあった。ただ、裁判所が「自立の時期」を迎えていたのも確かである。 まだ、途中経過に過ぎないが、ゴーン事件の衝撃を検証したい』、興味深そうだ。
・『敗戦直後、地検特捜部は、陸海軍の物資を巡る事件を手掛ける「隠退蔵物資事件捜査部」としてスタートした。以降、70年、特捜部が国家秩序を意識し、国策として取り組む特捜案件の場合、裁判所は検察のいうままに勾留を認め、有罪判決を下してきた。 なかでも否認を続ける被告は「国家への反逆」とみなし、拘置所に留め置いた。悪名高い「人質司法」である。それだけに、ゴーン被告の勾留延長却下は、前代未聞であり、検察にとって衝撃だった。 東京地裁は、11月19日のゴーン被告の最初の逮捕が、5年分の有価証券報告書への報酬の不記載で、12月10日の再逮捕が、以降3年分の不記載で、それだけに「事業年度の連続する一連の事案と判断した」と、却下理由を説明した。 12月20日までに勾留期間が30日を経過、不記載という形式犯で、そんなに長く勾留する必要はないという意思表示だった。裁判所が判断理由を説明するのは前代未聞。検察から距離を置いて見せた。 この決定を受けた記者会見で久木元伸・東京地検次席検事は、過去に例があるかないかを問われ、「調べてみないとわからないが、調べようもない…」と、うろたえた。 特捜部が「政官財の監視役」となり、裁判所がそれを支えるという予定調和の世界が崩れた』、確かに「ゴーン被告の勾留延長却下は、前代未聞であり、検察にとって衝撃だった」のだろう。
・『「保身」と「外圧」 ゴーン被告は黒船となった。 その処遇は、逮捕直後から海外メディアの注目の的だった。 仏メディアは、「弁護士が事情聴取に立ち会えず、家族との面会もままならない」という日本の刑事手続きを、驚きをもって報じた。仏では、弁護士同席が認められ、捜査妨害と判断されなければ家族との面会も可能。なにより勾留は最長でも96時間である。 それは日仏の刑事手続きの違いであって善し悪しではないが、国際的にも著名な経営者の逮捕は、仏だけでなく欧米メディアの重大関心事となり、11月22日、逮捕後の最初の地検会見には欧米の記者が殺到、久木元次席に質問を浴びせかけた。 そのほとんどに、「(捜査に支障を来たすので)答えを差し控える」と、回答していたが、2週に1度の会見を、外国メディアの要請を受けて、当面は毎週開くことにした。 海外メディアは、処遇に批判的だった。米通信社は、ゴーン被告が仕切りのないトイレと小さな机だけの3畳の単独部屋で、シャワーを毎日は浴びられず、パソコンもない環境だとして、「劣悪」と報じた。 ただ、そうした環境より海外メディアが批判したのは、逮捕を繰り返して自白を迫り、否認を続ければ、起訴後も勾留を続け、それが1年、2年と続くこともある「人質司法」についてである。この問題については、ブラジル、レバノン、仏に国籍を持ち、大使の接見は認められているだけに、「大使館の声」として早期保釈の要望が伝えられた。 刑事訴訟法第89条で、保釈の請求があれば、罪証の隠滅、逃亡の恐れがない場合、原則として保釈を認めなければならないのに、勾留を続ける事に違和感を持つ裁判官は少なくないという。 しかし、仮に保釈して証拠を隠滅、あるいは逃亡して事件が潰れた場合、裁判官の判断ミスとなる。そうしたくないという保身が、「公判のメドが立つまで拘置所に入れておけばいい」という結論につながる。検察との仲も良好を保てる。 しかし、外圧が保身を除去した』、「人質司法」は確かに日本の司法制度の恥部だ。それに脚光が当てられた意味は大きい。
・『「何者にも左右されない気概」 リニア建設談合で、9ヵ月の勾留を続けていた大成建設の大川孝被告、鹿島の大沢一郎被告に対し、東京地裁が保釈の決定をしたのは12月17日である。 ゼネコン4社のうち、談合を認めた大林組、清水建設については逮捕者すら出さなかったことを考えれば、イジメのような勾留だったが、19年2月14日の初公判まで勾留を続けるという選択肢もあった。 文部科学省の贈収賄事件では、東京医科大に便宜を図る見返りに、自分の息子を合格させた収賄罪の佐野太元科学技術・学術振興局長を、12月21日に保釈した。 また、佐野被告ら文部科学官僚に対する贈賄と受託収賄幇助に問われた「霞が関ブローカー」の谷口浩司被告は、否認を続けているうえ、共犯の古藤信一郎容疑者が海外逃亡を続けており、当面、保釈はないと見られていた。 しかし地裁は、1月11日、弁護人の保釈請求に対し、いったんは請求を却下したものの、弁護人の準抗告を受けて、17日、保釈を認めた。 ゴーン保釈の下準備であると同時に、変化の胎動でもある。ただ、「ゴーンの外圧」を気にしつつも、屈しているわけではない。 ゴーン被告のパフォーマンスはさすがである。 保釈取消を狙った特捜部は、12月21日、個人的な損失を日産に付け替え、それを個人に戻す際に保証した知人に利益供与したという特別背任容疑で再々逮捕した。 そのおかげで保釈は叶わず、クリスマスも正月も拘置所で過ごしたものの、1月8日、満を持したように地裁に登場。公判に有利に働くわけではなく、誰も使わない「勾留理由開示」を、自分の弁論の場として使い、注目の法廷で「無罪」を主張し、弁護団もゴーン被告の検察との「劇場型対決」に相乗り、海外メディアを中心に情報発信を行い、8日、大鶴基成弁護士は外国特派員協会で記者会見するともに、保釈を請求した。 これを棄却されると、ゴーン被告は米国の家族側報道担当を通じて、「日本の賃貸住宅に滞在してパスポートは預け、毎日、検察に連絡し、GPSを使った追跡装置を身につける」と、保釈のための条件を出した。だが、地裁は、22日、2度目の保釈請求も「証拠隠滅の懸念がある」として却下した。 裁判所が示したのは、「何者にも左右されない」という気概である。裁判所の判断が、これほど注目を集めることはないが、一方で、検察との関係においては、まだまだ“揺らぎ”がうかがえて興味深い。 変化をもたらした「ゴーン砲」は、その犯した罪とは別に、評価されるものだろう』、ゴーン被告側が「保釈のための条件を出した」が、裁判所が「2度目の保釈請求も「証拠隠滅の懸念がある」として却下」したのは、残念だった。「裁判所が示したのは、「何者にも左右されない」という気概である」と筆者は評価しているが、裁判所を買いかぶり過ぎているようにしか思えない。個人的には、不届きとのそしりを受けるかも知れないが、「劇場型対決」はなかなか見がいがあり、飽きない。
先ずは、1月16日付けダイヤモンド・オンライン「ゴーン事件に学ぶ、経営につまずかない「企業統治」の仕組み作り 池尾和人・立正大学経済学部教授に聞く」を紹介しよう(Qは聞き手の質問、Aは池尾氏の回答)。
https://diamond.jp/articles/-/190934
・『日産自動車カルロス・ゴーン元会長の逮捕は、経済界に大きな衝撃を与えた。ゴーン氏は拘留理由開示手続きを通じて無罪を主張するも保釈が認められず、事態は混迷の度合いを強めている。これまでコーポレートガバナンス(企業統治)に無頓着だった企業は、この事件を教訓に社内体制をどう整えるべきか。日本においてコーポレートガバナンス・コードの策定を主導した池尾和人・立正大学経済学部教授に聞いた』、コーポレートガバナンス問題の第一人者に聞くというのは、実にタイムリーだ。
・『「企業統治」の意味を正しく理解しているか Q:ゴーン事件をきっかけに議論が盛り上がるコーポレートガバナンス(企業統治)ですが、企業にとってそれを徹底することの意義を改めて教えてください。 A:誤解されがちですが、コーポレートガバナンスの仕組みを導入するだけで会社がよくなるわけではありません。企業関係者は、その本来の意義をまずきちんと整理して理解すべきです。 私は金融庁と東京証券取引所が取りまとめ、2015年に適用が始まったコーポレートガバナンス・コードの策定において、有識者会議の座長を務めました。このコーポレートガバナンス・コードとは、上場企業が守るべき行動規範を示し、株主がその権利を適切に行使できる環境を整備するための企業統治の指針です。その目的は、企業のパフォーマンスを向上させ、株主などのステークホルダーに還元することです。 ただ、企業のパフォーマンスに対して一義的に影響を与えるのはマネジメント(経営)であるというのが私の持論です。もしコーポレートガバナンスの体制に不備があっても、優秀なトップがうまく企業を経営すれば、パフォーマンスが向上することはあり得ます。リーダーが優秀であれば、むしろ下手な民主制よりも求心力の強い独裁制のほうが効率的でしょう。それゆえ、コーポレートガバナンスの整備と企業のパフォーマンスは、必ずしも連動しないケースがあります。 とはいえ、経営者に立派で優秀な人が必ず就任する保証はない。会社の利益より自己の利益を追求する人や、無能な人がトップになったらマネジメントはおぼつきません。だから、適正な人が経営者になる確率を高めるための「品質保証」の仕組みとして、コーポレートガバナンスが必要となる。それが本来の意義です。 また、ガバナンスが機能しているか否かは短期で判断するのではなく、中長期で見て「おおむね機能している」状況にもっていけるのが理想です』、さすが、実務的にみてもバランスが取れた見解だ。
・『パフォーマンスがよければ市場は注文をつけないという現実 Q:日産自動車は、なぜガバナンスが徹底されていなかったのでしょうか。 A:投資家にとって、最も重要なのは企業のパフォーマンス。それが良ければ、投資家は「企業統治がきちんと機能している」と思い、あまり細かい注文を付けないものです。日本企業全体を見ても、「稼ぐ力」が低下し、投資家の不満が高まった結果、コーポレートガバナンスが重視され始めた経緯があります。 ゴーン氏は、死に体だった日産を奇跡的に立ち直らせた実績があり、投資家からカリスマのように信頼されていました。だからこれまで、経営者の品質を保証するのが本来の目的であるコーポレートガバナンスの必要性に投資家の関心が向かず、日産も体制整備に本腰を入れなかったのでしょう。 似た事例として、米グーグルがあります。同社は創業者らが黄金株(極端に大きな支配権が付与された特殊な株式)を保有しており、一般株主が経営をコントロールしにくい構造になっています。これは、標準的なコーポレートガバナンスの観点からは適正とは言い難いもの。しかしパフォーマンスがいいから、米国の取引所や投資家は同社を受け入れています。そういう状況は実際にあるのです』、「投資家にとって、最も重要なのは企業のパフォーマンス」と、株式市場による監視の限界や、グーグルの黄金株を例示するなども、さすがだ。
・『Q:有価証券報告書の虚偽記載で取り沙汰されたゴーン氏の高額報酬は、以前から疑問視されていました。しかし実績がスゴイから、あまり追求されなかったと。そうした実態を考えると、コーポレートガバナンスはどこまで有効なものでしょうか。 A:確かに株式市場では、潜在的に重要なことが疎かにされ、表面的なパフォーマンスだけで企業が評価される側面はあります。資本主義の目的は利益を上げることですから。しかし、だからと言ってルールに従わなくていいわけではない。市場経済はプロスポーツと一緒で、勝つことが至上の目的であっても、何でもありではなく、ルールに従った上での「勝ち」でないと認められません。結果が良ければルール違反を見逃してもらえるということにはならないのです。 またゴーン氏に限らず、始めは優秀だった経営者が永久にそうであり続ける保証はなく、途中で変質することもあるでしょう。そう考えると、経営者の質を中長期で保証するコーポレートガバナンスの体制は、やはり重要なのです』、確かにカリスマ頼みというのは不安定だ。
・『Q:金融商品取引法違反では、ゴーン氏に加えて日産自身も起訴されました。今回の事件は、ゴーン氏と日産の責任をどう区別して考えるべきかが、難しいケースですね。 A:そうですね。ただいずれにせよ、経営者の行動をチェックできずにそうした事態を招いた会社側に責任がないとは言えません。 現在の企業は単体ではなく、グループ全体でガバナンスを考えるのが普通です。日産の最大の問題点は、ルノー、日産、三菱という、それぞれ支配・被支配の関係がある3社連合のトップをゴーン氏が兼任しており、グループとして経営者をチェックする機能を喪失していたことです。 従来は持ち株会社のトップと傘下の主力銀行のトップが同じであることが当たり前だった銀行にしても、フィナンシャルグループとしてビジネスを展開するようになり、そうした体制を見直してきました。同じ大企業グループと比べて、日産のガバナンス不在は明らかだったと言わざるを得ません』、その通りだろうが、フランス政府というやっかいな大株主もいることから、仕組み上ではあえて曖昧なままにして、運用上でゴーンの政治力に期待したのだろう。
・『ガバナンスの一手段として「司法取引」は適切か Q:日産は、ゴーン氏の捜査に協力する見返りに刑事処分が軽減される司法取引制度を利用しました。これはある意味「自律的な動き」とも言えます。司法取引は、コーポレートガバナンスの一手段となり得るのでしょうか。「日本人のメンタルには合わない手法」という声も聞かれますが。 A.会社の中で何が起きているかという情報を外から得るのは非常に難しいため、時としてインサイダー(内部の関係者)の協力を得る必要はあります。そのインサイダーに情報提供のインセンティブを与えるためには、それなりの見返りが必要。そう考えると司法取引のような捜査手法は、コーポレートガバナンスとして有効だと思います。 ただし、企業の談合事件の捜査にも言えることですが、最初に自白して情報提供した側の処分が軽くなり、最後まで秘匿した側の処分が重くなるようなやり方は、やはり不公平感があるため、日本では議論を生むでしょう。そうしないと得られない情報を引き出せるというプラス面が、マイナス面と比べてどれだけ大きいかによって、司法取引適用の価値があるケースかどうかを判断すべきだと思います。 Q:不祥事を起こしてしまった企業がガバナンスを再構築するためには、まず何をすべきでしょうか。 A:一般的に言えば、不祥事を起こした企業は、独立した第三者委員会を設置し、原因と責任の所在を明らかにして、調査報告書の作成などを行ないます。その際、社内の内部監査のチームと連携することが重要です。 通常、内部監査部門は社長に直属しており、経営者の「目」として社内各部署で不正行為がないかをチェックするのが役目です。しかし、仕組み上社長自らの不正を摘発することはできないため、ゴーン事件のようなケースでは機能しない。一方、独立性が高くても社内事情に疎い第三者委員会は、内部監査部門から情報をもらわないとスムーズに動けない。だから、両者が連携して調査を行なうのが理想です。 そして次のステップでは、社内にコーポレートガバナンスの仕組みをつくっていきます』、なるほど。
・『ガバナンス徹底には第三者委員会と内部監査チームの連携が不可欠 Q:不祥事を起こした企業や、まだ企業統治への取組みが十分でない企業は、ガバナンス体制を具体的にどうやって構築していけばいいでしょうか。 A:コーポレートガバナンスの基本ポリシーは、経営の監督機能と業務執行機能の分離です。取締役会の中に、社外取締役を中心とする指名委員会(取締役の選任・解任)、監査委員会(役員の職務監視)、報酬委員会(役員の報酬決定)の3つの委員会を設置する一方、取締役の業務執行機能を執行役(取締役会で選任された役員)に移管する、指名委員会等設置会社が増えています。 ただし、3~5名程度であることが多い各委員会が組織全てをモニタリングするのは不可能です。委員が頻繁に集まるだけではダメで、やはり内部監査部門との連携が重要となります。連携などの仕組みがしっかりしていれば、平時は委員会を月1~2回開催すれば十分でしょう。 昨年6月、コーポレートガバナンス・コードの一部改訂が行われましたが、そこで強調されたポイントが、経営者の選任・解任に関する取り決めの整備でした。その後のフォローアップ会議で、「ゴーン事件の前にコーポレートガバナンス・コードを改訂していたため、後追いにならなくてよかった」という意見が出たことを覚えています』、トップが不正に関与していた場合には、「内部監査部門との連携」がどれだけ機能するのかは疑問も残る。
・『インサイダーが正当性を主張しても説得力がない Q:無資格検査問題からゴーン事件と、日産では立て続けに不祥事が明るみに出ました。同社は新たに「ガバナンス改善特別委員会」を立ち上げましたが、これまで指名委員会や報酬委員会が設けられていませんでした。 A:日頃からコーポレートガバナンスの体制を整えておくことには、不正の防止という現実的な目的はもちろん、万一の事態が起きたときに経営の正当性を主張するという目的もあります。 日産については、もともとコーポレートガバナンスが不十分な経営体制で生じた不正がインサイダーによって明るみに出たケースのため、世間は日産の新しい経営体制に懐疑的です。「ひょっとしたら、ゴーン氏を辞めさせた当事者たちの中に、ある種の責任を問われるべき立場の人がいるかもしれない」と思うかもしれません。また、司法取引というやり方についても、自己規律が健全に発揮されたという印象は薄い。 そうしたムードの中で、インサイダーが自らの正当性を主張しても、「言い訳」と受け取られてしまい、説得力はありません。同社が信頼を取り戻すためには、前述のような統治体制の構築に真摯に取り組む必要があります。 それに対して、もともとコーポレートガバナンスをきちんとやっていた会社は、自社のコントロールが及ばない原因で不祥事が起きても、経営の責任は問われないことが多いものです。 Q:やはり、どこかできちんとやらないとダメなのですね。そうして整備した統治体制を有名無実化せず、きちんと運用するにはどうしたらいいでしょう。 A:コーポレートガバナンス・コードのフォローアップ会議におけるキャッチフレーズは、まさに「形式から実質へ」です。制度が形だけ整っていても魂が入っていないというケースは、よくあります。たとえば東芝は、委員会設置会社の形式をとって「先進的」と言われていたにもかかわらず、あんな不祥事を起こしてしまった。 しかし、だからと言って形式がどうでもよいというわけではない。本当に細かい部分まで形式を整えていくと、それなりに実質が担保される側面もあるからです。その点東芝は、コーポレートガバナンスの体制を大枠だけ整え、細かいところまで配慮していなかったと考えられます。監査委員会の委員長が内部出身の取締役で、しかももともと経理部門のトップだったということは、形式面から考えても明らかにおかしい。 形式を整えないと何も始まらないので、それは第一にやる。しかし、そこで終わらずに魂を入れた運用をしていく、という意識が必要なのです。 Q:池尾教授は、これまで多くの企業の経営に参画し、コーポレートガバナンス・コードの策定にも関わりました。それらの過程で、企業の様々な取組み事例を見て来たと思いますが、足もとで企業統治への機運は高まっていると感じますか。 A:数年前と比べて大きく変わったという印象はあります。全体の取組みを10とした場合、積極的な企業が3割、事務的にやっている企業が4割、全く取組んでいない企業が3割。マラソンに例えると、先頭がスピードアップしたため、後続との距離が広がっているという感じです』、コーポレートガバナンスへの取組みは、信用格付けで評価される可能性があるが、上場企業といっても信用格付けする取得してない企業も多いので、遅れた企業は当分、残るだろう。
・『あおぞら銀行のボードは一般的なものではなかった 私は学者ですが、コーポレートガバナンスとの関わりは実践から出発しています。これまで日本を代表する経営者と接する機会に恵まれ、その考えや行動を興味深く見聞きしてきました。 2000年、一時国営化されていた日本債券信用銀行(後のあおぞら銀行)が再民営化された際、ソフトバンクの孫正義社長、オリックスの宮内義彦社長らとともに同社の取締役に就任しました。そして、同行がスポンサーの1社だったソフトバンクの機関銀行(特定の事業会社などの資金調達目的で預金を集める銀行)とならないよう、モニタリングするために設けられた特別監査委員会の委員長を務めました。 そうした組織のトップは、大学教授など中立的な人間がいいということだったのでしょう。その後、日本郵政公社の生田正治総裁の招きで、同公社の社外理事も経験しています。 委員会等設置会社が認められたのは、2002年の改正商法からであったにもかかわらず、当初のあおぞら銀行のボード(取締役会)は、執行サイドは社長と専務の2人だけ、あとは全部社外取締役という陣容でした。 だから、当時私はそういうのが当たり前だと思っていたのです。しかし、ほとんどの日本企業はそうではなく、あおぞら銀行のボードは特別中の特別だったということを後から知り、驚きました。しかしここにきて、当時と同じ機運が経営者の中に広がってきたと感じています』、コーポレートガバナンスへの取組み機運が高まってきたというのは結構なことだ。
・『コーポレートガバナンスが「太陽政策」である理由 Q:トップを走っている企業とそれ以下の企業とでは、何がどう違いますか。 A:やはり経営者の自覚です。コーポレートガバナンスの目的は、経営者を縛ったり見張ったりするのではなく、経営者が投資家に対して憂いなく説明責任を果たせるよう、健全な経営の仕組みをつくること。言うなれば、経営者にとって「北風政策」ではなく「太陽政策」なのです。 そうした本質に気づいている経営者は取組みに前向きですが、自分を縛るものと考えている経営者は取組みが中途半端になりがちです。 Q:日本企業のガバナンスに対する考え方は、グローバルな感覚に近づいてきていると思いますか。 A:欧米企業では、悪い経営者はとことん悪いことをする。だから、制約の強さはむしろ海外のコーポレートガバナンスのほうが強いかもしれません。その点、日本のコーポレートガバナンス・コードは、日本企業にマッチするように策定されています。そもそもルール(規則)ではなくプリンシプル(原則)という位置づけになっているし、株主をはじめ色々なステークホルダーとの協働によって、短期ではなく中長期での成長を目指すことが強調されています。 もっとも、狭い意味での株主主権を振りかざすことがグローバルスタンダートではないはずなので、こうした考え方は「日本的」というより「普遍的」なものであると理解すべきかもしれません』、日本のコーポレートガバナンス・コードが「ルール(規則)ではなくプリンシプル(原則)という位置づけになっている」というのは、プリンシプルが好きだった全金融庁長官の影響もあるとはいえ、望ましい方向だろう。
次に、在米作家の冷泉彰彦氏が1月19日付けメールマガジンJMMに寄稿した「「カルロス・ゴーン氏逮捕事件、心配な今後の展開」 from911/USAレポート」を紹介しよう。
・『日産、ルノー、三菱という自動車メーカー三社連合を率いていたカルロス・ゴーン氏は、昨年11月19日に逮捕されて以来、拘留が50日を越えています。この問題は、著名な経営者が果たして犯罪を犯していたのかという点、そして世界最大の自動車製造グループの一角が今後どうなるのかという点など、グローバルな話題性のあるニュースであると思います。 ですが、アメリカでは大きなニュースになっていません。逮捕のニュースは伝えられましたが、その後の報道は散発的です。理由の一つは、余りに国内ニュースが「騒がしい」ので、ビジネス関連の国際ニュースにまで関心が回らないということがあります。 具体的には、国境の「壁」建設費を要求している大統領と、これを拒否する議会(民主党+共和党の一部)の対立から、予算が成立せず「政府閉鎖」が28日目に入っており、このニュースと大統領に関する「ロシア疑惑」の特別検察官報告が近いというニュースなどがあります。 特に「政府閉鎖」については、大統領と議会はどちらも一歩も引けない状況に立たされています。そんな中で、民主党は大統領に対して「こんな状況では年頭一般教書演説は延期せよ」と迫ると、大統領が「民主党議員団のアフガン視察」に「軍用機使用を禁止して旅程を断念させる」という「逆襲」に出ています。また、その大統領自身は「米国としてダボス会議への公式参加は全部キャンセル」とするなど、大きな影響が出ています。 政府職員については何しろ給与が出ないのですから、生活費のキャッシュ・フローのためには、「公職の方は病気欠勤」にして、日銭の稼げるアルバイトに出る人が増えています。その影響で、複数の空港では保安検査場が一部閉鎖になっています。食品安全検査員、沿岸警備隊、航空管制官の間では顕著な欠勤はないようですが、生活が成り立たないという動揺が始まっていると報じられています』、ゴーン氏逮捕事件が、トランプを巡る大騒動にかき消されて、「アメリカでは大きなニュースになっていません」というのは一安心だ。
・『一方で、英国では報道されているように、15日(火)にはメイ政権が提出した「離脱案」が下院で否決されてしまいました。ですが、同じ下院は16日にはメイ首相の不信任案を否決しており、今後は「代替案」の審議、その「代替案」が否決されると「合意なき離脱の回避」のためには「国民投票のやり直し」という流れになるかもしれません。 では、どうして米国も英国もこうした「内部の激しい対立劇」を演じていられるのかというと、現時点では「景気がいい」からです。確かに「米中通商戦争」がトリガーになって、世界が同時不況に陥る危険性はゼロではありません。ですが、少なくとも現時点では、即座に株が暴落したり、金融危機が発生したりする可能性は低いわけです。 こうした事情がある中で、特にアメリカの場合は国内の対立劇に関心が集約されており、ゴーン氏の事件などは忘れられた格好とも言えます。また、株価は不安定ながら、景気が好調だという中で、巨大な北米自動車市場の状態も悪くないわけで、日産のドル箱市場である北米が堅調だということは、一種のお家騒動というべきこの事件を「やっている余裕」を与えているとも言えます』、米英でいまのところ「景気がいい」ので、「「内部の激しい対立劇」を演じていられる」とはその通りなのだろう。
・『もう一つ、ゴーン氏の事件が「そんなに大騒ぎにならない」理由があります。昨年、2018年の年明けは、「EV(電気自動車)化」と「AV(自動運転車)化」という、自動車業界の近未来に起きるであろう大きな変化が、大変な話題になっていました。 例えば、2018年1月にラスベガスで行われたCES(コンシューマー・エレクトロニクス・ショー)ではトヨタの豊田章男社長が登場して、業界の大変革へ向けた危機感を表明したり、中国の百度(バイドゥ)とBMWが共同で行ったAVデモ走行なども含めて、AV+EVが大変に注目されていました。 年初からそんな雰囲気でしたから、その勢いで行けば2018年は「AV元年」とでもいうことになって、自動運転車のデモ走行が世界中で行われたり、企業間の提携や買収が派手に発生したりしていたはずでした。ところが、3月にアリゾナ州のテンペで「自動運転試験中」の車が、自転車を押して渡っていた女性を認識できずに死亡事故を起こしてしまうという事件が起きました。 この事件の前は、例えばグーグル系の「ウェイモ」社などは、「自動運転車の死亡事故率が、人間の運転する車の事故率を下回るのであれば、どんどん普及する」などと豪語していたのですが、事件後は「1件の死亡事故」を契機として自動運転車への社会の目は「厳しくなる」ことが証明された格好です。 事故に関与したウーバー社は、AVソフトウェアの開発ではトップランナーの一つでしたが、その後はIPOを優先していることもあり、AVの試験走行に関しては派手なデモンストレーションは自粛しているようです。同じように、EV+AVのコンセプトで話題を集めていた「テスラ」社も、派手な話題を呼ぶことはなくなりました。 今年、2019年も同じラスベガスでCESが行われましたが、今年はAVについては大きな話題にはなっていません。そんなわけで、2018年の後半から現在にかけては、自動車業界の特にAV化の部分については、一息ついた格好になっています。 全体の株価が堅調で各国、特に米国が国内政治の話題ばかりに関心が行っている、しかも業界の変革がスローダウンしている、つまりは、こうした環境があるから「ゴーン氏の事件」は余り関心を呼んでいないし、また同時に「ゆっくり係争を続ける」ことも許されるというわけです。 仮に景気や市場が悪ければ、日産やルノーの株は国際市場で叩き売られていますし、仮に大幅な株安となれば、業界再編を狙うライバルや、資金力にモノを言わすシリコンバレーなどが、企業の買収に食指を伸ばしてくるわけで、「そうならない」環境があるがゆえの事件ということも言えると思います』、確かに日産は「ツイ」ているといえるのかも知れない。
・『以上は、長めの前置きでですが、日産=ルノー=三菱連合を取り巻く環境は、そんなわけで「緩い」わけですが、それでも事件の今後の展開については、多くの心配があります。 この事件ですが、私は「全体像をつかんだ何者かのシナリオによる陰謀」という考え方は難しいと思うようになってきました。事件の当初は、一部に「ゴーン氏は日産とルノーの経営統合を模索しており、このままでは日産がフランスの会社になってしまうという危機感からクーデターが発生した」という見方がありました。 ですが、時価総額で言えば、日産がルノーの約2倍ある中では、経営統合によるルノーの日産への支配強化ということは筋が通らない話です。そこで、私は「AV+EVの熾烈な開発競争の中で、経営効率を更に高めようというゴーン体制と、フランス側、日本側の対立があった、つまりフランスでの雇用創出を求める声や、日産はあくまで日本の会社という観点をベースにした、日仏の政府が意向を重ね合わせてのクーデター」という仮説を持っていました。 ですが、その後の日仏のギクシャクした関係を見ていますと、背後で日仏が連携しての逮捕劇というのは「ハズレ」という感じもしています。そうなると、例えばですが、ゴーン氏の派手な経費の付け替えなどに怖くなった日産の内部通報者が、弁護士に相談したら「関与したあなたも危ない」と言われて、司法取引欲しさに検察に駆け込んだとか、「小さなキッカケ」が契機となって、関与している全てのプレーヤーの「引っ込みがつかなくなった」という「筋書きのないドラマ」に突入しているという見方の方がリアリティがあるようにも思われます』、「日仏の政府が意向を重ね合わせてのクーデター」というのは理解に苦しむ。日産と日本政府によるクーデター説が日本ではいまだ強いが、冷泉氏の見方も1つの見解として参考になる。
・『問題は、検察がいつまでも拘留を続ける中で、ゴーン氏本人の保釈を認めていない点です。これも憶測になりますが、不自然なまでに拘留が長期化している背景には、検察はゴーン氏が保釈された場合に、すぐに記者会見を行って理路整然と自分に非のないことを国際世論に向かって訴える、そのことを恐れているのではないか、そんな印象を与えるわけです。仮にそうだとしたら、これは大変な問題です。 何が大変なのかというと、仮にそのような180度の対立があるのであれば、日本の司法制度においては、裁判の長期化の可能性があるからです。裁判が長期化すれば、その間に国際経済が深刻な不況になり、株価の水準が大きく下がる時期も来るでしょう。その一方で、やがて資金力を得たウーバー=トヨタ連合や、グーグル、アップルなどのAV積極派が世界における自動運転の社会的認知に成功するかもしれません。 更に、EVの世界では中国勢やインドのタタなどが部品のモジュール化を進めながら、「自家用車」を「保有することに意味のある付加価値」から解放して、コモデティ化してしまうかもしれません。 そんな中で、いつまでもルノー、日産がこの事件の裁判を続けていたら、買収のターゲットになってしまいます。これが最悪のシナリオです。そうなっては、日産、そして三菱自動車という企業もブランドも消滅してしまうかもしれません』、確かに、「最悪のシナリオ」も大いにありそうだ。
・『そのために、この問題の解決にあたっては以下の3点を考慮することが必要と思われます。 1点目は、とにかく迅速な解決を行うということです。検察は決定的な証拠を手にしており、既に起訴した容疑で公判維持ができるのであれば、勾留を解き、何を言われても主張を貫き、法廷の決定に従うべきです。また、どう考えても公判が維持できなくなったら、メンツにこだわらずに撤退することも必要でしょう。 この事件は、形式としては刑事事件ですが、本質は民事です。ですから民事的な和解なり、現状復帰などが可能であれば、そちらを優先して、刑事責任を延々と追及して裁判が長期化するのは避けるべきと思います』、「この事件は、形式としては刑事事件ですが、本質は民事です」というのは初耳だが、言われてみればその通りだ。ただ、検察が「メンツにこだわらずに撤退する」可能性が残念ながら低そうだ。
・『2点目は、「制度の使い勝手」を考えて行くということです。例えばですが、噂されているように、今回の事件において日本人の経営陣が司法取引を使っているのであれば、これは新しく導入されたこの制度を本格的に適用する貴重なケースであるわけです。それこそ、司法取引で減刑ないし免じられた刑事責任については、社会的な批判や非難からも逃れられるのかなど、しっかり議論をして制度を固めてゆかねばなりません。 大きな問題としては、有報への虚偽記載、承認なき報酬という容疑です。どちらも日本の企業ガバナンス制度が機能しているかを問う裁判になります。企業内法務部門や、企業内監査部門、外部監査人や社外取締役など、現在の日本の上場企業には二重三重のチェック体制が制度として取られています。 ですが、今回の容疑は「カリスマ的な経営者」が強い権力を持った場合には、こうしたチェック体制が発動しないという認識を前提に、その「カリスマ的経営者」自身
を最初から刑事責任を問う形で告発しているわけです。 そうなると、内部統制などということを、検察は信じていないということになるわけです。これはある意味では形式主義を排し、本質に迫る告発として正しいのかもしれませんが、同時に、膨大な労力を投じて運営されている日本企業の内部統制というのが、要は形式主義であり、トップの意向で何とでもなるというレベルだと断定しているようなものでもあります。 仮にそうであれば、本当に機能する内部統制の方法を考えなくてはなりません。その意味で、例えばですが、西川社長以下の経営陣が「違法と認識しつつトップの暴走を止められなかった」場合に、行為そのものの刑事責任については、司法取引でチャラにできるのかもしれませんが、善管注意義務など株主に対する民事責任はどうなるのかも大変に気になります』、確かに事実関係が明確になったら、株主代表訴訟が提起される可能性があろう。
・『いずれにしても、今回の事件は制度の使い勝手を問う性格のものであり、特に内部統制については、コンプライアンスがどうとか散々手間暇をかけてやってきたことが、要は形式だったことを暴露してしまった、その点はどう改善していくのかが問われるのだと思います。 制度の使い勝手ということでは、企業の提携関係について、今回の事件は非常に歪んだ実態を明らかにしています。日産は、北米日産というドル箱を抱えているために、ルノーの約2倍の時価総額を有しています。にも関わらず、株式の持ち合いにおいては、ルノーの方が比率が高いばかりか、日産の持つルノー株にはフランス法の規制により議決権が付帯されていません。 仮に、ルノーによる日産支配の比率が高いのであれば、投資家はルノーを通じて日産の保有・支配を目指すはずですが、そのルノーには政府保有株の存在など公社的性格が残っているために、面倒があるわけです。そこで日産に直接投資した方がシンプルということと、業績としても日産が優良であるために、日産株が価値を持って上場されているわけです。 非常に複雑でスッキリしない話です。更に問題を複雑にしているのが、日産=ルノー=三菱のアライアンスを管理する統合会社が存在することです。この統合会社は、しかしながら持ち株会社ではありません。3社がそれぞれ出資してできており、いわば共同で保有している子会社のようなものです。 しかも、悪いことに、このアライアンス管理会社が、闇報酬の支払い元になっているという疑惑が出ているのです。こうなると、内部統制とか、ガバナンスとかいうレベルではありません。まるで非上場の同族会社が、好き勝手やっているレベルに近いわけです。 とにかく、親子上場をやめさせて、企業の、特に同一産業におけるアライアンスの場合は、キチンと経営統合をして、保有の頂点にある親会社が持ち株会社の要件を満たし、その会社だけが公開企業として、株式市場からの資金調達を行うとともに、経営責任と情報公開義務を持つ、そのようなピラミッド型のシンプルな形式にしなくてはダメです』、正論ではあるが、ルノー大株主としてのフランス政府の存在を考えると、そう簡単な話ではなさそうだ。
・『3点目は「経営の落とし所」です。仮に、西川社長がゴーン氏追放を真剣に考えているのであれば、「ポスト・ゴーン体制」とは何か、ということへの明確なビジョンが必要だということです。 前述したように、現在は短い「モラトリアム時期」かもしれませんが、やがて自動車産業には2つの厳しい冬がやってくると思います。1つは、景気循環の結果としての需要の落ち込みであり、もう1つはAV+EVの本格化による業界秩序の再編です。 その場合は、既存の自動車産業内での集合離散だけではなく、シリコンバレーの巨人たちも参戦しての壮絶な合従連衡の戦いが繰り広げられることでしょう。 その場合に「ポスト・ゴーン」の日産をどうしたらいいのでしょうか? 車台の共通化や、EV+AVに関する研究開発を通じて、アライアンスの中で一体化で走ってきた部分は大きくなっています。そこを重視するのであれば、第一ステップとして「日産はルノーの買収」ないしは「持ち株比率の逆転」を要求し、歯を食いしばって資金調達をして、そのように「関係のねじれ」を解消すべきです。 そうでなければアライアンスとしての企業価値を十分に発揮できずに、合従連衡の戦いに参加できないからです。その場合、恐らくルノーはその要求を蹴るでしょう。 丁重に話を持って行って、それでも蹴られたら、その場合は日産あるいは日産+三菱がルノー資本から自由になって、日本の民族資本となるので「万々歳」かというと、それは違います。 いくら北米日産というドル箱を抱えているからと言って、それだけでは激しい集合離散の戦いを勝ち抜くことはできません。ウカウカしていて、株安なり円安なりに付け込まれると、デトロイト、ドイツ勢、シリコンバレー、あるいは中国やインドなどの新興勢力に敵対買収されてしまうこともあり得ます。 そうではなくて、仮にルノーとの別離を経験したら、日産は国際的なM&Aの台風の目として「撃って出る」べきです。デトロイトのどこか、ドイツのどれか、トヨタ以外の日本メーカー、中国、インド、シリコンバレーなど、様々な提携関係が模索される中で、日産として買われて行くのではなく、買って行く、そして現在の「3社連合」を上回るアライアンスを作って、本格的なAV+EV時代を戦い続けるべきと思います。 カルロス・ゴーンという稀代の天才を過去の存在にしようというのであれば、誰かがその代わりに日産のリーダーシップを取って行くべきです。そして本格的なAV+EV時代の到来や、次の景気後退期をどう戦って行くのか、そのビジョンを見せて行くべきです。そのリーダーシップが見えない、これがこの事件の最大の問題であると思います。やがて、アメリカの経済界がこの問題に関心を持つ時期がくると思います。 そうなれば、白馬の騎士を装ったハイエナが押し寄せてくるのは目に見えています。 その前に、とにかく事件の決着と新体制への移行が何としても必要と思うのです』、「仮にルノーとの別離を経験したら、日産は国際的なM&Aの台風の目として「撃って出る」べきです」というのは、冷泉氏はなかなかの戦略家だ。しかし、そんなビジョンやリーダーシップを持った人物なぞ、残念ながら見当たらないのが実情なのではなかろうか。
第三に、ジャーナリストの伊藤 博敏氏が1月24日付け現代ビジネスに寄稿した「「カルロス・ゴーンという黒船」がこじ開けた、裁判所の閉鎖性 事件を機に、自立の時期を迎えた…?」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/59532
・『裁判所が「自立の時期」を迎えた…? カルロス・ゴーン被告は、やはりタダ者ではない。日本の常識を覆し、知力の限りを尽くして検察に戦いを挑み、裁判所に意義を突きつける。その結果、山は動いた――。 現在、小菅の東京拘置所に、ゴーン被告を除いて、特捜部が手掛けた「特捜案件」の被告はいない。リニア談合の被告も、文部科学省事件の被告も、昨年末から今年にかけて、否認のまま保釈した。 それは、12月20日、検察が求めたゴーン被告の勾留延長を却下する際、「海外要人だから特別扱いした」という批判を受けないようにするための“布石”ではあった。ただ、裁判所が「自立の時期」を迎えていたのも確かである。 まだ、途中経過に過ぎないが、ゴーン事件の衝撃を検証したい』、興味深そうだ。
・『敗戦直後、地検特捜部は、陸海軍の物資を巡る事件を手掛ける「隠退蔵物資事件捜査部」としてスタートした。以降、70年、特捜部が国家秩序を意識し、国策として取り組む特捜案件の場合、裁判所は検察のいうままに勾留を認め、有罪判決を下してきた。 なかでも否認を続ける被告は「国家への反逆」とみなし、拘置所に留め置いた。悪名高い「人質司法」である。それだけに、ゴーン被告の勾留延長却下は、前代未聞であり、検察にとって衝撃だった。 東京地裁は、11月19日のゴーン被告の最初の逮捕が、5年分の有価証券報告書への報酬の不記載で、12月10日の再逮捕が、以降3年分の不記載で、それだけに「事業年度の連続する一連の事案と判断した」と、却下理由を説明した。 12月20日までに勾留期間が30日を経過、不記載という形式犯で、そんなに長く勾留する必要はないという意思表示だった。裁判所が判断理由を説明するのは前代未聞。検察から距離を置いて見せた。 この決定を受けた記者会見で久木元伸・東京地検次席検事は、過去に例があるかないかを問われ、「調べてみないとわからないが、調べようもない…」と、うろたえた。 特捜部が「政官財の監視役」となり、裁判所がそれを支えるという予定調和の世界が崩れた』、確かに「ゴーン被告の勾留延長却下は、前代未聞であり、検察にとって衝撃だった」のだろう。
・『「保身」と「外圧」 ゴーン被告は黒船となった。 その処遇は、逮捕直後から海外メディアの注目の的だった。 仏メディアは、「弁護士が事情聴取に立ち会えず、家族との面会もままならない」という日本の刑事手続きを、驚きをもって報じた。仏では、弁護士同席が認められ、捜査妨害と判断されなければ家族との面会も可能。なにより勾留は最長でも96時間である。 それは日仏の刑事手続きの違いであって善し悪しではないが、国際的にも著名な経営者の逮捕は、仏だけでなく欧米メディアの重大関心事となり、11月22日、逮捕後の最初の地検会見には欧米の記者が殺到、久木元次席に質問を浴びせかけた。 そのほとんどに、「(捜査に支障を来たすので)答えを差し控える」と、回答していたが、2週に1度の会見を、外国メディアの要請を受けて、当面は毎週開くことにした。 海外メディアは、処遇に批判的だった。米通信社は、ゴーン被告が仕切りのないトイレと小さな机だけの3畳の単独部屋で、シャワーを毎日は浴びられず、パソコンもない環境だとして、「劣悪」と報じた。 ただ、そうした環境より海外メディアが批判したのは、逮捕を繰り返して自白を迫り、否認を続ければ、起訴後も勾留を続け、それが1年、2年と続くこともある「人質司法」についてである。この問題については、ブラジル、レバノン、仏に国籍を持ち、大使の接見は認められているだけに、「大使館の声」として早期保釈の要望が伝えられた。 刑事訴訟法第89条で、保釈の請求があれば、罪証の隠滅、逃亡の恐れがない場合、原則として保釈を認めなければならないのに、勾留を続ける事に違和感を持つ裁判官は少なくないという。 しかし、仮に保釈して証拠を隠滅、あるいは逃亡して事件が潰れた場合、裁判官の判断ミスとなる。そうしたくないという保身が、「公判のメドが立つまで拘置所に入れておけばいい」という結論につながる。検察との仲も良好を保てる。 しかし、外圧が保身を除去した』、「人質司法」は確かに日本の司法制度の恥部だ。それに脚光が当てられた意味は大きい。
・『「何者にも左右されない気概」 リニア建設談合で、9ヵ月の勾留を続けていた大成建設の大川孝被告、鹿島の大沢一郎被告に対し、東京地裁が保釈の決定をしたのは12月17日である。 ゼネコン4社のうち、談合を認めた大林組、清水建設については逮捕者すら出さなかったことを考えれば、イジメのような勾留だったが、19年2月14日の初公判まで勾留を続けるという選択肢もあった。 文部科学省の贈収賄事件では、東京医科大に便宜を図る見返りに、自分の息子を合格させた収賄罪の佐野太元科学技術・学術振興局長を、12月21日に保釈した。 また、佐野被告ら文部科学官僚に対する贈賄と受託収賄幇助に問われた「霞が関ブローカー」の谷口浩司被告は、否認を続けているうえ、共犯の古藤信一郎容疑者が海外逃亡を続けており、当面、保釈はないと見られていた。 しかし地裁は、1月11日、弁護人の保釈請求に対し、いったんは請求を却下したものの、弁護人の準抗告を受けて、17日、保釈を認めた。 ゴーン保釈の下準備であると同時に、変化の胎動でもある。ただ、「ゴーンの外圧」を気にしつつも、屈しているわけではない。 ゴーン被告のパフォーマンスはさすがである。 保釈取消を狙った特捜部は、12月21日、個人的な損失を日産に付け替え、それを個人に戻す際に保証した知人に利益供与したという特別背任容疑で再々逮捕した。 そのおかげで保釈は叶わず、クリスマスも正月も拘置所で過ごしたものの、1月8日、満を持したように地裁に登場。公判に有利に働くわけではなく、誰も使わない「勾留理由開示」を、自分の弁論の場として使い、注目の法廷で「無罪」を主張し、弁護団もゴーン被告の検察との「劇場型対決」に相乗り、海外メディアを中心に情報発信を行い、8日、大鶴基成弁護士は外国特派員協会で記者会見するともに、保釈を請求した。 これを棄却されると、ゴーン被告は米国の家族側報道担当を通じて、「日本の賃貸住宅に滞在してパスポートは預け、毎日、検察に連絡し、GPSを使った追跡装置を身につける」と、保釈のための条件を出した。だが、地裁は、22日、2度目の保釈請求も「証拠隠滅の懸念がある」として却下した。 裁判所が示したのは、「何者にも左右されない」という気概である。裁判所の判断が、これほど注目を集めることはないが、一方で、検察との関係においては、まだまだ“揺らぎ”がうかがえて興味深い。 変化をもたらした「ゴーン砲」は、その犯した罪とは別に、評価されるものだろう』、ゴーン被告側が「保釈のための条件を出した」が、裁判所が「2度目の保釈請求も「証拠隠滅の懸念がある」として却下」したのは、残念だった。「裁判所が示したのは、「何者にも左右されない」という気概である」と筆者は評価しているが、裁判所を買いかぶり過ぎているようにしか思えない。個人的には、不届きとのそしりを受けるかも知れないが、「劇場型対決」はなかなか見がいがあり、飽きない。
タグ:問題の解決にあたっては以下の3点を考慮することが必要と 裁判が長期化すれば、その間に国際経済が深刻な不況になり、株価の水準が大きく下がる時期も来るでしょう。その一方で、やがて資金力を得たウーバー=トヨタ連合や、グーグル、アップルなどのAV積極派が世界における自動運転の社会的認知に成功するかもしれません。 更に、EVの世界では中国勢やインドのタタなどが部品のモジュール化を進めながら、「自家用車」を「保有することに意味のある付加価値」から解放して、コモデティ化してしまうかもしれません。 そんな中で、いつまでもルノー、日産がこの事件の裁判を続けていたら、買収のターゲ (その5)(ゴーン事件に学ぶ 経営につまずかない「企業統治」の仕組み作り、カルロス・ゴーン氏逮捕事件 心配な今後の展開、「カルロス・ゴーンという黒船」がこじ開けた 裁判所の閉鎖性 事件を機に 自立の時期を迎えた…?) 日産ゴーン不正問題 ダイヤモンド・オンライン 「ゴーン事件に学ぶ、経営につまずかない「企業統治」の仕組み作り 池尾和人・立正大学経済学部教授に聞く」 「企業統治」の意味を正しく理解しているか コーポレートガバナンス・コードの策定を主導した池尾和人 パフォーマンスがよければ市場は注文をつけないという現実 ガバナンスの一手段として「司法取引」は適切か ガバナンス徹底には第三者委員会と内部監査チームの連携が不可欠 インサイダーが正当性を主張しても説得力がない コーポレートガバナンスが「太陽政策」である理由 冷泉彰彦 JMM 「「カルロス・ゴーン氏逮捕事件、心配な今後の展開」 from911/USAレポート」 アメリカでは大きなニュースになっていません 余りに国内ニュースが「騒がしい」ので、ビジネス関連の国際ニュースにまで関心が回らない どうして米国も英国もこうした「内部の激しい対立劇」を演じていられるのかというと、現時点では「景気がいい」からです アメリカの場合は国内の対立劇に関心が集約 特に米国が国内政治の話題ばかりに関心が行っている、しかも業界の変革がスローダウンしている、つまりは、こうした環境があるから「ゴーン氏の事件」は余り関心を呼んでいないし、また同時に「ゆっくり係争を続ける」ことも許される 「全体像をつかんだ何者かのシナリオによる陰謀」 という考え方は難しいと思うようになってきました 「小さなキッカケ」が契機となって、関与している全てのプレーヤーの「引っ込みがつかなくなった」という「筋書きのないドラマ」に突入しているという見方の方がリアリティがある 問題は、検察がいつまでも拘留を続ける中で、ゴーン氏本人の保釈を認めていない点です 1点目は、とにかく迅速な解決を行う 2点目は、「制度の使い勝手」を考えて行く 3点目は「経営の落とし所」 仮にルノーとの別離を経験したら、日産は国際的なM&Aの台風の目として「撃って出る」べきです 伊藤 博敏 現代ビジネス 「「カルロス・ゴーンという黒船」がこじ開けた、裁判所の閉鎖性 事件を機に、自立の時期を迎えた…?」 裁判所が「自立の時期」を迎えた…? ゴーン被告の勾留延長却下は、前代未聞であり、検察にとって衝撃だった 「保身」と「外圧」 「何者にも左右されない気概」
女性活躍(その9)(「妊娠中絶後進国」の日本女性に感じる哀れさ 「性と生殖の権利」について知っていますか?、男女とも敬遠「女性管理職」への大いなる誤解 「名ばかり管理職」は損ばかり?、ドレスを脱ぎ普段着のパンツを履いた その先に 2019年、私がみなさんにやってほしい3つのこと) [社会]
女性活躍については、昨年9月27日に取上げた。今日は、(その9)(「妊娠中絶後進国」の日本女性に感じる哀れさ 「性と生殖の権利」について知っていますか?、男女とも敬遠「女性管理職」への大いなる誤解 「名ばかり管理職」は損ばかり?、ドレスを脱ぎ普段着のパンツを履いた その先に 2019年、私がみなさんにやってほしい3つのこと)である。
先ずは、『フランス・ジャポン・エコー』編集長、仏フィガロ東京特派員のレジス・アルノー氏が昨年11月5日付け東洋経済オンラインに寄稿した「「妊娠中絶後進国」の日本女性に感じる哀れさ 「性と生殖の権利」について知っていますか?」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/246717
・『妊娠中絶は、世界で最も議論が交わされている問題の1つだ。だが、日本では明らかに事情が異なるようだ。主流メディアでこの問題が取り上げられることはめったにない。アイルランドでは、この5月に歴史的な国民投票で妊娠中絶を認めることが決定された。日本では、これは単なる海外の出来事として報じられた。 最近行われたアメリカ連邦最高裁判所判事ブレット・カバノー氏の公聴会の主な焦点は、彼が、「ロー対ウェイド事件」の妊娠中絶に関する最高裁の有名な判決を覆すかどうかだったが、この問題もまた、アメリカの問題と見なされていた。しかし、こうしたニュースは中絶や、より全般的な「reproductive rights=性と生殖に関する権利」に関する日本の状況をよく考えるのに良い機会を与えてくれるのである』、「「ロー対ウェイド事件」の妊娠中絶に関する最高裁の有名な判決」とは、1973年に妊娠中絶を認めたものだが、保守派はこれを目の敵にしているようだ。
・『避妊の歴史が物語る日本とフランスの違い 日本人はフランスの女性の美しさに驚嘆する。しかし、彼女たちの美の大部分は彼女たちの自立と関連していて、主としてその自立は彼女たちが生殖に関わる問題、ひいては自分の運命を自分で決める力を持っていることに由来するのではないか。フランスの女性と比較して、日本の女性は性と生殖に関する権利に関する限りいまだに縄文時代に暮らしていると言える。 実際、性と生殖に関する権利という表現は日本版Wikipediaのページに載ってさえいない。日本の女性はあまりに大きな暗闇の中にいるので、自分たちが暗闇にいることがわかっていないのだ。 フランスと日本の避妊の歴史を比較すれば、日本の女性読者はどれだけ自分たちが遅れているのかを自覚できるかもしれない。フランスでは経口避妊薬は1969年から利用可能になっていて、2013年からは女性の未成年者は無料かつ匿名で入手できる。1999年に、事後用経口避妊薬が医師の診察を受けずに入手できるようになり、2002年には無料化、未成年者は匿名で手に入れられるようになった(学校の保健室で手に入る場合が多い)。 フランスの女性は敏感に自分の体を意識しており、最新の健康情報に従って生活している。最新の調査によると、フランス人女性のピル使用率は33.2%、子宮内避妊器具の使用は25.6%、コンドームの使用は15.5%だった(ちなみに、出産に関わる費用は全額払い戻される。72%の女性は麻酔を利用し、無料で出産を行っている)。 中絶についても、現在フランスでは中絶に関する合意が大きく広まっているため、2017年のフランス大統領選挙の11人の候補者のうち、選挙公約で中絶の禁止を訴えた者は1人もいなかった。ある候補者は妊娠中絶の権利を憲法で保障すべきだという提案まで行った。 フランスでは中絶は1975年から認可され、1982年以来社会保障制度給付金によって費用の大半が払い戻されるようになり、2013年以降は全額払い戻しが受けられるようになっている。中絶は外科手術によって行われるほか、より安全で安価な経口妊娠中絶薬と呼ばれる1988年にフランスの厚生大臣によって認可された経口薬によって行われることが多くなってきている。 当時、ある製薬会社は強い主張を展開する中絶反対団体への配慮から、当初は経口妊娠中絶薬の販売を拒んでいた。しかし、フランス厚生相は次のように述べて販売を命令した。「その薬に対する政府の認可が承諾された瞬間から、RU486(経口妊娠中絶薬)は製薬会社の資産であるだけでなく、女性の道徳的な資産にもなったのである」』、「フランスの女性と比較して、日本の女性は性と生殖に関する権利に関する限りいまだに縄文時代に暮らしていると言える・・・日本の女性はあまりに大きな暗闇の中にいるので、自分たちが暗闇にいることがわかっていないのだ」、手厳しい批判だ。経口妊娠中絶薬の販売を拒んでいた製薬会社に、政府が売るよう命令まで出すとは大したものだ。
・『ピル使用率は東南アジアよりも低い 日本では経口避妊薬は1999年までは違法だった。それ以前は、ピルは医師から入手できたが、不規則な月経周期の管理や、その他の医療目的のためであって、避妊のためではなかった。よく言われていることだが、日本で経口避妊薬が認可されたのは、この薬が入手可能になってから34年後で、国連加盟国で最も遅かったが、その一方で男性対象の勃起薬バイアグラが認可されるのにたった6カ月しかかからなかった』、経口避妊薬とバイアグラの認可までの期間の大きな格差は、たしかに日本の経口避妊薬への取り組みの後れを如実に表している。
・『日本の女性は、現代的な避妊薬の使用に関して多くの先進国に後れを取っている。複数の調査によると、女性にとって最も危険の高い方法であるにもかかわらず、コンドームと膣外射精が、今日の日本で最もよく行われている避妊法だ。日本の女性はアジアの発展途上国と比べても後れを取っている。2015年の国連の調査によると、タイの女性のピルの使用率は33.7%で日本の女性の1.1%を大きく上回る。 このような哀れむべき状況の1つの原因は、現代の避妊薬に対する政府支援の欠如である。現在日本では避妊薬を買うのに月額約5000円かかり、利用者にとっては金銭的な痛手となっている。事後経口避妊薬に至っては、フランスで処方箋なしで手に入るようになってから20年経った今でも、日本では医師の承認が必要である。 このような不必要な障壁により、女性は短期間で緊急にこの薬を見つけなければならないうえ(特に、望まない妊娠が起こりやすい週末は薬を見つけるのが難しい)、多額の金を払わねばならない状況に追い込まれている。 この薬を日本で探さなければならなかったフランス人女性は、自分の経験をこう振り返る。「フランスではドラッグストアに行って、事後経口避妊薬を10ユーロ(約1300円)未満で購入できる。でも、東京ではまずその薬を処方してもよいという医者を探さなければならなかった。男性医師は無礼で無神経で、彼は私にその薬を服用しないよう説得しようとした。それからドラッグストアに行ったが、5000円ほどの出費になってしまった」。 出産に関しても、日本の女性はいまだに金を払い、しかも身体的に苦しまなくてはならない。大半の女性は、子どもをより愛するには苦しむべきだいう奇妙で酷い作り話に影響されて生きている。日本で麻酔を受けて出産する女性はたった5%である。フランスでは無料かつ無痛で手に入るものが、日本では広尾のような上流層が住む地域のクリニックに通う裕福で学歴の高い女性にしか手に入れられないのだ』、事後経口避妊薬といい、無痛分娩といい、日本の後れは深刻だが、女性側からそうした主張が余り出てこないのも不思議だ。
・『日本での中絶はギャンブルと同じ また、日本では中絶はギャンブルと同じ偽善を抱えている。つまり、両者とも違法なのだが、あまりにも例外が広まっているため、実質上認められているのだ。妊娠中絶は、1880年の刑法での法制化以来ずっと犯罪なのである。中絶処置を受けた女性は最大1年の懲役、行った医師には最大2年の懲役が科せられる。 しかし同時に、中絶は1949年に法制化されている。恐ろしいことにその理由の1つは、遺伝的に劣っていると考えられる胎児の出産を抑制するためであり、また1つには国が戦争の痛みで揺らいでいる時期に、過剰な出生を抑えるためであった。 それ以来妊娠中絶は一部のケースで認められてきたが、最も重要なのは経済的な理由が認められていることだ。母体保護法に書かれた「経済的な理由」の一節があれば、妊娠中絶を望むほとんどすべての女性は実質上中絶を認められる。 皮肉なことに、1950年代のフランスの女性たちが中絶手術を受けるために日本にやって来たのは、母国では不可能だったからだ。今日、日本におけるほぼすべての妊娠中絶(NGOのSOSHIRENによると98%)が経済的な理由で行われている。 2015年には出産100万5677件に対し、中絶は17万6388件だった。だがそれは、妊娠件数の17%が中絶に終わっているということを意味する。だが、中絶はいまだに時代遅れの外科手術の方法でしか行われていない。外科手術を必要としない、より苦痛の少ない中絶を可能にする経口妊娠中絶薬薬は、まだ日本の厚生労働省に認可されていないのだ。経口妊娠中絶薬はすべての先進国、それに発展途上国の多くでも認可されている。 中国では1988年に、チュニジアは2001年に、アルメニアは2007年に認可された。ウズベキスタンの女性は経口妊娠中絶薬を入手できるのに、日本の女性は手に入れられない。中絶自体おぞましい経験なのに、日本の保健当局はその苦しみを取り除こうとはしていない』、経口妊娠中絶薬についての後れが、放置されているのも、不思議だ。保守派、産婦人科医への遠慮なのだろうか。
・『厚労省は誤った情報を発している それどころか、厚生労働省は、経口妊娠中絶薬について誤った情報を発している。厚生労働省はアメリカの食品医薬品局(FDA)もサイト上で注意喚起しているとして、FDAのページへリンクするとともに、重要部分を翻訳して危険性を強調している。だが実際は、FDAは2016年に経口妊娠中絶薬に関する政策を変更しており、厚労省の情報は古いままとなっている(ちなみにリンクをクリックすると、リンク切れになっている)。 多くの若くて貧しい10代の女性は、性教育不足のために不必要な中絶を行っている。世界保健機関(WHO)は2010年の報告書で、子どもには4歳以前から自分の体を意識させるよう勧めている。フランスは6歳からそれを行っており、ドイツでは9歳からである。 だが、日本にはこの件に関する何の政策もない。基本概念をきちんと教えることができなければ、10代の若者たちが愛や性に関心を持ち始めたとき、彼らを危険にさらすことになる。性教育に対する猛烈な反対者である自由民主党の山谷えり子議員に筆者は取材を求め、質問項目のリストを送った。だが、彼女は取材を拒否し、「予定が立て込んでいるとして取材を拒否し、「女手1つの子育てを体験してきた」などと大まかで空虚な回答を返してきた。 日本における中絶の「犯罪」としての位置づけは、日本人女性を貶め、不安定な立場に置いている。もし明日中絶が非合法化されたら?「現代の10代の若者たちは、ピルと事後経口避妊薬の違いを知らない。彼らはもし中絶が本当に違法なものになったら日本がどう変わるか理解していない」と、作家であり、妊娠中絶賛成派のNGOである「SOSHIREN・女(わたしの)からだから」のメンバーである大橋由香子氏は話す。 SOSHIRENは女性の性と生殖に関する権利を求めて戦ってきた長い歴史を持つ。中絶を受けることができる権利は、1972年と1982年に「生長の家」のような妊娠中絶反対のグループによって攻撃を受けた。自由民主党の政治家の助けを借りて、生長の家をはじめとするグループは、妊娠中絶を許している「経済的な理由」の一節を取り消そうとした。 これに対して、SOSHIRENのメンバーたちは経済的理由の一節を取り除くことに反対し、ハンガーストライキを行った。彼らはカナダ人監督ゲイル・シンガー氏の中絶に関する映画の日本版「中絶」を製作した。水子供養が1970年代に登場し、女性たちに罪の意識を持たせ、寺社に新たな収入源を与えた。 大橋氏は今、自民党内に保守的な宗教関係の陳情団体が復活していることを懸念している。彼らは経済関連の陳情団体より大きな勢力と影響力を持っているとされる。「中絶は依然として刑法により違法とされており、とても性と生殖に関する権利が保障されているとは言えない(日本には)性と生殖に関する権利を支持する新しい法律が必要だ」と大橋氏は言う。少なくとも、妊娠中絶が犯罪であるという位置づけは変えなくてはならない』、SOSHIRENとは初耳だが、こうした活動がもっと広がることを期待したい。この問題は日本のマスコミももっと積極的に取り上げるべきだろう。
次に、元総理府局長で昭和女子大学理事長の坂東 眞理子氏が1月7日付け東洋経済オンラインに寄稿した「男女とも敬遠「女性管理職」への大いなる誤解 「名ばかり管理職」は損ばかり?」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/256825
・『ベストセラー『女性の品格』から12年。坂東眞理子・昭和女子大学理事長がいま考える、人生100年時代を納得して生きるために必要な「女性の美学」とは?大人の女性の3大場面、「職場」「家庭」「社会」それぞれの場で女性の直面する問題にどう対応するか、この連載ではつづっていただきます。 新しい年が明けました。5月からは新しい年号になりますが、女性の活躍の舞台はさらに広がっていくでしょう。政府は女性活躍法を強化し、女性の採用数の公表拡大や行動計画の策定拡大を求め、女性管理職を増やそう、女性役員を増やそうと呼びかけています。 企業も女性の管理職を増やさなければならないとは思っています。もちろん本気で取り組んでいる企業もあれば、ご時世だから仕方ないと付き合っている企業もあり、温度差はありますが、それでも女性にとっては追い風が吹いているのは間違いありません。 しかし、いまだに企業幹部の中には「女性管理職を増やしたいのだが、わが社にはそれだけの能力、経験を持った女性がいない」「女性を管理職にしようと声をかけてもしり込みする女性が多くて困る」と言う人がたくさんいます。 本当でしょうか。正確な統計はありませんが、女性たちは“前ほどは”管理職を恐れなくなり始めています。5年前、いや10年前に一度声をかけて断られた経験をもとに、「女性は管理職にはなりたがらない」と思い込んでいるとしたら大間違いです』、こうした思い込みをしている企業幹部は、確かに多いのだろう。
・『「名ばかり管理職」に魅力を感じない女性も 管理職へのオファーといっても本音のところではさほど期待していない、熱意のない声がけがまだまだ多いと、女性たちは感じています。「キミには無理かもしれないけれど、わが社にも女性管理職が必要だからやってみないか」という本心が見え見えの声かけだと、「私で務まるでしょうか、自信がありません」といなすのが普通です。本気で「君ならできる、やってみないか、問題があっても応援する」と言ってもらえるならば「及ばずながら、頑張ってみます」という女性は少なくないはずです。 残業代が減って管理職手当は大したことがないことも多いなか、責任は重くなるけれど裁量権は大きくない「名ばかり管理職」に魅力を感じる女性は、あまりいません。 男性は「同期に負けるものか」とか「将来のためのステップだから」と実質が伴わない管理職ポストであっても、積極的に引き受けることもままありますが、女性はそうした虚名には惑わされません。そこは男性の価値観とはちょっと少し違います。一般に男性は肩書が大好きですが、女性はそれほどでもないのです』、この男女の比較は大いにありそうで、興味深い。
・『それに、まだ多くの女性は将来管理職になるような「育てられ方」をしていません。経理や人事といった複雑な事務を処理する能力は養成されていても、広報・企画などの華やかな職は体験していても、企業の根幹となる現場や、経営企画など重要とされる部署を経験していない場合が多いのです。 人事異動をした経験も乏しく、新しい仕事に挑戦することにも慣れていません。むしろ女性活躍の声が大きくなってから採用された若い世代の女性たちは、将来管理職に就くのは当たり前と思っていることもあります。女性活躍の過渡期で、世代によりギャップがあるのです』、さすが、官僚時代に長年女性政策に携わってきただけに、分析は参考になる。
・『複数の女性を登用するほうがいい それでも、私は企業の方には、女性管理職を増やしてほしいとお願いしています。過去の記事でも何度か書いていますが、女性の登用が進まないと日本は経済的に立ちゆかなくなるからです。 「女性ばかり優遇されてずるい」という声は、現場の男性たちの中にあるでしょう。管理職の数は限られていますから、ポスト争いは熾烈です。そんな中でもし、女性を登用してみようとなった場合には、外からリクルートするより、長年勤続してきた女性の中から候補を探していただけたらと思います。男性の多い会社組織で長年なんとかして働いてきたということは、潜在能力の高い人も多く、何よりまじめで忍耐力がある可能性が高いはずです。後続の女性にも刺激になります。 女性管理職は大変少ないですから、打診されてもしり込みする女性は多いでしょう。そのハンディキャップを踏まえ、はじめは本人たちの強みが発揮しやすいポスト、成功体験を積みやすいポストで経験してもらい、「私もやればできる」と自信を持ってもらったうえで、次のポストを考えてもらえると、比較的スムーズにいくのではないかと思います。 それと、ぜひ1人だけでなく複数、できれば3人以上を一気に登用してみてください。1人だけ登用すると注目が集まり、プレッシャーも高くなるので、複数のほうが気が楽です。「あの人も苦労しているんだ、私だけがうまくいかないわけはない」とわかりますし、会社のほうも複数の女性がそれぞれのやり方で頑張っていると女性といっても適性、能力がさまざまだという当たり前のことがわかるはずです。 一方、管理職候補の女性たちに言いたいことは「気楽にいこう!」です。 登用した会社のほうも、彼女たちが100%成功するとは思っていません。できることと、できないことがあるのは当然です。できないことに出会ったら、誰かに教えてもらう、分担してもらう。抱え込んではいけません』、説得力がある提言だ。
・『自分の裁量で決定できることが増える 管理職になっていちばん私がありがたかったのは、チームで仕事ができることです。自分の不得意な仕事を部下に任せて、自分は自分の得意な分野に集中すると生産性が格段に向上しました。そのほかにも管理職になると「いいこと」がたくさんあります。 自分の裁量で決定できることが増えてくるのは最大のメリットです。一定の経費が使えますし、会議や打ち合わせは時間内に済ませるなどという小さいことから始まって、決済に必要なハンコが減る、カウンターパートがそれなりに決定権を持つことになるので、話が早くなります。会社や組織の方針や現状に関する情報が入ってくる、知り合いが増える、社内での注目度が上がるだけでなく、社外のネットワークも広がる、などなどのいいことを体験するとわかります。 中間管理職について、「部下と上司の板挟みでつらい」「責任が大きくなってうつ病になる人もいる」「残業代がなくなるから実質収入は増えない」といったネガティブな情報も聞くでしょう。でもそうした面だけではありません。 中間管理職は、現場で組織を動かしているのです。私のキャリア人生を振り返っても部下と苦楽を分かち合い、プロジェクトを成功させるために根回しを行い、上司を説得するために知恵を絞っていた中間管理職のころは楽しかったなと思います。 ぜひ多くの女性に、一歩前に踏み出してほしいと思います』、女性にも開かれたキャリア官僚出身とはいえ、一般企業の実情も十分に調べているだけあって、正論である。
第三に、健康社会学者の河合 薫氏が1月7日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「ドレスを脱ぎ普段着のパンツを履いた、その先に 2019年、私がみなさんにやってほしい3つのこと」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/opinion/15/200475/122700199/?P=1
・『2019年の干支は「己亥(つちのとい)」。 専門家によれば、己亥とは「ステップアップする大事な時期にもかかわらず、あふれんばかりの精力がそれを邪魔してしまう年」らしい。 ……なるほど。やる気満々じゃなく、淡々と過ごすが勝ちということだろうか。 確かに、絶好調のときほどちょっとした気の緩みでポカをしたり、他人を見下して信頼を壊したり、むちゃな働き方をしたりと、いろいろやらかしてしまいがちだ。 というわけで、2019年は粛々と、自分の信念を忘れずに、きちんきちんと仕事をする所存ですので、どうかまた一年、よろしくお願い申し上げます。 さて、2019年元日の今日は、昨年からひしひしと感じていたことを、「こうなってほしい!」という勝手な期待を込めて書くつもりだ。 昨年の後半から、「女性活躍」をテーマにした講演やセミナーに呼んでいただく機会が増えた。数年前にも一時ピークはあったものの、「女性活用疲れ」なる空気があちこちに漂い、沈静化。それが一転、“熱”がこの数カ月で一気にものすごい勢いで広がっているのである。 しかも、どの会場の空気も、地に足がついているというか、泥臭いというか。よそゆき用のドレスから普段着のパンツに着替えたというべきか……。主催している女性、その上司(ほぼ男性)、参加している女性(ときどき男性含む)の「マジ度」がヒシヒシと伝わってきて、やっと、本当にやっと、「女性たちにがんばってもらわないと困ると気づいた企業が、雨後の筍のように新しい芽を出し始めた!」と、個人的には解釈している。 思い起こせば、「女性活躍」なる言葉が市民権を得る一つのきっかけとなったのは、今から6年も前の12年12月に行われた衆議院議員選挙だった。自民党が「社会のあらゆる分野で2020年までに、指導的地位に女性が占める割合を30%以上にする目標を確実に達成する」との公約を掲げたのだ。 「2020年30%」という数値目標自体は、03年の「第3次男女共同参画基本計画」で設定されていたもの。ただ、12年時点で大きな話題になったのは、当時の自民党政調会長だった高市早苗氏と総務会長だった野田聖子氏の間で勃発した「数値目標を巡る女同士のバトル」も多少影響している・・・もともと仲の悪そうな二人のバトルはいわば「ショー」のようなもので、ある意味どうでもいい。私が問題視したのは、この公約が「女性活躍」という名を借りた「景気対策」であり、男社会のTime macho(長時間労働など)な働き方に女性を巻き込もうとしただけのものだということ。数値目標を掲げることが「目的」になっていたのである。 ちなみに当時公表された内閣府の男女共同参画会議の試算では、出産を機に女性が退職する損失は産休後に復職するより大きいとされ、女性の就業希望者(約342万人)が全員就業できれば報酬総額は約7兆円に上り、それが消費に回れば実質国内総生産(GDP)は1.5%増加するとされている(男女共同参画会議基本問題・影響調査専門調査会報告書/平成24年2月)』、「女性活躍」がより地に足が着いた第二次のブームになっているというのは、喜ばしい限りだ。
・『「課長に昇進だよ。でも部下はいない。仕事も今まで通りで」 その後も政府は、「女性活躍」「女性活用」「女性が輝く社会」などなど、一見外面はいいが、いちいちカチンとくる言葉を乱用。企業は企業で、「とりあえず、今いるヤツらでいいから“頭数をそろえろ!”」と数値目標のためだけの「女性枠」をあちこちに“創設”した。 「ある日突然、一般職の女性が全員総合職に変えられた」「ある日突然、女性だけの部署ができた」など、インタビューした人たちの証言によれば、現場では耳を疑うような異常人事が相次いでいることもわかった。 「ある日突然上司に『おめでとう。課長に昇進だよ。でも部下はいない。仕事も今まで通りです』って言われました。これって完全に名ばかり管理職ですよね?」 女性たちは自分たちがまるで「数字合わせのモノ」のように扱われていることを嘆き、「女はいいよな」と男性の同僚から疎まれ、突然部下になった同僚の女性との仲がぎくしゃくし、気の毒なくらいとてつもないストレスの雨にさらされていたのである。 ところが、政府は2015年12月に事実上「2020年30%」を断念。表向きは「いやいや、断念してないよ。2020年30%の数値目標は堅持するよ!」と言いつつ、もともと「あらゆる業種」を対象にしていた数値目標を「分野」ごとの個別設定に変更。霞が関の本省で働く国家公務員の課長級の目標を7%(当時3.5%)、民間企業の目標を15%(同9.2%)に引き下げた。 一方、女性枠への対応で少しばかり強引に女性管理職を増やした企業では、「女性の勤労意欲が足りない」「管理職向きの人材がいない」「女性の仕事に対する姿勢は男性とは異なる」など、女性側の意欲や姿勢を問題視する意見が増え、お偉いさんからは、「“母数”が増えれば、そのうち、優秀な女性の管理職も増えてくるんじゃないのかね」などと、まるで他人事のような、無責任な楽観論が呪文のように繰り返され……。 挙げ句の果てに、「日本の女性活躍度は世界でビリ」だの「日本の男女間格差は先進国最大」だのといったニュースが報じられると、「なんで海外と比べるんだ。日本は日本でいいじゃないか!」という逆ギレ的な意見まで目立つようになった。 そういった空気に釘を刺したくて、以前のコラム(男だ女はもう「114」。埋まらぬ日本の格差問題)で「ケア労働」という視点の欠落を指摘したのだが、残念ながら、最も耳を傾けてほしかった「お偉いさん」たちには私の声は全く届かなかったようで、少々絶望的な気持ちになった。数字目標の設定自体を全否定するつもりはないが、数字の先にいる「女性の生活」をきちんと見よ!――と。 ところが、である。 冒頭で触れたように、今、女性活用が本格的にアツくなっているのである』、政府が「事実上「2020年30%」を断念」したとは初耳だ。
・『使えるものは、使わないと 「いい学生を採るためにも、女性が働きやすい職場にしなきゃ」「会社として、女性が活躍できる場だというアピールが必要」「とにかくリーダーを育てないと。男とか女とか言ってる場合じゃない」「男性は何でも効率に走りがち。多様な視点が欲しい」……etc etc. 講演会で主催者や参加者と接していると、現場の上司たちが「数合わせではなく、マジで女性に頑張ってもらわないと……」と骨身にしみて感じていると確信する。 また、「女性」を主語にしたものだけではなく、「男性管理職の意識を変えたい」「男性役員の意識改革をしたい」といったリクエストを主催者からいただいたり、「講演会のあとのパネルディスカッションのファシリテーターもお願いしたい。女性社員や、女性社員を部下に持つ上司をパネラーにしたい」といった具合に、「みんなの問題」として取り組む企業がどんどん増えてきたのである。 それぞれ取り組み方は違うけれど、「使えるリソースをしっかり使わないとやばいし、もったいない」ことに気づいた現場の本気度に、私はかなり感動している。 そして、今年、女性社員を育てることに有形無形の投資をするか否かで、企業の寿命が変わると予想しているのである。 「使えるものは使え」とは言葉は悪いが、これまで繰り返し言い続けてきた通り、2020年に大人(20歳以上)の10人に8人が40代以上で、10人に6人を50代以上が占める。女性だけだと、50歳以上の人口(3248万8000人)が0~49歳人口(3193万7000人)を追い抜く。 「母数」がどうだだの、「女だから」だの、「ロールモデルが」だの言ってる場合じゃない。使えるものは使わないことには、組織は立ち行かなくなっていくのである。 そして、おそらく「現場の人」たちは薄々気づいているだろうけど、「女性」という存在はそれだけでダイバーシティだ。つまり、「ダイバーシティ=女性活用」ではないが、女性には「女性」という言葉では一括りにできない「多様性」があるため、女性の活用を進めれば自然とダイバーシティの実現に近づく』、最後の部分はさすが河合氏らしい興味深い指摘だ。
・『「女性にやさしい=育児にやさしい」というペラペラな発想 独身のバリキャリ、独身の非バリキャリ、ダブルインカムのバリキャリ、ダブルインカムの非バリキャリ、ワーママのバリキャリ、ワーママの非バリキャリ、結婚願望ありあり女性、結婚願望なしまたは不明女性、親の介護女性、親の介護&子育て女性……といった具合に、女性にはさまざまな属性があり、多様であるがゆえにさまざまな葛藤を抱えているのである。 もちろん男性も然りだ。ただ、女性の場合、出産という女性しか経験できないビッグイベントがあるし、親のケアや介護は結果的に女性が関わる率が高く、ワークとライフが分かち難く複雑に絡み合っている。 にも関わらず、これまで多くの企業が進めてきたのは、「女性活用=育児と両立できる“やさしい職場”」の一本足打法 。やさしい職場づくりを否定するつもりはないが、そのマイナス面は想像以上に大きい。 いったい何人の独身女性たちから「女性にやさしい職場? ワーママにやさしくするために私は酷使されてます」「女性にやさしい職場? 独身はバリキャリじゃないとダメなんですか?」「女性にやさしい職場? 私も“女性”にカウントされてみたいです」と、不平不満を聞かされてきただろうか。 いったい何人の未婚や子供のいない女性管理職たちが、「会社は女性管理職のロールモデルを作りたがってるけど、結婚していて子供がいるのが前提条件だから、私はダメらしいです」と乾いた笑いを浮かべ、自分を卑下しているのを見てきただろうか。 「女性にやさしい=育児にやさしい」という表面的でペラペラな発想が、女性の分断を生み、「結婚もできない、バリキャリでもない自分」に悩む女性を量産させ、「バリキャリと思われ、残業とか押しつけられたくない」とキャリア意識を低下させる女性を登場させてしまったのだ。 結局のところ、女性活躍だのダイバーシティだの数値目標だのと、流行りの言葉や数字を使うだけではなく、「そこで働くすべての人が生き生きと元気で働ける職場」をゴールにすることが肝心なのだが、残念ながらそこはトップの経営判断や哲学に委ねるしかない。 2019年を、女性活躍を出発点に、「全員活躍」の元年にしていただきたいと、願うばかりだ』、これまでの女性活躍の掛け声の裏で、如何に多くの女性たちが悩んできたかが見事に描かれている。確かに「女性活躍を出発点に、「全員活躍」の元年に」という主張は正論だ。
・『縁の下の力持ちとなってくださいませ。ぜひ! 最後に、「全員活躍」元年を目指すうえで知っておいてほしいキーワードと、やってほしいことを記すので、心の片隅に置いてくださいませ。
キーワード1【アンコンシャス・バイアス】過去の経験や習慣、環境から生じる、自分自身が気づかずに持つ偏った見方や考え方のこと。ジェンダー・バイアスと極めて近い概念である。 例えば「育休明けの女性は負担のない部署に異動させるべき」と考える上司は多いが、実際には家庭環境や健康面での個人差が大きく、一概にそうした方がいいとは言い切れない。また、「女性は転勤したがらない」といわれるが、年齢やその人のおかれた環境で反応は大きく異なる。ある企業では、非正規社員の正社員化に伴い、40代後半の女性におそるおそる転勤の辞令を出した。すると「今後のキャリアを考える上でも、ぜひ行かせてほしい」と快諾されたという。 アンコンシャス・バイアスがはびこっている会社かどうかをチェックする方法は2つ。 +男女の平均継続勤務年数に違いはないか? +採用時の男女比と、管理職の男女比の大きな違いはないか? 「ガラスの天井」という言葉は、「階層組織の最上階に存在する女性差別」のメタファーとして広く使われるが、「天井」は階層組織のすべての階層で、蜘蛛の巣のごとく張り巡らされていることが、米ノースウェスタン大学心理学部教授のA・H・イーグリー博士らの調査研究でわかっている』、アンコンシャス・バイアスには、多くの企業や社員が毒されていそうだ。
・『キーワード2【フォルトライン】 一つかそれ以上の属性に基づいてグループを複数のサブグループへと分割しうる、仮想的な分割線(Lau & Murnighanによる)と定義される概念。組織運営を考えるうえで、覚えておいてほしい言葉だ。 例えば、女性6人のメンバーのグループの中で、3人は「既婚、子持ち、40代」、残りの3人は「独身、30代」の場合、共通項を持つ3人のグループで固まり、対立するリスクが高まる。これに対し、既婚、未婚、子持ち、子なし、介護あり、20代、30代、40代といったさまざまな属性を有するメンバー、さらには男性メンバーがいると境界線(フォルトライン)がなくなり、各々が意見を言いやすくなる。結果として、コミュニケーションがスムーズになることもわかっている。 フォルトラインの有無は、以下の2点でチェックする。 +結婚して子供がいる女性を、安易に「ロールモデル」と考えていないか? +女性活用を進めるグループのメンバーが、女性ばかりになっていないか?』、フォルトライン「がなくなり、各々が意見を言いやすくなる。結果として、コミュニケーションがスムーズになる」、言われてみればその通りだ。
・『では、最後にやってほしいことを3つ。
やってほしいこと1【平等な教育機会】 厚生労働省の「平成26年度雇用均等基本調査」では、女性の活躍推進のための取り組みとして「女性の継続就業に関する支援」を挙げる企業が62.5%と圧倒的に多かった。 一方、「人材育成の機会を男女同等に与えること」は わずか23.1%。女性が働き続けられる職場づくりだけにパワーを集中させるのではなく、女性を育成してその能力を発揮する機会を与えることにコストをかけてください。
やってほしいこと2【横のつながりの仕組み作り】 男性の多い職場で、孤独感を抱いている女性は意外に多い。キャリアや結婚、育児への悩みもある。女性はSNSを利用した情報交換を得意とするという研究結果が散見されるので、社内の女性たちが部署を越えてつながれる仕組みを作ってください。
やってほしいこと3【上司が殻を破る勇気】 ある女性は悩んだ末、「育児と仕事の両立は難しい」と上司に退職する旨を伝えた。上司の返答は、「辞める以外に選択肢はないの? 他の会社でできて、うちの会社でできないのはおかしくない? どんな方法だったら両立できるのか考えてみて」。そこで女性は、在宅勤務などをうまく活用している企業を調べ、「これだったら両立できる案」を提出。上司が上に根回しし、即採用!となった。 その後、課長に昇進した女性は、「あのときの上司の一言がなければ今の私はいません」と語っていた。 部下は上司で変わります。本気で「使えるものは使わなきゃやばい」と思う上司のみなさま、今年は部下の背中を押し、縁の下の力持ちとなってくださいませ。ぜひ!』、いずれももっともなポイントだ。実現してゆく上では、相当の努力が必要だろうが、これを実現していかないと、女性活躍は念仏に終わりかねないだろう。
先ずは、『フランス・ジャポン・エコー』編集長、仏フィガロ東京特派員のレジス・アルノー氏が昨年11月5日付け東洋経済オンラインに寄稿した「「妊娠中絶後進国」の日本女性に感じる哀れさ 「性と生殖の権利」について知っていますか?」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/246717
・『妊娠中絶は、世界で最も議論が交わされている問題の1つだ。だが、日本では明らかに事情が異なるようだ。主流メディアでこの問題が取り上げられることはめったにない。アイルランドでは、この5月に歴史的な国民投票で妊娠中絶を認めることが決定された。日本では、これは単なる海外の出来事として報じられた。 最近行われたアメリカ連邦最高裁判所判事ブレット・カバノー氏の公聴会の主な焦点は、彼が、「ロー対ウェイド事件」の妊娠中絶に関する最高裁の有名な判決を覆すかどうかだったが、この問題もまた、アメリカの問題と見なされていた。しかし、こうしたニュースは中絶や、より全般的な「reproductive rights=性と生殖に関する権利」に関する日本の状況をよく考えるのに良い機会を与えてくれるのである』、「「ロー対ウェイド事件」の妊娠中絶に関する最高裁の有名な判決」とは、1973年に妊娠中絶を認めたものだが、保守派はこれを目の敵にしているようだ。
・『避妊の歴史が物語る日本とフランスの違い 日本人はフランスの女性の美しさに驚嘆する。しかし、彼女たちの美の大部分は彼女たちの自立と関連していて、主としてその自立は彼女たちが生殖に関わる問題、ひいては自分の運命を自分で決める力を持っていることに由来するのではないか。フランスの女性と比較して、日本の女性は性と生殖に関する権利に関する限りいまだに縄文時代に暮らしていると言える。 実際、性と生殖に関する権利という表現は日本版Wikipediaのページに載ってさえいない。日本の女性はあまりに大きな暗闇の中にいるので、自分たちが暗闇にいることがわかっていないのだ。 フランスと日本の避妊の歴史を比較すれば、日本の女性読者はどれだけ自分たちが遅れているのかを自覚できるかもしれない。フランスでは経口避妊薬は1969年から利用可能になっていて、2013年からは女性の未成年者は無料かつ匿名で入手できる。1999年に、事後用経口避妊薬が医師の診察を受けずに入手できるようになり、2002年には無料化、未成年者は匿名で手に入れられるようになった(学校の保健室で手に入る場合が多い)。 フランスの女性は敏感に自分の体を意識しており、最新の健康情報に従って生活している。最新の調査によると、フランス人女性のピル使用率は33.2%、子宮内避妊器具の使用は25.6%、コンドームの使用は15.5%だった(ちなみに、出産に関わる費用は全額払い戻される。72%の女性は麻酔を利用し、無料で出産を行っている)。 中絶についても、現在フランスでは中絶に関する合意が大きく広まっているため、2017年のフランス大統領選挙の11人の候補者のうち、選挙公約で中絶の禁止を訴えた者は1人もいなかった。ある候補者は妊娠中絶の権利を憲法で保障すべきだという提案まで行った。 フランスでは中絶は1975年から認可され、1982年以来社会保障制度給付金によって費用の大半が払い戻されるようになり、2013年以降は全額払い戻しが受けられるようになっている。中絶は外科手術によって行われるほか、より安全で安価な経口妊娠中絶薬と呼ばれる1988年にフランスの厚生大臣によって認可された経口薬によって行われることが多くなってきている。 当時、ある製薬会社は強い主張を展開する中絶反対団体への配慮から、当初は経口妊娠中絶薬の販売を拒んでいた。しかし、フランス厚生相は次のように述べて販売を命令した。「その薬に対する政府の認可が承諾された瞬間から、RU486(経口妊娠中絶薬)は製薬会社の資産であるだけでなく、女性の道徳的な資産にもなったのである」』、「フランスの女性と比較して、日本の女性は性と生殖に関する権利に関する限りいまだに縄文時代に暮らしていると言える・・・日本の女性はあまりに大きな暗闇の中にいるので、自分たちが暗闇にいることがわかっていないのだ」、手厳しい批判だ。経口妊娠中絶薬の販売を拒んでいた製薬会社に、政府が売るよう命令まで出すとは大したものだ。
・『ピル使用率は東南アジアよりも低い 日本では経口避妊薬は1999年までは違法だった。それ以前は、ピルは医師から入手できたが、不規則な月経周期の管理や、その他の医療目的のためであって、避妊のためではなかった。よく言われていることだが、日本で経口避妊薬が認可されたのは、この薬が入手可能になってから34年後で、国連加盟国で最も遅かったが、その一方で男性対象の勃起薬バイアグラが認可されるのにたった6カ月しかかからなかった』、経口避妊薬とバイアグラの認可までの期間の大きな格差は、たしかに日本の経口避妊薬への取り組みの後れを如実に表している。
・『日本の女性は、現代的な避妊薬の使用に関して多くの先進国に後れを取っている。複数の調査によると、女性にとって最も危険の高い方法であるにもかかわらず、コンドームと膣外射精が、今日の日本で最もよく行われている避妊法だ。日本の女性はアジアの発展途上国と比べても後れを取っている。2015年の国連の調査によると、タイの女性のピルの使用率は33.7%で日本の女性の1.1%を大きく上回る。 このような哀れむべき状況の1つの原因は、現代の避妊薬に対する政府支援の欠如である。現在日本では避妊薬を買うのに月額約5000円かかり、利用者にとっては金銭的な痛手となっている。事後経口避妊薬に至っては、フランスで処方箋なしで手に入るようになってから20年経った今でも、日本では医師の承認が必要である。 このような不必要な障壁により、女性は短期間で緊急にこの薬を見つけなければならないうえ(特に、望まない妊娠が起こりやすい週末は薬を見つけるのが難しい)、多額の金を払わねばならない状況に追い込まれている。 この薬を日本で探さなければならなかったフランス人女性は、自分の経験をこう振り返る。「フランスではドラッグストアに行って、事後経口避妊薬を10ユーロ(約1300円)未満で購入できる。でも、東京ではまずその薬を処方してもよいという医者を探さなければならなかった。男性医師は無礼で無神経で、彼は私にその薬を服用しないよう説得しようとした。それからドラッグストアに行ったが、5000円ほどの出費になってしまった」。 出産に関しても、日本の女性はいまだに金を払い、しかも身体的に苦しまなくてはならない。大半の女性は、子どもをより愛するには苦しむべきだいう奇妙で酷い作り話に影響されて生きている。日本で麻酔を受けて出産する女性はたった5%である。フランスでは無料かつ無痛で手に入るものが、日本では広尾のような上流層が住む地域のクリニックに通う裕福で学歴の高い女性にしか手に入れられないのだ』、事後経口避妊薬といい、無痛分娩といい、日本の後れは深刻だが、女性側からそうした主張が余り出てこないのも不思議だ。
・『日本での中絶はギャンブルと同じ また、日本では中絶はギャンブルと同じ偽善を抱えている。つまり、両者とも違法なのだが、あまりにも例外が広まっているため、実質上認められているのだ。妊娠中絶は、1880年の刑法での法制化以来ずっと犯罪なのである。中絶処置を受けた女性は最大1年の懲役、行った医師には最大2年の懲役が科せられる。 しかし同時に、中絶は1949年に法制化されている。恐ろしいことにその理由の1つは、遺伝的に劣っていると考えられる胎児の出産を抑制するためであり、また1つには国が戦争の痛みで揺らいでいる時期に、過剰な出生を抑えるためであった。 それ以来妊娠中絶は一部のケースで認められてきたが、最も重要なのは経済的な理由が認められていることだ。母体保護法に書かれた「経済的な理由」の一節があれば、妊娠中絶を望むほとんどすべての女性は実質上中絶を認められる。 皮肉なことに、1950年代のフランスの女性たちが中絶手術を受けるために日本にやって来たのは、母国では不可能だったからだ。今日、日本におけるほぼすべての妊娠中絶(NGOのSOSHIRENによると98%)が経済的な理由で行われている。 2015年には出産100万5677件に対し、中絶は17万6388件だった。だがそれは、妊娠件数の17%が中絶に終わっているということを意味する。だが、中絶はいまだに時代遅れの外科手術の方法でしか行われていない。外科手術を必要としない、より苦痛の少ない中絶を可能にする経口妊娠中絶薬薬は、まだ日本の厚生労働省に認可されていないのだ。経口妊娠中絶薬はすべての先進国、それに発展途上国の多くでも認可されている。 中国では1988年に、チュニジアは2001年に、アルメニアは2007年に認可された。ウズベキスタンの女性は経口妊娠中絶薬を入手できるのに、日本の女性は手に入れられない。中絶自体おぞましい経験なのに、日本の保健当局はその苦しみを取り除こうとはしていない』、経口妊娠中絶薬についての後れが、放置されているのも、不思議だ。保守派、産婦人科医への遠慮なのだろうか。
・『厚労省は誤った情報を発している それどころか、厚生労働省は、経口妊娠中絶薬について誤った情報を発している。厚生労働省はアメリカの食品医薬品局(FDA)もサイト上で注意喚起しているとして、FDAのページへリンクするとともに、重要部分を翻訳して危険性を強調している。だが実際は、FDAは2016年に経口妊娠中絶薬に関する政策を変更しており、厚労省の情報は古いままとなっている(ちなみにリンクをクリックすると、リンク切れになっている)。 多くの若くて貧しい10代の女性は、性教育不足のために不必要な中絶を行っている。世界保健機関(WHO)は2010年の報告書で、子どもには4歳以前から自分の体を意識させるよう勧めている。フランスは6歳からそれを行っており、ドイツでは9歳からである。 だが、日本にはこの件に関する何の政策もない。基本概念をきちんと教えることができなければ、10代の若者たちが愛や性に関心を持ち始めたとき、彼らを危険にさらすことになる。性教育に対する猛烈な反対者である自由民主党の山谷えり子議員に筆者は取材を求め、質問項目のリストを送った。だが、彼女は取材を拒否し、「予定が立て込んでいるとして取材を拒否し、「女手1つの子育てを体験してきた」などと大まかで空虚な回答を返してきた。 日本における中絶の「犯罪」としての位置づけは、日本人女性を貶め、不安定な立場に置いている。もし明日中絶が非合法化されたら?「現代の10代の若者たちは、ピルと事後経口避妊薬の違いを知らない。彼らはもし中絶が本当に違法なものになったら日本がどう変わるか理解していない」と、作家であり、妊娠中絶賛成派のNGOである「SOSHIREN・女(わたしの)からだから」のメンバーである大橋由香子氏は話す。 SOSHIRENは女性の性と生殖に関する権利を求めて戦ってきた長い歴史を持つ。中絶を受けることができる権利は、1972年と1982年に「生長の家」のような妊娠中絶反対のグループによって攻撃を受けた。自由民主党の政治家の助けを借りて、生長の家をはじめとするグループは、妊娠中絶を許している「経済的な理由」の一節を取り消そうとした。 これに対して、SOSHIRENのメンバーたちは経済的理由の一節を取り除くことに反対し、ハンガーストライキを行った。彼らはカナダ人監督ゲイル・シンガー氏の中絶に関する映画の日本版「中絶」を製作した。水子供養が1970年代に登場し、女性たちに罪の意識を持たせ、寺社に新たな収入源を与えた。 大橋氏は今、自民党内に保守的な宗教関係の陳情団体が復活していることを懸念している。彼らは経済関連の陳情団体より大きな勢力と影響力を持っているとされる。「中絶は依然として刑法により違法とされており、とても性と生殖に関する権利が保障されているとは言えない(日本には)性と生殖に関する権利を支持する新しい法律が必要だ」と大橋氏は言う。少なくとも、妊娠中絶が犯罪であるという位置づけは変えなくてはならない』、SOSHIRENとは初耳だが、こうした活動がもっと広がることを期待したい。この問題は日本のマスコミももっと積極的に取り上げるべきだろう。
次に、元総理府局長で昭和女子大学理事長の坂東 眞理子氏が1月7日付け東洋経済オンラインに寄稿した「男女とも敬遠「女性管理職」への大いなる誤解 「名ばかり管理職」は損ばかり?」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/256825
・『ベストセラー『女性の品格』から12年。坂東眞理子・昭和女子大学理事長がいま考える、人生100年時代を納得して生きるために必要な「女性の美学」とは?大人の女性の3大場面、「職場」「家庭」「社会」それぞれの場で女性の直面する問題にどう対応するか、この連載ではつづっていただきます。 新しい年が明けました。5月からは新しい年号になりますが、女性の活躍の舞台はさらに広がっていくでしょう。政府は女性活躍法を強化し、女性の採用数の公表拡大や行動計画の策定拡大を求め、女性管理職を増やそう、女性役員を増やそうと呼びかけています。 企業も女性の管理職を増やさなければならないとは思っています。もちろん本気で取り組んでいる企業もあれば、ご時世だから仕方ないと付き合っている企業もあり、温度差はありますが、それでも女性にとっては追い風が吹いているのは間違いありません。 しかし、いまだに企業幹部の中には「女性管理職を増やしたいのだが、わが社にはそれだけの能力、経験を持った女性がいない」「女性を管理職にしようと声をかけてもしり込みする女性が多くて困る」と言う人がたくさんいます。 本当でしょうか。正確な統計はありませんが、女性たちは“前ほどは”管理職を恐れなくなり始めています。5年前、いや10年前に一度声をかけて断られた経験をもとに、「女性は管理職にはなりたがらない」と思い込んでいるとしたら大間違いです』、こうした思い込みをしている企業幹部は、確かに多いのだろう。
・『「名ばかり管理職」に魅力を感じない女性も 管理職へのオファーといっても本音のところではさほど期待していない、熱意のない声がけがまだまだ多いと、女性たちは感じています。「キミには無理かもしれないけれど、わが社にも女性管理職が必要だからやってみないか」という本心が見え見えの声かけだと、「私で務まるでしょうか、自信がありません」といなすのが普通です。本気で「君ならできる、やってみないか、問題があっても応援する」と言ってもらえるならば「及ばずながら、頑張ってみます」という女性は少なくないはずです。 残業代が減って管理職手当は大したことがないことも多いなか、責任は重くなるけれど裁量権は大きくない「名ばかり管理職」に魅力を感じる女性は、あまりいません。 男性は「同期に負けるものか」とか「将来のためのステップだから」と実質が伴わない管理職ポストであっても、積極的に引き受けることもままありますが、女性はそうした虚名には惑わされません。そこは男性の価値観とはちょっと少し違います。一般に男性は肩書が大好きですが、女性はそれほどでもないのです』、この男女の比較は大いにありそうで、興味深い。
・『それに、まだ多くの女性は将来管理職になるような「育てられ方」をしていません。経理や人事といった複雑な事務を処理する能力は養成されていても、広報・企画などの華やかな職は体験していても、企業の根幹となる現場や、経営企画など重要とされる部署を経験していない場合が多いのです。 人事異動をした経験も乏しく、新しい仕事に挑戦することにも慣れていません。むしろ女性活躍の声が大きくなってから採用された若い世代の女性たちは、将来管理職に就くのは当たり前と思っていることもあります。女性活躍の過渡期で、世代によりギャップがあるのです』、さすが、官僚時代に長年女性政策に携わってきただけに、分析は参考になる。
・『複数の女性を登用するほうがいい それでも、私は企業の方には、女性管理職を増やしてほしいとお願いしています。過去の記事でも何度か書いていますが、女性の登用が進まないと日本は経済的に立ちゆかなくなるからです。 「女性ばかり優遇されてずるい」という声は、現場の男性たちの中にあるでしょう。管理職の数は限られていますから、ポスト争いは熾烈です。そんな中でもし、女性を登用してみようとなった場合には、外からリクルートするより、長年勤続してきた女性の中から候補を探していただけたらと思います。男性の多い会社組織で長年なんとかして働いてきたということは、潜在能力の高い人も多く、何よりまじめで忍耐力がある可能性が高いはずです。後続の女性にも刺激になります。 女性管理職は大変少ないですから、打診されてもしり込みする女性は多いでしょう。そのハンディキャップを踏まえ、はじめは本人たちの強みが発揮しやすいポスト、成功体験を積みやすいポストで経験してもらい、「私もやればできる」と自信を持ってもらったうえで、次のポストを考えてもらえると、比較的スムーズにいくのではないかと思います。 それと、ぜひ1人だけでなく複数、できれば3人以上を一気に登用してみてください。1人だけ登用すると注目が集まり、プレッシャーも高くなるので、複数のほうが気が楽です。「あの人も苦労しているんだ、私だけがうまくいかないわけはない」とわかりますし、会社のほうも複数の女性がそれぞれのやり方で頑張っていると女性といっても適性、能力がさまざまだという当たり前のことがわかるはずです。 一方、管理職候補の女性たちに言いたいことは「気楽にいこう!」です。 登用した会社のほうも、彼女たちが100%成功するとは思っていません。できることと、できないことがあるのは当然です。できないことに出会ったら、誰かに教えてもらう、分担してもらう。抱え込んではいけません』、説得力がある提言だ。
・『自分の裁量で決定できることが増える 管理職になっていちばん私がありがたかったのは、チームで仕事ができることです。自分の不得意な仕事を部下に任せて、自分は自分の得意な分野に集中すると生産性が格段に向上しました。そのほかにも管理職になると「いいこと」がたくさんあります。 自分の裁量で決定できることが増えてくるのは最大のメリットです。一定の経費が使えますし、会議や打ち合わせは時間内に済ませるなどという小さいことから始まって、決済に必要なハンコが減る、カウンターパートがそれなりに決定権を持つことになるので、話が早くなります。会社や組織の方針や現状に関する情報が入ってくる、知り合いが増える、社内での注目度が上がるだけでなく、社外のネットワークも広がる、などなどのいいことを体験するとわかります。 中間管理職について、「部下と上司の板挟みでつらい」「責任が大きくなってうつ病になる人もいる」「残業代がなくなるから実質収入は増えない」といったネガティブな情報も聞くでしょう。でもそうした面だけではありません。 中間管理職は、現場で組織を動かしているのです。私のキャリア人生を振り返っても部下と苦楽を分かち合い、プロジェクトを成功させるために根回しを行い、上司を説得するために知恵を絞っていた中間管理職のころは楽しかったなと思います。 ぜひ多くの女性に、一歩前に踏み出してほしいと思います』、女性にも開かれたキャリア官僚出身とはいえ、一般企業の実情も十分に調べているだけあって、正論である。
第三に、健康社会学者の河合 薫氏が1月7日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「ドレスを脱ぎ普段着のパンツを履いた、その先に 2019年、私がみなさんにやってほしい3つのこと」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/opinion/15/200475/122700199/?P=1
・『2019年の干支は「己亥(つちのとい)」。 専門家によれば、己亥とは「ステップアップする大事な時期にもかかわらず、あふれんばかりの精力がそれを邪魔してしまう年」らしい。 ……なるほど。やる気満々じゃなく、淡々と過ごすが勝ちということだろうか。 確かに、絶好調のときほどちょっとした気の緩みでポカをしたり、他人を見下して信頼を壊したり、むちゃな働き方をしたりと、いろいろやらかしてしまいがちだ。 というわけで、2019年は粛々と、自分の信念を忘れずに、きちんきちんと仕事をする所存ですので、どうかまた一年、よろしくお願い申し上げます。 さて、2019年元日の今日は、昨年からひしひしと感じていたことを、「こうなってほしい!」という勝手な期待を込めて書くつもりだ。 昨年の後半から、「女性活躍」をテーマにした講演やセミナーに呼んでいただく機会が増えた。数年前にも一時ピークはあったものの、「女性活用疲れ」なる空気があちこちに漂い、沈静化。それが一転、“熱”がこの数カ月で一気にものすごい勢いで広がっているのである。 しかも、どの会場の空気も、地に足がついているというか、泥臭いというか。よそゆき用のドレスから普段着のパンツに着替えたというべきか……。主催している女性、その上司(ほぼ男性)、参加している女性(ときどき男性含む)の「マジ度」がヒシヒシと伝わってきて、やっと、本当にやっと、「女性たちにがんばってもらわないと困ると気づいた企業が、雨後の筍のように新しい芽を出し始めた!」と、個人的には解釈している。 思い起こせば、「女性活躍」なる言葉が市民権を得る一つのきっかけとなったのは、今から6年も前の12年12月に行われた衆議院議員選挙だった。自民党が「社会のあらゆる分野で2020年までに、指導的地位に女性が占める割合を30%以上にする目標を確実に達成する」との公約を掲げたのだ。 「2020年30%」という数値目標自体は、03年の「第3次男女共同参画基本計画」で設定されていたもの。ただ、12年時点で大きな話題になったのは、当時の自民党政調会長だった高市早苗氏と総務会長だった野田聖子氏の間で勃発した「数値目標を巡る女同士のバトル」も多少影響している・・・もともと仲の悪そうな二人のバトルはいわば「ショー」のようなもので、ある意味どうでもいい。私が問題視したのは、この公約が「女性活躍」という名を借りた「景気対策」であり、男社会のTime macho(長時間労働など)な働き方に女性を巻き込もうとしただけのものだということ。数値目標を掲げることが「目的」になっていたのである。 ちなみに当時公表された内閣府の男女共同参画会議の試算では、出産を機に女性が退職する損失は産休後に復職するより大きいとされ、女性の就業希望者(約342万人)が全員就業できれば報酬総額は約7兆円に上り、それが消費に回れば実質国内総生産(GDP)は1.5%増加するとされている(男女共同参画会議基本問題・影響調査専門調査会報告書/平成24年2月)』、「女性活躍」がより地に足が着いた第二次のブームになっているというのは、喜ばしい限りだ。
・『「課長に昇進だよ。でも部下はいない。仕事も今まで通りで」 その後も政府は、「女性活躍」「女性活用」「女性が輝く社会」などなど、一見外面はいいが、いちいちカチンとくる言葉を乱用。企業は企業で、「とりあえず、今いるヤツらでいいから“頭数をそろえろ!”」と数値目標のためだけの「女性枠」をあちこちに“創設”した。 「ある日突然、一般職の女性が全員総合職に変えられた」「ある日突然、女性だけの部署ができた」など、インタビューした人たちの証言によれば、現場では耳を疑うような異常人事が相次いでいることもわかった。 「ある日突然上司に『おめでとう。課長に昇進だよ。でも部下はいない。仕事も今まで通りです』って言われました。これって完全に名ばかり管理職ですよね?」 女性たちは自分たちがまるで「数字合わせのモノ」のように扱われていることを嘆き、「女はいいよな」と男性の同僚から疎まれ、突然部下になった同僚の女性との仲がぎくしゃくし、気の毒なくらいとてつもないストレスの雨にさらされていたのである。 ところが、政府は2015年12月に事実上「2020年30%」を断念。表向きは「いやいや、断念してないよ。2020年30%の数値目標は堅持するよ!」と言いつつ、もともと「あらゆる業種」を対象にしていた数値目標を「分野」ごとの個別設定に変更。霞が関の本省で働く国家公務員の課長級の目標を7%(当時3.5%)、民間企業の目標を15%(同9.2%)に引き下げた。 一方、女性枠への対応で少しばかり強引に女性管理職を増やした企業では、「女性の勤労意欲が足りない」「管理職向きの人材がいない」「女性の仕事に対する姿勢は男性とは異なる」など、女性側の意欲や姿勢を問題視する意見が増え、お偉いさんからは、「“母数”が増えれば、そのうち、優秀な女性の管理職も増えてくるんじゃないのかね」などと、まるで他人事のような、無責任な楽観論が呪文のように繰り返され……。 挙げ句の果てに、「日本の女性活躍度は世界でビリ」だの「日本の男女間格差は先進国最大」だのといったニュースが報じられると、「なんで海外と比べるんだ。日本は日本でいいじゃないか!」という逆ギレ的な意見まで目立つようになった。 そういった空気に釘を刺したくて、以前のコラム(男だ女はもう「114」。埋まらぬ日本の格差問題)で「ケア労働」という視点の欠落を指摘したのだが、残念ながら、最も耳を傾けてほしかった「お偉いさん」たちには私の声は全く届かなかったようで、少々絶望的な気持ちになった。数字目標の設定自体を全否定するつもりはないが、数字の先にいる「女性の生活」をきちんと見よ!――と。 ところが、である。 冒頭で触れたように、今、女性活用が本格的にアツくなっているのである』、政府が「事実上「2020年30%」を断念」したとは初耳だ。
・『使えるものは、使わないと 「いい学生を採るためにも、女性が働きやすい職場にしなきゃ」「会社として、女性が活躍できる場だというアピールが必要」「とにかくリーダーを育てないと。男とか女とか言ってる場合じゃない」「男性は何でも効率に走りがち。多様な視点が欲しい」……etc etc. 講演会で主催者や参加者と接していると、現場の上司たちが「数合わせではなく、マジで女性に頑張ってもらわないと……」と骨身にしみて感じていると確信する。 また、「女性」を主語にしたものだけではなく、「男性管理職の意識を変えたい」「男性役員の意識改革をしたい」といったリクエストを主催者からいただいたり、「講演会のあとのパネルディスカッションのファシリテーターもお願いしたい。女性社員や、女性社員を部下に持つ上司をパネラーにしたい」といった具合に、「みんなの問題」として取り組む企業がどんどん増えてきたのである。 それぞれ取り組み方は違うけれど、「使えるリソースをしっかり使わないとやばいし、もったいない」ことに気づいた現場の本気度に、私はかなり感動している。 そして、今年、女性社員を育てることに有形無形の投資をするか否かで、企業の寿命が変わると予想しているのである。 「使えるものは使え」とは言葉は悪いが、これまで繰り返し言い続けてきた通り、2020年に大人(20歳以上)の10人に8人が40代以上で、10人に6人を50代以上が占める。女性だけだと、50歳以上の人口(3248万8000人)が0~49歳人口(3193万7000人)を追い抜く。 「母数」がどうだだの、「女だから」だの、「ロールモデルが」だの言ってる場合じゃない。使えるものは使わないことには、組織は立ち行かなくなっていくのである。 そして、おそらく「現場の人」たちは薄々気づいているだろうけど、「女性」という存在はそれだけでダイバーシティだ。つまり、「ダイバーシティ=女性活用」ではないが、女性には「女性」という言葉では一括りにできない「多様性」があるため、女性の活用を進めれば自然とダイバーシティの実現に近づく』、最後の部分はさすが河合氏らしい興味深い指摘だ。
・『「女性にやさしい=育児にやさしい」というペラペラな発想 独身のバリキャリ、独身の非バリキャリ、ダブルインカムのバリキャリ、ダブルインカムの非バリキャリ、ワーママのバリキャリ、ワーママの非バリキャリ、結婚願望ありあり女性、結婚願望なしまたは不明女性、親の介護女性、親の介護&子育て女性……といった具合に、女性にはさまざまな属性があり、多様であるがゆえにさまざまな葛藤を抱えているのである。 もちろん男性も然りだ。ただ、女性の場合、出産という女性しか経験できないビッグイベントがあるし、親のケアや介護は結果的に女性が関わる率が高く、ワークとライフが分かち難く複雑に絡み合っている。 にも関わらず、これまで多くの企業が進めてきたのは、「女性活用=育児と両立できる“やさしい職場”」の一本足打法 。やさしい職場づくりを否定するつもりはないが、そのマイナス面は想像以上に大きい。 いったい何人の独身女性たちから「女性にやさしい職場? ワーママにやさしくするために私は酷使されてます」「女性にやさしい職場? 独身はバリキャリじゃないとダメなんですか?」「女性にやさしい職場? 私も“女性”にカウントされてみたいです」と、不平不満を聞かされてきただろうか。 いったい何人の未婚や子供のいない女性管理職たちが、「会社は女性管理職のロールモデルを作りたがってるけど、結婚していて子供がいるのが前提条件だから、私はダメらしいです」と乾いた笑いを浮かべ、自分を卑下しているのを見てきただろうか。 「女性にやさしい=育児にやさしい」という表面的でペラペラな発想が、女性の分断を生み、「結婚もできない、バリキャリでもない自分」に悩む女性を量産させ、「バリキャリと思われ、残業とか押しつけられたくない」とキャリア意識を低下させる女性を登場させてしまったのだ。 結局のところ、女性活躍だのダイバーシティだの数値目標だのと、流行りの言葉や数字を使うだけではなく、「そこで働くすべての人が生き生きと元気で働ける職場」をゴールにすることが肝心なのだが、残念ながらそこはトップの経営判断や哲学に委ねるしかない。 2019年を、女性活躍を出発点に、「全員活躍」の元年にしていただきたいと、願うばかりだ』、これまでの女性活躍の掛け声の裏で、如何に多くの女性たちが悩んできたかが見事に描かれている。確かに「女性活躍を出発点に、「全員活躍」の元年に」という主張は正論だ。
・『縁の下の力持ちとなってくださいませ。ぜひ! 最後に、「全員活躍」元年を目指すうえで知っておいてほしいキーワードと、やってほしいことを記すので、心の片隅に置いてくださいませ。
キーワード1【アンコンシャス・バイアス】過去の経験や習慣、環境から生じる、自分自身が気づかずに持つ偏った見方や考え方のこと。ジェンダー・バイアスと極めて近い概念である。 例えば「育休明けの女性は負担のない部署に異動させるべき」と考える上司は多いが、実際には家庭環境や健康面での個人差が大きく、一概にそうした方がいいとは言い切れない。また、「女性は転勤したがらない」といわれるが、年齢やその人のおかれた環境で反応は大きく異なる。ある企業では、非正規社員の正社員化に伴い、40代後半の女性におそるおそる転勤の辞令を出した。すると「今後のキャリアを考える上でも、ぜひ行かせてほしい」と快諾されたという。 アンコンシャス・バイアスがはびこっている会社かどうかをチェックする方法は2つ。 +男女の平均継続勤務年数に違いはないか? +採用時の男女比と、管理職の男女比の大きな違いはないか? 「ガラスの天井」という言葉は、「階層組織の最上階に存在する女性差別」のメタファーとして広く使われるが、「天井」は階層組織のすべての階層で、蜘蛛の巣のごとく張り巡らされていることが、米ノースウェスタン大学心理学部教授のA・H・イーグリー博士らの調査研究でわかっている』、アンコンシャス・バイアスには、多くの企業や社員が毒されていそうだ。
・『キーワード2【フォルトライン】 一つかそれ以上の属性に基づいてグループを複数のサブグループへと分割しうる、仮想的な分割線(Lau & Murnighanによる)と定義される概念。組織運営を考えるうえで、覚えておいてほしい言葉だ。 例えば、女性6人のメンバーのグループの中で、3人は「既婚、子持ち、40代」、残りの3人は「独身、30代」の場合、共通項を持つ3人のグループで固まり、対立するリスクが高まる。これに対し、既婚、未婚、子持ち、子なし、介護あり、20代、30代、40代といったさまざまな属性を有するメンバー、さらには男性メンバーがいると境界線(フォルトライン)がなくなり、各々が意見を言いやすくなる。結果として、コミュニケーションがスムーズになることもわかっている。 フォルトラインの有無は、以下の2点でチェックする。 +結婚して子供がいる女性を、安易に「ロールモデル」と考えていないか? +女性活用を進めるグループのメンバーが、女性ばかりになっていないか?』、フォルトライン「がなくなり、各々が意見を言いやすくなる。結果として、コミュニケーションがスムーズになる」、言われてみればその通りだ。
・『では、最後にやってほしいことを3つ。
やってほしいこと1【平等な教育機会】 厚生労働省の「平成26年度雇用均等基本調査」では、女性の活躍推進のための取り組みとして「女性の継続就業に関する支援」を挙げる企業が62.5%と圧倒的に多かった。 一方、「人材育成の機会を男女同等に与えること」は わずか23.1%。女性が働き続けられる職場づくりだけにパワーを集中させるのではなく、女性を育成してその能力を発揮する機会を与えることにコストをかけてください。
やってほしいこと2【横のつながりの仕組み作り】 男性の多い職場で、孤独感を抱いている女性は意外に多い。キャリアや結婚、育児への悩みもある。女性はSNSを利用した情報交換を得意とするという研究結果が散見されるので、社内の女性たちが部署を越えてつながれる仕組みを作ってください。
やってほしいこと3【上司が殻を破る勇気】 ある女性は悩んだ末、「育児と仕事の両立は難しい」と上司に退職する旨を伝えた。上司の返答は、「辞める以外に選択肢はないの? 他の会社でできて、うちの会社でできないのはおかしくない? どんな方法だったら両立できるのか考えてみて」。そこで女性は、在宅勤務などをうまく活用している企業を調べ、「これだったら両立できる案」を提出。上司が上に根回しし、即採用!となった。 その後、課長に昇進した女性は、「あのときの上司の一言がなければ今の私はいません」と語っていた。 部下は上司で変わります。本気で「使えるものは使わなきゃやばい」と思う上司のみなさま、今年は部下の背中を押し、縁の下の力持ちとなってくださいませ。ぜひ!』、いずれももっともなポイントだ。実現してゆく上では、相当の努力が必要だろうが、これを実現していかないと、女性活躍は念仏に終わりかねないだろう。
タグ:女性活躍 (その9)(「妊娠中絶後進国」の日本女性に感じる哀れさ 「性と生殖の権利」について知っていますか?、男女とも敬遠「女性管理職」への大いなる誤解 「名ばかり管理職」は損ばかり?、ドレスを脱ぎ普段着のパンツを履いた その先に 2019年、私がみなさんにやってほしい3つのこと) レジス・アルノー 東洋経済オンライン 「「妊娠中絶後進国」の日本女性に感じる哀れさ 「性と生殖の権利」について知っていますか?」 アメリカ連邦最高裁判所判事ブレット・カバノー氏の公聴会 「ロー対ウェイド事件」の妊娠中絶に関する最高裁の有名な判決を覆すかどうか 避妊の歴史が物語る日本とフランスの違い フランスの女性と比較して、日本の女性は性と生殖に関する権利に関する限りいまだに縄文時代に暮らしている 日本の女性はあまりに大きな暗闇の中にいるので、自分たちが暗闇にいることがわかっていないのだ フランスでは経口避妊薬は1969年から利用可能 2013年からは女性の未成年者は無料かつ匿名で入手できる 1999年に、事後用経口避妊薬が医師の診察を受けずに入手できるようになり、2002年には無料化、未成年者は匿名で手に入れられるようになった フランスでは中絶は1975年から認可され、1982年以来社会保障制度給付金によって費用の大半が払い戻されるようになり、2013年以降は全額払い戻しが受けられる より安全で安価な経口妊娠中絶薬と呼ばれる1988年にフランスの厚生大臣によって認可された経口薬によって行われることが多くなってきている ある製薬会社は強い主張を展開する中絶反対団体への配慮から、当初は経口妊娠中絶薬の販売を拒んでいた ランス厚生相は次のように述べて販売を命令 ピル使用率は東南アジアよりも低い 日本で経口避妊薬が認可されたのは、この薬が入手可能になってから34年後で、国連加盟国で最も遅かったが、その一方で男性対象の勃起薬バイアグラが認可されるのにたった6カ月しかかからなかった 日本の女性は、現代的な避妊薬の使用に関して多くの先進国に後れを取っている 大半の女性は、子どもをより愛するには苦しむべきだいう奇妙で酷い作り話に影響されて生きている。日本で麻酔を受けて出産する女性はたった5%である 日本での中絶はギャンブルと同じ より苦痛の少ない中絶を可能にする経口妊娠中絶薬薬は、まだ日本の厚生労働省に認可されていない 厚労省は誤った情報を発している 「SOSHIREN・女(わたしの)からだから」 彼らはカナダ人監督ゲイル・シンガー氏の中絶に関する映画の日本版「中絶」を製作した 自民党内に保守的な宗教関係の陳情団体が復活していることを懸念 坂東 眞理子 「男女とも敬遠「女性管理職」への大いなる誤解 「名ばかり管理職」は損ばかり?」 『女性の品格』 「女性は管理職にはなりたがらない」と思い込んでいるとしたら大間違いです 「名ばかり管理職」に魅力を感じない女性も 複数の女性を登用するほうがいい 自分の裁量で決定できることが増える 河合 薫 日経ビジネスオンライン 「ドレスを脱ぎ普段着のパンツを履いた、その先に 2019年、私がみなさんにやってほしい3つのこと」 昨年の後半から、「女性活躍」をテーマにした講演やセミナーに呼んでいただく機会が増えた 参加している女性(ときどき男性含む)の「マジ度」がヒシヒシと伝わってきて、やっと、本当にやっと、「女性たちにがんばってもらわないと困ると気づいた企業が、雨後の筍のように新しい芽を出し始めた!」と、個人的には解釈している 「2020年30%」という数値目標 この公約が「女性活躍」という名を借りた「景気対策」 「課長に昇進だよ。でも部下はいない。仕事も今まで通りで」 使えるものは、使わないと 事実上「2020年30%」を断念 「女性にやさしい=育児にやさしい」というペラペラな発想 女性活躍だのダイバーシティだの数値目標だのと、流行りの言葉や数字を使うだけではなく、「そこで働くすべての人が生き生きと元気で働ける職場」をゴールにすることが肝心 【アンコンシャス・バイアス】 過去の経験や習慣、環境から生じる、自分自身が気づかずに持つ偏った見方や考え方のこと 【フォルトライン】 一つかそれ以上の属性に基づいてグループを複数のサブグループへと分割しうる、仮想的な分割線 平等な教育機会 横のつながりの仕組み作り 上司が殻を破る勇気
教育勅語(その4)(柴山文科大臣 「教育勅語」の活用など正気の沙汰ではない、前川喜平氏が憂慮する「安倍政権に蠢く野望」 戦前回帰の教育勅語がダメな理由を徹底解説) [国内政治]
教育勅語については、2017年5月12日に取上げた。久しぶりの今日は、(その4)(柴山文科大臣 「教育勅語」の活用など正気の沙汰ではない、前川喜平氏が憂慮する「安倍政権に蠢く野望」 戦前回帰の教育勅語がダメな理由を徹底解説)である。
先ずは、憲法学者で慶応大名誉教授の小林節氏が昨年10月6日付け日刊ゲンダイに寄稿した「柴山文科大臣 「教育勅語」の活用など正気の沙汰ではない」を紹介しよう。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/238900
・『柴山昌彦文科大臣が就任直後の記者会見で教育勅語の活用に論及した。いわく、「現代風に解釈されたりアレンジした形で使える部分は十分にあり、普遍性を持っている部分が見て取れる。同胞を大切にするとか国際的な協調を重んじるとかいった基本的な内容を現代的にアレンジして教えていこうという動きも検討に値する」。 しかし、原文に確認してみたが、「同胞を大切に」という趣旨は「親孝行、兄弟仲良く、夫婦仲良く、友人と信じ合い、他者に博愛の手を差し伸べ」から明らかであるが、「国際協調」はどこにも読み取れない。 ところで、「同胞を大切にする」ことは、確かに普遍的な価値で、誰も否定できない。しかし、それを教育に生かしたいならば、単に「同胞を大切にしなさい」と教えれば済む話で、教育勅語を持ち出す必要などない』、その通りだ。
・『改めて指摘しておくが、教育勅語の趣旨は、後半部分に明記された、「危急の時には、正義心から勇気を持って公に奉仕し、よって、永遠に続く皇室の運命を助けよ」と国民に命じている点である。 そもそも、「勅語」という法形式自体が、国の統治権を総攬していた天皇がその大権に基づき直接「臣民」に「下賜」する意思表示で、当時それが憲法の付属文書のような法的拘束力を持っていたことは歴史的事実である。そして、それが、第2次世界大戦の敗北に至った軍国主義を支えたことも史実である。 だからこそ、敗戦直後の昭和22(1947)年に教育勅語に代わる教育基本法が制定され、翌23(1948)年に両院が勅語の失効を確認する決議を行ったのである。 にもかかわらず、日本国憲法の下で教育勅語を「アレンジして」教育に用いよう……という発想はもとより論外であるが、あろうことか「文科大臣」が就任直後の記者会見で右記のような発言をしたとは、にわかには信じ難い。 念のため付言しておくが、憲法99条は「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官、その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」と明記している。ちなみに、柴山大臣は弁護士である』、安倍政権の歴史修正主義的な動きが明確化してきたとすれば、危険極まりないものだ。
次に、元文部科学事務次官で現代教育行政研究会代表の前川 喜平氏が1月25日付け東洋経済オンラインに寄稿した「前川喜平氏が憂慮する「安倍政権に蠢く野望」 戦前回帰の教育勅語がダメな理由を徹底解説」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/260692
・『安倍晋三首相が政権復帰してから6年を迎えたが、文部科学省で事務次官を務めた前川喜平氏は安倍政権に蠢く教育勅語「再生」への野望を憂慮する。前川氏が全3回にわたって、なぜ教育勅語がダメなのか解説する。第1回のテーマは「教育勅語に込められた危険な思想」。 2018年10月に発足した安倍改造内閣の文部科学大臣に就任した柴山昌彦氏は、就任時の記者会見での質問に答えて、教育勅語には「普遍性を持っている部分」があり、「現代風に解釈」したり「アレンジ」したりすれば、「道徳に使うことのできる分野」があるという趣旨の発言をした。 「現代風」うんぬんは柴山氏オリジナルのレトリックだが、同様の発言はすでに2年半前に当時の下村博文文部科学大臣が行っていた。従来の文科省の姿勢を大きく変えるその発言は、2014年4月8日の参議院文教科学委員会の質疑の中で行われた。 国会の各委員会での質問は、通常前日の夜に役所の職員が質問議員のもとに出向き質問内容を聞き取るとともに、質問者の意向を踏まえて答弁者を大臣、副大臣、局長などと決める。その日の質問者であった自民党の和田政宗氏の質問の中に、教育勅語を学校の道徳教育の教材として使うべきではないか、という趣旨の質問があった』、柴山大臣だけでなく、下村元大臣も発言したとは、強いこだわりがあるようだ。
・『下村博文氏が行った重大な方針転換 答弁者は局長とされていた。当時、私がその局長(初等中等教育局長)だった。 局内で作成した答弁は、過去の答弁にならい、「教育勅語を学校の教材として用いることは適切でない」という趣旨の答弁だった。質問当日の早朝に、大臣への答弁の説明が行われる。その日も大臣室で、前夜のうちに作成した大臣答弁を各局長が大臣に説明した。 局長答弁は通常、大臣へは説明しないのだが、その日の下村大臣は、この教育勅語に関する局長答弁がどうなっているか見せろと言った。そこでその答弁を見せたところ、次のように書き換えるよう命じられたのである。 「教育勅語には今日でも通用する普遍的な内容が含まれており、その点に着目して学校の教材として活用することは差し支えない」 それは重大な方針転換であった。委員会での実際のやり取りは次のようなものだ。 和田議員「私は、教育勅語について、学校、教育現場で活用すればとても良い道徳教育になると思いますが、アメリカ占領下の昭和23年に国会で排除決議や失効確認決議がなされています。こうした決議は関係なく、副読本や学校現場で活用できると考えますが、その見解でよろしいでしょうか」 前川局長「教育勅語は、明治23年以来、およそ半世紀にわたってわが国の教育の基本理念とされてきたものでございますが、戦後の諸改革の中で教育勅語をわが国の教育の唯一の根本理念とする考え方を改めるとともに、これを神格化するような取り扱いをしないこととされ、これに代わって教育基本法が制定されたという経緯がございます。 このような経緯に照らせば、教育勅語をわが国の教育の唯一の根本理念であるとするような指導を行うことは不適切であるというふうに考えますが、教育勅語の中には今日でも通用するような内容も含まれておりまして、これらの点に着目して学校で活用するということは考えられるというふうに考えております」 下村大臣「教育勅語の中身そのものについては今日でも通用する普遍的なものがあるわけでございまして、この点に着目して学校で教材として使う、教育勅語そのものではなくて、その中身ですね、それは差し支えないことであるというふうに思います」 私は途中までは答弁資料のとおり答えていたのだが、「今日でも通用する」まで言ったところで、「それは違うだろう!」という心の声が聞こえた気がした。その強い違和感のため、私はそれに続く答弁を資料のとおりには読まなかった。 「今日でも通用するような」と意味をぼかし、「普遍的な」という言葉や「教材として」という言葉は出さず、最後は「活用することは差し支えない」と言い切らずに「活用するということは考えられるというふうに考えております」と、曖昧な言い方をした。 しかし、下村大臣はこの私の答弁では不十分だと考えたのであろう。私の答弁の後を追って自ら答弁に立ち、教育勅語の中身には「普遍的な」ものがあり、その中身を「教材として」使うことは「差し支えない」と答弁したのである。 さらに安倍政権は、2017年3月31日の閣議決定で「憲法や教育基本法等に反しないような形で教育に関する勅語を教材として用いることまでは否定されることではない」と表明した。 この閣議決定では、道徳の教材として使えるとも使えないとも言っていないが、このような反憲法的文書を道徳の教材として使うことは考えられない。仮に学校の教材として使うことがありうるとすれば、それは歴史を学ぶ際の史料としてだけだろう』、安倍政権が「教育に関する勅語を教材として用いることまでは否定されることではない」と閣議決定までしたのはうっかり忘れていたが、重大なことだ。
・『教育勅語というイデオロギー 教育勅語の復活をもくろんでいるのは柴山氏や下村氏だけではない。2018年3月8日、参議院予算委員会で教育勅語に対する考えを訊かれた稲田朋美防衛大臣(当時)はこう答弁をした。 「私は、今、教育勅語に対しての自分の考えは、その教育勅語の精神ですね、日本が道義国家を目指すという、その精神は今も取り戻すべきだというふうに考えております」 同年10月29日、衆議院本会議での稲田氏(自民党筆頭副幹事長)による代表質問では、日本の民主主義が聖徳太子の「和を以て貴しとなす」以来の「わが国古来の伝統」だとする珍説も開陳されたが、マイノリティ、社会の多様性、人権などに言及した際には、これらを「世界から尊敬される『道議大国』を目指すため」取り組むべき課題だと発言した。 「国民道徳協会」なる団体が作成した教育勅語の「口語文訳」によれば、勅語の冒頭部分「朕(ちん)惟(おも)フニ我カ(が)皇祖皇宗(こうそこうそう)國ヲ肇(はじ)ムルコト高遠ニ徳ヲ樹(た)ツルコト深厚ナリ」は、次のように訳されている。 「私は、私達の祖先が、遠い昔遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます」 皇祖とは、天皇の先祖のうち神代の時代の神々のこと。最初の皇祖は高天原(タカマガハラ)に住まう女神、天照大神(アマテラスオオミカミ)だ。その神が自分の孫である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を日本列島に降ろし、「この国は私の子孫が王となるべき国だ。孫のお前が行って治めよ。お前の子孫による統治が代々栄えることは、天と地(壌)に果て(窮)がないのと同じく永遠であろう」と命じた。これを「天孫降臨」と言い、その時の命令を「天壤無窮(てんじょうむきゅう)の神勅(しんちょく)」という。 皇宗とは、天皇の先祖のうち人間として皇位についたとされる人々のこと。最初の皇宗とされるのが神武天皇だ。彼は日向から大和へと攻め上り、橿原宮(カシハラノミヤ)で初代天皇として即位したとされる。歴史学上は実在の人物とはされていない。 その即位の日を、明治政府は日本書紀の記述をもとに計算し、西暦紀元前660年の2月11日だと特定した。考古学上は縄文時代に属する時期だ。この神武即位から年を数える数え方が「皇紀」だ。1940(昭和15)年には「皇紀2600年」が大々的に祝われ、「紀元二千六百年」という歌も作られた。 こうした遠い昔の天皇の祖先が、日本という「國ヲ肇ムル」(国を作った)だけでなく、日本人のための「徳ヲ樹」てた(道徳を樹立した)というのが、教育勅語の言い分なのである。道徳と共につくられた国だから「道義国家」というのだろう。その道徳の中心は忠と孝だ。 前述の冒頭部分は次のように続く。「我カ臣民克(よ)ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一(いつ)ニシテ世世(よよ)厥(そ)ノ美ヲ済(な)セルハ此レ我カ國體(こくたい)ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦(また)實(じつ)ニ此(ここ)ニ存ス」 「忠」とは国の中で天皇のために尽くすことであり、「孝」とは家の中で親のために尽くすことだ。臣民すなわち天皇に従う民は天皇の赤子(せきし:子ども)とみなされ、日本の国は天皇というビッグファーザーのもとに絆を結ぶ一つの大きな家族だとされる。 一方、一つひとつの家は国を構成する単位であるとされる。つまり、「国」は大きな「家」であり、「家」は小さな「国」なのだ。父親を「家長」とする「家」と天皇を「統治権の総覧者」とする「大日本帝国」とは、相似形になっている。それが日本という国の古今不変のあり方、すなわち「國體」だというのである。 そして、すべての臣民(しんみん:天皇に従う民)が「忠」と「孝」という道徳を代々受け継いできた、その美しさこそ「國體の精華」であり、教育の源もそこにあるのだという。このような国家観を「國體思想」という(「國體」は今日では通用しない観念なので、今日では通用しない漢字で表記する)』、中心をなす考え方が「忠」と「孝」というのでは、現在の憲法とは水と油だ。
・『教育勅語に込められた天皇への忠誠 そもそも教育勅語という文書は、明治天皇の侍講であった元田永孚と伊藤博文のもとで法制官僚として腕を振るった井上毅が中心になってつくられたものである。全国の神社を天皇制の下に統合した国家神道とあいまって、戦前戦中の日本人の精神を支配した「教義」だったと言ってもいい。 これは日本古来の伝統でも文化でもない。1890年につくられ、1945年には破綻したのだから、その有効期間は55年間だった。1947年に制定され、2006年に改正された教育基本法(旧法)のほうが有効期間は長かった。 1946年1月、昭和天皇は「人間宣言」を行い、同年11月に公布された日本国憲法は、天皇を日本国と日本国民統合の「象徴」とした。教育勅語の神話国家観は完全に否定されたのである。主権は天皇から国民に移り、教育勅語に代えて新憲法下の教育の理念を示す法律として1947年3月に教育基本法が制定された』、教育勅語は、「日本古来の伝統でも文化でもない。1890年につくられ、1945年には破綻したのだから、その有効期間は55年間だった。1947年に制定され、2006年に改正された教育基本法(旧法)のほうが有効期間は長かった」、これはもっと広くアピールすべき事実だ。
・『こうした経緯を受けて、1948年6月、衆議院は教育勅語を憲法に反する文書として排除することを決議し、参議院は教育基本法の制定により教育勅語が失効したことを確認する決議を行った。 教育勅語に列挙されている徳目は、天皇主権の国家と封建的な家制度を前提としたものであって、「父母ニ孝ニ」は家長である父親への服従を前提としたものであり、「兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ」は長男だけが家督相続者であることを前提とするものであり、「夫婦相和シ」は妻の夫への従属を前提とするものであり、「國憲ヲ重シ(おもんじ)」は天皇が定めた憲法に国民が従うことを前提としたものだ。いずれも日本国憲法の精神に反する道徳であり、今日でも通用する普遍性を持つものとは到底言えない。 徳目列挙の最後に出てくる「一旦緩急アレハ(ば)義勇公ニ奉シ(じ)以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘ(べ)シ」のくだりは、「戦争になったら忠義と勇気をもって天皇のために身を捧げ、永遠に続くべき皇室の命運をお支えしろ」という意味であり、個人の尊厳、国民主権、平和主義に基づく日本国憲法のもとでは、完全に否定されるべき内容である。この教育勅語を現代に再生させようとすることなど、正気の沙汰とは思えない愚かな考えである』、説得力に溢れた主張で、その通りだ。
・『教育勅語に込められた天皇への忠誠という倫理は、1945年の敗戦までの日本人の心を支配していた。敗戦のとき、それを信じていた自分の愚かさに気がついた人は多かったはずだ。特に子どもたちはそうだったろう。大人たちの中には、それに気づいた人と気づかないまま架空の倫理を戦後に持ち越した人がいた。 自分の愚かさに気がついた人物の典型として紹介したいのが、詩人で彫刻家だった高村光太郎だ。 光太郎は、亡き妻の智恵子を歌った詩集『智恵子抄』などで有名だが、戦時中は政府の戦争遂行に協力し、戦意高揚の詩を書いていた。空襲で家を失った光太郎は、宮沢賢治の弟清六を頼って岩手県花巻に移り住む。小さな小屋に独居した光太郎は、戦争に協力した自分の愚かさと向き合った。なぜ自分はこんな戦争に協力したのか。何が自分を駆り立てていたのか。 その中で彼は「典型」と題する詩を書いた。その書き出しはこうだ。「今日も愚直な雪がふり / 小屋はつんぼのやうに黙りこむ。 / 小屋にゐるのは一つの典型、 / 一つの愚劣の典型だ。 / 三代を貫く特殊国の / 特殊の倫理に鍛へられて、 / (略) / 端座粛服、 / まことをつくして唯一つの倫理に生きた / 降りやまぬ雪のやうに愚直な生きもの。」(原文ママ) 光太郎が言う「三代を貫く特殊国の特殊の倫理」こそ、教育勅語に込められた天皇絶対主義の道徳である。光太郎は祖父と父のことも詩に描いている。「ちよんまげ」という詩では、心ならずもちょんまげを切った「おぢいさん」がこう言う。 「文明開化のざんぎりになつてしまへと、 / 禁廷さまがおつしやるんだ。」「禁廷さまがおつしやるんだと聞いちやあ、 / おれもかぶとをぬいだ。 / 公方さまは番頭で、 / 禁廷さまは日本の総元締だ。」 禁廷さまとは天皇のこと、公方さまとは徳川将軍のことだ。 光太郎の父は彫刻家で東京美術学校の教授だった光雲である。今も皇居外苑に残る楠木正成の銅像は光雲とその弟子が制作したものだ。「楠公銅像」と題する詩はこう始まる。 「―まづ無事にすんだ。 / 父はさういつたきりだつた。」銅像の木型が見たいと明治天皇が望んだので、光雲らは大騒ぎで二重橋内に木型を組み立てた。天皇がこれを見に来たとき…「かぶとの鍬型の劔の楔が一本、 / 打ち忘れられてゐた為に / 風のふくたび劔がゆれる。 / もしそれが落ちたら切腹と / 父は決心してゐたとあとできいた。」 そして、この詩は次のように終わる。「父は命をささげてゐるのだ。 / 人知れず私はあとで涙を流した。」 光太郎は太平洋戦争が始まったときの自分を振り返って、「真珠湾の日」と題する詩も書いている。 「天皇あやふし。 / ただこの一語が / 私の一切を決定した。 / 子供の時のおぢいさんが、 / 父が母がそこに居た。」「私の耳は祖先の声でみたされ、 / 陛下が、陛下がと、 / あへぐ意識は眩(めくるめ)いた。」 光太郎はこのように「三代を貫く特殊国の特殊の倫理」に支配されていた自分が「愚劣の典型」だったと自覚したのである』、なるほど。
・『戦前回帰派は「悪性のウイルス」 しかし一方、光太郎のような覚醒を経ることなく、「特殊の倫理」を戦後に持ち越した人たちもいた。そういう人たちは、政治家にも経済人にも教育者にも宗教家にもいた。彼らは日本国憲法を「押し付け憲法」「マック憲法」(マックはマッカーサーのこと)などと蔑み、「日本人にふさわしい憲法」が必要だと叫び、個人の尊厳よりも国家や民族を上位の価値とする。 自由や権利よりも義務や責任を強調し、自己抑制や自己犠牲を美徳とし、一人ひとりの個性を伸ばすことよりも国・学校・郷土・家族などの「全体」に奉仕することを重視する。個人主義という言葉が嫌いで、滅私奉公という言葉が好きな人たちだ。端的に言えば「戦前回帰」を求める人たちである。 戦前回帰の動きは戦後の日本においてつねに存在していたが、言論の世界と学問の世界からそれをしっかりと批判し、排除する力が働いてきた。その力が近年明らかに弱まっている。 それに逆比例して戦前的価値観を持つ人たち、国家主義、自民族中心主義、歴史修正主義を身にまとった人たち、教育勅語に込められた國體思想を信奉する人たちが、その黒い姿を日本中のあちこちに現してきている。 その勢力は、日本会議、日本青年会議所、神社などを巣として増殖を続け、十分な免疫を持たない若い世代に「悪性のウイルス」が広がっている』、「戦前回帰派は「悪性のウイルス」」とは言い得て妙だが、日本がそれにどんどん侵されつつあるのは、本当に恐ろしい話だ。
前川氏の続編が楽しみである。
先ずは、憲法学者で慶応大名誉教授の小林節氏が昨年10月6日付け日刊ゲンダイに寄稿した「柴山文科大臣 「教育勅語」の活用など正気の沙汰ではない」を紹介しよう。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/238900
・『柴山昌彦文科大臣が就任直後の記者会見で教育勅語の活用に論及した。いわく、「現代風に解釈されたりアレンジした形で使える部分は十分にあり、普遍性を持っている部分が見て取れる。同胞を大切にするとか国際的な協調を重んじるとかいった基本的な内容を現代的にアレンジして教えていこうという動きも検討に値する」。 しかし、原文に確認してみたが、「同胞を大切に」という趣旨は「親孝行、兄弟仲良く、夫婦仲良く、友人と信じ合い、他者に博愛の手を差し伸べ」から明らかであるが、「国際協調」はどこにも読み取れない。 ところで、「同胞を大切にする」ことは、確かに普遍的な価値で、誰も否定できない。しかし、それを教育に生かしたいならば、単に「同胞を大切にしなさい」と教えれば済む話で、教育勅語を持ち出す必要などない』、その通りだ。
・『改めて指摘しておくが、教育勅語の趣旨は、後半部分に明記された、「危急の時には、正義心から勇気を持って公に奉仕し、よって、永遠に続く皇室の運命を助けよ」と国民に命じている点である。 そもそも、「勅語」という法形式自体が、国の統治権を総攬していた天皇がその大権に基づき直接「臣民」に「下賜」する意思表示で、当時それが憲法の付属文書のような法的拘束力を持っていたことは歴史的事実である。そして、それが、第2次世界大戦の敗北に至った軍国主義を支えたことも史実である。 だからこそ、敗戦直後の昭和22(1947)年に教育勅語に代わる教育基本法が制定され、翌23(1948)年に両院が勅語の失効を確認する決議を行ったのである。 にもかかわらず、日本国憲法の下で教育勅語を「アレンジして」教育に用いよう……という発想はもとより論外であるが、あろうことか「文科大臣」が就任直後の記者会見で右記のような発言をしたとは、にわかには信じ難い。 念のため付言しておくが、憲法99条は「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官、その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」と明記している。ちなみに、柴山大臣は弁護士である』、安倍政権の歴史修正主義的な動きが明確化してきたとすれば、危険極まりないものだ。
次に、元文部科学事務次官で現代教育行政研究会代表の前川 喜平氏が1月25日付け東洋経済オンラインに寄稿した「前川喜平氏が憂慮する「安倍政権に蠢く野望」 戦前回帰の教育勅語がダメな理由を徹底解説」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/260692
・『安倍晋三首相が政権復帰してから6年を迎えたが、文部科学省で事務次官を務めた前川喜平氏は安倍政権に蠢く教育勅語「再生」への野望を憂慮する。前川氏が全3回にわたって、なぜ教育勅語がダメなのか解説する。第1回のテーマは「教育勅語に込められた危険な思想」。 2018年10月に発足した安倍改造内閣の文部科学大臣に就任した柴山昌彦氏は、就任時の記者会見での質問に答えて、教育勅語には「普遍性を持っている部分」があり、「現代風に解釈」したり「アレンジ」したりすれば、「道徳に使うことのできる分野」があるという趣旨の発言をした。 「現代風」うんぬんは柴山氏オリジナルのレトリックだが、同様の発言はすでに2年半前に当時の下村博文文部科学大臣が行っていた。従来の文科省の姿勢を大きく変えるその発言は、2014年4月8日の参議院文教科学委員会の質疑の中で行われた。 国会の各委員会での質問は、通常前日の夜に役所の職員が質問議員のもとに出向き質問内容を聞き取るとともに、質問者の意向を踏まえて答弁者を大臣、副大臣、局長などと決める。その日の質問者であった自民党の和田政宗氏の質問の中に、教育勅語を学校の道徳教育の教材として使うべきではないか、という趣旨の質問があった』、柴山大臣だけでなく、下村元大臣も発言したとは、強いこだわりがあるようだ。
・『下村博文氏が行った重大な方針転換 答弁者は局長とされていた。当時、私がその局長(初等中等教育局長)だった。 局内で作成した答弁は、過去の答弁にならい、「教育勅語を学校の教材として用いることは適切でない」という趣旨の答弁だった。質問当日の早朝に、大臣への答弁の説明が行われる。その日も大臣室で、前夜のうちに作成した大臣答弁を各局長が大臣に説明した。 局長答弁は通常、大臣へは説明しないのだが、その日の下村大臣は、この教育勅語に関する局長答弁がどうなっているか見せろと言った。そこでその答弁を見せたところ、次のように書き換えるよう命じられたのである。 「教育勅語には今日でも通用する普遍的な内容が含まれており、その点に着目して学校の教材として活用することは差し支えない」 それは重大な方針転換であった。委員会での実際のやり取りは次のようなものだ。 和田議員「私は、教育勅語について、学校、教育現場で活用すればとても良い道徳教育になると思いますが、アメリカ占領下の昭和23年に国会で排除決議や失効確認決議がなされています。こうした決議は関係なく、副読本や学校現場で活用できると考えますが、その見解でよろしいでしょうか」 前川局長「教育勅語は、明治23年以来、およそ半世紀にわたってわが国の教育の基本理念とされてきたものでございますが、戦後の諸改革の中で教育勅語をわが国の教育の唯一の根本理念とする考え方を改めるとともに、これを神格化するような取り扱いをしないこととされ、これに代わって教育基本法が制定されたという経緯がございます。 このような経緯に照らせば、教育勅語をわが国の教育の唯一の根本理念であるとするような指導を行うことは不適切であるというふうに考えますが、教育勅語の中には今日でも通用するような内容も含まれておりまして、これらの点に着目して学校で活用するということは考えられるというふうに考えております」 下村大臣「教育勅語の中身そのものについては今日でも通用する普遍的なものがあるわけでございまして、この点に着目して学校で教材として使う、教育勅語そのものではなくて、その中身ですね、それは差し支えないことであるというふうに思います」 私は途中までは答弁資料のとおり答えていたのだが、「今日でも通用する」まで言ったところで、「それは違うだろう!」という心の声が聞こえた気がした。その強い違和感のため、私はそれに続く答弁を資料のとおりには読まなかった。 「今日でも通用するような」と意味をぼかし、「普遍的な」という言葉や「教材として」という言葉は出さず、最後は「活用することは差し支えない」と言い切らずに「活用するということは考えられるというふうに考えております」と、曖昧な言い方をした。 しかし、下村大臣はこの私の答弁では不十分だと考えたのであろう。私の答弁の後を追って自ら答弁に立ち、教育勅語の中身には「普遍的な」ものがあり、その中身を「教材として」使うことは「差し支えない」と答弁したのである。 さらに安倍政権は、2017年3月31日の閣議決定で「憲法や教育基本法等に反しないような形で教育に関する勅語を教材として用いることまでは否定されることではない」と表明した。 この閣議決定では、道徳の教材として使えるとも使えないとも言っていないが、このような反憲法的文書を道徳の教材として使うことは考えられない。仮に学校の教材として使うことがありうるとすれば、それは歴史を学ぶ際の史料としてだけだろう』、安倍政権が「教育に関する勅語を教材として用いることまでは否定されることではない」と閣議決定までしたのはうっかり忘れていたが、重大なことだ。
・『教育勅語というイデオロギー 教育勅語の復活をもくろんでいるのは柴山氏や下村氏だけではない。2018年3月8日、参議院予算委員会で教育勅語に対する考えを訊かれた稲田朋美防衛大臣(当時)はこう答弁をした。 「私は、今、教育勅語に対しての自分の考えは、その教育勅語の精神ですね、日本が道義国家を目指すという、その精神は今も取り戻すべきだというふうに考えております」 同年10月29日、衆議院本会議での稲田氏(自民党筆頭副幹事長)による代表質問では、日本の民主主義が聖徳太子の「和を以て貴しとなす」以来の「わが国古来の伝統」だとする珍説も開陳されたが、マイノリティ、社会の多様性、人権などに言及した際には、これらを「世界から尊敬される『道議大国』を目指すため」取り組むべき課題だと発言した。 「国民道徳協会」なる団体が作成した教育勅語の「口語文訳」によれば、勅語の冒頭部分「朕(ちん)惟(おも)フニ我カ(が)皇祖皇宗(こうそこうそう)國ヲ肇(はじ)ムルコト高遠ニ徳ヲ樹(た)ツルコト深厚ナリ」は、次のように訳されている。 「私は、私達の祖先が、遠い昔遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます」 皇祖とは、天皇の先祖のうち神代の時代の神々のこと。最初の皇祖は高天原(タカマガハラ)に住まう女神、天照大神(アマテラスオオミカミ)だ。その神が自分の孫である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を日本列島に降ろし、「この国は私の子孫が王となるべき国だ。孫のお前が行って治めよ。お前の子孫による統治が代々栄えることは、天と地(壌)に果て(窮)がないのと同じく永遠であろう」と命じた。これを「天孫降臨」と言い、その時の命令を「天壤無窮(てんじょうむきゅう)の神勅(しんちょく)」という。 皇宗とは、天皇の先祖のうち人間として皇位についたとされる人々のこと。最初の皇宗とされるのが神武天皇だ。彼は日向から大和へと攻め上り、橿原宮(カシハラノミヤ)で初代天皇として即位したとされる。歴史学上は実在の人物とはされていない。 その即位の日を、明治政府は日本書紀の記述をもとに計算し、西暦紀元前660年の2月11日だと特定した。考古学上は縄文時代に属する時期だ。この神武即位から年を数える数え方が「皇紀」だ。1940(昭和15)年には「皇紀2600年」が大々的に祝われ、「紀元二千六百年」という歌も作られた。 こうした遠い昔の天皇の祖先が、日本という「國ヲ肇ムル」(国を作った)だけでなく、日本人のための「徳ヲ樹」てた(道徳を樹立した)というのが、教育勅語の言い分なのである。道徳と共につくられた国だから「道義国家」というのだろう。その道徳の中心は忠と孝だ。 前述の冒頭部分は次のように続く。「我カ臣民克(よ)ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一(いつ)ニシテ世世(よよ)厥(そ)ノ美ヲ済(な)セルハ此レ我カ國體(こくたい)ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦(また)實(じつ)ニ此(ここ)ニ存ス」 「忠」とは国の中で天皇のために尽くすことであり、「孝」とは家の中で親のために尽くすことだ。臣民すなわち天皇に従う民は天皇の赤子(せきし:子ども)とみなされ、日本の国は天皇というビッグファーザーのもとに絆を結ぶ一つの大きな家族だとされる。 一方、一つひとつの家は国を構成する単位であるとされる。つまり、「国」は大きな「家」であり、「家」は小さな「国」なのだ。父親を「家長」とする「家」と天皇を「統治権の総覧者」とする「大日本帝国」とは、相似形になっている。それが日本という国の古今不変のあり方、すなわち「國體」だというのである。 そして、すべての臣民(しんみん:天皇に従う民)が「忠」と「孝」という道徳を代々受け継いできた、その美しさこそ「國體の精華」であり、教育の源もそこにあるのだという。このような国家観を「國體思想」という(「國體」は今日では通用しない観念なので、今日では通用しない漢字で表記する)』、中心をなす考え方が「忠」と「孝」というのでは、現在の憲法とは水と油だ。
・『教育勅語に込められた天皇への忠誠 そもそも教育勅語という文書は、明治天皇の侍講であった元田永孚と伊藤博文のもとで法制官僚として腕を振るった井上毅が中心になってつくられたものである。全国の神社を天皇制の下に統合した国家神道とあいまって、戦前戦中の日本人の精神を支配した「教義」だったと言ってもいい。 これは日本古来の伝統でも文化でもない。1890年につくられ、1945年には破綻したのだから、その有効期間は55年間だった。1947年に制定され、2006年に改正された教育基本法(旧法)のほうが有効期間は長かった。 1946年1月、昭和天皇は「人間宣言」を行い、同年11月に公布された日本国憲法は、天皇を日本国と日本国民統合の「象徴」とした。教育勅語の神話国家観は完全に否定されたのである。主権は天皇から国民に移り、教育勅語に代えて新憲法下の教育の理念を示す法律として1947年3月に教育基本法が制定された』、教育勅語は、「日本古来の伝統でも文化でもない。1890年につくられ、1945年には破綻したのだから、その有効期間は55年間だった。1947年に制定され、2006年に改正された教育基本法(旧法)のほうが有効期間は長かった」、これはもっと広くアピールすべき事実だ。
・『こうした経緯を受けて、1948年6月、衆議院は教育勅語を憲法に反する文書として排除することを決議し、参議院は教育基本法の制定により教育勅語が失効したことを確認する決議を行った。 教育勅語に列挙されている徳目は、天皇主権の国家と封建的な家制度を前提としたものであって、「父母ニ孝ニ」は家長である父親への服従を前提としたものであり、「兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ」は長男だけが家督相続者であることを前提とするものであり、「夫婦相和シ」は妻の夫への従属を前提とするものであり、「國憲ヲ重シ(おもんじ)」は天皇が定めた憲法に国民が従うことを前提としたものだ。いずれも日本国憲法の精神に反する道徳であり、今日でも通用する普遍性を持つものとは到底言えない。 徳目列挙の最後に出てくる「一旦緩急アレハ(ば)義勇公ニ奉シ(じ)以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘ(べ)シ」のくだりは、「戦争になったら忠義と勇気をもって天皇のために身を捧げ、永遠に続くべき皇室の命運をお支えしろ」という意味であり、個人の尊厳、国民主権、平和主義に基づく日本国憲法のもとでは、完全に否定されるべき内容である。この教育勅語を現代に再生させようとすることなど、正気の沙汰とは思えない愚かな考えである』、説得力に溢れた主張で、その通りだ。
・『教育勅語に込められた天皇への忠誠という倫理は、1945年の敗戦までの日本人の心を支配していた。敗戦のとき、それを信じていた自分の愚かさに気がついた人は多かったはずだ。特に子どもたちはそうだったろう。大人たちの中には、それに気づいた人と気づかないまま架空の倫理を戦後に持ち越した人がいた。 自分の愚かさに気がついた人物の典型として紹介したいのが、詩人で彫刻家だった高村光太郎だ。 光太郎は、亡き妻の智恵子を歌った詩集『智恵子抄』などで有名だが、戦時中は政府の戦争遂行に協力し、戦意高揚の詩を書いていた。空襲で家を失った光太郎は、宮沢賢治の弟清六を頼って岩手県花巻に移り住む。小さな小屋に独居した光太郎は、戦争に協力した自分の愚かさと向き合った。なぜ自分はこんな戦争に協力したのか。何が自分を駆り立てていたのか。 その中で彼は「典型」と題する詩を書いた。その書き出しはこうだ。「今日も愚直な雪がふり / 小屋はつんぼのやうに黙りこむ。 / 小屋にゐるのは一つの典型、 / 一つの愚劣の典型だ。 / 三代を貫く特殊国の / 特殊の倫理に鍛へられて、 / (略) / 端座粛服、 / まことをつくして唯一つの倫理に生きた / 降りやまぬ雪のやうに愚直な生きもの。」(原文ママ) 光太郎が言う「三代を貫く特殊国の特殊の倫理」こそ、教育勅語に込められた天皇絶対主義の道徳である。光太郎は祖父と父のことも詩に描いている。「ちよんまげ」という詩では、心ならずもちょんまげを切った「おぢいさん」がこう言う。 「文明開化のざんぎりになつてしまへと、 / 禁廷さまがおつしやるんだ。」「禁廷さまがおつしやるんだと聞いちやあ、 / おれもかぶとをぬいだ。 / 公方さまは番頭で、 / 禁廷さまは日本の総元締だ。」 禁廷さまとは天皇のこと、公方さまとは徳川将軍のことだ。 光太郎の父は彫刻家で東京美術学校の教授だった光雲である。今も皇居外苑に残る楠木正成の銅像は光雲とその弟子が制作したものだ。「楠公銅像」と題する詩はこう始まる。 「―まづ無事にすんだ。 / 父はさういつたきりだつた。」銅像の木型が見たいと明治天皇が望んだので、光雲らは大騒ぎで二重橋内に木型を組み立てた。天皇がこれを見に来たとき…「かぶとの鍬型の劔の楔が一本、 / 打ち忘れられてゐた為に / 風のふくたび劔がゆれる。 / もしそれが落ちたら切腹と / 父は決心してゐたとあとできいた。」 そして、この詩は次のように終わる。「父は命をささげてゐるのだ。 / 人知れず私はあとで涙を流した。」 光太郎は太平洋戦争が始まったときの自分を振り返って、「真珠湾の日」と題する詩も書いている。 「天皇あやふし。 / ただこの一語が / 私の一切を決定した。 / 子供の時のおぢいさんが、 / 父が母がそこに居た。」「私の耳は祖先の声でみたされ、 / 陛下が、陛下がと、 / あへぐ意識は眩(めくるめ)いた。」 光太郎はこのように「三代を貫く特殊国の特殊の倫理」に支配されていた自分が「愚劣の典型」だったと自覚したのである』、なるほど。
・『戦前回帰派は「悪性のウイルス」 しかし一方、光太郎のような覚醒を経ることなく、「特殊の倫理」を戦後に持ち越した人たちもいた。そういう人たちは、政治家にも経済人にも教育者にも宗教家にもいた。彼らは日本国憲法を「押し付け憲法」「マック憲法」(マックはマッカーサーのこと)などと蔑み、「日本人にふさわしい憲法」が必要だと叫び、個人の尊厳よりも国家や民族を上位の価値とする。 自由や権利よりも義務や責任を強調し、自己抑制や自己犠牲を美徳とし、一人ひとりの個性を伸ばすことよりも国・学校・郷土・家族などの「全体」に奉仕することを重視する。個人主義という言葉が嫌いで、滅私奉公という言葉が好きな人たちだ。端的に言えば「戦前回帰」を求める人たちである。 戦前回帰の動きは戦後の日本においてつねに存在していたが、言論の世界と学問の世界からそれをしっかりと批判し、排除する力が働いてきた。その力が近年明らかに弱まっている。 それに逆比例して戦前的価値観を持つ人たち、国家主義、自民族中心主義、歴史修正主義を身にまとった人たち、教育勅語に込められた國體思想を信奉する人たちが、その黒い姿を日本中のあちこちに現してきている。 その勢力は、日本会議、日本青年会議所、神社などを巣として増殖を続け、十分な免疫を持たない若い世代に「悪性のウイルス」が広がっている』、「戦前回帰派は「悪性のウイルス」」とは言い得て妙だが、日本がそれにどんどん侵されつつあるのは、本当に恐ろしい話だ。
前川氏の続編が楽しみである。
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その他外国人問題(その1)(外国人労働者の健保利用 「不正ばかり」と言われるが実態は?、中国人の街・川口で広がる「日本人との距離」 芝園団地の人々は何を考えているのか) [社会]
昨日の外国人労働者問題に続いて、今日は、その他外国人問題(その1)(外国人労働者の健保利用 「不正ばかり」と言われるが実態は?、中国人の街・川口で広がる「日本人との距離」 芝園団地の人々は何を考えているのか)を取上げよう。
先ずは、フリーライターの早川幸子氏が昨年11月20日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「外国人労働者の健保利用、「不正ばかり」と言われるが実態は?」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/185662
・『外国人労働者の受け入れを拡大する出入国管理法(入管法)改正案の国会審議が進むなか、注目を浴びるようになったのが外国人への公的医療保険(健康保険)の適用問題だ。 労働者を対象とする健康保険は、本人だけではなく扶養家族の加入も認めている。外国人労働者が増加すると、その家族も健康保険の適用対象となり、医療費が膨張する可能性があるが、それを快く思わない人もいる。 そうした層に配慮してか、健康保険を利用できる扶養家族は、日本国内に居住している人に限定する方向で政府が検討していることを、11月6日の新聞各紙が報道している。翌7日の参議院予算委員会でも、国民民主党の足立信也議員が、外国人労働者に扶養される家族の健康保険の適用範囲について質問する場面があった。 外国人労働者の受け入れ問題のなかで、健康保険の問題がとりあげられるのは、テレビの情報番組や週刊誌などが、外国人による健康保険の不適切利用を疑う事例をあいついで報道していることとも無関係ではないだろう』、不適切利用がそんなに多いのか、実態はどうなのだろう。
・『外国人の健保利用は合法 不適切利用とは言い切れない 外国人による健康保険の不適切利用を疑うもののひとつとして、在留資格を偽って国民健康保険(国保)に加入し、日本の医療機関を受診するというものがある。 例えば、留学目的で来日して国保に加入した外国人が、来日後すぐに医療機関を受診して、高額な医療費のかかるC型肝炎やがんなどの治療を受けるケースが報道されている。確かに、C型肝炎やがんなど大きな病気を抱えている人がわざわざ留学するとは考えにくく、来日してすぐに深刻な病気が見つかるのは不自然だ。そのため、最初から日本の健康保険を使って治療を受けることを目的に、在留資格を偽って来日しているのではないかと疑われているのだ。 外国人による健康保険の不適切利用で、もうひとつ疑われているのが「海外療養費」だ。海外で病気やケガをして医療機関を受診した場合、その医療費は全額自己負担になるが、帰国後に海外療養費の申請をすると、現地でかかった医療費の一部を健康保険が払い戻してくれる。 祖国に家族を残して日本で働いている外国人労働者もいるが、家族が現地の医療機関にかかった場合、海外療養費の申請をすれば健康保険から払い戻しが受けられる。ただし、海外で受けた治療の利用実態を日本で把握するのは難しいため、本当は医療機関を利用していないにもかかわらず、書類を偽造して、海外療養費を不正に受け取っていると疑われるケースがあるようだ。 だが、いずれも不適切利用と決めつけるのは難しいものがある。なぜなら、多くは制度に則って申請されているからだ』、確かに制度に則って申請されたとはいえ、何とか網をかける制度改正は出来ないのだろうか。
・『労働者の三親等以内の親族は扶養家族として健保に加入できる 皆保険制度をとっている日本では、この国で暮らすすべての人に、なんらかの健康保険に加入することを義務づけている。75歳未満の人の加入先は職業に応じて異なり、会社員は勤務先の健保組合、公務員は共済組合などの職域保険に加入する。職域保険に加入できない自営業やフリーランス、無職の人などには、住所地にある都道府県の国保に加入することを義務づけ、皆保険制度を実現している。 加入に際して国籍要件はなく、会社員のための健保組合は、労働の実態があれば外国人も加入しなければならない。加入が義務付けられているのは正社員だけではない。パートなどの短時間労働者も年収130万円以上(従業員501人以上の企業は106万円以上)などの要件を満たすと加入義務が発生し、所得に応じた保険料を負担する。 会社員のための健保組合は、扶養家族の医療保障を行う「被扶養者」の制度もあり、一定の年収要件などを満たせば、その人の収入で生活している扶養家族も保険料の追加負担なしで加入できる。 健保組合で扶養家族として認められているのは、原則的に同居している三親等以内の親族。ただし、配偶者、子ども、孫、父母、祖父母、曽祖父母、兄姉弟妹は、同居していなくても、仕送りなどをしていて加入者本人と生計維持関係があれば、健康保険の扶養に入ることができる。 健康保険の扶養家族の年収要件は、原則的に年収130万円未満(従業員501人以上の企業で働く扶養家族は106万円未満)だが、60歳以上の人と障害認定を受けている人は180万円未満まで。その金額が、仕送りよりも少ないことが条件となっている。 企業に雇用されない外国人留学生などは、在留期間が3ヵ月以上見込まれると国保に加入することになっており、所得や家族の人数などに応じた保険料を負担する。 加入すると、病院や診療所で医療費の3割を負担(70歳未満の場合)するだけで診療を受けられる「療養の給付」、医療費が高額になった場合に負担を抑えられる「高額療養費」、海外の医療機関で治療を受けて自己負担したときに、費用の一部を払い戻してもらえる「海外療養費」、加入者やその扶養家族が出産した場合に子どもひとりにつき42万円(産科医療補償制度に加入している医療機関で出産した場合)の「出産育児一時金」などの保障を受けられる。 勤務先の健保組合に加入する労働者なら、病気やケガで働けなくなった期間の所得保障をしてくれる「傷病手当金」、出産のための働けない期間の所得保障をしてくれる「出産手当金」もあり、国籍に関係なく、これらの保障を平等に受けられるようになっている。 こうして、日本では自国民だけではなく、長期滞在の外国人も含めて、この国で暮らす人々が病気やケガをしたときの医療保障を行っているわけだが、健保組合も、国保も、みんなが少しずつ継続的に保険料を負担することで成り立っている制度だ。 特に、国保には多額の税金も投入されている。冒頭で紹介したような、在留資格を偽って来日し、国保を使って医療を受けたら本国に帰ってしまう外国人の利用は、本来の設立趣旨から外れており、厳しく取り締まる必要がある。 ちなみに、ふだん日本で暮らしていない在外邦人が、ビザの切り替え時期などに日本に帰国し、その間だけ国保に加入して日本で医療を受けている人もいる。ふだん保険料を負担していないのに、国保を利用しているという点では外国人と同じだが、こちらはあまり問題にならない。不適切利用を糾弾するなら、こうした在外邦人にも目を向ける必要があるだろう。 とはいえ、報道されている外国人をめぐる健康保険問題は、制度に照らし合わせると不適切利用と言えないものが多い』、在外邦人にも不適切利用があるというのは初めて知った。
・『外国人による不適正利用の蓋然性は認められていない 海外療養費は不正利用の温床のように見られがちだが、適切に利用するにはなんら問題はない。 扶養家族として認められた妻や子どもが、祖国で病気やケガ治療のために医療機関を受診した場合に、海外療養費の申請をして、かかった医療費の一部の払い戻しを受けるのは合法だ。実際に医療機関を受診し、診療内容が分かる明細書や領収書などを揃えて申請すれば、払い戻しを受ける権利はある。 出産育児一時金は、加入者本人のほか、扶養家族が出産したときも受け取れるので、子どもが生まれたという事実があれば、どこで生まれようとも給付の対象になる。その数が多いからといって、不正と決めつけることはできない。 海外療養費、出産育児一時金は、制度として存在しているのだから、実際に自分がそのケースに当てはまれば利用するのは当然だろう。彼らもまた保険料を負担し、制度を支えている一員だ。書類に不備がないのに、「外国人だから」という理由で認めないのは不公平で、日本人が同じ疑いをかけられたら大きな問題になるはずだ。 不適切利用を疑う声に押されて、国は2018年3月から、外国人を国保に適用する際の資格管理の厳格化を試験的に始めている』、合理的な厳格化であれば、どんどん進めるべきだろう。
・『だが、実際、報道されているようなケースは極端な例で、外国人による不適切利用は多くはないことを、2017年12月27日に厚生労働省が出した「在留外国人の国民健康保険適用の不適正事案に関する通知制度の試行的運用について」で、次のように認めている。
*** 本年3月、都道府県及び市町村の御協力の下、「在留外国人の国民健康保険の給付状況等に関する調査について」(平成29年3月13日付け保医発0313第1号保険局国民健康保険課長通知。以下、「全国調査通知」という。)により、在留外国人不適正事案の実態把握を行ったところ、その蓋然性があると考えられる事例は、ほぼ確認されなかった。 しかし、公費や被保険者全体の相互扶助により運営する国民健康保険制度において、極少数であっても、偽装滞在により国民健康保険に加入して高額な医療サービスを受ける事例が存在することは不適切であるから、より一層、適正な資格管理に努める必要がある。 そこで、今般、法務省と連携し、外国人被保険者が偽造滞在している可能性が高いと考えられる場合には、市町村が当該外国人被保険者を当該市町村所管の地方入国管理局へ通知し、当該取り消した事実を市町村に情報提供する等の新たな仕組みを試行的に創設することとする。 ***
つまり、不適切利用が多いことが確実に認められたわけではないが、予防線を張って外国人の国保適用を厳格化しようというもので、実態よりもイメージ先行で対応を始めた感が否めない。 入管法改正に伴い、健康保険法も改正し、健康保険を適用する外国人労働者の扶養家族の範囲を日本国内に居住している人に限定しようとする動きは、こうしたイメージのなかから生まれてきたものだ。 厳しい保険財政を考えると、健康保険を適用する扶養家族に一定の線引きをすることは必要だと考えも分からなくはない。だが、扶養家族が日本国内で暮らそうが、本国で暮らそうが、その外国人労働者の収入で暮らしているなら、病気やケガをしたときの医療費負担も肩にのしかかってくるだろう。 1927年(昭和2年)に健康保険法が施行された背景には、労働争議が絶えなかった当時、労使間の協調を図って、国家産業を発達させるためには、病気やケガをしても仕事を辞めずにすむ制度を作り、労働者の生活を安定させるという意図があった。その後、労働者が安心して働くためには、扶養家族の健康も含まれるという考えから、被扶養者にも適用範囲が拡大していった、 11月14日に行われた厚生労働省の社会保障審議会医療保険部会では、委員の1人から、健康保険を適用する外国人労働者の扶養家族についての質問が出たが、担当課長は「国内に限定することを固めた事実はない」と回答。まずは、現行法のなかでの運用の強化を行うとして、慎重な態度をとっていた。 憂いなく安心して仕事に専念するためには、家族の健康も重要な問題で、外国人にも同じことがいえるはずだ。日本に来る外国人労働者に安心して働いてもらうためにも、健康保険の扶養家族の適用範囲は、財源論だけにとらわれない慎重な議論が必要だろう』、確かに健康保険制度自体は望ましいものだが、外国人の存在が大きくなってきた現在、不当な需給を防止するための、運用の強化は大いに必要だろう。
次に、ジャーナリストの中島 恵氏が12月30日付け東洋経済オンラインに寄稿した「中国人の街・川口で広がる「日本人との距離」 芝園団地の人々は何を考えているのか」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/257423
・『「初級から中級の日本語を学びたい人、日本人とおしゃべりしたい人、ぜひ参加してください!(想学?初?中?日?的人。想和日本人聊天的人。自由参加!)」 ある日曜日の午後、埼玉県川口市の芝園団地内にある公民館で、こんな貼り紙を見つけた。NPO法人川口国際交流クラブが行っているもので、参加費無料の日本語教室だ。覗いてみると、中国人やベトナム人、ボランティアの日本人ら20人以上が集まっていた。 「朝のあいさつは『おはようございます』です。昼間に会ったら、『こんにちは』。さあ、言ってみましょう」』、川口市の芝園団地は外国人が多いので有名だ。
・『2週間前にハルビンから来日したばかりの男の子 中国人の母親と子ども、ボランティアの日本人女性の3人のテーブルに座り、しばらく見学させてもらった。40代前半くらいの中国人の母親は日本語が話せたが、隣に座る息子(12歳)は一言も話せないようだ。話を聞いてみると、息子は2週間前にハルビンから来日したばかり。その日、初めて母親が日本語教室に連れてきたという。 息子は5歳から12歳まで中国のハルビンに住む祖父母の家に預けられていた。下には7歳になる子どももいて、その子はまだ祖父母の下に預けているという。複雑な家庭の事情が背景にあるようだが、中国では国内でも、北京や上海で生活費を稼ぎ、田舎に住む祖父母の下に子どもを預けている家庭は少なくない。初対面で、この家庭の詳しい事情まで聞くことはできなかったが、おそらく中学入学を前に、せめて1人だけでも子どもを手元に呼び寄せたいと母親は考えたのだろう。 母親は息子が日本の生活に慣れるまでは心配だからと、子どもが来日する前に仕事を辞めたという。来春から日本の公立中学に通うという息子の日本語教育について、深く思い悩んでいるように見えた。 団地内の別の日本語教室では、また違う光景が展開されていた。こちらは若い中国人ママが中心となって行う「芝園支援交流倶楽部」の主催によるものだ。LINEと使い方が似ている中国のSNS、ウィーチャット(微信)のグループ170人ほどに配信して参加者を募っている。月に2回、月謝は4000円。日曜日に日本人教師が授業を行っている。 筆者が知る限り、芝園団地内の日本語教室はこの2つのみだが、もしかしたら、ほかにもSNSで連絡を取り合い、団地内の中国人が集まって日本語を学んでいるのかもしれない。 芝園団地は“中国人比率が非常に高い団地”として近年、全国的に有名になった。川口市の人口約60万人のうち、中国人は約2万人。自治体別の在留中国人数で全国第5位だ。東京都、大阪市などの大都市を除くと、中国人比率の高さは群を抜いている。その象徴的な存在が、このUR都市機構の賃貸住宅、芝園団地だ。2018年6月時点で、約4500人いる住民のうち、約半数の約2300人が中国人、あるいは中国にルーツを持つ人々となっている』、「住民のうち、約半数の約2300人が中国人・中国系」とは、確かに驚くほどの比率だ。
・『筆者は今春から拙著『日本の「中国人」社会』の取材のため、団地に何度も足を運んできた。最寄り駅のJR京浜東北線、蕨(わらび)駅から団地に向かって歩き始めると、すれ違う人々から聞こえてくるのは、ほとんど中国語だ。 敷地内や近隣する通りには中国人向けと思われる中華料理店や中華食材店が軒を連ねている。団地は中庭を囲んでひとつの小さな街のようになっているが、全部で8棟ある居住棟のエレベーター付近には、ゴミ出しや騒音に関する注意事項や行事のお知らせが日本語と中国語で併記されている。 平日の昼間や週末に中庭を歩くと、元気に遊び回る子どもたちと、中国から「子守り」のためにわざわざ来日した祖父母たちが大勢いて、日本の一般的な団地とはかなり雰囲気が異なる。筆者は長年中国と中国人を取材してきたが、全住民の半数が中国人というのは、かなりのインパクトだ。現地に行くたびに「まるで中国の小区(集合住宅)みたい」という感覚に襲われる』、中国語や中国人に馴れた筆者でもそう感じるのであれば、一般の日本人にとっては居心地は悪そうだ。
・『芝園団地に多くの中国人が集住するようになった理由 有名になった芝園団地だが、中国人たちが何を考えているのかについてはあまり報じられていない。 そもそもなぜ、芝園団地にこれほど多くの中国人が集住するようになったのか。自治会や、住民、元住民などへのインタビューを総合すると、主に以下のような理由が考えられる。
+UR都市機構の物件は保証人が必要ないので、外国人でも借りやすい
+1980年代から1990年代にかけて新宿や池袋の日本語学校に中国人留学生が増えたが、彼らがしだいに郊外の安くてアクセスのいい地域の物件を求めるようになり、移住してきた
+IT企業のエンジニア用の寮として借り上げられている
+友人や親戚など、中国人同士のクチコミを頼ってきた
+すでに中国人コミュニティーが形成されていて、母国語で情報を得やすい
自治会によると、増えてきたのは1990年代後半からで、当初は何らかのきっかけで大学教授などのエリート層が入居し始めたという。以降、東日本大震災の年などを除き、毎年、右肩上がりで増え続けているそうだ。 2014年に自治会が住民200人に対して行ったアンケート調査では、東北3省(遼寧省、吉林省、黒竜江省)出身者で、主に30代のファミリー層が多かった。 2017年からこの団地に住んでいる20代の中国人男性はこう語る。「私は上海出身なのですが、これまで同郷の人には1人しか会ったことがありません。東北や福建省出身者が多いのではないでしょうか。仕事はIT企業のエンジニアが多い。蕨からは品川や新橋、東京駅にアクセスしやすく、池袋にも近い。生活費の安さや住みやすさがクチコミで中国人社会に広まり、ここまで数が増えたのでは」 確かに、隣駅の西川口駅前に広がる新興のチャイナタウンで中華料理のメニューを開いて見ても、とくに東北料理や福建料理が多く、平日の夜に食べに行くと、会社員風の男性や若い家族連れが目につく』、「UR都市機構の物件は保証人が必要ないので、外国人でも借りやすい」というのは要因として大きそうだ。
・『筆者が気になった「言葉」の問題 また、筆者が気になったのは、「言葉」の問題だ。市内に多数ある日本語教室の存在だった。川口市のパンフレットによると、市内には19カ所もの日本語ボランティア教室がある。 日本に住む中国人は約73万人(2017年末の法務省の統計)に上るが、大まかにいえば、1)留学生、2)留学後そのまま就職や結婚をした人、3)仕事のために来日した人々(とその家族)の主に3つに分けられる。 1)~3)のいずれの場合も、技能実習生などの場合を除き、基本的には本国で日本語を学んでから来日したか、あるいは来日後、日本語学校などで本格的に日本語を学んだケースが多いと思われる。つまり、日本にいる中国人の大半は、日本語はある程度話せることが多い。 ところが、ここには日本語教室が多く、まだ日本語を話せない人が多くいるとみられる。 つまり、“通常コース”から外れた人々、たとえば祖父母や乳飲み子を抱えた主婦、祖父母の元から親元に返された子どもなどのように、来日前に日本語を学ぶ機会がなかった人々が多く来日しているのではないかということだ。 団地内でベビーカーを押しながら散歩している若い女性とその母親らしき中年の女性に中国語で声を掛けてみた。 「私は福建省出身です。ここに引っ越してきて1年くらい。夫の友人の紹介でここに住むことになりました。まさか私が日本に来ることになるとは思っていなかったのですが、夫が池袋で飲食業に勤めることになって、私も夫についてやってきました。この団地なら中国人が多いし、私も寂しくないだろう、と思ったみたい。母も中国から手伝いにきてくれるし、周囲はみんな中国語ばかりの環境なので安心。ここで中国人の友達もできたし、日本語ができなくてもまったく不自由しないですよ」 この女性に「日本語はできる?」と聞いてみたところ「うん、少し……」と小さな声で答え、母親と顔を見合わせて笑っていた。 とくに生活に不便はないのだろう。団地に隣接するスーパー「マミーマート」でも、レジで日本語を話す必要はなさそうだった。 団地の敷地内に数軒ある中華料理店や雑貨店の経営者や店員は、ほぼ全員が中国人だ。以前、ここに住んでいたという友人の中国人によると、団地から徒歩で行ける蕨市立病院にも中国人看護師がいるので心強いという』、「日本語ができなくてもまったく不自由しない」というのは、事実なのだろうが、決して望ましいことではない。「中国人看護師がいる」とはさすが蕨市立病院だけある。
・『「中国人だけ」の社会 日本に住む中国人には、都心の大企業に勤務するエリート会社員も増えてきた。中国の経済躍進を追い風に、日中の橋渡しをしているような国際人材の存在がクローズアップされている。彼らはいわゆる、日の当たる存在だ。しかし、その一方、生活のために子どもを中国の祖父母に預け、自分たちが長時間稼いで仕送りをしている家庭、日の当たらない存在もまだまだいる。 後者の“古いタイプの中国人”が、芝園団地などに代表されるような、中国人が多い地域に集まって住み、助け合いながら生きているということなのだろう。それはそれでいいことなのかもしれないが、筆者には心配もある。日本に住んでいながら、中国人だけの社会を構築し、その中でのみ生きる人がどんどん増えていき、日本社会に溶け込まないままになるのではないか、ということだ。 ある時、芝園団地に住む中国人に「次に来たら、あの中華料理店で食べてみたいな」と言ったところ、大変驚かれた。「ここに住む日本人は、中国人がやっている店にはまず行かないですよ。お互いに通う店はまったく違うし、行動様式も異なる。彼らは同じ団地に住んではいるけれど、交わることはほとんどないんです」というのだ。 また、こんなこともあった。中国人ママたちが主催するフリーマーケットが集会所で行われたときのこと。声を掛けた女性から「えっ?あなた日本人なの?ここに日本人もくるのね」と言われた。嫌味で言っているのではなく、純粋に驚いたようだった。 ひとつの団地の敷地の中で毎日のように顔を見合わせていても、お互いにコミュニケーションすることはほとんどない。「冷ややかな分断」という言葉が浮かんだ。 数年前までは夜中の騒音やゴミの捨て方、子どもの外でのおしっこなどの問題が起きていたが、管理するURが中国語の通訳を置いたり、注意の貼り紙を増やしたりするなどして対応した結果、最近では住民同士のトラブルは減ってきたという。 しかし、トラブルが減った=何も問題が起きていない、というわけではない。コミュニケーションがないから、表面的なトラブルはないだけ、ともいえる。 分断したままの“快適な生活”は、続くだろうか。何かトラブルが起きたとき、まったくコミュニケーションを取ってこなかった外国人のことには疑心暗鬼になりやすい。「ここには〇〇人がいるから……」といった根拠のない臆測や批判が湧き上がる可能性はないだろうか。 私たちは新しい“隣人”たちについて、もう少し知る必要性があるのではないか』、昨日取上げたなかで政府が「共生」を安易にキャッチフレーズ化していることを批判したが、「冷ややかな分断」とはそんなに生易しいことではないことを物語っている。関東大震災時の朝鮮人大虐殺のような不幸なことが起きないことを願うばかりだ。
先ずは、フリーライターの早川幸子氏が昨年11月20日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「外国人労働者の健保利用、「不正ばかり」と言われるが実態は?」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/185662
・『外国人労働者の受け入れを拡大する出入国管理法(入管法)改正案の国会審議が進むなか、注目を浴びるようになったのが外国人への公的医療保険(健康保険)の適用問題だ。 労働者を対象とする健康保険は、本人だけではなく扶養家族の加入も認めている。外国人労働者が増加すると、その家族も健康保険の適用対象となり、医療費が膨張する可能性があるが、それを快く思わない人もいる。 そうした層に配慮してか、健康保険を利用できる扶養家族は、日本国内に居住している人に限定する方向で政府が検討していることを、11月6日の新聞各紙が報道している。翌7日の参議院予算委員会でも、国民民主党の足立信也議員が、外国人労働者に扶養される家族の健康保険の適用範囲について質問する場面があった。 外国人労働者の受け入れ問題のなかで、健康保険の問題がとりあげられるのは、テレビの情報番組や週刊誌などが、外国人による健康保険の不適切利用を疑う事例をあいついで報道していることとも無関係ではないだろう』、不適切利用がそんなに多いのか、実態はどうなのだろう。
・『外国人の健保利用は合法 不適切利用とは言い切れない 外国人による健康保険の不適切利用を疑うもののひとつとして、在留資格を偽って国民健康保険(国保)に加入し、日本の医療機関を受診するというものがある。 例えば、留学目的で来日して国保に加入した外国人が、来日後すぐに医療機関を受診して、高額な医療費のかかるC型肝炎やがんなどの治療を受けるケースが報道されている。確かに、C型肝炎やがんなど大きな病気を抱えている人がわざわざ留学するとは考えにくく、来日してすぐに深刻な病気が見つかるのは不自然だ。そのため、最初から日本の健康保険を使って治療を受けることを目的に、在留資格を偽って来日しているのではないかと疑われているのだ。 外国人による健康保険の不適切利用で、もうひとつ疑われているのが「海外療養費」だ。海外で病気やケガをして医療機関を受診した場合、その医療費は全額自己負担になるが、帰国後に海外療養費の申請をすると、現地でかかった医療費の一部を健康保険が払い戻してくれる。 祖国に家族を残して日本で働いている外国人労働者もいるが、家族が現地の医療機関にかかった場合、海外療養費の申請をすれば健康保険から払い戻しが受けられる。ただし、海外で受けた治療の利用実態を日本で把握するのは難しいため、本当は医療機関を利用していないにもかかわらず、書類を偽造して、海外療養費を不正に受け取っていると疑われるケースがあるようだ。 だが、いずれも不適切利用と決めつけるのは難しいものがある。なぜなら、多くは制度に則って申請されているからだ』、確かに制度に則って申請されたとはいえ、何とか網をかける制度改正は出来ないのだろうか。
・『労働者の三親等以内の親族は扶養家族として健保に加入できる 皆保険制度をとっている日本では、この国で暮らすすべての人に、なんらかの健康保険に加入することを義務づけている。75歳未満の人の加入先は職業に応じて異なり、会社員は勤務先の健保組合、公務員は共済組合などの職域保険に加入する。職域保険に加入できない自営業やフリーランス、無職の人などには、住所地にある都道府県の国保に加入することを義務づけ、皆保険制度を実現している。 加入に際して国籍要件はなく、会社員のための健保組合は、労働の実態があれば外国人も加入しなければならない。加入が義務付けられているのは正社員だけではない。パートなどの短時間労働者も年収130万円以上(従業員501人以上の企業は106万円以上)などの要件を満たすと加入義務が発生し、所得に応じた保険料を負担する。 会社員のための健保組合は、扶養家族の医療保障を行う「被扶養者」の制度もあり、一定の年収要件などを満たせば、その人の収入で生活している扶養家族も保険料の追加負担なしで加入できる。 健保組合で扶養家族として認められているのは、原則的に同居している三親等以内の親族。ただし、配偶者、子ども、孫、父母、祖父母、曽祖父母、兄姉弟妹は、同居していなくても、仕送りなどをしていて加入者本人と生計維持関係があれば、健康保険の扶養に入ることができる。 健康保険の扶養家族の年収要件は、原則的に年収130万円未満(従業員501人以上の企業で働く扶養家族は106万円未満)だが、60歳以上の人と障害認定を受けている人は180万円未満まで。その金額が、仕送りよりも少ないことが条件となっている。 企業に雇用されない外国人留学生などは、在留期間が3ヵ月以上見込まれると国保に加入することになっており、所得や家族の人数などに応じた保険料を負担する。 加入すると、病院や診療所で医療費の3割を負担(70歳未満の場合)するだけで診療を受けられる「療養の給付」、医療費が高額になった場合に負担を抑えられる「高額療養費」、海外の医療機関で治療を受けて自己負担したときに、費用の一部を払い戻してもらえる「海外療養費」、加入者やその扶養家族が出産した場合に子どもひとりにつき42万円(産科医療補償制度に加入している医療機関で出産した場合)の「出産育児一時金」などの保障を受けられる。 勤務先の健保組合に加入する労働者なら、病気やケガで働けなくなった期間の所得保障をしてくれる「傷病手当金」、出産のための働けない期間の所得保障をしてくれる「出産手当金」もあり、国籍に関係なく、これらの保障を平等に受けられるようになっている。 こうして、日本では自国民だけではなく、長期滞在の外国人も含めて、この国で暮らす人々が病気やケガをしたときの医療保障を行っているわけだが、健保組合も、国保も、みんなが少しずつ継続的に保険料を負担することで成り立っている制度だ。 特に、国保には多額の税金も投入されている。冒頭で紹介したような、在留資格を偽って来日し、国保を使って医療を受けたら本国に帰ってしまう外国人の利用は、本来の設立趣旨から外れており、厳しく取り締まる必要がある。 ちなみに、ふだん日本で暮らしていない在外邦人が、ビザの切り替え時期などに日本に帰国し、その間だけ国保に加入して日本で医療を受けている人もいる。ふだん保険料を負担していないのに、国保を利用しているという点では外国人と同じだが、こちらはあまり問題にならない。不適切利用を糾弾するなら、こうした在外邦人にも目を向ける必要があるだろう。 とはいえ、報道されている外国人をめぐる健康保険問題は、制度に照らし合わせると不適切利用と言えないものが多い』、在外邦人にも不適切利用があるというのは初めて知った。
・『外国人による不適正利用の蓋然性は認められていない 海外療養費は不正利用の温床のように見られがちだが、適切に利用するにはなんら問題はない。 扶養家族として認められた妻や子どもが、祖国で病気やケガ治療のために医療機関を受診した場合に、海外療養費の申請をして、かかった医療費の一部の払い戻しを受けるのは合法だ。実際に医療機関を受診し、診療内容が分かる明細書や領収書などを揃えて申請すれば、払い戻しを受ける権利はある。 出産育児一時金は、加入者本人のほか、扶養家族が出産したときも受け取れるので、子どもが生まれたという事実があれば、どこで生まれようとも給付の対象になる。その数が多いからといって、不正と決めつけることはできない。 海外療養費、出産育児一時金は、制度として存在しているのだから、実際に自分がそのケースに当てはまれば利用するのは当然だろう。彼らもまた保険料を負担し、制度を支えている一員だ。書類に不備がないのに、「外国人だから」という理由で認めないのは不公平で、日本人が同じ疑いをかけられたら大きな問題になるはずだ。 不適切利用を疑う声に押されて、国は2018年3月から、外国人を国保に適用する際の資格管理の厳格化を試験的に始めている』、合理的な厳格化であれば、どんどん進めるべきだろう。
・『だが、実際、報道されているようなケースは極端な例で、外国人による不適切利用は多くはないことを、2017年12月27日に厚生労働省が出した「在留外国人の国民健康保険適用の不適正事案に関する通知制度の試行的運用について」で、次のように認めている。
*** 本年3月、都道府県及び市町村の御協力の下、「在留外国人の国民健康保険の給付状況等に関する調査について」(平成29年3月13日付け保医発0313第1号保険局国民健康保険課長通知。以下、「全国調査通知」という。)により、在留外国人不適正事案の実態把握を行ったところ、その蓋然性があると考えられる事例は、ほぼ確認されなかった。 しかし、公費や被保険者全体の相互扶助により運営する国民健康保険制度において、極少数であっても、偽装滞在により国民健康保険に加入して高額な医療サービスを受ける事例が存在することは不適切であるから、より一層、適正な資格管理に努める必要がある。 そこで、今般、法務省と連携し、外国人被保険者が偽造滞在している可能性が高いと考えられる場合には、市町村が当該外国人被保険者を当該市町村所管の地方入国管理局へ通知し、当該取り消した事実を市町村に情報提供する等の新たな仕組みを試行的に創設することとする。 ***
つまり、不適切利用が多いことが確実に認められたわけではないが、予防線を張って外国人の国保適用を厳格化しようというもので、実態よりもイメージ先行で対応を始めた感が否めない。 入管法改正に伴い、健康保険法も改正し、健康保険を適用する外国人労働者の扶養家族の範囲を日本国内に居住している人に限定しようとする動きは、こうしたイメージのなかから生まれてきたものだ。 厳しい保険財政を考えると、健康保険を適用する扶養家族に一定の線引きをすることは必要だと考えも分からなくはない。だが、扶養家族が日本国内で暮らそうが、本国で暮らそうが、その外国人労働者の収入で暮らしているなら、病気やケガをしたときの医療費負担も肩にのしかかってくるだろう。 1927年(昭和2年)に健康保険法が施行された背景には、労働争議が絶えなかった当時、労使間の協調を図って、国家産業を発達させるためには、病気やケガをしても仕事を辞めずにすむ制度を作り、労働者の生活を安定させるという意図があった。その後、労働者が安心して働くためには、扶養家族の健康も含まれるという考えから、被扶養者にも適用範囲が拡大していった、 11月14日に行われた厚生労働省の社会保障審議会医療保険部会では、委員の1人から、健康保険を適用する外国人労働者の扶養家族についての質問が出たが、担当課長は「国内に限定することを固めた事実はない」と回答。まずは、現行法のなかでの運用の強化を行うとして、慎重な態度をとっていた。 憂いなく安心して仕事に専念するためには、家族の健康も重要な問題で、外国人にも同じことがいえるはずだ。日本に来る外国人労働者に安心して働いてもらうためにも、健康保険の扶養家族の適用範囲は、財源論だけにとらわれない慎重な議論が必要だろう』、確かに健康保険制度自体は望ましいものだが、外国人の存在が大きくなってきた現在、不当な需給を防止するための、運用の強化は大いに必要だろう。
次に、ジャーナリストの中島 恵氏が12月30日付け東洋経済オンラインに寄稿した「中国人の街・川口で広がる「日本人との距離」 芝園団地の人々は何を考えているのか」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/257423
・『「初級から中級の日本語を学びたい人、日本人とおしゃべりしたい人、ぜひ参加してください!(想学?初?中?日?的人。想和日本人聊天的人。自由参加!)」 ある日曜日の午後、埼玉県川口市の芝園団地内にある公民館で、こんな貼り紙を見つけた。NPO法人川口国際交流クラブが行っているもので、参加費無料の日本語教室だ。覗いてみると、中国人やベトナム人、ボランティアの日本人ら20人以上が集まっていた。 「朝のあいさつは『おはようございます』です。昼間に会ったら、『こんにちは』。さあ、言ってみましょう」』、川口市の芝園団地は外国人が多いので有名だ。
・『2週間前にハルビンから来日したばかりの男の子 中国人の母親と子ども、ボランティアの日本人女性の3人のテーブルに座り、しばらく見学させてもらった。40代前半くらいの中国人の母親は日本語が話せたが、隣に座る息子(12歳)は一言も話せないようだ。話を聞いてみると、息子は2週間前にハルビンから来日したばかり。その日、初めて母親が日本語教室に連れてきたという。 息子は5歳から12歳まで中国のハルビンに住む祖父母の家に預けられていた。下には7歳になる子どももいて、その子はまだ祖父母の下に預けているという。複雑な家庭の事情が背景にあるようだが、中国では国内でも、北京や上海で生活費を稼ぎ、田舎に住む祖父母の下に子どもを預けている家庭は少なくない。初対面で、この家庭の詳しい事情まで聞くことはできなかったが、おそらく中学入学を前に、せめて1人だけでも子どもを手元に呼び寄せたいと母親は考えたのだろう。 母親は息子が日本の生活に慣れるまでは心配だからと、子どもが来日する前に仕事を辞めたという。来春から日本の公立中学に通うという息子の日本語教育について、深く思い悩んでいるように見えた。 団地内の別の日本語教室では、また違う光景が展開されていた。こちらは若い中国人ママが中心となって行う「芝園支援交流倶楽部」の主催によるものだ。LINEと使い方が似ている中国のSNS、ウィーチャット(微信)のグループ170人ほどに配信して参加者を募っている。月に2回、月謝は4000円。日曜日に日本人教師が授業を行っている。 筆者が知る限り、芝園団地内の日本語教室はこの2つのみだが、もしかしたら、ほかにもSNSで連絡を取り合い、団地内の中国人が集まって日本語を学んでいるのかもしれない。 芝園団地は“中国人比率が非常に高い団地”として近年、全国的に有名になった。川口市の人口約60万人のうち、中国人は約2万人。自治体別の在留中国人数で全国第5位だ。東京都、大阪市などの大都市を除くと、中国人比率の高さは群を抜いている。その象徴的な存在が、このUR都市機構の賃貸住宅、芝園団地だ。2018年6月時点で、約4500人いる住民のうち、約半数の約2300人が中国人、あるいは中国にルーツを持つ人々となっている』、「住民のうち、約半数の約2300人が中国人・中国系」とは、確かに驚くほどの比率だ。
・『筆者は今春から拙著『日本の「中国人」社会』の取材のため、団地に何度も足を運んできた。最寄り駅のJR京浜東北線、蕨(わらび)駅から団地に向かって歩き始めると、すれ違う人々から聞こえてくるのは、ほとんど中国語だ。 敷地内や近隣する通りには中国人向けと思われる中華料理店や中華食材店が軒を連ねている。団地は中庭を囲んでひとつの小さな街のようになっているが、全部で8棟ある居住棟のエレベーター付近には、ゴミ出しや騒音に関する注意事項や行事のお知らせが日本語と中国語で併記されている。 平日の昼間や週末に中庭を歩くと、元気に遊び回る子どもたちと、中国から「子守り」のためにわざわざ来日した祖父母たちが大勢いて、日本の一般的な団地とはかなり雰囲気が異なる。筆者は長年中国と中国人を取材してきたが、全住民の半数が中国人というのは、かなりのインパクトだ。現地に行くたびに「まるで中国の小区(集合住宅)みたい」という感覚に襲われる』、中国語や中国人に馴れた筆者でもそう感じるのであれば、一般の日本人にとっては居心地は悪そうだ。
・『芝園団地に多くの中国人が集住するようになった理由 有名になった芝園団地だが、中国人たちが何を考えているのかについてはあまり報じられていない。 そもそもなぜ、芝園団地にこれほど多くの中国人が集住するようになったのか。自治会や、住民、元住民などへのインタビューを総合すると、主に以下のような理由が考えられる。
+UR都市機構の物件は保証人が必要ないので、外国人でも借りやすい
+1980年代から1990年代にかけて新宿や池袋の日本語学校に中国人留学生が増えたが、彼らがしだいに郊外の安くてアクセスのいい地域の物件を求めるようになり、移住してきた
+IT企業のエンジニア用の寮として借り上げられている
+友人や親戚など、中国人同士のクチコミを頼ってきた
+すでに中国人コミュニティーが形成されていて、母国語で情報を得やすい
自治会によると、増えてきたのは1990年代後半からで、当初は何らかのきっかけで大学教授などのエリート層が入居し始めたという。以降、東日本大震災の年などを除き、毎年、右肩上がりで増え続けているそうだ。 2014年に自治会が住民200人に対して行ったアンケート調査では、東北3省(遼寧省、吉林省、黒竜江省)出身者で、主に30代のファミリー層が多かった。 2017年からこの団地に住んでいる20代の中国人男性はこう語る。「私は上海出身なのですが、これまで同郷の人には1人しか会ったことがありません。東北や福建省出身者が多いのではないでしょうか。仕事はIT企業のエンジニアが多い。蕨からは品川や新橋、東京駅にアクセスしやすく、池袋にも近い。生活費の安さや住みやすさがクチコミで中国人社会に広まり、ここまで数が増えたのでは」 確かに、隣駅の西川口駅前に広がる新興のチャイナタウンで中華料理のメニューを開いて見ても、とくに東北料理や福建料理が多く、平日の夜に食べに行くと、会社員風の男性や若い家族連れが目につく』、「UR都市機構の物件は保証人が必要ないので、外国人でも借りやすい」というのは要因として大きそうだ。
・『筆者が気になった「言葉」の問題 また、筆者が気になったのは、「言葉」の問題だ。市内に多数ある日本語教室の存在だった。川口市のパンフレットによると、市内には19カ所もの日本語ボランティア教室がある。 日本に住む中国人は約73万人(2017年末の法務省の統計)に上るが、大まかにいえば、1)留学生、2)留学後そのまま就職や結婚をした人、3)仕事のために来日した人々(とその家族)の主に3つに分けられる。 1)~3)のいずれの場合も、技能実習生などの場合を除き、基本的には本国で日本語を学んでから来日したか、あるいは来日後、日本語学校などで本格的に日本語を学んだケースが多いと思われる。つまり、日本にいる中国人の大半は、日本語はある程度話せることが多い。 ところが、ここには日本語教室が多く、まだ日本語を話せない人が多くいるとみられる。 つまり、“通常コース”から外れた人々、たとえば祖父母や乳飲み子を抱えた主婦、祖父母の元から親元に返された子どもなどのように、来日前に日本語を学ぶ機会がなかった人々が多く来日しているのではないかということだ。 団地内でベビーカーを押しながら散歩している若い女性とその母親らしき中年の女性に中国語で声を掛けてみた。 「私は福建省出身です。ここに引っ越してきて1年くらい。夫の友人の紹介でここに住むことになりました。まさか私が日本に来ることになるとは思っていなかったのですが、夫が池袋で飲食業に勤めることになって、私も夫についてやってきました。この団地なら中国人が多いし、私も寂しくないだろう、と思ったみたい。母も中国から手伝いにきてくれるし、周囲はみんな中国語ばかりの環境なので安心。ここで中国人の友達もできたし、日本語ができなくてもまったく不自由しないですよ」 この女性に「日本語はできる?」と聞いてみたところ「うん、少し……」と小さな声で答え、母親と顔を見合わせて笑っていた。 とくに生活に不便はないのだろう。団地に隣接するスーパー「マミーマート」でも、レジで日本語を話す必要はなさそうだった。 団地の敷地内に数軒ある中華料理店や雑貨店の経営者や店員は、ほぼ全員が中国人だ。以前、ここに住んでいたという友人の中国人によると、団地から徒歩で行ける蕨市立病院にも中国人看護師がいるので心強いという』、「日本語ができなくてもまったく不自由しない」というのは、事実なのだろうが、決して望ましいことではない。「中国人看護師がいる」とはさすが蕨市立病院だけある。
・『「中国人だけ」の社会 日本に住む中国人には、都心の大企業に勤務するエリート会社員も増えてきた。中国の経済躍進を追い風に、日中の橋渡しをしているような国際人材の存在がクローズアップされている。彼らはいわゆる、日の当たる存在だ。しかし、その一方、生活のために子どもを中国の祖父母に預け、自分たちが長時間稼いで仕送りをしている家庭、日の当たらない存在もまだまだいる。 後者の“古いタイプの中国人”が、芝園団地などに代表されるような、中国人が多い地域に集まって住み、助け合いながら生きているということなのだろう。それはそれでいいことなのかもしれないが、筆者には心配もある。日本に住んでいながら、中国人だけの社会を構築し、その中でのみ生きる人がどんどん増えていき、日本社会に溶け込まないままになるのではないか、ということだ。 ある時、芝園団地に住む中国人に「次に来たら、あの中華料理店で食べてみたいな」と言ったところ、大変驚かれた。「ここに住む日本人は、中国人がやっている店にはまず行かないですよ。お互いに通う店はまったく違うし、行動様式も異なる。彼らは同じ団地に住んではいるけれど、交わることはほとんどないんです」というのだ。 また、こんなこともあった。中国人ママたちが主催するフリーマーケットが集会所で行われたときのこと。声を掛けた女性から「えっ?あなた日本人なの?ここに日本人もくるのね」と言われた。嫌味で言っているのではなく、純粋に驚いたようだった。 ひとつの団地の敷地の中で毎日のように顔を見合わせていても、お互いにコミュニケーションすることはほとんどない。「冷ややかな分断」という言葉が浮かんだ。 数年前までは夜中の騒音やゴミの捨て方、子どもの外でのおしっこなどの問題が起きていたが、管理するURが中国語の通訳を置いたり、注意の貼り紙を増やしたりするなどして対応した結果、最近では住民同士のトラブルは減ってきたという。 しかし、トラブルが減った=何も問題が起きていない、というわけではない。コミュニケーションがないから、表面的なトラブルはないだけ、ともいえる。 分断したままの“快適な生活”は、続くだろうか。何かトラブルが起きたとき、まったくコミュニケーションを取ってこなかった外国人のことには疑心暗鬼になりやすい。「ここには〇〇人がいるから……」といった根拠のない臆測や批判が湧き上がる可能性はないだろうか。 私たちは新しい“隣人”たちについて、もう少し知る必要性があるのではないか』、昨日取上げたなかで政府が「共生」を安易にキャッチフレーズ化していることを批判したが、「冷ややかな分断」とはそんなに生易しいことではないことを物語っている。関東大震災時の朝鮮人大虐殺のような不幸なことが起きないことを願うばかりだ。
タグ:外国人による不適正利用の蓋然性は認められていない 日本に住んでいながら、中国人だけの社会を構築し、その中でのみ生きる人がどんどん増えていき、日本社会に溶け込まないままになるのではないか 「共生」 「中国人だけ」の社会 毎日のように顔を見合わせていても、お互いにコミュニケーションすることはほとんどない。「冷ややかな分断」 1927年(昭和2年)に健康保険法が施行された背景には、労働争議が絶えなかった当時、労使間の協調を図って、国家産業を発達させるためには、病気やケガをしても仕事を辞めずにすむ制度を作り、労働者の生活を安定させるという意図 蕨市立病院にも中国人看護師がいるので心強い ふだん日本で暮らしていない在外邦人が、ビザの切り替え時期などに日本に帰国し、その間だけ国保に加入して日本で医療を受けている人もいる その他外国人問題 中島 恵 出入国管理法(入管法)改正案 東洋経済オンライン 「外国人労働者の健保利用、「不正ばかり」と言われるが実態は?」 最初から日本の健康保険を使って治療を受けることを目的に、在留資格を偽って来日しているのではないかと疑われている 外国人の健保利用は合法 不適切利用とは言い切れない UR都市機構の物件は保証人が必要ないので、外国人でも借りやすい 芝園団地に多くの中国人が集住するようになった理由 「海外療養費」 早川幸子 予防線を張って外国人の国保適用を厳格化しようというもので、実態よりもイメージ先行で対応を始めた感が否めない 労働者の三親等以内の親族は扶養家族として健保に加入できる ダイヤモンド・オンライン 筆者が気になった「言葉」の問題 在留資格を偽って来日し、国保を使って医療を受けたら本国に帰ってしまう外国人の利用は、本来の設立趣旨から外れており、厳しく取り締まる必要 約4500人いる住民のうち、約半数の約2300人が中国人、あるいは中国にルーツを持つ人々 「中国人の街・川口で広がる「日本人との距離」 芝園団地の人々は何を考えているのか」 海外で受けた治療の利用実態を日本で把握するのは難しいため、本当は医療機関を利用していないにもかかわらず、書類を偽造して、海外療養費を不正に受け取っていると疑われるケースがあるようだ 川口市の芝園団地 健康保険)の適用問題 健康保険を利用できる扶養家族は、日本国内に居住している人に限定する方向で政府が検討し 「在留外国人の国民健康保険適用の不適正事案に関する通知制度の試行的運用について」 (その1)(外国人労働者の健保利用 「不正ばかり」と言われるが実態は?、中国人の街・川口で広がる「日本人との距離」 芝園団地の人々は何を考えているのか) 厚生労働省 2018年3月から、外国人を国保に適用する際の資格管理の厳格化を試験的に始めている テレビの情報番組や週刊誌などが、外国人による健康保険の不適切利用を疑う事例をあいついで報道
外国人労働者問題(その11)(「移民法」成立 外国人と真に「共生」するため政府が熟慮すべきこと、外国人が失望する「日本」という職場の不条理 単純労働にも道を開く事実上の移民解禁へ、外国人労働者を雇う企業に行政コストを負担させるべきと考える理由) [経済政策]
外国人労働者問題については、昨年12月15日に取上げた。今日は、(その11)(「移民法」成立 外国人と真に「共生」するため政府が熟慮すべきこと、外国人が失望する「日本」という職場の不条理 単純労働にも道を開く事実上の移民解禁へ、外国人労働者を雇う企業に行政コストを負担させるべきと考える理由)である。
先ずは、室伏政策研究室代表・政策コンサルタントの室伏謙一氏が昨年12月28日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「「移民法」成立、外国人と真に「共生」するため政府が熟慮すべきこと」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/189862
・『事実上の「移民法」とも呼べる改正入管法が成立した。「十分な議論や検証が行われていない」との問題点を指摘する声も多いが、来年4月1日の施行に向けて準備が急ピッチで進められている。成立してしまった以上、外国人との「共生」に向かって政府が早急に取り組むべき課題とは何か』、成立した法律は、具体策は全て政省令に委任するスカスカのものなので、具体策を検討する意味は大だ。
・『「移民法」の成立で準備が進んでいるが… 出入国管理及び難民認定法及び法務省設置法の一部を改正する法律(以下「移民法」という)が臨時国会で成立したことを受けて、来年4月1日の施行に向けた所要の準備が急ピッチで進められている。 このうち、移民法の成立を前提としつつも、法案審議に先立って検討が開始されてきていたのが、移民法施行後の受け入れ環境整備のための政策集である、「外国人材の受入れ・共生のための総合的対応策」である。 7月24日の閣議決定「外国人の受入れ環境の整備に関する業務の基本方針について」を受けて、8月31日に法務大臣決定によって設置された外国人材の受入れ・共生のための総合的対応策検討会で、9月13日から検討が進められてきた。12月17日の第5回会合では案が示され、25日、移民法に基づく「特定技能の在留資格に係る制度の運用に関する基本方針」および「特定技能の在留資格に係る制度の運用に関する方針」(いわゆる分野別運用方針)の閣議決定に併せて、外国人材の受入れ・共生に関する関係閣僚会議で了承され、政府の対応策として正式に決定された。 問題はその中身。126の施策番号が付され、関係各府省にその具体的かつ詳細な内容の検討と実施が割り振られているのだが、その分量や、これまでやったことがないことをやるものが多いといったことを考えると、本当に実施できるのか?と懐疑的にならざるを得ない。 むろん、過去に定住外国人施策推進の名の下に、対応策が検討され、実施されてきたが、これらは主に日系ブラジル人等を対象にしたものであるし、数がそこまで多くはないので、これまでやってきたと言えるかどうか。それ以前の問題として、これまでの施策の評価や事後検証は行ってきたのだろうか?』、「これまでの施策の評価や事後検証」などは国会審議で聞いたこともない。
・『外国人旅行者と外国人材は何の関係があるのか そもそも、「人材を確保することが困難な状況にある産業上の分野に属する技能を有する外国人の受入れを図るため」と法案提出の理由に記載しているとおり、“移民法”は人手不足(とされている状況)に対応するために「外国人材」(実質的な移民)の受け入れを促進するために立案されたはずなのに、本対応策の「基本的な考え方」は以下の文章で始まる。 「近年、我が国を訪れる外国人は増加の一途をたどっている。平成24年に839万人であった外国人旅行者数は、今年初めて3,000万人を超え~」 一体、外国人旅行者と「外国人材」は何の関係があるのだろうか? これではまるで、外国人が旅行で日本にやってきて日本を気に入ってもらい、次は「外国人材」として日本に来てもらいたいとでも言いたいのだろうか。これでは方向性が曖昧なまま、冒頭からさまよい、迷走し始めてしまっているようなものだ。 そして、その迷走はまだ続く。 「基本的な考え方」にはさらにこのようなことまで記載されている。 「総合的対応策は、外国人材を適正に受け入れ、共生社会の実現を図ることにより、日本人と外国人が安心して安全に暮らせる社会の実現に寄与するという目的を達成するため、外国人材の受入れ・共生に関して、目指すべき方向性を示すものである」 要するに、日本人と外国人が安心して安全に暮らせる「共生社会」なるものを実現することがいつの間にか目的になってしまっているということであろう。 「共生のための」対応策なのだから当然ではないか、といった反論が聞こえてきそうだが、あくまでも目的は「外国人材」なるものの受け入れと在留を円滑化するためのものだったはず。「共生」は一義的にはその範囲での話であって、「日本人と外国人が~」という話ではないはずである』、法律のプロである法務省が中心になって作った「基本的な考え方」が、論点を故意にずらせるとは酷い代物だ。
・『これが安倍政権の本音かもしれない もしかしたらこれが移民法に関する安倍政権の本音なのかもしれない。つまり、本当に人手不足か否かは二の次で、とにかく移民を大量に日本国内に流入させたいのではないか、ということである。 そうであれば、まるで低賃金労働者を入れて人件費削減、外国人材ビジネスで大もうけ、そんな巨大な利害が背後にあるかのようだ。 加えて次のような記述まである。「その環境整備に当たっては、受け入れる側の日本人が、共生社会の実現について理解し協力するよう努めていく~」 ついに日本人と「外国人材」の立場が逆転して、日本人が「外国人材」さまのために協力せよと言っているようなもの。 日本の人手不足解消のためだったはずが、まさに本末転倒である。 その後に、「受け入れられる側の外国人もまた、共生の理念を理解し、日本の風土・文化を理解するよう努めていくことが重要であることも銘記されなければならない」とあり、日本人および外国人の双方の努力が必要であると言いたいのだろうが、日本に来て、日本で働き、日本で生活するというのであれば、外国人が日本社会に共に暮らすのであるから、日本の風土や文化等を理解するというのは当然の前提、必須の条件であって、「努めていく」といったレべルの話ではない。 ましてや外国人との「共生社会」なるものの実現のために日本人が協力する類の話でもないだろう。 強いて協力するという考え方が入る余地があるとすれば、それは外国人たちが日本社会や風土・文化について理解するために励んでおり、また途上であるので、そのことを了解するという意味において協力する、といったところであろうか。 この「共生社会」なるものはそんなに簡単に成立しうるのだろうか。 日本人と外国人がそう簡単に「共生」できるのであろうか。 こうした点については、拙稿『中国人住民が半数を占める埼玉の団地「ガラスの共生社会」のリアル』も参照されたい。日本人と外国人との「共生」を、外国人が日本の社会、風土・文化等を理解し、日本語を習得して自分のものとして使用できるようになり、日本人と同等に日本社会に参加できるようになること、つまり日本社会への統合と考えれば、統合は極めて困難なのではないか』、『中国人住民が半数を占める・・・のリアル』については、このブログの10月16日に紹介した。「共生」という耳ざわりが良い言葉を、安易にキャッチフレーズとして使うのは厳に慎むべきだろう。
・『政府は「共生」について楽観的すぎるのではないか 実際、英国のジャーナリストのDouglas Murrayは、その著 “The Strange Death of Europe”において、英国で多文化主義の名の下に進められてきた共生政策が、統合とはほど遠い、一つの社会の中に複数の異なる文化、もっと言えば民族コミュニティを生んでしまうという結果を招いているといったことを、具体例を挙げつつ指摘している。 ところが、この総合的対応策からは、政府が「共生」や統合について相当楽観的な態度を持っているであろうことがうかがえる。 例えば、「共生施策としていかなる施策が必要とされるかを的確に把握することが必要」であるとして、「国民及び外国人の双方の意見に耳を傾け」ることが必要であるとしていながら、その具体的な方法は、こうした方向性からすればとても十分とは言えない次の2つである。 すなわち、(1)「国民の声」と看板に書いておきながら、外国人材に対する需要の状況を中心に事業者等から意見聴取を行ってきた『「国民の声」を聴く会議』等を通じた意見の聴取、および(2)これまで日本に在住している外国人を対象に行われてきた「外国人住民調査」を参考とした、既に日本に居住している外国人の「職業生活上、日常生活上、社会生活上の問題点を的確に把握」する、外国人を対象とした基礎調査の2つだ。裏を返せば、外国人と「外国人材」を受け入れる事業者等、外国人支援関係者からしか意見聴取をしないということだ。 つまり国民、地域住民の声は置き去りにされているのである。これで「的確に把握」できると考えているのだとしたら、失笑を通り越してあきれ返る』、その通りだ。
・『日本人、日本社会向けの対応策が完全に欠落している こうしたことから分かるのは、政府は「共生」や「共生社会」なるものについて、日本人と外国人が社会で一緒に暮らすということ以上に具体的なイメージや将来像がないであろうということだが、もっと深刻な問題が浮かび上がってくる。 それは、この対応策は外国人、「外国人材」向けのものではあるが、日本人や日本社会向けのものではないということだ。すなわち、日本人や日本社会、地域社会への影響を防止するか低減させるための対応策は完全に欠落しているということである。 本来であれば、まずそれを考えなければならないはずであるし、「外国人材」向けの対策と対になり、両輪となっていなければいけないものだ。 ところが、そうなっていないということは、片輪走行で進もうとしているのと同じであり、そう遠くないうちにバランスを崩して破綻することが予定されているようなものである。 しかも、「外国人材」受け入れによる日本人や日本社会への影響は、労働環境に関するものの他、生活習慣、文化、宗教等に関するものまで幅広く、どこまで広がり複雑化するのか、この段階であらゆるものを想定するのは困難であろう』、「片輪走行で進もうとしているのと同じであり、そう遠くないうちにバランスを崩して破綻することが予定されているようなものである」とは上手い表現だ。
・『移民法が成立してしまった以上 対応すべきことは何か そうであるからこそ、早い段階からの検討、過去の事例の分析・検証等が必要だったわけであるが、先の検討会ではそうした議論は行われてこなかったようだし、移民法の国会審議でも、私の知る限り、そのような議論はなかった。 一方で、そうした日本人や日本社会への影響の防止策、緩和策の検討から関係府省間の総合調整まで法務省に任せきりにするのは、ただでさえ新制度の施行で負担が大幅に増えているというのに、端的に言って無理があろう。 そうなると、「外国人材」受け入れ対応策やその実施体制は、日本人や日本社会への影響という観点を入れて、全体的に見直す必要があるのではないか。 また、この対応策の実施に当たっては、関係各府省以上に、現場で対応に当たる地方公共団体の負担も非常に大きくなるものと想定され、対応に差が出てくることが予想されるのみならず、日本人や地域社会への影響の防止策、緩和策を国が検討し、示したとしても、現場でそこまで手が回らなくなる可能性が高いのではないだろうか。 この対応策の中では、「共生社会」の実現を図る「地方公共団体の自主的・主体的で先導的な取組について、地方創生推進交付金により積極的に支援する」としているが、そんな地方に責任を押し付けたような場当たり的な支援策でどうにかなるものではない。 やはり、しっかりと予算を組んで、地方公共団体の意見を聞きつつも、国の責任で、国主導で進めていくべきであろう。そのためには、現在の財政再建至上主義の緊縮財政から積極財政へ転じていくことも必要である。 移民法は「百害あって一利なし」と言い切っていい仕組みであるが、残念ながら可決・成立してしまった以上、関係府省や地方公共団体の負担軽減も含め、日本への、日本社会への、日本人への影響を防止するか、緩和させる対応策の検討が急務である。 そして、これが「外国人材」への対応策と両輪として成立して安定的に動き出して初めて、「共生社会」なるものへの道も開けてくるのではないか』、説得力溢れた主張で、全面的に賛成である。
次に、1月7日付け東洋経済オンライン「外国人が失望する「日本」という職場の不条理 単純労働にも道を開く事実上の移民解禁へ」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/258429
・『昨年の臨時国会で出入国管理法(入管法)改正案が成立し、今年4月から施行される。政府は今後5年間で最大約34万5000人の外国人労働者受け入れを見込む。改正案の中核となるのが新たな在留資格「特定技能」の創設だ。従来は専門的・技術的分野に限定された就労目的の在留資格が、単純労働にも広がり永住への道を開くもので、従来の方針を一大転換する・・・』、続く具体的な問題をみてみよう。
・『人手不足の現場を担う「技能実習生」や「留学生」 長らく政府は、「単純労働の受け入れについては十分慎重に対応する」「労働者不足への対応として外国人労働者の受け入れを考えることは適切ではない」といった建前を貫いてきた。一方、少子高齢化が進む中、人手不足は深刻化の一途をたどっている。とりわけ医療・福祉や建設など特定業種にその傾向が著しい。現在、こうした人手不足産業の現場を、日本人に代わって担っているのが、「技能実習生」や「留学生」たちだ。 在留資格「特定技能」の新設で単純労働者の受け入れが可能になったとされるが、実質的には以前から受け入れていた。その中心となってきたのが、技能実習制度だ。同制度は1993年に創設され、現在77職種ある。国際貢献のため途上国の外国人を日本で最長5年間受け入れ、技能を移転するものとされている。技能実習生数は右肩上がりで、2018年6月末時点で全国に約28万人が在留している。 だが制度の実情に詳しい指宿昭一弁護士(外国人技能実習生問題弁護士連絡会共同代表)は、「その建前は真っ赤なウソで、労働力確保の手段として使われてきたことは、誰の目にも明らか」と語る。実際、法務省によれば大企業が海外の現地法人などの職員を受け入れて実習する「企業単独型」は全体の3%程度。大多数は中小・零細企業が監理団体を通じて受け入れる「団体監理型」だ。ここでは10人未満の零細企業が半数を占める。 これまでも技能実習生については賃金不払いや違法な長時間労働、パワハラ・セクハラの横行など、その劣悪な労働・生活環境がたびたび問題とされてきた。厚生労働省によれば、2017年に監督指導を実施した受け入れ企業のうち、実にその7割で労働基準関係法令違反が認められた。 最低賃金を大きく下回る残業時給350円、月160時間の時間外労働、労災隠し――。指宿弁護士によれば、そうした過酷な環境に置かれた実習生からの相談は枚挙にいとまがないという。 それにもかかわらず彼らが声を上げづらい背景には、2つの構造的な問題がある。1つは母国の送り出し機関から多額の渡航前費用を徴収されていることだ。実習生は民間ブローカーである送り出し機関に紹介・書類作成代行手数料や日本語講習料を支払う。表向き禁止されているはずの保証金や違約金契約の締結も求められ、借金の総額は100万円を超えることも一般的だ』、受け入れ企業の「7割で労働基準関係法令違反が認められた」にも拘らず、「実習生が声を上げづらい」というのは、制度自体の欠陥だ。
・『権利を主張すると「強制帰国」させられることも 技能実習生が権利を主張すると、受け入れ企業や監理団体によって本人の意思に反して期間途中で「強制帰国」させられることもある。母国の賃金水準ではとうてい返済不可能な借金が残るので、技能実習生はこれを最も恐れている。 もう1つは技能移転による国際貢献という建前のため、技能実習生には原則、職場変更の自由がないことだ。理不尽な職場なら辞めて別の仕事を探すという、労働者には当然の権利が彼らにはない。 「日本は経済の発展したすばらしい国だと思っていたのに、今は失望感でいっぱいだ」。中国から技能実習生として来日した黄世護さん(26)は、保護されているシェルター内で、うつむき加減にそう話し始めた。黄さんは本国で日本語学校に通って学ぶ中で、日本の技能実習制度の存在を知った。日本語を学べ、お金も稼げると聞き来日した。本国の送り出し機関に支払った費用は約50万円。自らの収入1年半分に相当する額を、友人から借金してかき集めた。 来日から半年過ぎた2016年夏、黄さんは実習先の段ボール工場での作業中、大型加工機に右手を挟まれ、3本の指を損傷した。2カ月間の入院生活で皮膚移植など手術を8回も繰り返したが、結局右手が元のように動くようにはならなかった。 退院後、日本側の受け入れ機関(監理団体)である協同組合が黄さんに求めたのは、「確認書」への署名だった。雇用契約は終了し、治療終了後は速やかに帰国することなど、労災保険給付以外は一切の補償を求めないという内容だ。「言うとおりにしないと犯罪になるなどと脅され、無理矢理サインさせられそうになった」と、黄さんは振り返る。 技能実習生は2017年までの8年間で174人が死亡している。業務上の事故だけでなく、過労死が疑われるケースもあるという。こうした実態を踏まえ、「特定技能」では、技能に類似性があれば転職の自由も認められ、報酬は日本人と同等以上と定められている。熟練した技能を持つ「特定技能2号」となれば、配偶者や子の帯同、永住も可能となり、事実上の移民となりうる。 この新たな就労資格の創設は移民社会への道を開く重い決定だが、国会審議で安倍晋三首相は「移民政策を取ることは考えていない」と繰り返し述べるなど、あくまで目下の人手不足対策というスタンスだ。ただ、外国人労働者の受け入れで先を行くアジア各国でも単純労働者の永住は認めていない。日本はそれだけ大きな方向転換をしたということを認識しておく必要がある』、「外国人労働者の受け入れで先を行くアジア各国でも単純労働者の永住は認めていない」というのは、恥ずかしながら初めて知った。国会で大した議論もせずに、強行採決で「大きな方向転換をした」安倍政権の罪は深い。
第三に、元銀行員で久留米大学商学部教授の塚崎公義氏が1月18日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「外国人労働者を雇う企業に行政コストを負担させるべきと考える理由」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/191196
・『外国人労働者の受け入れは日本の労働者にも経済にもマイナス 政府は、新しい在留資格を設けるのみならず、外国人留学生の就労拡大に向けた新たな制度も検討しており、外国人労働者の受け入れを拡大する方向だ。 筆者は、外国人単純労働者の受け入れに反対だが、百歩譲って受け入れるとしても、それに伴って発生する行政コストなどは、外国人を雇用する企業に負担させるべきだと考えている。 外国人労働者の受け入れ拡大は、産業界の要請だ。だが、これは日本人労働者および日本経済にとって大問題であると同時に、外国人にとっても問題だ。 というのも日本人労働者は、労働力不足で賃金が上がると期待していたところにライバルの外国人が入国してしまえば、労働力不足が緩和されてしまい、上がるはずだった賃金が上がらなくなってしまうからだ。次の不況がやってきたときに、自分たちが失業するリスクまで高まってしまう。 さらに、日本企業が労働力不足への対応として省力化投資を積極化させ始め、ようやく日本経済の効率化が進み始めたというタイミングだ。労働力不足が緩めば、そうした企業のインセンティブも失わせかねない。 おまけに、行政コストも増大する。政府は「外国人材の受入れ・共生のための総合的対応策」を策定し、外国人労働者生活相談などに応じる方針であるとされる。また、外国人労働者の子どもが通う学校においても、日本語教育のコストがかかるといった問題も指摘されている。 それ以外にも、外国人の単純労働者は、日本人と同様のさまざまな行政サービスを受けることになるが、一般的に彼らは(日本人の単純労働者並みの待遇だとすれば)所得が低く納税額も少ないだろうから、「行政の持ち出し」となる。これも外国人の単純労働者受け入れの行政コストと考えるべきだろう』、このままでは「行政の持ち出し」は、かなり大きく膨らむ懸念が強い。
・『受益者負担が公平でかつ資源配分を適正化 外国人の単純労働者を受け入れることで利益を得るのは、当の外国人労働者と日本企業だ。「受益者負担」という公平の原則から考えれば、行政コストなどは企業に負担させるべきだ。 “被害者”ともいえる日本人労働者の支払った税金が、外国人の単純労働者のための行政コストに支出されるのは公平の観点から許し難い。 加えて、「資源配分の適正化」という観点からも、大いに問題がある。例えば企業が外国人を雇うことで利益が1円増える一方、行政コストは100円増えるとすると、日本国全体としては外国人を雇った方が損になるので、雇うべきではない。 しかし、現状では企業は利益が増えるので、外国人労働者を雇うという国益を損なう行動を取ってしまう可能性が高い。 そうした事態を防ぐためには、行政コストを企業に負担させるのが最も合理的なのだ。そうすれば、企業は外国人を雇わないだろう。 例えば企業が外国人の単純労働者を雇うことで利益が200円増えるならば、行政コストを100円負担させられても外国人を雇うだろう。筆者としては、それでも日本人労働者の受ける“被害”を考えると不満ではあるが、その程度は明らかに緩和される。 後は、実際の行政コストのみならず、日本人労働者の“被害”を減らすために上乗せした金額を負担させるか否かだろう。 もしも仮に、外国人を雇うことで巨額の利益を得られる企業があるのであれば、筆者としても禁止すべきとは考えない。巨額の利益の中から、十分な負担をしてもらえばいいからだ』、「巨額の利益を得られる企業があるのであれば」というのは、筆の勢いで極端な例示をしただけで、そんな企業は、あえて外国人を雇わなくても日本人への処遇を上げれば日本人が集まる筈なので、実際にはありあない。外国人の単純労働者を受け入れながら、それに伴う行政コストは負担しないというのは、経済学でいう「フリーライダー’(タダ乗り」の典型で、市場メカニズム(適切な資源配分)を歪め、受け入れが必要以上に大きくなってしまう。
・『費用負担の適正化で資源配分を適切化しよう 費用負担が適切になされないと、不適切な資源配分がなされてしまうという典型例は「公害」だ。資源配分というのは経済学の用語で、労働力や原材料や資金などは有限だから、それを何の生産に用いると日本経済がよくなるかということだ。 汚水を垂れ流している企業が利益を1円稼いでいるとして、下流の住民に1万円の被害が生じているとすれば、あるいは汚水処理に1万円の費用が必要なのであれば、その企業の操業は日本の利益にならない((注)「い」がぬjけていたので補足)。つまり適切な資源配分とはいえない。 しかし、その企業が2万円を稼いでいるならば、操業を止めさせるよりは、汚水処理費用の1万円を負担させる方がいい。それで被害が完全に止まるならではあるが。 同様のことは、例えば医療費に関してもいえる。 医者に診察して軽い病を治療してもらうとして、本人は1000円分の満足を得たとする。医療費は5000円かかっているが、自己負担が1割なので、本人は500円しか払わない。これは日本にとって損失だ。5000円のコストをかけて1000円分の満足しか生み出していないからでだ。 医療の場合には、「治癒したことで他人への伝染が予防できた」「軽い病だと思って受診したら実は重い病であることが判明した」といった可能性もあるので一概には言えないが、外国人労働者の場合にはそうした可能性はなさそうなので、適切な費用負担によって適切な資源配分を図ることが望まれよう』、その通りだ。
・『外国人労働者の受け入れは外国人の幸せにつながるのか 日本の政策を考える上で、どこまで外国人の幸せについて考えるべきかは議論があるかもしれないし、本稿の本筋とも外れてしまうが、以下の点を指摘しておきたい。 例えば「日本の農業は労働力不足だから、外国人労働者を受け入れよう」という場合、筆者は「農産物を輸入すればいい」と考える。 最大の理由は、土地が広い国で農産物を効率的に作ることが「国際分業」として望ましいからだ。その方が外国人の幸せになるということもいえる。 外国人労働者を受け入れる場合、彼らは家族と離れて言語も習慣も異なる日本にやって来る。しかし、日本が農産物を輸入するなら日本に来る必要はなく、自国で家族と暮らしながら農業に従事すればいい。その方が外国人全体の幸せにつながるはずだ。 外国人に寄り添うあまり、「家族の帯同を認めればいい」と主張する人もいるが、2つの点で賛成できない。1つは、家族を連れてきて言葉の通じない国で苦労するより、自国で働く方がいいに決まっているからだ。 そしてもう1つは、日本語のできない家族を教育したり、莫大な行政コストが発生したりするからだ。「そういうコストは、喜んでわれわれ日本人納税者が負担するから、外国人労働者に家族の帯同を認めてほしい」という人は多くないように思う。 一般論として、「かわいそうな人がいるから行政が助けてやれ」という人は多いが、「かわいそうな人がいるから行政が助けてやれ。そのための費用は喜んでわれわれ納税者が負担するから」という人は少ないと思うが、いかがだろうか。 繰り返すが、筆者は外国人の単純労働者の受け入れには反対だ。だが、決まってしまった以上は、その弊害を少しでも緩和すべく、「外国人の単純労働者を雇う企業には課税して、さまざま『行政コスト+α』を負担させるべきだ」と改めて提案したい。 ちなみに、筆者が外国人の単純労働者の受け入れに反対している理由については、拙稿「外国人労働者受け入れが日本人労働者にとってデメリットしかない理由」をご参照いただきたい』、最後の論文は、このブログの12月5日に紹介した。塚崎氏の主張には全面的に賛成である。
先ずは、室伏政策研究室代表・政策コンサルタントの室伏謙一氏が昨年12月28日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「「移民法」成立、外国人と真に「共生」するため政府が熟慮すべきこと」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/189862
・『事実上の「移民法」とも呼べる改正入管法が成立した。「十分な議論や検証が行われていない」との問題点を指摘する声も多いが、来年4月1日の施行に向けて準備が急ピッチで進められている。成立してしまった以上、外国人との「共生」に向かって政府が早急に取り組むべき課題とは何か』、成立した法律は、具体策は全て政省令に委任するスカスカのものなので、具体策を検討する意味は大だ。
・『「移民法」の成立で準備が進んでいるが… 出入国管理及び難民認定法及び法務省設置法の一部を改正する法律(以下「移民法」という)が臨時国会で成立したことを受けて、来年4月1日の施行に向けた所要の準備が急ピッチで進められている。 このうち、移民法の成立を前提としつつも、法案審議に先立って検討が開始されてきていたのが、移民法施行後の受け入れ環境整備のための政策集である、「外国人材の受入れ・共生のための総合的対応策」である。 7月24日の閣議決定「外国人の受入れ環境の整備に関する業務の基本方針について」を受けて、8月31日に法務大臣決定によって設置された外国人材の受入れ・共生のための総合的対応策検討会で、9月13日から検討が進められてきた。12月17日の第5回会合では案が示され、25日、移民法に基づく「特定技能の在留資格に係る制度の運用に関する基本方針」および「特定技能の在留資格に係る制度の運用に関する方針」(いわゆる分野別運用方針)の閣議決定に併せて、外国人材の受入れ・共生に関する関係閣僚会議で了承され、政府の対応策として正式に決定された。 問題はその中身。126の施策番号が付され、関係各府省にその具体的かつ詳細な内容の検討と実施が割り振られているのだが、その分量や、これまでやったことがないことをやるものが多いといったことを考えると、本当に実施できるのか?と懐疑的にならざるを得ない。 むろん、過去に定住外国人施策推進の名の下に、対応策が検討され、実施されてきたが、これらは主に日系ブラジル人等を対象にしたものであるし、数がそこまで多くはないので、これまでやってきたと言えるかどうか。それ以前の問題として、これまでの施策の評価や事後検証は行ってきたのだろうか?』、「これまでの施策の評価や事後検証」などは国会審議で聞いたこともない。
・『外国人旅行者と外国人材は何の関係があるのか そもそも、「人材を確保することが困難な状況にある産業上の分野に属する技能を有する外国人の受入れを図るため」と法案提出の理由に記載しているとおり、“移民法”は人手不足(とされている状況)に対応するために「外国人材」(実質的な移民)の受け入れを促進するために立案されたはずなのに、本対応策の「基本的な考え方」は以下の文章で始まる。 「近年、我が国を訪れる外国人は増加の一途をたどっている。平成24年に839万人であった外国人旅行者数は、今年初めて3,000万人を超え~」 一体、外国人旅行者と「外国人材」は何の関係があるのだろうか? これではまるで、外国人が旅行で日本にやってきて日本を気に入ってもらい、次は「外国人材」として日本に来てもらいたいとでも言いたいのだろうか。これでは方向性が曖昧なまま、冒頭からさまよい、迷走し始めてしまっているようなものだ。 そして、その迷走はまだ続く。 「基本的な考え方」にはさらにこのようなことまで記載されている。 「総合的対応策は、外国人材を適正に受け入れ、共生社会の実現を図ることにより、日本人と外国人が安心して安全に暮らせる社会の実現に寄与するという目的を達成するため、外国人材の受入れ・共生に関して、目指すべき方向性を示すものである」 要するに、日本人と外国人が安心して安全に暮らせる「共生社会」なるものを実現することがいつの間にか目的になってしまっているということであろう。 「共生のための」対応策なのだから当然ではないか、といった反論が聞こえてきそうだが、あくまでも目的は「外国人材」なるものの受け入れと在留を円滑化するためのものだったはず。「共生」は一義的にはその範囲での話であって、「日本人と外国人が~」という話ではないはずである』、法律のプロである法務省が中心になって作った「基本的な考え方」が、論点を故意にずらせるとは酷い代物だ。
・『これが安倍政権の本音かもしれない もしかしたらこれが移民法に関する安倍政権の本音なのかもしれない。つまり、本当に人手不足か否かは二の次で、とにかく移民を大量に日本国内に流入させたいのではないか、ということである。 そうであれば、まるで低賃金労働者を入れて人件費削減、外国人材ビジネスで大もうけ、そんな巨大な利害が背後にあるかのようだ。 加えて次のような記述まである。「その環境整備に当たっては、受け入れる側の日本人が、共生社会の実現について理解し協力するよう努めていく~」 ついに日本人と「外国人材」の立場が逆転して、日本人が「外国人材」さまのために協力せよと言っているようなもの。 日本の人手不足解消のためだったはずが、まさに本末転倒である。 その後に、「受け入れられる側の外国人もまた、共生の理念を理解し、日本の風土・文化を理解するよう努めていくことが重要であることも銘記されなければならない」とあり、日本人および外国人の双方の努力が必要であると言いたいのだろうが、日本に来て、日本で働き、日本で生活するというのであれば、外国人が日本社会に共に暮らすのであるから、日本の風土や文化等を理解するというのは当然の前提、必須の条件であって、「努めていく」といったレべルの話ではない。 ましてや外国人との「共生社会」なるものの実現のために日本人が協力する類の話でもないだろう。 強いて協力するという考え方が入る余地があるとすれば、それは外国人たちが日本社会や風土・文化について理解するために励んでおり、また途上であるので、そのことを了解するという意味において協力する、といったところであろうか。 この「共生社会」なるものはそんなに簡単に成立しうるのだろうか。 日本人と外国人がそう簡単に「共生」できるのであろうか。 こうした点については、拙稿『中国人住民が半数を占める埼玉の団地「ガラスの共生社会」のリアル』も参照されたい。日本人と外国人との「共生」を、外国人が日本の社会、風土・文化等を理解し、日本語を習得して自分のものとして使用できるようになり、日本人と同等に日本社会に参加できるようになること、つまり日本社会への統合と考えれば、統合は極めて困難なのではないか』、『中国人住民が半数を占める・・・のリアル』については、このブログの10月16日に紹介した。「共生」という耳ざわりが良い言葉を、安易にキャッチフレーズとして使うのは厳に慎むべきだろう。
・『政府は「共生」について楽観的すぎるのではないか 実際、英国のジャーナリストのDouglas Murrayは、その著 “The Strange Death of Europe”において、英国で多文化主義の名の下に進められてきた共生政策が、統合とはほど遠い、一つの社会の中に複数の異なる文化、もっと言えば民族コミュニティを生んでしまうという結果を招いているといったことを、具体例を挙げつつ指摘している。 ところが、この総合的対応策からは、政府が「共生」や統合について相当楽観的な態度を持っているであろうことがうかがえる。 例えば、「共生施策としていかなる施策が必要とされるかを的確に把握することが必要」であるとして、「国民及び外国人の双方の意見に耳を傾け」ることが必要であるとしていながら、その具体的な方法は、こうした方向性からすればとても十分とは言えない次の2つである。 すなわち、(1)「国民の声」と看板に書いておきながら、外国人材に対する需要の状況を中心に事業者等から意見聴取を行ってきた『「国民の声」を聴く会議』等を通じた意見の聴取、および(2)これまで日本に在住している外国人を対象に行われてきた「外国人住民調査」を参考とした、既に日本に居住している外国人の「職業生活上、日常生活上、社会生活上の問題点を的確に把握」する、外国人を対象とした基礎調査の2つだ。裏を返せば、外国人と「外国人材」を受け入れる事業者等、外国人支援関係者からしか意見聴取をしないということだ。 つまり国民、地域住民の声は置き去りにされているのである。これで「的確に把握」できると考えているのだとしたら、失笑を通り越してあきれ返る』、その通りだ。
・『日本人、日本社会向けの対応策が完全に欠落している こうしたことから分かるのは、政府は「共生」や「共生社会」なるものについて、日本人と外国人が社会で一緒に暮らすということ以上に具体的なイメージや将来像がないであろうということだが、もっと深刻な問題が浮かび上がってくる。 それは、この対応策は外国人、「外国人材」向けのものではあるが、日本人や日本社会向けのものではないということだ。すなわち、日本人や日本社会、地域社会への影響を防止するか低減させるための対応策は完全に欠落しているということである。 本来であれば、まずそれを考えなければならないはずであるし、「外国人材」向けの対策と対になり、両輪となっていなければいけないものだ。 ところが、そうなっていないということは、片輪走行で進もうとしているのと同じであり、そう遠くないうちにバランスを崩して破綻することが予定されているようなものである。 しかも、「外国人材」受け入れによる日本人や日本社会への影響は、労働環境に関するものの他、生活習慣、文化、宗教等に関するものまで幅広く、どこまで広がり複雑化するのか、この段階であらゆるものを想定するのは困難であろう』、「片輪走行で進もうとしているのと同じであり、そう遠くないうちにバランスを崩して破綻することが予定されているようなものである」とは上手い表現だ。
・『移民法が成立してしまった以上 対応すべきことは何か そうであるからこそ、早い段階からの検討、過去の事例の分析・検証等が必要だったわけであるが、先の検討会ではそうした議論は行われてこなかったようだし、移民法の国会審議でも、私の知る限り、そのような議論はなかった。 一方で、そうした日本人や日本社会への影響の防止策、緩和策の検討から関係府省間の総合調整まで法務省に任せきりにするのは、ただでさえ新制度の施行で負担が大幅に増えているというのに、端的に言って無理があろう。 そうなると、「外国人材」受け入れ対応策やその実施体制は、日本人や日本社会への影響という観点を入れて、全体的に見直す必要があるのではないか。 また、この対応策の実施に当たっては、関係各府省以上に、現場で対応に当たる地方公共団体の負担も非常に大きくなるものと想定され、対応に差が出てくることが予想されるのみならず、日本人や地域社会への影響の防止策、緩和策を国が検討し、示したとしても、現場でそこまで手が回らなくなる可能性が高いのではないだろうか。 この対応策の中では、「共生社会」の実現を図る「地方公共団体の自主的・主体的で先導的な取組について、地方創生推進交付金により積極的に支援する」としているが、そんな地方に責任を押し付けたような場当たり的な支援策でどうにかなるものではない。 やはり、しっかりと予算を組んで、地方公共団体の意見を聞きつつも、国の責任で、国主導で進めていくべきであろう。そのためには、現在の財政再建至上主義の緊縮財政から積極財政へ転じていくことも必要である。 移民法は「百害あって一利なし」と言い切っていい仕組みであるが、残念ながら可決・成立してしまった以上、関係府省や地方公共団体の負担軽減も含め、日本への、日本社会への、日本人への影響を防止するか、緩和させる対応策の検討が急務である。 そして、これが「外国人材」への対応策と両輪として成立して安定的に動き出して初めて、「共生社会」なるものへの道も開けてくるのではないか』、説得力溢れた主張で、全面的に賛成である。
次に、1月7日付け東洋経済オンライン「外国人が失望する「日本」という職場の不条理 単純労働にも道を開く事実上の移民解禁へ」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/258429
・『昨年の臨時国会で出入国管理法(入管法)改正案が成立し、今年4月から施行される。政府は今後5年間で最大約34万5000人の外国人労働者受け入れを見込む。改正案の中核となるのが新たな在留資格「特定技能」の創設だ。従来は専門的・技術的分野に限定された就労目的の在留資格が、単純労働にも広がり永住への道を開くもので、従来の方針を一大転換する・・・』、続く具体的な問題をみてみよう。
・『人手不足の現場を担う「技能実習生」や「留学生」 長らく政府は、「単純労働の受け入れについては十分慎重に対応する」「労働者不足への対応として外国人労働者の受け入れを考えることは適切ではない」といった建前を貫いてきた。一方、少子高齢化が進む中、人手不足は深刻化の一途をたどっている。とりわけ医療・福祉や建設など特定業種にその傾向が著しい。現在、こうした人手不足産業の現場を、日本人に代わって担っているのが、「技能実習生」や「留学生」たちだ。 在留資格「特定技能」の新設で単純労働者の受け入れが可能になったとされるが、実質的には以前から受け入れていた。その中心となってきたのが、技能実習制度だ。同制度は1993年に創設され、現在77職種ある。国際貢献のため途上国の外国人を日本で最長5年間受け入れ、技能を移転するものとされている。技能実習生数は右肩上がりで、2018年6月末時点で全国に約28万人が在留している。 だが制度の実情に詳しい指宿昭一弁護士(外国人技能実習生問題弁護士連絡会共同代表)は、「その建前は真っ赤なウソで、労働力確保の手段として使われてきたことは、誰の目にも明らか」と語る。実際、法務省によれば大企業が海外の現地法人などの職員を受け入れて実習する「企業単独型」は全体の3%程度。大多数は中小・零細企業が監理団体を通じて受け入れる「団体監理型」だ。ここでは10人未満の零細企業が半数を占める。 これまでも技能実習生については賃金不払いや違法な長時間労働、パワハラ・セクハラの横行など、その劣悪な労働・生活環境がたびたび問題とされてきた。厚生労働省によれば、2017年に監督指導を実施した受け入れ企業のうち、実にその7割で労働基準関係法令違反が認められた。 最低賃金を大きく下回る残業時給350円、月160時間の時間外労働、労災隠し――。指宿弁護士によれば、そうした過酷な環境に置かれた実習生からの相談は枚挙にいとまがないという。 それにもかかわらず彼らが声を上げづらい背景には、2つの構造的な問題がある。1つは母国の送り出し機関から多額の渡航前費用を徴収されていることだ。実習生は民間ブローカーである送り出し機関に紹介・書類作成代行手数料や日本語講習料を支払う。表向き禁止されているはずの保証金や違約金契約の締結も求められ、借金の総額は100万円を超えることも一般的だ』、受け入れ企業の「7割で労働基準関係法令違反が認められた」にも拘らず、「実習生が声を上げづらい」というのは、制度自体の欠陥だ。
・『権利を主張すると「強制帰国」させられることも 技能実習生が権利を主張すると、受け入れ企業や監理団体によって本人の意思に反して期間途中で「強制帰国」させられることもある。母国の賃金水準ではとうてい返済不可能な借金が残るので、技能実習生はこれを最も恐れている。 もう1つは技能移転による国際貢献という建前のため、技能実習生には原則、職場変更の自由がないことだ。理不尽な職場なら辞めて別の仕事を探すという、労働者には当然の権利が彼らにはない。 「日本は経済の発展したすばらしい国だと思っていたのに、今は失望感でいっぱいだ」。中国から技能実習生として来日した黄世護さん(26)は、保護されているシェルター内で、うつむき加減にそう話し始めた。黄さんは本国で日本語学校に通って学ぶ中で、日本の技能実習制度の存在を知った。日本語を学べ、お金も稼げると聞き来日した。本国の送り出し機関に支払った費用は約50万円。自らの収入1年半分に相当する額を、友人から借金してかき集めた。 来日から半年過ぎた2016年夏、黄さんは実習先の段ボール工場での作業中、大型加工機に右手を挟まれ、3本の指を損傷した。2カ月間の入院生活で皮膚移植など手術を8回も繰り返したが、結局右手が元のように動くようにはならなかった。 退院後、日本側の受け入れ機関(監理団体)である協同組合が黄さんに求めたのは、「確認書」への署名だった。雇用契約は終了し、治療終了後は速やかに帰国することなど、労災保険給付以外は一切の補償を求めないという内容だ。「言うとおりにしないと犯罪になるなどと脅され、無理矢理サインさせられそうになった」と、黄さんは振り返る。 技能実習生は2017年までの8年間で174人が死亡している。業務上の事故だけでなく、過労死が疑われるケースもあるという。こうした実態を踏まえ、「特定技能」では、技能に類似性があれば転職の自由も認められ、報酬は日本人と同等以上と定められている。熟練した技能を持つ「特定技能2号」となれば、配偶者や子の帯同、永住も可能となり、事実上の移民となりうる。 この新たな就労資格の創設は移民社会への道を開く重い決定だが、国会審議で安倍晋三首相は「移民政策を取ることは考えていない」と繰り返し述べるなど、あくまで目下の人手不足対策というスタンスだ。ただ、外国人労働者の受け入れで先を行くアジア各国でも単純労働者の永住は認めていない。日本はそれだけ大きな方向転換をしたということを認識しておく必要がある』、「外国人労働者の受け入れで先を行くアジア各国でも単純労働者の永住は認めていない」というのは、恥ずかしながら初めて知った。国会で大した議論もせずに、強行採決で「大きな方向転換をした」安倍政権の罪は深い。
第三に、元銀行員で久留米大学商学部教授の塚崎公義氏が1月18日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「外国人労働者を雇う企業に行政コストを負担させるべきと考える理由」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/191196
・『外国人労働者の受け入れは日本の労働者にも経済にもマイナス 政府は、新しい在留資格を設けるのみならず、外国人留学生の就労拡大に向けた新たな制度も検討しており、外国人労働者の受け入れを拡大する方向だ。 筆者は、外国人単純労働者の受け入れに反対だが、百歩譲って受け入れるとしても、それに伴って発生する行政コストなどは、外国人を雇用する企業に負担させるべきだと考えている。 外国人労働者の受け入れ拡大は、産業界の要請だ。だが、これは日本人労働者および日本経済にとって大問題であると同時に、外国人にとっても問題だ。 というのも日本人労働者は、労働力不足で賃金が上がると期待していたところにライバルの外国人が入国してしまえば、労働力不足が緩和されてしまい、上がるはずだった賃金が上がらなくなってしまうからだ。次の不況がやってきたときに、自分たちが失業するリスクまで高まってしまう。 さらに、日本企業が労働力不足への対応として省力化投資を積極化させ始め、ようやく日本経済の効率化が進み始めたというタイミングだ。労働力不足が緩めば、そうした企業のインセンティブも失わせかねない。 おまけに、行政コストも増大する。政府は「外国人材の受入れ・共生のための総合的対応策」を策定し、外国人労働者生活相談などに応じる方針であるとされる。また、外国人労働者の子どもが通う学校においても、日本語教育のコストがかかるといった問題も指摘されている。 それ以外にも、外国人の単純労働者は、日本人と同様のさまざまな行政サービスを受けることになるが、一般的に彼らは(日本人の単純労働者並みの待遇だとすれば)所得が低く納税額も少ないだろうから、「行政の持ち出し」となる。これも外国人の単純労働者受け入れの行政コストと考えるべきだろう』、このままでは「行政の持ち出し」は、かなり大きく膨らむ懸念が強い。
・『受益者負担が公平でかつ資源配分を適正化 外国人の単純労働者を受け入れることで利益を得るのは、当の外国人労働者と日本企業だ。「受益者負担」という公平の原則から考えれば、行政コストなどは企業に負担させるべきだ。 “被害者”ともいえる日本人労働者の支払った税金が、外国人の単純労働者のための行政コストに支出されるのは公平の観点から許し難い。 加えて、「資源配分の適正化」という観点からも、大いに問題がある。例えば企業が外国人を雇うことで利益が1円増える一方、行政コストは100円増えるとすると、日本国全体としては外国人を雇った方が損になるので、雇うべきではない。 しかし、現状では企業は利益が増えるので、外国人労働者を雇うという国益を損なう行動を取ってしまう可能性が高い。 そうした事態を防ぐためには、行政コストを企業に負担させるのが最も合理的なのだ。そうすれば、企業は外国人を雇わないだろう。 例えば企業が外国人の単純労働者を雇うことで利益が200円増えるならば、行政コストを100円負担させられても外国人を雇うだろう。筆者としては、それでも日本人労働者の受ける“被害”を考えると不満ではあるが、その程度は明らかに緩和される。 後は、実際の行政コストのみならず、日本人労働者の“被害”を減らすために上乗せした金額を負担させるか否かだろう。 もしも仮に、外国人を雇うことで巨額の利益を得られる企業があるのであれば、筆者としても禁止すべきとは考えない。巨額の利益の中から、十分な負担をしてもらえばいいからだ』、「巨額の利益を得られる企業があるのであれば」というのは、筆の勢いで極端な例示をしただけで、そんな企業は、あえて外国人を雇わなくても日本人への処遇を上げれば日本人が集まる筈なので、実際にはありあない。外国人の単純労働者を受け入れながら、それに伴う行政コストは負担しないというのは、経済学でいう「フリーライダー’(タダ乗り」の典型で、市場メカニズム(適切な資源配分)を歪め、受け入れが必要以上に大きくなってしまう。
・『費用負担の適正化で資源配分を適切化しよう 費用負担が適切になされないと、不適切な資源配分がなされてしまうという典型例は「公害」だ。資源配分というのは経済学の用語で、労働力や原材料や資金などは有限だから、それを何の生産に用いると日本経済がよくなるかということだ。 汚水を垂れ流している企業が利益を1円稼いでいるとして、下流の住民に1万円の被害が生じているとすれば、あるいは汚水処理に1万円の費用が必要なのであれば、その企業の操業は日本の利益にならない((注)「い」がぬjけていたので補足)。つまり適切な資源配分とはいえない。 しかし、その企業が2万円を稼いでいるならば、操業を止めさせるよりは、汚水処理費用の1万円を負担させる方がいい。それで被害が完全に止まるならではあるが。 同様のことは、例えば医療費に関してもいえる。 医者に診察して軽い病を治療してもらうとして、本人は1000円分の満足を得たとする。医療費は5000円かかっているが、自己負担が1割なので、本人は500円しか払わない。これは日本にとって損失だ。5000円のコストをかけて1000円分の満足しか生み出していないからでだ。 医療の場合には、「治癒したことで他人への伝染が予防できた」「軽い病だと思って受診したら実は重い病であることが判明した」といった可能性もあるので一概には言えないが、外国人労働者の場合にはそうした可能性はなさそうなので、適切な費用負担によって適切な資源配分を図ることが望まれよう』、その通りだ。
・『外国人労働者の受け入れは外国人の幸せにつながるのか 日本の政策を考える上で、どこまで外国人の幸せについて考えるべきかは議論があるかもしれないし、本稿の本筋とも外れてしまうが、以下の点を指摘しておきたい。 例えば「日本の農業は労働力不足だから、外国人労働者を受け入れよう」という場合、筆者は「農産物を輸入すればいい」と考える。 最大の理由は、土地が広い国で農産物を効率的に作ることが「国際分業」として望ましいからだ。その方が外国人の幸せになるということもいえる。 外国人労働者を受け入れる場合、彼らは家族と離れて言語も習慣も異なる日本にやって来る。しかし、日本が農産物を輸入するなら日本に来る必要はなく、自国で家族と暮らしながら農業に従事すればいい。その方が外国人全体の幸せにつながるはずだ。 外国人に寄り添うあまり、「家族の帯同を認めればいい」と主張する人もいるが、2つの点で賛成できない。1つは、家族を連れてきて言葉の通じない国で苦労するより、自国で働く方がいいに決まっているからだ。 そしてもう1つは、日本語のできない家族を教育したり、莫大な行政コストが発生したりするからだ。「そういうコストは、喜んでわれわれ日本人納税者が負担するから、外国人労働者に家族の帯同を認めてほしい」という人は多くないように思う。 一般論として、「かわいそうな人がいるから行政が助けてやれ」という人は多いが、「かわいそうな人がいるから行政が助けてやれ。そのための費用は喜んでわれわれ納税者が負担するから」という人は少ないと思うが、いかがだろうか。 繰り返すが、筆者は外国人の単純労働者の受け入れには反対だ。だが、決まってしまった以上は、その弊害を少しでも緩和すべく、「外国人の単純労働者を雇う企業には課税して、さまざま『行政コスト+α』を負担させるべきだ」と改めて提案したい。 ちなみに、筆者が外国人の単純労働者の受け入れに反対している理由については、拙稿「外国人労働者受け入れが日本人労働者にとってデメリットしかない理由」をご参照いただきたい』、最後の論文は、このブログの12月5日に紹介した。塚崎氏の主張には全面的に賛成である。
タグ:室伏謙一 (その11)(「移民法」成立 外国人と真に「共生」するため政府が熟慮すべきこと、外国人が失望する「日本」という職場の不条理 単純労働にも道を開く事実上の移民解禁へ、外国人労働者を雇う企業に行政コストを負担させるべきと考える理由) 外国人労働者問題 外国人労働者の受け入れは外国人の幸せにつながるのか 適切な費用負担によって適切な資源配分を図ることが望まれよう 費用負担の適正化で資源配分を適切化しよう 受益者負担が公平でかつ資源配分を適正化 行政コストも増大 外国人労働者の受け入れは日本の労働者にも経済にもマイナス 「外国人労働者を雇う企業に行政コストを負担させるべきと考える理由」 塚崎公義 外国人労働者の受け入れで先を行くアジア各国でも単純労働者の永住は認めていない 権利を主張すると「強制帰国」させられることも 実習生が声を上げづらい 人手不足の現場を担う「技能実習生」や「留学生」 「外国人が失望する「日本」という職場の不条理 単純労働にも道を開く事実上の移民解禁へ」 東洋経済オンライン 関係府省や地方公共団体の負担軽減も含め、日本への、日本社会への、日本人への影響を防止するか、緩和させる対応策の検討が急務 地方に責任を押し付けたような場当たり的な支援策でどうにかなるものではない 移民法が成立してしまった以上 対応すべきことは何か 日本人、日本社会向けの対応策が完全に欠落している 政府は「共生」について楽観的すぎるのではないか これが安倍政権の本音かもしれない 日本人と外国人が安心して安全に暮らせる「共生社会」なるものを実現することがいつの間にか目的になってしまっている ダイヤモンド・オンライン 外国人旅行者と外国人材は何の関係があるのか 「移民法」の成立で準備が進んでいるが… 事実上の「移民法」 改正入管法が成立 「「移民法」成立、外国人と真に「共生」するため政府が熟慮すべきこと」
日本の構造問題(その10)(山本七平氏の『「空気」の研究』から読み解くシリーズ:日本で、場の「空気」に「水」を差せない本当の理由、戦時中「竹槍ではB29を落とせない」と言った空気を読まない人はどうなったのか?、日本では なぜすぐに「世論を誘導する力」が働くのか?) [社会]
日本の構造問題については、昨年12月26日に取上げた。今日は、(その10)(山本七平氏の『「空気」の研究』から読み解くシリーズ:日本で、場の「空気」に「水」を差せない本当の理由、戦時中「竹槍ではB29を落とせない」と言った空気を読まない人はどうなったのか?、日本では なぜすぐに「世論を誘導する力」が働くのか?)である。
先ずは、ビジネス戦略コンサルタント・MPS Consulting代表の鈴木博毅氏が1月11日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「日本で、場の「空気」に「水」を差せない本当の理由」を紹介しよう。ただ、注は省略する。
https://diamond.jp/articles/-/189198
・『仲間内で独立しようと話が盛り上がっても、ある人が「先立つ資金がない」と水を差せば、とたんにその場の空気は消えてしまう。しかし、時間がたてば、また同じような空気が生まれる。生まれた空気にいくら水を差しても、再び空気が現れるのはなぜか。 日本のあらゆる組織に表れる空気という妖怪。現代でも、日本人は空気に突き動かされると不可解な暴走をしてしまうが、日本人が空気に水を差せない謎を、40年読み継がれる日本人論の決定版、山本七平氏の『「空気」の研究』から読み解く。新刊『「超」入門 空気の研究』から内容の一部を特別公開』、思い当たるところが多そうだ。
・『空気に対して「水を差す」ことは本当にできるのか? これまで「空気」という妖怪の危険性について解説してきましたが、一方で日本には、その場の空気を壊す「水を差す」という表現があります。「水を差す」の一般的な意味は、うまくいっていることを邪魔するなどです。 ある一言が「水を差す」と、一瞬にしてその場の「空気」が崩壊するわけだが、その場合の「水」は通常、最も具体的な目前の障害を意味し、それを口にすることによって、即座に人びとを現実に引きもどすことを意味している。 山本七平氏は、『「空気」の研究』の中で、空気と対峙する「水」の存在についても詳しく解説しています。 山本氏が青年時代、出版仲間で自分たちが出版したい本の議論をしたときのこと。話がどんどん具体化していき、相当に売れそうだという気持ちになっていく。 「いつまでもサラリーマンじゃつまらない、独立して共同ではじめるか」という段階まで空気が過熱するも、誰かが「先立つものがネエなあ」と一言いうと、一瞬でその場の空気は崩壊してしまいます。つまり、資金問題という現実に直面して、空気が雲散霧消してしまったのです』、こんなことが確かに若い頃にはあったようだ。
・『空気の暴走を食い止める「水」と「雨」 山本氏は、「雨」を、「水」が連続したものと定義しています。 われわれの通常性とは、一言でいえばこの「水」の連続、すなわち一種の「雨」なのであり、この「雨」がいわば“現実”であって、しとしとと降りつづく“現実雨”に、「水を差し」つづけられることによって、現実を保持しているわけである。 水と雨について、山本氏の記述から次のような関係性を導くことができます。 ●水と雨の違い +「水」とは、最も具体的な目前の障害 +「雨」とは、水の連続したもの、すなわち日本社会の常識や通常性(文化・習慣) 私たち日本人は、空気に突き動かされたとき、非現実的な行動を誘発しがちです。それを防止する役割を果たすのが現実的な障害を意味する「水」、水の集合体としての日本社会の通常性、すなわち「雨」と指摘されているのです』、空気が盛り上がっている時に「水」を差されると、頭にくることもあるが、確かに暴走を防ぐ重要な役割もあるようだ。
・『空気と対比される「水」とは一体何なのか これまで、空気とは「ある種の前提」だと定義しました。では、水の定義はどうなるのでしょうか。山本氏の定義を再度確認してみましょう。 ある一言が「水を差す」と、一瞬にしてその場の「空気」が崩壊するわけだが、その場合の「水」は通常、最も具体的な目前の障害を意味し、それを口にすることによって、即座に人びとを現実に引きもどすことを意味している。 この文面から、本書では「水」を次のように定義します。 「水」=現実を土台とした前提 これまでの連載で解説したように、「空気(=ある種の前提)」は何らかの虚構を誘発する存在でした。理由は、前提を絶対化する過程で、矛盾する現実を無視させる圧力となるからです。 空気の場合は、願望や希望に近い形で現実を無視させる方向性を持ちます。 一方の水は、現実を土台とした前提として機能し、「そんなことは無理だよ」「お前の今の成績では難関大学は合格できないだろう」などの発言に代表されます。 小さな企業が著名な巨大企業との契約を得ることも「たぶん無理だろう」と誰かが言えば、それは願望に対するブレーキとして「水を差す」ことになるでしょう。 水の場合は、現実を土台とした前提として未見の可能性を無視させるのです。 もう少しやわらかい例で考えてみましょう。 例えば、模試の判定がD(悪い)の高校生が、それでも名門の難関大学を受験したいと主張した場合。「絶対に合格するぞ!」と自分の中で空気を盛り上げることは、模試のD判定という足元の現実を無視しています。これは「やればできる」という“願望としての前提”が学生の中にあるわけです。 一方で、「この成績では絶対に合格は無理だ」と周囲が水を差すことは、一般的な大学受験の合格率という“現実に即した前提”を基に、生徒がこれから驚くほど努力して、受験前に成績を大きく伸ばす可能性を無視しています。 空気と水はともに「前提」ですが、その方向性と無視させる対象が違うのです』、最後の部分はあと1つピンとこないが、下の方まで読めば分かるのかも知れない。
・『水があるのに、どうして空気の猛威が消えないのか 出版仲間と独立するか、という山本氏の話には重要なポイントがあります。資金がないという「水」を投げかけられても、同じ空気が繰り返し起こったことです。 私は何度か、否、何十回かそれを体験した。 必ず成功するという空気(前提)が盛り上がる度に「水」を差しても、なぜ独立の空気がまた盛り上がるのか。戦艦大和の出撃の議論と同様、「独立する」はダミーの目標だからです。 ●出版仲間で独立する話が盛り上がる理由 「空気(願望の前提)」=必ず売れそうな本(だからみんなで独立して出版しよう) 「水(現実を土台とした前提)」=資金がなければ独立はできない 「隠れた本当の動機」=今の会社員生活は、不自由や不満が絶えない つくりたい本、仲間と独立して成功したいなどの気持ちは、実際は現在のサラリーマン生活が、不自由で待遇に不満があるという隠れた願望の裏返しかもしれません。 そうであれば、資金があるか否かという現実の障害とは関係なく、独立願望は何度も立ち上がります。サラリーマン生活が不満、不自由だという空気には水を差していないからです。 「水」の基本は「世の中はそういうものじゃない」とか、同じことの逆の表現「世の中とはそういうものです」とかいう形で、経験則を基に思考を打ち切らす行き方であっても、その言葉が出て来る基となる矛盾には一切ふれない』、論議のなかで、「隠れた本当の動機」を見極めるのは実際には容易ではなさそうだ。
・『水を差しても空気が消えない理由 戦時中にあった、戦艦大和の特攻の是非についての議論を再度考えてみましょう。この議論における水(現実を土台とした前提)は、沖縄特攻の成功確率がほとんどゼロということでした。これはまさに「現実を土台とした前提」です。 しかし、沖縄特攻の真の動機は、敗戦で大和が敵に拿捕されることを絶対に避けたいということでした。これこそが「言葉が出て来る基になる矛盾」なのです。 資金がないのに独立する、という発想はある種の無茶です。同様に、作戦の成功確率がほぼゼロなのに、戦艦で特攻するのも無茶なのです。 なぜ、この「無茶」が出てくるかを、水は一切洞察することなく否定します。本来は、なぜ「無茶」が出てくるのか、その出発点こそ探り、解体すべきなのです。 ダミーの目標に水を差しても、真の動機に水を差さない限り、沖縄特攻や独立話のように、無茶で無謀な空気が何度も立ち上がってくるのです』、「沖縄特攻の真の動機は、敗戦で大和が敵に拿捕されることを絶対に避けたいということでした」というのは確かにその通りなのだろう。しかし、真の動機を明かす訳にはいかないので、一旦、作戦として立案されると、表面的なもので走り出してしまったのだろう。
次に、上記の続きを、1月15日付け「戦時中「竹槍ではB29を落とせない」と言った空気を読まない人はどうなったのか?」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/189929
・『戦時中、日本では竹槍でアメリカの爆撃機B29を落とそうとする訓練が行われていたという。物理的に考えれば届くはずがないのに、多くの人はこの竹槍訓練を行っていた。勇気ある人が「B29には届かない」と言ったとき、その人は一体どうなったのか。日本国民の多くが竹槍で戦う「空気」に縛られたとき、そこに「水を差す」人に対する恐るべき対応とは? 日本人が次第に「常識」に縛り付けられていく精神性の謎を読み解いた、日本人論の決定版、山本七平氏の『「空気」の研究』をダイジェストで読む。新刊『「超」入門 空気の研究』から、内容の一部を特別公開』、これもなかなか興味深そうだ。
・『水(雨)は、あなたを別の形で拘束している 「空気」は、何らかの不都合な現実に対する対極的な世界観として、日本人を拘束してきました。 一方で、「水を差す」などの表現にある、現実を土台とする前提の「水」、その連続としての「雨」は、ネガティブな方向、あれもダメ、これもできないという萎縮の拘束です。 加熱した空気を崩壊させる「水」は、一見したところ私たち日本人を、「空気」の拘束から解放してくれる自由への道具だと思われました。 しかし、無謀な空気を現実に引き戻す一方で、一般常識や現実的な視点に、私たちを拘束する別の鎖でもある。これでは、自由を求めていたはずの日本人は、希望を失わざるを得ません』、なるほど確かにその通りなのだろう。
・『水はやがて日本人を「常識」に縛り付ける 水の集合としての雨は、日本の文化的な常識(通常性)とも言えます。 「おじぎ」という奇妙な体型をとれば相手もそれとほぼ同じ体型をとるという作用が通常性的作用(中略)信号が赤になれば、田中元首相の車も宮本委員長の車も、反射的にとまるであろう。これが空間的通常性。 しかし、山本氏は恐ろしい指摘もしています。水と雨が、実は対極であるはずの「空気」を醸成する基盤になっていることです。 われわれは、非常に複雑な相互関係に陥らざるを得ない。「空気」を排除するため、現実という名の「水」を差す。従ってこの現実である「水」は、その通常性として作用しつつ、今まで記した「一絶対者・オール3」的状態をいつしか現出してしまう。 対極であるはずの水が、その通常性ゆえに、日本人を拘束する「空気」に変容する。これは一体、何を意味しているのでしょうか』、俄かには理解し難いので、次を読んでみよう。
・『水は「世の中そういうもの」という通常性をぶつけてくる 「水=現実を土台とした前提」は、通常性を基にして判断させようとします。理想や夢を高く掲げると、「世の中そんなに甘くない」とすぐに水を差す人が現れます。これは現実を土台とした否定的な前提を突き付けているのです。 もし声高に主張すれば、理不尽なことも通ってしまうなら、空気と水はどうなるか。 「この理不尽な前提を受け入れさせてやろう!」=異常性を押し付ける「空気」 「常識的にそんな勝手が通っていいはずがない」=異常性に反論する「水」 「世の中そんなものですよ、残念ながら」=通常性としての「水」 空気(願望的な前提)に、現実的な視点を提示し続ける(水を差す)と、次第に「これまでどおりで行くべきなのかな」となってきます。異常性に「通常性で」反論すると、最後は日本社会の慣習的な姿になるからです。前例主義のように、「水」が現状のゆがみも通常性として引き継ぐ悪循環に陥るのです。 「水を差す」通常性がもたらす情況倫理の世界は、最終的にはこの「空気支配」に到達するのである。 現実を土台とした前提の「水」は、やがて日本社会の通常性に戻る作用を発揮します。その一つが「資本の論理」や「市民の論理」など、ムラが複数存在する情況倫理の世界です。そうなると、ムラが仕切る、伝統的な空気の拘束に日本人は陥ってしまうのです』、「「水を差す」通常性がもたらす情況倫理の世界は、最終的にはこの「空気支配」に到達するのである」、「ムラが仕切る、伝統的な空気の拘束に日本人は陥ってしまうのです」などというのは、確かにその通りなのだろう。
・『「竹槍ではB29を撃墜できない」と言った者と現代日本 竹槍戦術の練習は、現代の日本人には信じがたい戦争中の出来事の一つでしょう。敗戦直前には、上陸する米兵(人形)を婦人が竹槍で刺し殺す訓練までありました。 さらに一部には、竹槍でB29爆撃機を撃墜するポーズの練習まであったのです。B29は米軍の開発した長距離戦略爆撃機であり、竹槍で落とすなど不可能です。ライフルを持つ米兵を、婦人や子どもが竹槍で殺傷することも、できるはずもありません。 『「空気」の研究』の第2章では、「竹槍で醸成された空気」という言葉が出てきます。勇気ある一人の人が「それはB29にとどかない」と言ったと山本氏は述べています。 「それはB29に届かない」との指摘は、現実を土台とした前提という意味でまさに「水」です。現実的な前提である「水」を差されたとき、戦時中の日本ではどうなったか。 そのような指摘をする者を“非国民”だと糾弾し、物理的な現実を無視させ続けたのです。 本人がそれを正しい意味の軍国主義(ミリタリズム)の立場から口にしても、その行為は非国民とされて不思議でないわけである。これは舞台の女形を指さして「男だ、男だ」と言うようなものだから、劇場の外へ退席させざるを得ない。 ウソを集団に共有させて、現実を指摘した者を、弾圧するか村八分にして孤立させる。虚構の共有は、舞台のような芸術分野であれば、趣味趣向として意味を持ちます。しかし高度1万メートルを飛ぶ爆撃機は、人間を殺す爆弾の雨を降らせます。 にもかかわらず、共同体の情況(物の見方)に現実を投げかけた者を“非国民”と呼びました。物理的に間違っていることを認めたら、虚構がすべて崩壊してしまうからです』、「“非国民”」とは確かに恐ろしいレッテルだ。虚構を維持するためのものであったとしても。
・『「非国民」「努力の尊さ」という詐術のメカニズム 「おまえは非国民だ!」の指摘にはもう一つの構造があります。物理的な問題を、感情や心情的な問題にすり替えていることです。 こんなにみんなが努力しているのに、お前はそれを笑うのか、という非難は、いつの間にか、物理的な問題を心情的な問題にすり替えていることがわかります。物理的な視点ではウソがつけないため、集団の情況や心情を持ち出してくるのです。 また、日本人が好む「人の努力は常に尊い」という発想にも危険があります。人の努力が尊いとは、正しいことをしている場合に限って言えるはずです。間違った努力を継続すれば、本人も周囲も社会全体も不幸にするだけです。 相対化とは、命題が正しい場合と間違っている場合を区分することでした。努力も絶対化すれば、不幸を拡散させ悲劇を増大させる悪そのものになるのです。 高高度を飛行するB29を竹槍で落とすポーズは、全滅するまで戦争を継続するという前提から国民を逃がさないための、虚構の一つだったと考えられます。 もし現実だけを見たら、100%敗戦が予測でき、日本国民は意欲を完全に失います。しかし、間違った目標に対して意欲を失うことは、本来正しいことでしょう。 間違いを訂正させないため、物理的な問題を心情的な問題にすり替えて、計測不能にする。この詐術は現代の日本社会でも、頻繁に見られる大衆誘導の手法です。 ゆがんだ物の見方をムラに強制して、水を差されることへの防御をしているのです。 戦争継続の空気に拘束されて、日本人はまったく勝ち目のない悲惨な戦争をだらだらと続けました。膨大な犠牲を払い、長崎・広島で原子爆弾が45万人の命を一瞬で奪うまで、誰も「敗戦受諾と停戦」を実現できなかったのです。(この原稿は書籍『「超」入門 空気の研究』から一部を抜粋・加筆して掲載しています)』、「間違いを訂正させないため、物理的な問題を心情的な問題にすり替えて、計測不能にする。この詐術は現代の日本社会でも、頻繁に見られる大衆誘導の手法です」、我々も大いに気を付けるべきだろう。
第三に、上記の続きを、1月16日付けダイヤモンド・オンライン「日本では、なぜすぐに「世論を誘導する力」が働くのか?」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/189931
・『日本という国には、不思議な「何かの力」が作用している。何か事件があると、講釈師がたくさん現れ、事実をそのまま伝えず、都合のいい解釈を伝える。フェイクニュースが騒がれ、ファクトの重要性が問われる今、私たちは改めて日本に作用する「何かの力」を考えるべきだ。40年読み継がれる日本人論の決定版、山本七平氏の『「空気」の研究』をわかりやすく読み解く新刊『「超」入門 空気の研究』から、内容の一部を特別公開する』、これも一読の価値がありそうだ。
・『空気とは結局、支配のための装置 「虚構」だけが人を動かす力である 山本七平氏は、『「空気」の研究』の第2章の最後で、「空気」の最終的な狙いと役割を述べています。 以上に共通する内容を一言でのべれば、それは何なのか。言うまでもなく、それは「虚構の世界」「虚構の中に真実を求める社会」であり、それが体制となった「虚構の支配機構」だということである。 山本氏が指摘した空気の構造は、支配を目的とした装置なのです。しかし山本氏は、虚構について次のような指摘もしています。 虚構の存在しない社会は存在しないし、人間を動かすものが虚構であること、否、虚構だけであることも否定できない。 この世界では、人は未来を正確に予測することはできません。ビジネスで「やればできる」と考えることは、「AならばBである」という意味で、ある種の希望的な前提です。 ある企業が新規事業の計画で全社的に盛り上がることは、空気(前提)で経営陣、多くの社員が動いていることになります。AならばBであるという“希望的な前提”は現実には存在せず、社員の心の中にしかないのです。 一方で、「そんな無謀な計画は無理だ」と考えることは、ネガティブな意味で「AならばBである」という前提がその人や集団の中にあることになります』、「虚構の存在しない社会は存在しないし、人間を動かすものが虚構であること、否、虚構だけであることも否定できない」との山本氏の言葉は含蓄がある。
・『日本という国に作用する不思議な「何かの力」 虚構が「人を動かす唯一の力」だからこそ、山本氏はこう指摘します。 従ってそこ(=虚構)に「何かの力」が作用して当然である。 山本氏は『「空気」の研究』の中で、小谷秀三氏の言葉を紹介しています。小谷氏は戦時中に技術者として日本軍に徴用され、フィリピンで破滅的な戦闘に巻き込まれて九死に一生を得た人物です。 これは軍人そのものの性格ではない。日本陸軍を貫いている或る何かの力が軍人にこうした組織や行動をとらしめているのだ。(小谷秀三『比島の土』より) 次の引用は戦後30年たった経済立国日本で、スイスの製薬会社の社員による言葉を取り上げた『環境問題の曲り角』(北条誠・著)の一文です。 日本は、実にふしぎな国である。研究室または実験室であるデータが出ると、それを追求するよりも早く、何かの力がそれに作用する……。(スイスの製薬会社社員の言葉) 新たな情報が、まるで何かに取り込まれて統制される姿の描写のようです。小谷氏と北条氏が描いた、日本という国に作用する不思議な「何かの力」とは一体何なのでしょうか』、薄気味悪いが、何なのだろう。
・『日本を滅ぼす圧力の正体 この連載で空気の分析を進めてきましたが、「何かの力」は次のように考えることが可能です。 【日本に作用する「何かの力」とは】(新たな事実や発見が、醸成している空気に一致しない場合、先んじてその新事実や新発見を取り上げて、「空気に一致する解釈」をつけて大々的に公表する。新たな事実や発見を、空気で日本を支配している側の不利にさせないための行為。 今のマスコミ報道にも似ていますが、何か事件なり問題が起きると、○○の事実はこう解釈するのが正しいのだ、という講釈師が洪水のように氾濫します。 「何かの力」と、紳士は言ったが、その抽象的な表現が、かえって私の心を傷つけた。左様。たしかに、一つのデータ、現象、事件に、日本ではすぐ「何かの力」が作用する。マスコミがとびつく。そして大きな渦となり誇大に宣伝され、世論となる。 先に紹介したように、空気が「支配装置」であるなら、「何かの力」がすぐ作用するのは当たり前の現象でしょう。 例えば、新発見が既存の支配的メーカーなどにとって不都合な技術的発見である場合、社会や大衆がその価値を正しく判断する前に「違う誘導をする」必要があるからです。 そのため「実験室で出たあるデータ」に電光石火で飛びついて、講釈師に都合のいい空気を醸成する目的で記事を書かせ、マスコミに大量配信させて誘導するのです。 体制側に不都合な問題が起こったときも、自分たちにとって都合のいい空気=世論を誘導する力が日本ではすぐに働きます。 虚構は人を動かす力となるゆえに、人を操る道具としても日々利用されているのです』、確かに日本はマスコミによる世論誘導が甚だしい国だ。
・『国民の権利はく奪も空気づくりから始まる 山本氏は、この「何かの力」に関連して、次のような指摘もしています。 「人間の健康とか、平和な市民生活」が起点であるように、かつての日本軍もその発想の起点は、国家・国民の安全であり、その「生活圏・生命線の確保」であり、このことは繰りかえし主張されていた。だが、その「起点」に「何かの力」が作用すると、一切を壊滅さす方向に、まるで宿命のように走り出し、自分で自分を止め得ない。 「何かの力」は、なぜこのような巨大なテーマにまとわりついているのか。 日本軍が「生活圏・生命線の確保」などの巨大なテーマを持ち出したのは、恐らくこの巨大なテーマを持ち出すことで、それ以外の一切を無視しても仕方がないという空気(=前提)をつくり出すためだったのではないでしょうか。 つまり、極度に重大なテーマを意図して掲げるのは、他のことはすべて無視されても、踏みにじられても仕方ないと大衆に思わせる詐術、前提づくりなのです。 山本氏の指摘のように、「国家・国民の安全」を名目に、国民のあらゆる権利をはく奪して、資産をすべて奪い取るのも止むなしという空気の醸成を狙ったのでしょう』、恐ろしいが、確かに現実に起きた話なので、説得力がある。
・『虚構に依存する者の末路 日本では戦争中に、巷で「敗戦主義者」という言葉がありました。 戦争に日本は負けるのではないか、と懸念すると「そういうことを言うやつがいるから敗けるんだ」と、負けるという言葉を発することが、あたかも勝敗に影響を与えるような非難をしていたのです。 日本は戦争に必ず勝つ、この物の見方を共同体に強制するのは明らかに虚構です。集団の情況(物の見方)と現実は一切関係なく、完全に異なるものだからです。 「そう言う者がいるから負けるんだ」という非難には、つくった虚構が崩れると、現実そのものも暗転するような、虚構にすがる、依存する感覚があるのです。 なぜ人や集団、大衆はつくられた虚構に次第に依存していくのでしょうか。行動を始めたきっかけが「ある虚構」ならば、行動を正当化するために、その虚構が正しいことを自ら主張する必要にせまられるからです。 不慣れな道を、地図やナビの矢印を根拠にして進むとき、次第に道が怪しくなったら、その人が自分の行動を正当化するには「地図にそう書いてあった」「ナビがこの方向を示したんだ」となるのではないでしょうか。 会議であれば「みんなが賛成したから可決したんだ!」「みんなが戦争に勝てると言ったから始めてしまったんだ」などの言葉になるでしょう。 これは日本の情況倫理による典型的な意思決定の形です。みんなが同じ物の見方を共有すれば、それが正しい方向だと考えてしまう。 一方で、現実が虚構と食い違い始めると、「私はあのとき反対したんだ」などと言い始める人も当然出てきます。 しかし、ここで振り返りたいのは、重要な議題を決断するために、「みんなが考えていた方向」以外のことを本当に検討したか否かです。 科学的な分析はしたのか、物量、数量、勢力差などの数字は比較したのか。どのような論理や根拠があって、会議の参加者は賛成または反対をしているのか。 みんなで固めた「物の見方(情況)」と違う現実が出現したとき、集団の物の見方をさらに拘束するのではなく、正しい現実の把握が打開の第一歩のはずです。 しかし、甘い夢を見る愚かなリーダー、心の弱い者は虚構に最後までしがみつきます。 そのような者たちは、虚構ではなく現実を知った者を、弾圧して叩きまくるのです。 誰かが空気を醸成して、その結果みんなが同じ物の見方に染められたなら、最重要の決断の根拠さえ、「みんなが賛成したから」以外の理由がなくなります。 表現を換えるなら、「決断の根拠はみんなで共有した虚構です」という意味です。これが空気による集団の操作であり、虚構に依存した人たちの末路なのです』、東芝問題もこの典型だろう。我々も大いに気を付けたい。
なお、明日は更新を休むので、明後日、木曜日にご期待を!
先ずは、ビジネス戦略コンサルタント・MPS Consulting代表の鈴木博毅氏が1月11日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「日本で、場の「空気」に「水」を差せない本当の理由」を紹介しよう。ただ、注は省略する。
https://diamond.jp/articles/-/189198
・『仲間内で独立しようと話が盛り上がっても、ある人が「先立つ資金がない」と水を差せば、とたんにその場の空気は消えてしまう。しかし、時間がたてば、また同じような空気が生まれる。生まれた空気にいくら水を差しても、再び空気が現れるのはなぜか。 日本のあらゆる組織に表れる空気という妖怪。現代でも、日本人は空気に突き動かされると不可解な暴走をしてしまうが、日本人が空気に水を差せない謎を、40年読み継がれる日本人論の決定版、山本七平氏の『「空気」の研究』から読み解く。新刊『「超」入門 空気の研究』から内容の一部を特別公開』、思い当たるところが多そうだ。
・『空気に対して「水を差す」ことは本当にできるのか? これまで「空気」という妖怪の危険性について解説してきましたが、一方で日本には、その場の空気を壊す「水を差す」という表現があります。「水を差す」の一般的な意味は、うまくいっていることを邪魔するなどです。 ある一言が「水を差す」と、一瞬にしてその場の「空気」が崩壊するわけだが、その場合の「水」は通常、最も具体的な目前の障害を意味し、それを口にすることによって、即座に人びとを現実に引きもどすことを意味している。 山本七平氏は、『「空気」の研究』の中で、空気と対峙する「水」の存在についても詳しく解説しています。 山本氏が青年時代、出版仲間で自分たちが出版したい本の議論をしたときのこと。話がどんどん具体化していき、相当に売れそうだという気持ちになっていく。 「いつまでもサラリーマンじゃつまらない、独立して共同ではじめるか」という段階まで空気が過熱するも、誰かが「先立つものがネエなあ」と一言いうと、一瞬でその場の空気は崩壊してしまいます。つまり、資金問題という現実に直面して、空気が雲散霧消してしまったのです』、こんなことが確かに若い頃にはあったようだ。
・『空気の暴走を食い止める「水」と「雨」 山本氏は、「雨」を、「水」が連続したものと定義しています。 われわれの通常性とは、一言でいえばこの「水」の連続、すなわち一種の「雨」なのであり、この「雨」がいわば“現実”であって、しとしとと降りつづく“現実雨”に、「水を差し」つづけられることによって、現実を保持しているわけである。 水と雨について、山本氏の記述から次のような関係性を導くことができます。 ●水と雨の違い +「水」とは、最も具体的な目前の障害 +「雨」とは、水の連続したもの、すなわち日本社会の常識や通常性(文化・習慣) 私たち日本人は、空気に突き動かされたとき、非現実的な行動を誘発しがちです。それを防止する役割を果たすのが現実的な障害を意味する「水」、水の集合体としての日本社会の通常性、すなわち「雨」と指摘されているのです』、空気が盛り上がっている時に「水」を差されると、頭にくることもあるが、確かに暴走を防ぐ重要な役割もあるようだ。
・『空気と対比される「水」とは一体何なのか これまで、空気とは「ある種の前提」だと定義しました。では、水の定義はどうなるのでしょうか。山本氏の定義を再度確認してみましょう。 ある一言が「水を差す」と、一瞬にしてその場の「空気」が崩壊するわけだが、その場合の「水」は通常、最も具体的な目前の障害を意味し、それを口にすることによって、即座に人びとを現実に引きもどすことを意味している。 この文面から、本書では「水」を次のように定義します。 「水」=現実を土台とした前提 これまでの連載で解説したように、「空気(=ある種の前提)」は何らかの虚構を誘発する存在でした。理由は、前提を絶対化する過程で、矛盾する現実を無視させる圧力となるからです。 空気の場合は、願望や希望に近い形で現実を無視させる方向性を持ちます。 一方の水は、現実を土台とした前提として機能し、「そんなことは無理だよ」「お前の今の成績では難関大学は合格できないだろう」などの発言に代表されます。 小さな企業が著名な巨大企業との契約を得ることも「たぶん無理だろう」と誰かが言えば、それは願望に対するブレーキとして「水を差す」ことになるでしょう。 水の場合は、現実を土台とした前提として未見の可能性を無視させるのです。 もう少しやわらかい例で考えてみましょう。 例えば、模試の判定がD(悪い)の高校生が、それでも名門の難関大学を受験したいと主張した場合。「絶対に合格するぞ!」と自分の中で空気を盛り上げることは、模試のD判定という足元の現実を無視しています。これは「やればできる」という“願望としての前提”が学生の中にあるわけです。 一方で、「この成績では絶対に合格は無理だ」と周囲が水を差すことは、一般的な大学受験の合格率という“現実に即した前提”を基に、生徒がこれから驚くほど努力して、受験前に成績を大きく伸ばす可能性を無視しています。 空気と水はともに「前提」ですが、その方向性と無視させる対象が違うのです』、最後の部分はあと1つピンとこないが、下の方まで読めば分かるのかも知れない。
・『水があるのに、どうして空気の猛威が消えないのか 出版仲間と独立するか、という山本氏の話には重要なポイントがあります。資金がないという「水」を投げかけられても、同じ空気が繰り返し起こったことです。 私は何度か、否、何十回かそれを体験した。 必ず成功するという空気(前提)が盛り上がる度に「水」を差しても、なぜ独立の空気がまた盛り上がるのか。戦艦大和の出撃の議論と同様、「独立する」はダミーの目標だからです。 ●出版仲間で独立する話が盛り上がる理由 「空気(願望の前提)」=必ず売れそうな本(だからみんなで独立して出版しよう) 「水(現実を土台とした前提)」=資金がなければ独立はできない 「隠れた本当の動機」=今の会社員生活は、不自由や不満が絶えない つくりたい本、仲間と独立して成功したいなどの気持ちは、実際は現在のサラリーマン生活が、不自由で待遇に不満があるという隠れた願望の裏返しかもしれません。 そうであれば、資金があるか否かという現実の障害とは関係なく、独立願望は何度も立ち上がります。サラリーマン生活が不満、不自由だという空気には水を差していないからです。 「水」の基本は「世の中はそういうものじゃない」とか、同じことの逆の表現「世の中とはそういうものです」とかいう形で、経験則を基に思考を打ち切らす行き方であっても、その言葉が出て来る基となる矛盾には一切ふれない』、論議のなかで、「隠れた本当の動機」を見極めるのは実際には容易ではなさそうだ。
・『水を差しても空気が消えない理由 戦時中にあった、戦艦大和の特攻の是非についての議論を再度考えてみましょう。この議論における水(現実を土台とした前提)は、沖縄特攻の成功確率がほとんどゼロということでした。これはまさに「現実を土台とした前提」です。 しかし、沖縄特攻の真の動機は、敗戦で大和が敵に拿捕されることを絶対に避けたいということでした。これこそが「言葉が出て来る基になる矛盾」なのです。 資金がないのに独立する、という発想はある種の無茶です。同様に、作戦の成功確率がほぼゼロなのに、戦艦で特攻するのも無茶なのです。 なぜ、この「無茶」が出てくるかを、水は一切洞察することなく否定します。本来は、なぜ「無茶」が出てくるのか、その出発点こそ探り、解体すべきなのです。 ダミーの目標に水を差しても、真の動機に水を差さない限り、沖縄特攻や独立話のように、無茶で無謀な空気が何度も立ち上がってくるのです』、「沖縄特攻の真の動機は、敗戦で大和が敵に拿捕されることを絶対に避けたいということでした」というのは確かにその通りなのだろう。しかし、真の動機を明かす訳にはいかないので、一旦、作戦として立案されると、表面的なもので走り出してしまったのだろう。
次に、上記の続きを、1月15日付け「戦時中「竹槍ではB29を落とせない」と言った空気を読まない人はどうなったのか?」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/189929
・『戦時中、日本では竹槍でアメリカの爆撃機B29を落とそうとする訓練が行われていたという。物理的に考えれば届くはずがないのに、多くの人はこの竹槍訓練を行っていた。勇気ある人が「B29には届かない」と言ったとき、その人は一体どうなったのか。日本国民の多くが竹槍で戦う「空気」に縛られたとき、そこに「水を差す」人に対する恐るべき対応とは? 日本人が次第に「常識」に縛り付けられていく精神性の謎を読み解いた、日本人論の決定版、山本七平氏の『「空気」の研究』をダイジェストで読む。新刊『「超」入門 空気の研究』から、内容の一部を特別公開』、これもなかなか興味深そうだ。
・『水(雨)は、あなたを別の形で拘束している 「空気」は、何らかの不都合な現実に対する対極的な世界観として、日本人を拘束してきました。 一方で、「水を差す」などの表現にある、現実を土台とする前提の「水」、その連続としての「雨」は、ネガティブな方向、あれもダメ、これもできないという萎縮の拘束です。 加熱した空気を崩壊させる「水」は、一見したところ私たち日本人を、「空気」の拘束から解放してくれる自由への道具だと思われました。 しかし、無謀な空気を現実に引き戻す一方で、一般常識や現実的な視点に、私たちを拘束する別の鎖でもある。これでは、自由を求めていたはずの日本人は、希望を失わざるを得ません』、なるほど確かにその通りなのだろう。
・『水はやがて日本人を「常識」に縛り付ける 水の集合としての雨は、日本の文化的な常識(通常性)とも言えます。 「おじぎ」という奇妙な体型をとれば相手もそれとほぼ同じ体型をとるという作用が通常性的作用(中略)信号が赤になれば、田中元首相の車も宮本委員長の車も、反射的にとまるであろう。これが空間的通常性。 しかし、山本氏は恐ろしい指摘もしています。水と雨が、実は対極であるはずの「空気」を醸成する基盤になっていることです。 われわれは、非常に複雑な相互関係に陥らざるを得ない。「空気」を排除するため、現実という名の「水」を差す。従ってこの現実である「水」は、その通常性として作用しつつ、今まで記した「一絶対者・オール3」的状態をいつしか現出してしまう。 対極であるはずの水が、その通常性ゆえに、日本人を拘束する「空気」に変容する。これは一体、何を意味しているのでしょうか』、俄かには理解し難いので、次を読んでみよう。
・『水は「世の中そういうもの」という通常性をぶつけてくる 「水=現実を土台とした前提」は、通常性を基にして判断させようとします。理想や夢を高く掲げると、「世の中そんなに甘くない」とすぐに水を差す人が現れます。これは現実を土台とした否定的な前提を突き付けているのです。 もし声高に主張すれば、理不尽なことも通ってしまうなら、空気と水はどうなるか。 「この理不尽な前提を受け入れさせてやろう!」=異常性を押し付ける「空気」 「常識的にそんな勝手が通っていいはずがない」=異常性に反論する「水」 「世の中そんなものですよ、残念ながら」=通常性としての「水」 空気(願望的な前提)に、現実的な視点を提示し続ける(水を差す)と、次第に「これまでどおりで行くべきなのかな」となってきます。異常性に「通常性で」反論すると、最後は日本社会の慣習的な姿になるからです。前例主義のように、「水」が現状のゆがみも通常性として引き継ぐ悪循環に陥るのです。 「水を差す」通常性がもたらす情況倫理の世界は、最終的にはこの「空気支配」に到達するのである。 現実を土台とした前提の「水」は、やがて日本社会の通常性に戻る作用を発揮します。その一つが「資本の論理」や「市民の論理」など、ムラが複数存在する情況倫理の世界です。そうなると、ムラが仕切る、伝統的な空気の拘束に日本人は陥ってしまうのです』、「「水を差す」通常性がもたらす情況倫理の世界は、最終的にはこの「空気支配」に到達するのである」、「ムラが仕切る、伝統的な空気の拘束に日本人は陥ってしまうのです」などというのは、確かにその通りなのだろう。
・『「竹槍ではB29を撃墜できない」と言った者と現代日本 竹槍戦術の練習は、現代の日本人には信じがたい戦争中の出来事の一つでしょう。敗戦直前には、上陸する米兵(人形)を婦人が竹槍で刺し殺す訓練までありました。 さらに一部には、竹槍でB29爆撃機を撃墜するポーズの練習まであったのです。B29は米軍の開発した長距離戦略爆撃機であり、竹槍で落とすなど不可能です。ライフルを持つ米兵を、婦人や子どもが竹槍で殺傷することも、できるはずもありません。 『「空気」の研究』の第2章では、「竹槍で醸成された空気」という言葉が出てきます。勇気ある一人の人が「それはB29にとどかない」と言ったと山本氏は述べています。 「それはB29に届かない」との指摘は、現実を土台とした前提という意味でまさに「水」です。現実的な前提である「水」を差されたとき、戦時中の日本ではどうなったか。 そのような指摘をする者を“非国民”だと糾弾し、物理的な現実を無視させ続けたのです。 本人がそれを正しい意味の軍国主義(ミリタリズム)の立場から口にしても、その行為は非国民とされて不思議でないわけである。これは舞台の女形を指さして「男だ、男だ」と言うようなものだから、劇場の外へ退席させざるを得ない。 ウソを集団に共有させて、現実を指摘した者を、弾圧するか村八分にして孤立させる。虚構の共有は、舞台のような芸術分野であれば、趣味趣向として意味を持ちます。しかし高度1万メートルを飛ぶ爆撃機は、人間を殺す爆弾の雨を降らせます。 にもかかわらず、共同体の情況(物の見方)に現実を投げかけた者を“非国民”と呼びました。物理的に間違っていることを認めたら、虚構がすべて崩壊してしまうからです』、「“非国民”」とは確かに恐ろしいレッテルだ。虚構を維持するためのものであったとしても。
・『「非国民」「努力の尊さ」という詐術のメカニズム 「おまえは非国民だ!」の指摘にはもう一つの構造があります。物理的な問題を、感情や心情的な問題にすり替えていることです。 こんなにみんなが努力しているのに、お前はそれを笑うのか、という非難は、いつの間にか、物理的な問題を心情的な問題にすり替えていることがわかります。物理的な視点ではウソがつけないため、集団の情況や心情を持ち出してくるのです。 また、日本人が好む「人の努力は常に尊い」という発想にも危険があります。人の努力が尊いとは、正しいことをしている場合に限って言えるはずです。間違った努力を継続すれば、本人も周囲も社会全体も不幸にするだけです。 相対化とは、命題が正しい場合と間違っている場合を区分することでした。努力も絶対化すれば、不幸を拡散させ悲劇を増大させる悪そのものになるのです。 高高度を飛行するB29を竹槍で落とすポーズは、全滅するまで戦争を継続するという前提から国民を逃がさないための、虚構の一つだったと考えられます。 もし現実だけを見たら、100%敗戦が予測でき、日本国民は意欲を完全に失います。しかし、間違った目標に対して意欲を失うことは、本来正しいことでしょう。 間違いを訂正させないため、物理的な問題を心情的な問題にすり替えて、計測不能にする。この詐術は現代の日本社会でも、頻繁に見られる大衆誘導の手法です。 ゆがんだ物の見方をムラに強制して、水を差されることへの防御をしているのです。 戦争継続の空気に拘束されて、日本人はまったく勝ち目のない悲惨な戦争をだらだらと続けました。膨大な犠牲を払い、長崎・広島で原子爆弾が45万人の命を一瞬で奪うまで、誰も「敗戦受諾と停戦」を実現できなかったのです。(この原稿は書籍『「超」入門 空気の研究』から一部を抜粋・加筆して掲載しています)』、「間違いを訂正させないため、物理的な問題を心情的な問題にすり替えて、計測不能にする。この詐術は現代の日本社会でも、頻繁に見られる大衆誘導の手法です」、我々も大いに気を付けるべきだろう。
第三に、上記の続きを、1月16日付けダイヤモンド・オンライン「日本では、なぜすぐに「世論を誘導する力」が働くのか?」を紹介しよう。
https://diamond.jp/articles/-/189931
・『日本という国には、不思議な「何かの力」が作用している。何か事件があると、講釈師がたくさん現れ、事実をそのまま伝えず、都合のいい解釈を伝える。フェイクニュースが騒がれ、ファクトの重要性が問われる今、私たちは改めて日本に作用する「何かの力」を考えるべきだ。40年読み継がれる日本人論の決定版、山本七平氏の『「空気」の研究』をわかりやすく読み解く新刊『「超」入門 空気の研究』から、内容の一部を特別公開する』、これも一読の価値がありそうだ。
・『空気とは結局、支配のための装置 「虚構」だけが人を動かす力である 山本七平氏は、『「空気」の研究』の第2章の最後で、「空気」の最終的な狙いと役割を述べています。 以上に共通する内容を一言でのべれば、それは何なのか。言うまでもなく、それは「虚構の世界」「虚構の中に真実を求める社会」であり、それが体制となった「虚構の支配機構」だということである。 山本氏が指摘した空気の構造は、支配を目的とした装置なのです。しかし山本氏は、虚構について次のような指摘もしています。 虚構の存在しない社会は存在しないし、人間を動かすものが虚構であること、否、虚構だけであることも否定できない。 この世界では、人は未来を正確に予測することはできません。ビジネスで「やればできる」と考えることは、「AならばBである」という意味で、ある種の希望的な前提です。 ある企業が新規事業の計画で全社的に盛り上がることは、空気(前提)で経営陣、多くの社員が動いていることになります。AならばBであるという“希望的な前提”は現実には存在せず、社員の心の中にしかないのです。 一方で、「そんな無謀な計画は無理だ」と考えることは、ネガティブな意味で「AならばBである」という前提がその人や集団の中にあることになります』、「虚構の存在しない社会は存在しないし、人間を動かすものが虚構であること、否、虚構だけであることも否定できない」との山本氏の言葉は含蓄がある。
・『日本という国に作用する不思議な「何かの力」 虚構が「人を動かす唯一の力」だからこそ、山本氏はこう指摘します。 従ってそこ(=虚構)に「何かの力」が作用して当然である。 山本氏は『「空気」の研究』の中で、小谷秀三氏の言葉を紹介しています。小谷氏は戦時中に技術者として日本軍に徴用され、フィリピンで破滅的な戦闘に巻き込まれて九死に一生を得た人物です。 これは軍人そのものの性格ではない。日本陸軍を貫いている或る何かの力が軍人にこうした組織や行動をとらしめているのだ。(小谷秀三『比島の土』より) 次の引用は戦後30年たった経済立国日本で、スイスの製薬会社の社員による言葉を取り上げた『環境問題の曲り角』(北条誠・著)の一文です。 日本は、実にふしぎな国である。研究室または実験室であるデータが出ると、それを追求するよりも早く、何かの力がそれに作用する……。(スイスの製薬会社社員の言葉) 新たな情報が、まるで何かに取り込まれて統制される姿の描写のようです。小谷氏と北条氏が描いた、日本という国に作用する不思議な「何かの力」とは一体何なのでしょうか』、薄気味悪いが、何なのだろう。
・『日本を滅ぼす圧力の正体 この連載で空気の分析を進めてきましたが、「何かの力」は次のように考えることが可能です。 【日本に作用する「何かの力」とは】(新たな事実や発見が、醸成している空気に一致しない場合、先んじてその新事実や新発見を取り上げて、「空気に一致する解釈」をつけて大々的に公表する。新たな事実や発見を、空気で日本を支配している側の不利にさせないための行為。 今のマスコミ報道にも似ていますが、何か事件なり問題が起きると、○○の事実はこう解釈するのが正しいのだ、という講釈師が洪水のように氾濫します。 「何かの力」と、紳士は言ったが、その抽象的な表現が、かえって私の心を傷つけた。左様。たしかに、一つのデータ、現象、事件に、日本ではすぐ「何かの力」が作用する。マスコミがとびつく。そして大きな渦となり誇大に宣伝され、世論となる。 先に紹介したように、空気が「支配装置」であるなら、「何かの力」がすぐ作用するのは当たり前の現象でしょう。 例えば、新発見が既存の支配的メーカーなどにとって不都合な技術的発見である場合、社会や大衆がその価値を正しく判断する前に「違う誘導をする」必要があるからです。 そのため「実験室で出たあるデータ」に電光石火で飛びついて、講釈師に都合のいい空気を醸成する目的で記事を書かせ、マスコミに大量配信させて誘導するのです。 体制側に不都合な問題が起こったときも、自分たちにとって都合のいい空気=世論を誘導する力が日本ではすぐに働きます。 虚構は人を動かす力となるゆえに、人を操る道具としても日々利用されているのです』、確かに日本はマスコミによる世論誘導が甚だしい国だ。
・『国民の権利はく奪も空気づくりから始まる 山本氏は、この「何かの力」に関連して、次のような指摘もしています。 「人間の健康とか、平和な市民生活」が起点であるように、かつての日本軍もその発想の起点は、国家・国民の安全であり、その「生活圏・生命線の確保」であり、このことは繰りかえし主張されていた。だが、その「起点」に「何かの力」が作用すると、一切を壊滅さす方向に、まるで宿命のように走り出し、自分で自分を止め得ない。 「何かの力」は、なぜこのような巨大なテーマにまとわりついているのか。 日本軍が「生活圏・生命線の確保」などの巨大なテーマを持ち出したのは、恐らくこの巨大なテーマを持ち出すことで、それ以外の一切を無視しても仕方がないという空気(=前提)をつくり出すためだったのではないでしょうか。 つまり、極度に重大なテーマを意図して掲げるのは、他のことはすべて無視されても、踏みにじられても仕方ないと大衆に思わせる詐術、前提づくりなのです。 山本氏の指摘のように、「国家・国民の安全」を名目に、国民のあらゆる権利をはく奪して、資産をすべて奪い取るのも止むなしという空気の醸成を狙ったのでしょう』、恐ろしいが、確かに現実に起きた話なので、説得力がある。
・『虚構に依存する者の末路 日本では戦争中に、巷で「敗戦主義者」という言葉がありました。 戦争に日本は負けるのではないか、と懸念すると「そういうことを言うやつがいるから敗けるんだ」と、負けるという言葉を発することが、あたかも勝敗に影響を与えるような非難をしていたのです。 日本は戦争に必ず勝つ、この物の見方を共同体に強制するのは明らかに虚構です。集団の情況(物の見方)と現実は一切関係なく、完全に異なるものだからです。 「そう言う者がいるから負けるんだ」という非難には、つくった虚構が崩れると、現実そのものも暗転するような、虚構にすがる、依存する感覚があるのです。 なぜ人や集団、大衆はつくられた虚構に次第に依存していくのでしょうか。行動を始めたきっかけが「ある虚構」ならば、行動を正当化するために、その虚構が正しいことを自ら主張する必要にせまられるからです。 不慣れな道を、地図やナビの矢印を根拠にして進むとき、次第に道が怪しくなったら、その人が自分の行動を正当化するには「地図にそう書いてあった」「ナビがこの方向を示したんだ」となるのではないでしょうか。 会議であれば「みんなが賛成したから可決したんだ!」「みんなが戦争に勝てると言ったから始めてしまったんだ」などの言葉になるでしょう。 これは日本の情況倫理による典型的な意思決定の形です。みんなが同じ物の見方を共有すれば、それが正しい方向だと考えてしまう。 一方で、現実が虚構と食い違い始めると、「私はあのとき反対したんだ」などと言い始める人も当然出てきます。 しかし、ここで振り返りたいのは、重要な議題を決断するために、「みんなが考えていた方向」以外のことを本当に検討したか否かです。 科学的な分析はしたのか、物量、数量、勢力差などの数字は比較したのか。どのような論理や根拠があって、会議の参加者は賛成または反対をしているのか。 みんなで固めた「物の見方(情況)」と違う現実が出現したとき、集団の物の見方をさらに拘束するのではなく、正しい現実の把握が打開の第一歩のはずです。 しかし、甘い夢を見る愚かなリーダー、心の弱い者は虚構に最後までしがみつきます。 そのような者たちは、虚構ではなく現実を知った者を、弾圧して叩きまくるのです。 誰かが空気を醸成して、その結果みんなが同じ物の見方に染められたなら、最重要の決断の根拠さえ、「みんなが賛成したから」以外の理由がなくなります。 表現を換えるなら、「決断の根拠はみんなで共有した虚構です」という意味です。これが空気による集団の操作であり、虚構に依存した人たちの末路なのです』、東芝問題もこの典型だろう。我々も大いに気を付けたい。
なお、明日は更新を休むので、明後日、木曜日にご期待を!
タグ:日本の構造問題 (その10)(山本七平氏の『「空気」の研究』から読み解くシリーズ:日本で、場の「空気」に「水」を差せない本当の理由、戦時中「竹槍ではB29を落とせない」と言った空気を読まない人はどうなったのか?、日本では なぜすぐに「世論を誘導する力」が働くのか?) 鈴木博毅 ダイヤモンド・オンライン 「日本で、場の「空気」に「水」を差せない本当の理由」 山本七平氏の『「空気」の研究』 空気に対して「水を差す」ことは本当にできるのか? 空気の暴走を食い止める「水」と「雨」 空気と対比される「水」とは一体何なのか 水があるのに、どうして空気の猛威が消えないのか 水を差しても空気が消えない理由 「戦時中「竹槍ではB29を落とせない」と言った空気を読まない人はどうなったのか?」 水(雨)は、あなたを別の形で拘束している 水はやがて日本人を「常識」に縛り付ける 水は「世の中そういうもの」という通常性をぶつけてくる 「竹槍ではB29を撃墜できない」と言った者と現代日本 “非国民” 「非国民」「努力の尊さ」という詐術のメカニズム 「日本では、なぜすぐに「世論を誘導する力」が働くのか?」 空気とは結局、支配のための装置 日本という国に作用する不思議な「何かの力」 日本を滅ぼす圧力の正体 国民の権利はく奪も空気づくりから始まる 虚構に依存する者の末路
日韓関係(除く慰安婦)(田母神氏投稿で物議 韓国照射“火器管制レーダー”の安全性、安倍の“感情判断”で…レーダー照射めぐり日韓応酬が泥沼化、日韓関係がここまで急悪化している根本理由 アメリカや韓国政府はどう思っているのか) [外交]
今日は、日韓関係(除く慰安婦)(田母神氏投稿で物議 韓国照射“火器管制レーダー”の安全性、安倍の“感情判断”で…レーダー照射めぐり日韓応酬が泥沼化、日韓関係がここまで急悪化している根本理由 アメリカや韓国政府はどう思っているのか)を取上げよう。
先ずは、昨年12月27日付け日刊ゲンダイ「田母神氏投稿で物議 韓国照射“火器管制レーダー”の安全性」を紹介しよう。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/244441
・『海上自衛隊の哨戒機が、韓国海軍の駆逐艦からレーダーの照射を受けた問題は、日韓双方で主張が食い違い、収拾がつかなくなっている。 はたして、日韓どちらの言い分が正しいのか。いま話題となっているのが、第29代航空幕僚長だった田母神俊雄氏が投稿したツイッターだ。 田母神氏は21日、「韓国艦艇が海自対潜哨戒機に火器管制レーダーを照射したことで日本政府が危険だということで韓国に抗議したという。全く危険ではない」と自身のツイッター上で政府に苦言を呈しているのだ。要するにレーダー照射は大したことじゃない、ということらしい。 投稿の反響について田母神俊雄事務所に問い合わせると、ツイッターの投稿以降、事務所には「韓国の肩を持つのか」といったクレームが殺到し、対応に追われているという』、日本では官邸発の大本営発表ばかりが、ニュースを賑わせているが、あの田母神氏がこうした発言をしたとは驚いた。
・『軍事の専門家からすると、火器管制レーダーの照射は、「危険な行為ではない」ということなのか。軍事評論家の田岡俊次氏はこう説明する。 「火器管制用のレーダーの照射を受けても、相手の艦がミサイルを発射機に装填していないとか、垂直発射機のフタを開けていなければ『引き金を引く寸前』ではない。冷戦時代に米ソ海軍は互いに激しい嫌がらせをし、衝突も起きたから、1972年に米ソは海上事故防止協定を結び多くの危険な行為を禁止した。日本も93年に日露海上事故防止協定を結んだが、いずれも火器管制レーダーの照射を危険行為としていない。2013年に中国軍艦が日本の護衛艦に火器管制レーダー照射をした際も、当初海上自衛隊は問題にしていなかったが、日本にいる元米国外交官が、『米軍はレーダーで照射されれば直ちに攻撃する』と言い、日本では『そんな大変なことか』と騒ぎになった」 どうやら、田母神氏のツイッターはそう間違ってはいないらしい』、「2013年に中国軍艦が日本の護衛艦に火器管制レーダー照射をした際も、当初海上自衛隊は問題にしていなかった」というのは、初耳だ。どうも安倍首相が大騒ぎの元凶のようだ。
次に、同じ日刊ゲンダイが1月5日付けで掲載した「安倍の“感情判断”で…レーダー照射めぐり日韓応酬が泥沼化」を紹介しよう。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/244891
・『反論の応酬が過熱の一途だ。韓国国防省が4日、韓国駆逐艦による海上自衛隊哨戒機への火器管制レーダー照射を巡り、日本の主張への反論動画を公開。これに「話し合える状況にない」(政府関係者)と猛反発しているのが、安倍政権だ。防衛省にさらなる証拠として軍事機密であるレーダーの波長データの公開を検討させるほか、近く韓国側に反論する文書を出す方向だ。 韓国国防省の反論動画は約4分半。上空を飛行する海自の哨戒機と、救助中だったとされる北朝鮮船舶を韓国の海洋警察が撮影した10秒ほどの映像が含まれるが、大部分は既に日本側が公開したもの。公開に合わせて会見した韓国国防省の報道官は、「日本はこれ以上、事実を歪曲することを中断し、人道的な救助活動中だった韓国軍の艦艇に威嚇的な低空飛行をしたことを謝罪しなければならない」などと従来の主張を繰り返した。 日韓両国による反論の応酬に、防衛省幹部は「最後は罵詈雑言の言い合いになるかもしれない」と懸念を示したというが、後の祭り。 日韓関係を一層冷え込ませると慎重だった防衛省を押し切り、「鶴の一声」で最初の映像公開に踏み切ったのは安倍首相だ。時事通信は、韓国にいら立ちを募らせ、トップダウンで押し切ったと報じた。感情任せの安倍首相の判断が、案の定、泥沼化を招いている』、確かに韓国側の余りに反日的な姿勢には、腹が立つが、こと外交問題で、感情任せの安倍首相の一存で、「慎重だった防衛省を押し切ったとは、やりすぎだ。日韓議員連盟の二階幹事長は、本来、安倍首相を抑える役割を果たすべきだが、「洞ヶ峠」を決め込んでいるとすれば、罪は安倍首相並みに重い。
第三に、スタンフォード大学教授のダニエル・スナイダー氏が1月14日付け東洋経済オンラインに寄稿した「日韓関係がここまで急悪化している根本理由 アメリカや韓国政府はどう思っているのか」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/260086
・『北東アジアにおいてアジアの安全保障上重要な2つの同盟国である日本と韓国の関係が、またもや敵対意識に煽られた機能不全に陥っている。悲しいことに、この状況は今に始まったことではない。隣り合う両国は過去にもこうした局面に差し掛かったことがあり、差し迫った問題はいままでと同様に、戦争や植民地支配、競争意識の歴史に根差している。 しかし、今回の件を単純にいつもと同じ問題だと見るのは間違いだ。実際、日本と韓国のみならずアメリカ政府内部でも、これは北東アジア地域の安全保障に影響をおよぼしうる深刻な危機であるという意識が強くなっている』、一刻も早く米国に介入してほしいところだが、後ろを読むと、どうもそうはいかないようだ。。
・『韓国政府の感情は「非常に不安定」 「韓国政府と日本政府の間に衝突への道を回避しようとの出口作戦がない状況を、非常に憂慮している」と両国の関係に深く携わってきた元韓国政府高官は語る。日本の植民地支配に対する朝鮮独立運動(三・一運動)勃発100周年を祝う年だけに、韓国政府の感情は「非常に不安定」だと同高官は言う。 同高官によると、日韓関係の危機は「アメリカを含む3国間の安全保障協定を蝕むことになりかねない」。一部のほかの韓国人たちと同様、同高官は明らかにアメリカがこの件に関心を示し、行動しないことについて非難する。これまでのアメリカであれは、日韓政府が互いに話し合う能力を欠く今回のような危機に際して介入してきた。 「残念ながらアメリカ国務省は混乱状態にあり、両国間を取り持つ役割を果たすことができない。膠着状態を崩すには高いレベルの対話ルートをお膳立てがすることが必要だが、現在は両国ともそれをする意欲を欠いているようだ」(同高官) 緊張の直接の引き金となったのは、韓国の最高裁が、植民地時代や戦時中に日本企業に徴用工として従事した韓国人たちに対する補償を認めた昨年11月の判決だ。工員たちに賠償を支払うために日本企業の資産差し押さえを認めたこの判決は、外交上の重大な危機を招くだけでなく、日本企業の韓国への投資や取引見直しにつながるおそれがある。 「これは経済協力に非常に深刻な影響を及ぼし、日本経済よりも韓国経済を大きく弱体化させるだろう」と前述の元韓国政府高官は話す。 徴用工の争議は、先月韓国側の文在寅大統領が、戦時中に旧日本軍売春宿で、強制的に働かされた慰安婦と呼ばれる韓国女性たちに補償と謝罪をするという脆弱ながら重要な2015年協定を破棄する決断を下したことで、さらに勢いを増すこととなった。 こうした歴史をめぐる対立が前哨戦となり、韓国海軍艦艇が日本海をパトロール中の日本の海上自衛隊航空機に射撃統制用レーダーを向けた12月20日に、両政府間の深刻な対立が始まった。韓国の軍と政府はこの事実を認めることを拒否しているどころか、開き直って日本の航空機が挑発するように非常に低空を飛行したと非難している』、反日を政治的に利用する文在寅大統領のやり方が、米国側が介入するか、韓国経済が不況に追い込まれるか、しないと当面、続くのは本当に困ったことだ。
・『レーザー照射問題が安全保障問題につながる懸念 アメリカ軍や政府高官たちは一様に、事件について日本の説明をおおむね正しいものとして受け入れている、と話す。韓国の艦艇が理由は定かではないものの、実際に統制レーダーを向けたと考えている。 韓国と日本に駐屯するアメリカ軍事司令部は、今回の争議がこの地域のより大局的な安全保障協調に与える影響を懸念している。この地域では、日本と韓国両方で軍事活動をスムーズに統合できることが安全保障上重要だからだ。とはいえ、一方だけ味方していると非難されるのをおそれて対立に介入する気にはなれないでいる。 一方、日本政府高官たちは日増しに、 韓国政府の革新政権は北東アジアのパワーバランスを変化させようと決心したのだとの思いを強めている。日本の高官たちは文政権が、北朝鮮と取引することに決めたのだとおそれており、そうなれば中国を力づけ、アメリカの安全保障体制を弱体化させることになる。 ある外務省高官は非公式な会談で、文政権は北との統一という自らの夢を追っており、それが実現すれば中国の支配下における統一朝鮮が日本に対抗してくるだろうとの見方を示した。こうした悲観的な展望は、日本では今に始まったことではないが、それらが信ぴょう性を帯びてきている。 文大統領や、今回の件に関する文大統領の責任については、懸念を共有する者たちがアメリカの関係筋の中にはいる。「韓国政府は日本政府の懸念を真剣に受け取っていないのではないかと感じる」と両国と長く関わってきたある元アメリカ国務省高官は話す。 「韓国政府は、日本を朝鮮半島で重要な役割を果たす国とは見ておらず、衝突のおそれを回避するために自分たちの政策を調整する必要はないと考えている。しかしそれは大きな誤りだ」(前述の元国務省高官) アメリカ人にとって歴史問題は二の次であり、日本、韓国、アメリカの3国間安全保障協定が脆弱化することによる関係性悪化の影響のほうが重大だ。韓国の防衛は、朝鮮半島にいるアメリカ軍と日本に拠点を置くアメリカ軍の統合にかかっており、実際には韓国が攻撃されたときには対処する日本の軍事力の協力にもかかっている』、「文政権は北との統一という自らの夢を追っており、それが実現すれば中国の支配下における統一朝鮮が日本に対抗してくるだろうとの見方」については、まだ遠い将来の話だとは思うが、確かに実現すれば、日本、アメリカにとっての悪夢だろう。
・『日本側はかなり「慎重に対応している」 今回のレーダー照射をめぐる対立の深刻さについては、アメリカの軍当局者や専門家たちもその意味を分かっている。たとえば、元アメリカ空軍中佐、マイケル・ボサック氏はアフガニスタンへ2回遠征したことがあり、最近は在日米軍司令部に政府関係次官として勤務。3国間の安全保障協定を策定するという、始まったばかりながら重要な仕事にもついた経験を持つ。 そのボサック氏も、日本のP-1 哨戒機の一件を巡って日韓の間に深まる隔たりを憂慮する。日本側は問題の処理を両国の防衛省間ルート内に留めようとするなど、かなり「慎重に対応して」おり、安倍晋三首相のような上層部のコメントは主に記者からの質問に答えたものにとどまっている、とボサック氏は言う。しかし今や「両サイドがその態度を強めて」おり、解決を見出すのは「不可能になってきている」(ボサック氏)。 「私は日本側が動画を見せることで決着をつけて次に進んでいくことを期待していたが、レーダーのデータを示すことによって、より厳しい態度をとることになった」とボサック氏は言う。 「韓国側はそれを望んでいないようだが、それも当然だろう。軍事行動レベルでは、自衛隊は、同盟国軍が射撃統制用レーダーで自分たちを照射してきたのにそれを認めないのだから、まさに憤慨しているのはわかる。彼らにとって、行為そのものよりもその後の対応が我慢ならないのだ」「問題は、その政治的対応が軍事行動レベルでのいかなる解決をも阻んでいること。つまり、韓国海軍がこのようなことを2度と起こさないための措置を施したのかどうか、日本の自衛隊にとってはいまだに不明だということだ」 別々の問題である一方で、徴用工や慰安婦問題をめぐる日本の怒りやいらだちが、安全保障面での日本の反応に影響を及ぼしていることにはほぼ疑いがない。「さまざまな状況で何らかの改善がみられない場合でも、日本が韓国に対して辛辣に対応するとは思わない」とボサック氏は言う。 「一方で、日本が文政権に対してこれ以上働きかける努力を一切やめることを選択すると見ています。今回のP-1機事件は譲れない一線のようなものになっており、それが、日本側が厳しい態度を取り続ける理由なのだ」』、徴用工問題は日本企業の資産差し押さえに発展しつつあり、「日本が韓国に対して辛辣に対応するとは思わない」とのボサック氏の観測は甘いようだ。
・『アメリカが介入する可能性はあるのか 韓国人の中にはこれらの件の対処について、特に韓国の安全保障に及ぼすその影響について文政権を批判し、アメリカに2国間を取り持つよう介入を求める声もある。 「日韓関係の悪化で日韓米3国協定が弱体化する懸念がある」とする記事を、保守系日刊紙『朝鮮日報』が先ごろ掲載した。「米朝非核化会議が失速したままの状況で、悪化する日韓関係が、朝鮮半島有事の際に素早く実行に移す必要のある『ミサイル防衛協定』といった日韓米の対応姿勢に問題を引き起こす可能性があると観測筋は指摘している」。 朝鮮日報はアメリカが慰安婦協定の仲介で果たした役割を指摘し、「日韓慰安婦協定は、実際には日韓米協定であり、トランプ政権と議会が安倍首相に署名するよう圧力をかけて作り上げたのだ」と、元国立外交院長の尹德敏氏は紙面で述べた。「同盟国を重要視したオバマ政権は日韓関係を、アメリカにとっての戦略的要素と考えていたが、トランプ政権は、日韓関係と日米関係とを分けて見ている」。 過去のアメリカ政府も、北東アジアの2つの重要な同盟国間の論争に介入するのに、つねに消極的ではあったが、しかし同盟体制を維持するには、時としてその種のリーダーシップを必要とするのだということも理解していた。 しかし、今回筆者が足元の危機に対してアメリカの高官たちにその対応を尋ねたところ、その答えを得ることはできなかった。現在の危機に際して明らかに行動を起こそうとしないトランプ政権の態度は、世界におけるアメリカのリーダーシップを放棄した結果を改めて示している』、トランプ政権の様子見の態度が続くようであれば、日韓関係はこのまま「泥沼」状態を続けざるを得ないだろう。
先ずは、昨年12月27日付け日刊ゲンダイ「田母神氏投稿で物議 韓国照射“火器管制レーダー”の安全性」を紹介しよう。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/244441
・『海上自衛隊の哨戒機が、韓国海軍の駆逐艦からレーダーの照射を受けた問題は、日韓双方で主張が食い違い、収拾がつかなくなっている。 はたして、日韓どちらの言い分が正しいのか。いま話題となっているのが、第29代航空幕僚長だった田母神俊雄氏が投稿したツイッターだ。 田母神氏は21日、「韓国艦艇が海自対潜哨戒機に火器管制レーダーを照射したことで日本政府が危険だということで韓国に抗議したという。全く危険ではない」と自身のツイッター上で政府に苦言を呈しているのだ。要するにレーダー照射は大したことじゃない、ということらしい。 投稿の反響について田母神俊雄事務所に問い合わせると、ツイッターの投稿以降、事務所には「韓国の肩を持つのか」といったクレームが殺到し、対応に追われているという』、日本では官邸発の大本営発表ばかりが、ニュースを賑わせているが、あの田母神氏がこうした発言をしたとは驚いた。
・『軍事の専門家からすると、火器管制レーダーの照射は、「危険な行為ではない」ということなのか。軍事評論家の田岡俊次氏はこう説明する。 「火器管制用のレーダーの照射を受けても、相手の艦がミサイルを発射機に装填していないとか、垂直発射機のフタを開けていなければ『引き金を引く寸前』ではない。冷戦時代に米ソ海軍は互いに激しい嫌がらせをし、衝突も起きたから、1972年に米ソは海上事故防止協定を結び多くの危険な行為を禁止した。日本も93年に日露海上事故防止協定を結んだが、いずれも火器管制レーダーの照射を危険行為としていない。2013年に中国軍艦が日本の護衛艦に火器管制レーダー照射をした際も、当初海上自衛隊は問題にしていなかったが、日本にいる元米国外交官が、『米軍はレーダーで照射されれば直ちに攻撃する』と言い、日本では『そんな大変なことか』と騒ぎになった」 どうやら、田母神氏のツイッターはそう間違ってはいないらしい』、「2013年に中国軍艦が日本の護衛艦に火器管制レーダー照射をした際も、当初海上自衛隊は問題にしていなかった」というのは、初耳だ。どうも安倍首相が大騒ぎの元凶のようだ。
次に、同じ日刊ゲンダイが1月5日付けで掲載した「安倍の“感情判断”で…レーダー照射めぐり日韓応酬が泥沼化」を紹介しよう。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/244891
・『反論の応酬が過熱の一途だ。韓国国防省が4日、韓国駆逐艦による海上自衛隊哨戒機への火器管制レーダー照射を巡り、日本の主張への反論動画を公開。これに「話し合える状況にない」(政府関係者)と猛反発しているのが、安倍政権だ。防衛省にさらなる証拠として軍事機密であるレーダーの波長データの公開を検討させるほか、近く韓国側に反論する文書を出す方向だ。 韓国国防省の反論動画は約4分半。上空を飛行する海自の哨戒機と、救助中だったとされる北朝鮮船舶を韓国の海洋警察が撮影した10秒ほどの映像が含まれるが、大部分は既に日本側が公開したもの。公開に合わせて会見した韓国国防省の報道官は、「日本はこれ以上、事実を歪曲することを中断し、人道的な救助活動中だった韓国軍の艦艇に威嚇的な低空飛行をしたことを謝罪しなければならない」などと従来の主張を繰り返した。 日韓両国による反論の応酬に、防衛省幹部は「最後は罵詈雑言の言い合いになるかもしれない」と懸念を示したというが、後の祭り。 日韓関係を一層冷え込ませると慎重だった防衛省を押し切り、「鶴の一声」で最初の映像公開に踏み切ったのは安倍首相だ。時事通信は、韓国にいら立ちを募らせ、トップダウンで押し切ったと報じた。感情任せの安倍首相の判断が、案の定、泥沼化を招いている』、確かに韓国側の余りに反日的な姿勢には、腹が立つが、こと外交問題で、感情任せの安倍首相の一存で、「慎重だった防衛省を押し切ったとは、やりすぎだ。日韓議員連盟の二階幹事長は、本来、安倍首相を抑える役割を果たすべきだが、「洞ヶ峠」を決め込んでいるとすれば、罪は安倍首相並みに重い。
第三に、スタンフォード大学教授のダニエル・スナイダー氏が1月14日付け東洋経済オンラインに寄稿した「日韓関係がここまで急悪化している根本理由 アメリカや韓国政府はどう思っているのか」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/260086
・『北東アジアにおいてアジアの安全保障上重要な2つの同盟国である日本と韓国の関係が、またもや敵対意識に煽られた機能不全に陥っている。悲しいことに、この状況は今に始まったことではない。隣り合う両国は過去にもこうした局面に差し掛かったことがあり、差し迫った問題はいままでと同様に、戦争や植民地支配、競争意識の歴史に根差している。 しかし、今回の件を単純にいつもと同じ問題だと見るのは間違いだ。実際、日本と韓国のみならずアメリカ政府内部でも、これは北東アジア地域の安全保障に影響をおよぼしうる深刻な危機であるという意識が強くなっている』、一刻も早く米国に介入してほしいところだが、後ろを読むと、どうもそうはいかないようだ。。
・『韓国政府の感情は「非常に不安定」 「韓国政府と日本政府の間に衝突への道を回避しようとの出口作戦がない状況を、非常に憂慮している」と両国の関係に深く携わってきた元韓国政府高官は語る。日本の植民地支配に対する朝鮮独立運動(三・一運動)勃発100周年を祝う年だけに、韓国政府の感情は「非常に不安定」だと同高官は言う。 同高官によると、日韓関係の危機は「アメリカを含む3国間の安全保障協定を蝕むことになりかねない」。一部のほかの韓国人たちと同様、同高官は明らかにアメリカがこの件に関心を示し、行動しないことについて非難する。これまでのアメリカであれは、日韓政府が互いに話し合う能力を欠く今回のような危機に際して介入してきた。 「残念ながらアメリカ国務省は混乱状態にあり、両国間を取り持つ役割を果たすことができない。膠着状態を崩すには高いレベルの対話ルートをお膳立てがすることが必要だが、現在は両国ともそれをする意欲を欠いているようだ」(同高官) 緊張の直接の引き金となったのは、韓国の最高裁が、植民地時代や戦時中に日本企業に徴用工として従事した韓国人たちに対する補償を認めた昨年11月の判決だ。工員たちに賠償を支払うために日本企業の資産差し押さえを認めたこの判決は、外交上の重大な危機を招くだけでなく、日本企業の韓国への投資や取引見直しにつながるおそれがある。 「これは経済協力に非常に深刻な影響を及ぼし、日本経済よりも韓国経済を大きく弱体化させるだろう」と前述の元韓国政府高官は話す。 徴用工の争議は、先月韓国側の文在寅大統領が、戦時中に旧日本軍売春宿で、強制的に働かされた慰安婦と呼ばれる韓国女性たちに補償と謝罪をするという脆弱ながら重要な2015年協定を破棄する決断を下したことで、さらに勢いを増すこととなった。 こうした歴史をめぐる対立が前哨戦となり、韓国海軍艦艇が日本海をパトロール中の日本の海上自衛隊航空機に射撃統制用レーダーを向けた12月20日に、両政府間の深刻な対立が始まった。韓国の軍と政府はこの事実を認めることを拒否しているどころか、開き直って日本の航空機が挑発するように非常に低空を飛行したと非難している』、反日を政治的に利用する文在寅大統領のやり方が、米国側が介入するか、韓国経済が不況に追い込まれるか、しないと当面、続くのは本当に困ったことだ。
・『レーザー照射問題が安全保障問題につながる懸念 アメリカ軍や政府高官たちは一様に、事件について日本の説明をおおむね正しいものとして受け入れている、と話す。韓国の艦艇が理由は定かではないものの、実際に統制レーダーを向けたと考えている。 韓国と日本に駐屯するアメリカ軍事司令部は、今回の争議がこの地域のより大局的な安全保障協調に与える影響を懸念している。この地域では、日本と韓国両方で軍事活動をスムーズに統合できることが安全保障上重要だからだ。とはいえ、一方だけ味方していると非難されるのをおそれて対立に介入する気にはなれないでいる。 一方、日本政府高官たちは日増しに、 韓国政府の革新政権は北東アジアのパワーバランスを変化させようと決心したのだとの思いを強めている。日本の高官たちは文政権が、北朝鮮と取引することに決めたのだとおそれており、そうなれば中国を力づけ、アメリカの安全保障体制を弱体化させることになる。 ある外務省高官は非公式な会談で、文政権は北との統一という自らの夢を追っており、それが実現すれば中国の支配下における統一朝鮮が日本に対抗してくるだろうとの見方を示した。こうした悲観的な展望は、日本では今に始まったことではないが、それらが信ぴょう性を帯びてきている。 文大統領や、今回の件に関する文大統領の責任については、懸念を共有する者たちがアメリカの関係筋の中にはいる。「韓国政府は日本政府の懸念を真剣に受け取っていないのではないかと感じる」と両国と長く関わってきたある元アメリカ国務省高官は話す。 「韓国政府は、日本を朝鮮半島で重要な役割を果たす国とは見ておらず、衝突のおそれを回避するために自分たちの政策を調整する必要はないと考えている。しかしそれは大きな誤りだ」(前述の元国務省高官) アメリカ人にとって歴史問題は二の次であり、日本、韓国、アメリカの3国間安全保障協定が脆弱化することによる関係性悪化の影響のほうが重大だ。韓国の防衛は、朝鮮半島にいるアメリカ軍と日本に拠点を置くアメリカ軍の統合にかかっており、実際には韓国が攻撃されたときには対処する日本の軍事力の協力にもかかっている』、「文政権は北との統一という自らの夢を追っており、それが実現すれば中国の支配下における統一朝鮮が日本に対抗してくるだろうとの見方」については、まだ遠い将来の話だとは思うが、確かに実現すれば、日本、アメリカにとっての悪夢だろう。
・『日本側はかなり「慎重に対応している」 今回のレーダー照射をめぐる対立の深刻さについては、アメリカの軍当局者や専門家たちもその意味を分かっている。たとえば、元アメリカ空軍中佐、マイケル・ボサック氏はアフガニスタンへ2回遠征したことがあり、最近は在日米軍司令部に政府関係次官として勤務。3国間の安全保障協定を策定するという、始まったばかりながら重要な仕事にもついた経験を持つ。 そのボサック氏も、日本のP-1 哨戒機の一件を巡って日韓の間に深まる隔たりを憂慮する。日本側は問題の処理を両国の防衛省間ルート内に留めようとするなど、かなり「慎重に対応して」おり、安倍晋三首相のような上層部のコメントは主に記者からの質問に答えたものにとどまっている、とボサック氏は言う。しかし今や「両サイドがその態度を強めて」おり、解決を見出すのは「不可能になってきている」(ボサック氏)。 「私は日本側が動画を見せることで決着をつけて次に進んでいくことを期待していたが、レーダーのデータを示すことによって、より厳しい態度をとることになった」とボサック氏は言う。 「韓国側はそれを望んでいないようだが、それも当然だろう。軍事行動レベルでは、自衛隊は、同盟国軍が射撃統制用レーダーで自分たちを照射してきたのにそれを認めないのだから、まさに憤慨しているのはわかる。彼らにとって、行為そのものよりもその後の対応が我慢ならないのだ」「問題は、その政治的対応が軍事行動レベルでのいかなる解決をも阻んでいること。つまり、韓国海軍がこのようなことを2度と起こさないための措置を施したのかどうか、日本の自衛隊にとってはいまだに不明だということだ」 別々の問題である一方で、徴用工や慰安婦問題をめぐる日本の怒りやいらだちが、安全保障面での日本の反応に影響を及ぼしていることにはほぼ疑いがない。「さまざまな状況で何らかの改善がみられない場合でも、日本が韓国に対して辛辣に対応するとは思わない」とボサック氏は言う。 「一方で、日本が文政権に対してこれ以上働きかける努力を一切やめることを選択すると見ています。今回のP-1機事件は譲れない一線のようなものになっており、それが、日本側が厳しい態度を取り続ける理由なのだ」』、徴用工問題は日本企業の資産差し押さえに発展しつつあり、「日本が韓国に対して辛辣に対応するとは思わない」とのボサック氏の観測は甘いようだ。
・『アメリカが介入する可能性はあるのか 韓国人の中にはこれらの件の対処について、特に韓国の安全保障に及ぼすその影響について文政権を批判し、アメリカに2国間を取り持つよう介入を求める声もある。 「日韓関係の悪化で日韓米3国協定が弱体化する懸念がある」とする記事を、保守系日刊紙『朝鮮日報』が先ごろ掲載した。「米朝非核化会議が失速したままの状況で、悪化する日韓関係が、朝鮮半島有事の際に素早く実行に移す必要のある『ミサイル防衛協定』といった日韓米の対応姿勢に問題を引き起こす可能性があると観測筋は指摘している」。 朝鮮日報はアメリカが慰安婦協定の仲介で果たした役割を指摘し、「日韓慰安婦協定は、実際には日韓米協定であり、トランプ政権と議会が安倍首相に署名するよう圧力をかけて作り上げたのだ」と、元国立外交院長の尹德敏氏は紙面で述べた。「同盟国を重要視したオバマ政権は日韓関係を、アメリカにとっての戦略的要素と考えていたが、トランプ政権は、日韓関係と日米関係とを分けて見ている」。 過去のアメリカ政府も、北東アジアの2つの重要な同盟国間の論争に介入するのに、つねに消極的ではあったが、しかし同盟体制を維持するには、時としてその種のリーダーシップを必要とするのだということも理解していた。 しかし、今回筆者が足元の危機に対してアメリカの高官たちにその対応を尋ねたところ、その答えを得ることはできなかった。現在の危機に際して明らかに行動を起こそうとしないトランプ政権の態度は、世界におけるアメリカのリーダーシップを放棄した結果を改めて示している』、トランプ政権の様子見の態度が続くようであれば、日韓関係はこのまま「泥沼」状態を続けざるを得ないだろう。
タグ:(田母神氏投稿で物議 韓国照射“火器管制レーダー”の安全性、安倍の“感情判断”で…レーダー照射めぐり日韓応酬が泥沼化、日韓関係がここまで急悪化している根本理由 アメリカや韓国政府はどう思っているのか) 「田母神氏投稿で物議 韓国照射“火器管制レーダー”の安全性」 日刊ゲンダイ 「韓国艦艇が海自対潜哨戒機に火器管制レーダーを照射したことで日本政府が危険だということで韓国に抗議したという。全く危険ではない」と自身のツイッター上で政府に苦言を呈している 日韓関係(除く慰安婦) 火器管制用のレーダーの照射を受けても、相手の艦がミサイルを発射機に装填していないとか、垂直発射機のフタを開けていなければ『引き金を引く寸前』ではない 2013年に中国軍艦が日本の護衛艦に火器管制レーダー照射をした際も、当初海上自衛隊は問題にしていなかった 「安倍の“感情判断”で…レーダー照射めぐり日韓応酬が泥沼化」 日韓関係を一層冷え込ませると慎重だった防衛省を押し切り、「鶴の一声」で最初の映像公開に踏み切ったのは安倍首相だ 「日韓関係がここまで急悪化している根本理由 アメリカや韓国政府はどう思っているのか」 東洋経済オンライン 感情任せの安倍首相の判断が、案の定、泥沼化を招いている ダニエル・スナイダー レーザー照射問題が安全保障問題につながる懸念 韓国政府の感情は「非常に不安定」 文政権は北との統一という自らの夢を追っており、それが実現すれば中国の支配下における統一朝鮮が日本に対抗してくるだろうとの見方 日本側はかなり「慎重に対応している」 アメリカが介入する可能性はあるのか 現在の危機に際して明らかに行動を起こそうとしないトランプ政権の態度は、世界におけるアメリカのリーダーシップを放棄した結果を改めて示している